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2024年12月

2024年12月21日 (土)

火野正平さんの「こころ旅」、「人生下り坂最高」沖縄本島から波照間島へ 火野さん2024年11月14日死去されました。

火野正平さんの「こころ旅」 

 

2024年12月21日〈土)追記

火野正平さんの、NHKBSプレミアムの「日本縦断こころ旅」は毎日必ずというほど見ていました。

9月の骨の圧迫骨折で番組をお休みしていましたが、2024年11月14日に亡くなられたとの報が入りました。 びっくりです。

年齢はまだ75歳です。

正平さんの名前でまだ手紙が残っています。最近は大俳優の渡辺 謙さんが回っています。

 2016年11月、今は東京から沖縄に向かっていて自転車で走行中、現在北九州です。朝版を必ず見て「とうちゃこ版」も時々見ています

 

 2016年12月宮古島の下地島のパイロット訓練飛行場の様子が2016年の最後の放送でした。

 

このところずっと、NHKのBS放送で、朝の連続ドラマ、「朝が来た」を7時半から見て、その続きでやっている「火野正平さんのこころ旅」をずっと見ています。NHKの朝の連続テレビは、前回、「まれ」をやっていて、そのあまりにも常識はずれな内容にイライラして、ブログに書いたぐらいでした。そのあとに続いて放送している、「朝が来た」は大変面白く、ちょうど7時半から、朝食を食べながら見て、そのあとに続く「こころ旅」を見るのを楽しみにしています。

 

 以前はNHKの朝ドラは、朝8時からの一般放送で見ていましたから、「火野正平さんのこころ旅」は見ませんでした。しかし朝ドラをBS放送で見るようになってから、「こころ旅」も必ず見るようになりました。

 

 

 2015年12月18日(金曜日)が西日本編の「秋の旅」の最終回で、波照間島からの映像なので、ブログに書くことにしました。ちょうど2年前に病気になる前に3年連続で沖縄にいっていてとても懐かしく、4年目の昨年には病気にならなければ今度は石垣島などの先島諸島に行くつもりでした。

 

 

 火野正平さんの「こころ旅」は2011年の2月14日から始まっているそうです。時々は見ていましたが、もう500回を超えているのです。すごいものですね。

 

 

 火野正平さんは1949年5月30日生まれですから、もう66歳なのですね。生まれたところは目黒区だそうです。火野正平さんといえばいろいろな女性と浮名を流すことで有名ですが、そういう軽いイメージがこの番組で、違った意味でとても人間的な魅力が増しているように感じます。

 

 番組を簡単に紹介すると、火野正平さんと4人のスタッフが、視聴者が「心に残る風景」を手紙に書いて、その場所を自転車でたずねる番組です。7時45分から15分間前半を放送します。お昼に再放送があります。そして午後7時から「30分間」の現地に到着する「とうちゃこ版」があり、前半後半、一緒に放送します。いつも、到着ではなく、「とーちゃこ」といいます。でも後半の時間は用事がいろいろあり見損なうことが多いのです。

 

 12月18日の午後7時から波照間島での放送で秋版の最終です。これは見ました。

 

NHKのホームページ

 

NHKの番組ホームページ、「にっぽん縦断 こころ旅」を開くとそれぞれの日の場所の写真と簡単な解説がのっています。

 

12月7日(月)沖縄本島を味わい尽くす。沖縄は2週間の旅

 

12月8日(火)沖縄最北端の辺古岬

 

12月9日(水)沖縄の古宇利島への巨大橋

 

12月10日(木)が、沖縄でお寿司、

 

   番組の500日目です。すごいものですね。

 

12月11日(金)首里城公園でお手紙を読みました。

 

12月14日(月)が八重山

 

12月15日(火)が西表島

 

12月16日(水)が竹富島

 

12月17日(木)が石垣島

 

12月18日(金)波照j間島 最終回

 

土日を除いて、毎日自転車で走るのですから大したものです。

 

古宇利島と古宇利大橋

 

 12月9日放送の古宇利島は、3年前の2012年6月に沖縄に行った時に、印象深かったので、書いてみます。

 

「こういちの人間学ブログ」「沖縄旅行に行ってきました。ヤギの刺身などめずらしい食べ物~」

 

 

 古宇利島は名護市から行きます。この辺りは島がいろいろあり、橋で結ばれています。古宇利島へ行くには屋我地島を通ります。高い橋の下は青いきれいな海があります。古宇利島は丸い形をした島です。行く途中に古宇利大橋があります。とても長い橋で、車で通るにはいいところですが、高所恐怖症の火野正平さんが自転車で渡るには大変なところです。

 

 海が運河のように入り組んでいます、とてもきれいな海です。3年前に行った時は、古宇利島の砂浜で、水着を持ってこなくて残念と思いました。来年こそは水着を持っていって泳ごうと思いました。島を車で一周しました。近くの運天地港の岸から釣りをしていて、私も竿を出してみました。何匹かつれましたが、持って帰ってもしょうがないので他の釣って居る人にあげました。

 

 

 

波照間島

 

 

  あらしの中をフェリー で波照間島まで行きます。ひどい風雨で波が高く普通2時間のところを4時間もかかりました。波照間島は、人の住んでいるところでは日本最南端で楕円形をした島です。本当に日本の「果て」になります。

 

 

 

 島民は520人。中心部に小中学校や駐在所、集落があります。高校生になると島をでなければならないのです。

 

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いつもは、何か被り物をしていますが、ちょうどとっていました。メガネは、目の前で合わせてメガネにする方式です。

 

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 お昼は沖縄のそーきそばを食べます。初め休業と書いていましたが、店の奥さんが特別に空けてくれました。船が来なくて肉が小さくてといっていました。

 

 どこでもやらせ的に店を訪問するのではなく、突然の訪問になります。いわゆるアポなしです。予算は1000円ぐらいに決まっているようで、ぜいたくなものは食べません。他の番組では事前に言っておいて放送するものが多いのですが。

 

そのあとひどい雨と風の中、カッパがめくり上がるような状態で坂の道を走ります。

 

もうそんなに若くもないのに、本当に大変だと思います。

 

でも反対側の目的のぺムチ浜は波が静かだった。

 

きれいな海の砂浜でまた手紙を読みます。

 

手紙によれば、嵐で船が来ないと食料品がなくなる

 

でもお互いに融通しあってなんとかしたといいます。

 

―今日で秋のコースはおしまいです。お疲れ様でした。

 

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ぺムチ浜に座って手紙を読みます。

 

 

「人生下り坂最高」

 

 

 自転車で長い上り坂を上ることは、大変です。それに加えて雨、風が強ければ最悪です。

 

長い坂を上りきって下り坂を降りていけばとても楽です。

 

 でも、火野正平さんの言う、「人生下り坂最高」は単にいわゆる坂だけでなく、年を取って、下り坂になっていく人生も最高に楽しいということでしょう。誰でも年を取れば、いろいろ思い通りには行かないものです。私も病気になって本当にそう感じます。

 

 でも、上り坂で息せき切っていく行き方に比べれば坂を降りていくのは楽にちがいありません。努力して高い山まで上がっていれば、降りる坂も長く楽ができます。

 

 色々な意味で、「人生下り坂最高」といえるのでしょう。

 

仕事をしている間は、生活のために仕事をするわけで、当然ながら時間が拘束されます。

 

しかし定年以後、主たる仕事をしなくなってからの人生が大切です。仕事ばかりに追われてその後の人生のことを考えずに来てしまい、定年後に燃え尽きてしまうような人生は悲しいものです。

 

 大体定年が60歳。長くても65歳です。私の場合経営者だったので65歳まで社長をしていました。65になったら、息子に会社をまかせて、引退しました。不動産管理の仕事は引き続きやっていましたが大した時間は取りません。

 

 仕事をしている間も、ライフワークの人間学の研究や、組織の運営をやっていましたが、今度はそちらが中心となります。65歳から、あとどのくらい生きられるかわかりませんが欲を言えば父親の92歳、存命中の母親は95歳ですが、そのくらい生きられれば最高だと思っています。来年73歳になりますのであと20年もあります。

 

 このブログの後に書いたブログにも書きましたが、たいへんお世話になった岩城正夫先生は80歳を過ぎても色々なことにチャレンジしてお元気です。私の場合病気になり2年になりますが少しづつ回復してきており。ます私もそうありたいと思っています。

 

 

「2016年3月から再スタート」

 

 

 2016年3月29日に、再スタートしました。最初の訪問地は東京の八丈島でした。山の上のほうにある墓地とそこからの眺めということですが、あいにくと雨でよく見えませんでした。次の日30日は船で三宅島、島の巡回は明日ということでした。

 

 夏の間は北海道に向かいます。

 

 

2016年12月8日

 

 

 ほぼ1年前に書いたブログから、また1年が済みました。昨年の12月8日は沖縄の最北端の辺野古でした。今年の『2016年秋の旅は』9月26日に奈良を出発し現在は12月6日から鹿児島県です。12月8日は595日目で『新婚の寂しさを乗り越えさせてくれた場所」です。

 

 私も毎日見ていますが、人気があるのでしょう。

 

 

2016年12月22日

 

 

 12月19日が沖縄のスタートです。12月22日のとうちゃこ版を見ました。今日は那覇市です。明日で終わります。

 

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手紙を書いた人のお父さんは、対馬丸の船長だったそうです。

 

対馬丸記念館。正平さんは写真を見ています。

 

 

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船長だったお父さんの写真。近くの小桜の塔を見に行きます。

 

 

12月23日が2016年版の最後でした。宮古島に隣接した伊良部島とその隣の下地島空港の様子です。伊良部島と宮古島は2015年に伊良部島大橋によってつながりました。全長3540mで、無料の橋では日本一だそうです。伊良部島と下地島は細い海でつながっています。

 

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パイロット養成のための下地島空港のところで手紙を読む火野正平さん。

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月19日 (木)

2024年末の新大久保から大久保駅周辺をみる。だいぶお店が変わっています。毎日新聞の記事。

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上図 新大久保駅前の交差点の様子

(大久保通りとツツジ通りの交差点)

 

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下図は地図の部分を拡大したもの

新大久保コリアンタウンとして韓国のお店が特に集中しているのは

新大久保駅から大久保通りの右側の方面でいわゆるイケメン通り

 ぐらいに集中しています。

新大久保のコリアンタウン周辺の写真2枚、新大久保の地図1枚、プルプルの感触を楽しめる猫プリンの「ナムチニ ハニーカフェ」1枚

都立戸山公園の写真1枚、箱根山の写真1枚、皆中神社の写真1枚。

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12月11日の毎日新聞 16面 プラットTokyo

はやりの韓国スイーツである、「猫プリン」が有名な「ナムチニハニーカフェ」のお店が出ています。

新大久保 若者つどうまち 近くに自然も

 

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GREEN NASCO

文化通りの燃えてしまったお店の再建してオープン

前はハラルフードのレストランと食材店が別べつにありました。

 

下図 右 円満や 熱帯魚 数少ない昔からのお店

 左 佐竹ビル

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下図 佐竹ビル 1階はコスメ、Re MAKE

2階は今新しいお店 改装中の NEW YORK BURGER 

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佐竹ビル 2階がオルチャンから NEW York Burgerへ改装中

 

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SATAKE Bidg〈佐竹ビル)百人町1-3-17

 3階 が BTSファンクラブ ARMY のCAFEである Uri Cafe 2024年9月10日 こういちの人間学ブログ

 5階がレンタルスタジオ As&As(アズサ)3周年記念 2024年3月29日 こういちの人間学ブログ

 4階がヨガ教室

 

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上図 盛好堂書店の後は、POP UP STORE (BEATY STORE)になりました。

どういうお店かよくわかりません。

 

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上図 ナムチニ 82 カフェ 、2階にあります。猫プリンが有名とか。

 上の新聞に猫プリンのことが載っています。

 

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上図2枚 ベトナム料理店 バインミー 高田の馬場店で買ったことがあります。

ビルのオーナーは筆者の親戚

 

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大久保通りの新大久保駅と大久保駅の中間ぐらいの位置にできた新しいビル

以前はここに床屋さんがありました。

 

下図 台湾の媽祖廟 道の両側にあります

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媽祖廟の隣にできた最近の施設

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大久保駅近くの宗教施設。すぐ近くに媽祖廟やキリスト教会があります。

 

◎少しの間にだいぶ変化しています。

 

2024年12月12日 (木)

「人間学研究所通信」に、佐竹が書いてきた記事 1999年6月より2020年、88号まで発行の記録

佐竹が、「人間学研究所通信」に書いてきた記事を掲載します。

 

人間学研究所通信(Humanology )第1号  1999年6月

 人間学と私(佐竹幸一)

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   12ページ

 人間学研究所は新宿区百人町1丁目4-19

 第2サタケビルの2階に作った部屋を人間学研究所としました。

第2号 1999年10月

第3号  1999年冬季号

 実用的人間学部会 部会報告

第4号 2000年春季号

 実用的人間学部会報告 8,9,10回報告

 後漢時代と王充〈佐竹幸一 以下記入した記事は佐竹幸一)

第5号 2000年6月号

 実用的人間学セミナーについて

第6号 2000年 秋季号

 部会報告

第7号 2001年3月号

第8号 2001年4月号

第9号 2001年5月号

 大久保の街案内

第10号  2001年6月号

 後漢時代の初期について

第11号  2001年9月号

 近況報告について

第12号 2002年新春号 18ページ

 魔法、オカルトと人間学の衰退

第13号 2002年5月号

第14号 2002年9月号 

 越後湯沢泊まりこみ研修会

第15号 2002年11月

 人間学研究所のお知らせ

 総合人間学研究会のお知らせ

  総合人間学シンポジウム 2002年11月30日

   設立総会 明治大学

第16号 2002年12月  22ページ

 (11月30日の人間学研究会発足に想う 小原秀雄氏)

 人間学研究会始まりの頃〈佐竹幸一)

第17号  2003年3月号

第18号  2003年4月号

 カントの人間学

第19号  2003年7月号  24ページ

 実用的人間学の再開について

第20号  2003年 お知らせのみ

第21号  2003年10月号

 実用的人間学セミナーについて 

第23号  2004年3月号

 よみがえる教室

第24号  2004年7月号

 子どもの危機の解決は人間学的に

第25号  2004年11月号

 神秘主義とヒューマニズム

第26号  2005年2月号

 人間学と人間科学の現状

第27号 2005年7月号

 実用的人間学セミナーについて

第28号 2005年10月号

 曲がり角の人間学研究所

第29号 2006年2月号

 格差拡大社会と総合人間学

 臨床心理学と実用的人間学

第30号 2006年5月

 人間学研究会の歩み 1

 (小原氏との出合いと人間学研究会)

第31号 2006年8月

  人間学研究会の歩み 2

第32号  2006年12月号

  「人相食む」後漢初期の人間学

第33号  2007年3月号

  総合人間学運営委員退任について

  実用的人間学 ゼネラリスト

第34号  2007年7月号

  人間学研究会のあゆみ 3

第35号  2007年10月号

  人間学研究会の歩み 4

第36号  2008年1月号

  人間学研究会の歩み 5

第37号  2008年4月号

  人間学研究会の歩み 6

  実用的人間学研究会について

第38号 2008年8月

第39号 2008年11月

  人間学研究会の歩み 7

第40号 2008年12月

第41号 2009年1月

  人間学研究会の歩み 8

第42号 2009年3月

  人間学研究会の歩み 9 最終回

第43号 2009年5月

  どこまで人間と見るか

第44号 2009年8月

  人間学いろいろ

第45号 2009年10月

  根本順吉氏の本について

第46号 2009年12月、

  人は自分の考えに固執する エセ科学と懐疑論

第47号 2010年3月号

  「真の科学者」として生きるためには

  今号から人間学研究所の場所が、第2サタケビル2階から、

       佐竹ビル3階に変わりました。

第48号 2010年5月号

     百人町文化通りに見る、新大久保のお店の変化

第49号  2010年7月

第50号  2010年9月

  人間学研究所通信50号までの内容 6ページ

  (人間学ニュースの目次 一覧⁆

第51号  2011年1月

  人間学、人間科学の現状

第52号  2011年2月

  岩城正夫氏が退会されました

  大柳珠美さんのお話をぜひお聞きください

  こういちの人間学ブログについて

第53号  2011年4月

  東日本大震災と原発危機、二酸化炭素温暖化主因説

第54号  2011年7月

   プーシキンについて知ったこと

   「こういちの人間学ブログ」について

第55号  2011年11月

   「地球温暖化、二酸化炭素原因説をめぐって、

         ブログでの論争」

第56号  2012年1月

   「アメリカ大統領選とモルモン教」

第57号  2012年4月

   原発問題のウソについて

第58号  2012年6月

   大久保の街の変遷

   総合人間学第7回大会について

第59号  2012年8月

   人間学研入会者増加―飛躍を!

第60号  2012年11月

   事務局からのお知らせ

第61号  2013年1月

   こういちの人間学ブログ

第62号  2013年3月

   お金の話色々

  ◎ 第54回実用的人間学研究会例会・第94回新教育人間学部会

第63号  2013年8月

   3,11原発事故2年 いま福島は 報告

 ◎ 人間学研究所の有志により福島の原発周辺に行ってきました。

    日本ユーラシア協会 原発問題特別委員会主催

    「3,11 原発事故2年 いま福島は」当会から柴田所長

     はじめ5名の参加 4月26,27日 報告書6ページ

第64号  2013年8月

   人間学ブームについて

    ◎ 総合人間学会第7号の学会誌に『人間学研究会、人間学

     研究所の歴史と実用的人間学』を投稿したが査読により掲載

     不可となった。

  第何次人間学ブームというが、そんなものはきいたことが

  ないというのである。国会図書館での人間学という本の数で

  示し、その根拠を改めて示した。

第65号  2013年10月

   食の危機と多国籍企業

第66号  2014年2月

第67号  2014年4月

    長い間欠席して、申し訳ありません

    (2013年11月 佐竹が旅先で脳出血をおこし

     滋賀県大津~代々木病院に入院。)

    車いすで階段が上がれなくなりました。

    詳しくは「こういちの人間学ブログ」に 

    例会は従来通り、佐竹ビル3階なので佐竹は

    参加できなくなりました。佐竹はエレベーター

    のあるマンションに転居。

第68号  2014年6月

第69号  2014年8月

第70号  2014年10月

第71号  2015年1月

第72号  2015年6月

第73号  2015年9月

     例会「ネアンデルタール人などと私たち人間」

      講師 佐竹幸一

     例会会場は佐竹の自宅マンションの集会室にて

     佐竹が講師の時のみ

第74号  2015年11月

第75号  2016年2月

第76号  2016年5月

第77号  2016年10月

第78号  2017年6月

     例会講師 佐竹「CO2温暖化仮説について」

第79号  2017年7月

第80号  2017年

第81号  2018年6月

第82号  2018年9月

     例会講師『人間学研の歴史―特に5年前以後』

      今後についても考える

第83号  2018年12月

      特集 柴田義松先生のご逝去を悼む

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第84号  2019年6月

第85号  2019年11月

第86号  2020年4月

      こういちの人間学ブログから

第87号  2020年6月

      新コロナの為しばらく休会

 ◎ 文蔵で懇親会のみ開催

第88号  2020年8月 最終号

      9月例会も休み

 一時  メール網で会をつづけました。

『人間学研究所年誌2021』2022年3月10日発行

      最終号

 

 

★ 2022年6月より、今までの人間学の取り組みをまとめる意味から,記念の本を出版することにしました。

  その記録を本の出版として、ノートに記録しました。2022年に岩田さんが退会しました。

  2022年6月30日の例会で呼びかけをしました。

  2023年2月にブログ筆者も80歳となりました。

  出版社は、「本の泉社」「エクスナレッジ」「学文社」とあたりました。

  ノートはその後9冊となりました。

  出版社は工作舎となりました。

   『人間』って何ですか  2024年1月20日

 

 ★ このほかに、人間学研究所の出版物として

  『人間学研究所 年誌』があります。

  第1号が 『人間学研究所年誌2000』No1 

       2000年12月1日発行 166ページ

  最終巻が 『人間学研究所年誌2021』No19 

                   2022年3月10日 51ページ

   国立国会図書館に納本済み

 

2024年12月 6日 (金)

2001,2008,2017年の大久保エスニックの街と、韓国広場周辺の韓国レストランの減少を見る  追記更新版 2024年末。 

◎2024年12月ごろ  追記して更新します。
2017年以降の状況の追記 「人間学研究所年誌2021」
エッセイ「新コロナウイルス蔓延とその2年間のご報告』佐竹幸一 p32からp35
 2020年2月10日 「こういちの人間学ブログ」新型コロナウイルスの蔓延 まん延は政治次第」
 新型コロナの始まりは2019年11月22日、中国武漢の発病と言われます。
日本では2020年1月16日、国内初感染の報告がありました。
 2月5日 ダイヤモンド・プリンセス号 10人の感染 
 4月7日 緊急事態宣言 アベノマスク配布
 2023年5月3日 政府決定 新コロナに対する政策の見直し インフルエンザと同じ第5類に
 2024年4月 公費援助終了 
 新型コロナウイルスが蔓延しているときは。新大久保の街も一時衰退していましたが、感染が下火になってからは、また、にぎやかになってきました。変わってインフルエンザは流行へ
 又一時韓国のお店が少なくなり、ベトナム・ネパールのお店が増えたこともあります。今は再び、韓国のお店が増えています。表通りは店は新規開店が難しく,裏通りにお店ができてきました。新大久保駅近くの大久保に面した地価は急激に上昇しています。
 2024年での百人町東町会地区(新大久保駅山手線内側の百人町地区)でのお店の変化は、盛好堂書店が閉店となりました。
今では古くからの日本のお店は、熱帯魚販売の円満屋さんぐらいになってしまいました。
ブログ筆者のお店も、以前は円満やさんのお隣の東京ガスライフバル百人町でした。今では韓国の化粧品のお店です。
 詳しくは、以前の「こういちの人間学ブログ」でご覧ください。ここは追記します。
2001年(平成13年)と、2008年(平成20年)と2017(平成29年)においての、エスニックの街、韓国グッズ・レストランの変化を見て、大久保地域の街の変化を見てみたいと思います。

 

 「こういちの人間学ブログ」においては、2009年8月にブログを書き始めてから、カテゴリー「大久保の街」という名称で86ほどの記事を書いてきました。詳しくはカテゴリー「大久保の街」で検索してみてください。その概略の流れと元になる資料をご紹介します。

 

「マツコの知らない世界」の2018年11月放送では、大久保の町を紹介し、2011年(ピーク)、2014年(衰退)、2018年(第3次ブーム)としていました。

 

2001年ごろ

 

 2001年は多国籍の街ということで注目し始められた年です。このころは韓国料理の店が次第に増えてきましたが、韓国料理以外の店もあり、大久保=エスニック・多国籍の店と言われました。このころは新大久保駅周辺でも日本の店のほうが多かったのです。

 

 共住懇で作った「おいしい”まち”ガイド」の2001では、最初にエスニックということで、韓国料理だけでいろいろなエスニック料理店や物販店が3ページ半で80店ほど紹介されています。その中で韓国料理店は40店ほど、そのうち2017年現在も残っている店は半分に達しません。いかに入れ替わりが激しいかを示しています。

 

 2001年当時は、しかしそれ以上に、大久保通りだけで、4ページ半と多くの日本の店も紹介されています。

 

◎それ以前の新大久保は日本人経営の商店がずらっと並んでいました。

 

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中に同封されている地図・エスニックマップ

 

 

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2001年当時の 新大久保駅から明治通りにかけての大久保通りと職安通りのエスニック料理、グッズ店。

 

 

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新大久保駅から大久保駅にかけての百人町1丁目と2丁目地区。このころには大久保通りとお滝橋通りの交差点には三和銀行がありホテル海洋もありました。新大久保駅のすぐ近くにハラルフードの店ができてきました。

 

 

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2001年の新大久保駅から百人町地区のところまで。このころは日本の店も多かったのです。この地図に書いてあり、35店中、2017年にも残っている店は、サカエカメラ、内藤シューズ、山本米店、パリミキ、盛好堂書店、だけです。

 

2008年ごろ

 

 2008年には筆者が独自に大久保地域のエスニック料理店を全部自転車で回り地図上に記入していきました。このころには韓国料理店は一番多く、特に職安通りに集中していました韓国料理店高麗の裏の道には8店も軒を連ねすぐ近くの路地にも6店も韓国料理店ができました。。このころには新大久保駅の周辺の店はまだ日本人が経営する店は多かったのです。それで職安通りのほうに多くの店が集中しました。また新大久保駅の近くにはハラルフッドの店が多くなりはじめました。

 

 筆者のところも、東京ガスの委託店から、1,2,4階を韓国の店に貸すことになりました。新大久保駅から3分ほどで、いわゆるイケメン通りの手前の場所なので、テナントはすぐ決まりました。5階は自宅で、3階は株サタケの事務所と人間学研究所の事務所に残しました。

 

 

2008年8月1日に筆者が作った手書きの大久保エスニックの地図(大久保方面)

 

上部が大久保通りで、下部が職安通り.右が明治通り。

 

自転車ですべての道を回り調査しました。結果は人間学研究所の例会でも発表しました。

 

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地図の左半分。百人町地区。新大久保駅と大久保駅に挟まれた地域

 

2011年には長く文房具店をやっていた柳やさんが、土地とビルを韓国系のところに売りました。周りに日本人が減り文房具の売り上げが激減してきたそうです。

 

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手前の茶色のビルが、プラザ1、真ん中の白いビルが2、奥谷や低いビルがです。プラザ3には大画面のテレビがあります。

 

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このビルはプラザ2 元114銀行のビルでした。

 

2012年12月にはしばらく空いていた三つのビル(K-プラザ1、2,3)が韓国系のビルとなりました。初めは3つのビルを取り壊して1つの大きなビルにする計画でした。ビルの一つは元114銀行の持ちビルで、1,2階が銀行でその上は社宅でした。

 

 
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 2008年ごろは、この当時もっとも韓国の店でにぎやかだったころです。韓国系の店は大久保通りよりも職安通りのほうがにぎやかだった。韓国系スーパーマーケットの韓国広場(歌舞伎町)とその前面に密集してつくられた韓国レストラン。ここには高麗博物館が作られました。

 

 大久保通りから職安通りに抜ける、いわゆるイケメン通りのテナント料が高騰し脇道なのに坪4~5万円近くの店まで現れました。

 

 このころには脇道にも人があふれ、大久保通りから2件横道に入った第2サタケビルも行列ができる盛況でした。1階から3階は韓国グッズ店で、地下は宮(クン)というバーでした。

 

2013年から2014年ごろ、反韓デモで客数が激減

 

 2013年ごろから 2014年にかけては反韓デモが大久保通りに何回も通り、それに対してレイシストしばきたいが応酬し街は騒然となった。これにより客数は激減し、韓国の店のバブルが崩壊し、大久保通りの新大久保からイケメン通りの先の店や職安通りの店は撤退する店が多くなりました。今まではお客さんが多く、どんな店も流行っていたのが味とサービスの良い店だけが残りました。

 

 筆者のところでも第二佐竹ビルのテナントが、地下1階のバーも、1、2、3階のグッズ店も撤退しました。現在は地価のバーは入れ替わり、1階はソウルレコード、2,3階はコンゴのお店でしたがこれもやめました。

 

2013年末には百人町1丁目に第三サタケビルが完成、1階はカフェ、と中国のお店、2階は韓ホドンチキンが入り人気が高まりました。3階は日本人の事務所といろいろです。

 

 2014年10月には職安通りにできたかなり大きな複合店、Kプラスが閉店し、韓国系の店から中国人、台湾人などに向けた免税店に変わりました。

 

 テナント代が下がり、韓国系の店だけでなく、ベトナム、ネパールのお店が増えてきました。2016年にはネパールのレストランが25店も出来ましたが、さすがに急に店を増やしすぎ、やめる店が出始めました。ベトナムの店は順調に増えています。

 

2017年ごろ、多国籍化もあり客足回復

 

 大久保通りの日本人経営の店がなくなり、代わりにエスニック・韓国の店が増えてきました。

 

 職安通りの韓国広場の前で韓国レストラン高麗の横道に以前は8店の韓国レストランがありました。今はなんと2店になりました。大久保通りのイケメン面通り周辺からイケメン通りは混みますが、職安通りの人どうりは急速に減少しました。

 

 大久保通りでの嫌韓デモが禁止されてから、大久保への客足は急速に回復してきました。従来は韓国の店のお客は中高年の女性が多かったのですが、最近は圧倒的に若い女性が増えています。

 

 2016年には竹見ビルがビルを売却し、カプセルホテル、9アワーズができました。

 

 はやりの食べ物が、はじめは豚肉の脂身を焼いたサムギョプサル、それがチキンの店が多くなり、今はダッカルビが大人気です。どこかで初めて人気が出るとみんな始めます。

 

 前にも書きましたが、大久保の街は再び韓流の街から、多国籍の街に戻ってきました。多国籍の街のほうが私は歓迎します。大久保通りの人通りはだいぶ回復しました。

 

 新大久保駅は改装中ですがオリンピック前には完成します。駅前の混雑が早く解消してほしいものです。

 

職安通りの韓国広場周辺の韓国レストランの店のさびれ方

 

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職安どうりのスーパー、韓国広場。こちらは歌舞伎町でこの店の周辺に韓国レストランがたくさんできました。

 

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 上の地図で韓国のレストランが密集していたところ。左下にスーパー韓国広場。

 

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ほとんどやめている中で、今も残るデハミング。
2018年11月14日追記「マツコの知らない世界」でこの店が、紹介されました。ブログを書くために、デハミングで検索したら、ほかにあまり出ていないで、このブログが出ていました。

 

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今も残る宋家カムジャタン。宋家カムジャタンは他の場所に何店かできています。隣はデハミング。

 

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韓国レストランの代わりに入った串カツ屋さん。左の店は韓国のチキンの店。

 

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評判の良かった韓国レストラン、オザッキョの後はホテルになっていました。建物が汚れ、さびれた感じです。

 

 
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職安通りからみたにぎやかな韓国レストランの店がたくさんあった道の入り口。2階は韓国レストラン高麗でしたが、改装中でまた営業するかは不明です。1階は韓国風?中華レストラン新宿飯店。

 

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高麗の隣のビルには高麗博物館と文化センターアリランがあります。1階はコンビニに。

 

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以前はここはK-plusという韓国スーパーなどの複合店でした。それが客数の減少から倒産し今は免税店となっています。

 

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「こういちの人間学ブログ」 2014年10月8日

 

「韓流百貨店K-plus 閉店 最大の要因は貧富の差拡大と円安」
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店の前には、中国系の観光客でしょうか、たくさんあつまっています。

 

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この通りにもたくさん韓国レストランがありましたが今では1階は中国免税店。2階の水宝館など数店です。

 

 
「大久保コリアタウンの変化―大幅に変化 2017 新宿新聞の元日号から」

 

 

 

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