中学校の級友、「たん焼き忍」の社長、上杉徳治郎氏の話。素晴らしい人気のお店の秘密ー佐竹も参考に、人間学懇親会で。
2025年4月18日(金)午後4時~6時まで、人間学懇話会の第6回の例会が開かれました。テーマは「たん焼き忍」に至るまで-こぼれ話、というテーマです。お話はブログ筆者と当日お話された上杉徳治郎氏の中学時代の同じクラスのメンバー3人の方も参加されました。それで例会には8名の方がたが参加し、その後の居酒屋での懇親会も7名が参加されました。
上杉さんは昭和18年2月20日生まれ、現在82歳となりますが、ちょうどブログ筆者の佐竹と、偶然にも生年月日が同じです。生まれた日がまったくおなじというのは珍しいことです。小学校は戸山小学校と大久保小学校と別ですが、中学校は大久保中学校です。大久保中学校は現在他の中学校と合併し、新宿中学校となっています。私たち大久保中学校のクラスは仲が良く以後クラス会を現在に至るまで、ずっと続けています。ちなみに今度の2025年の中学のクラス会は6月24日です。今の住まいも大久保と百人町とで近くです。
お話の内容は2024年1月20日に発行された、「人間」って何ですか、という、人間学懇話会のメンバー、13名の書いた本のなかに、上杉さんは、「たん焼き」忍に至るまで、という記事を書いています。そして、2025年4月18日の講演では上杉さんは「たん焼忍に至るまで―こぼれ話」を離していただきました。懇話会での上杉さんのお話には8名の方が参加されました。また、その後の懇親会には7名が参加されました。
上杉さんの書かれた内容の原文は『人間』って何ですか、の154ページから159ページに書かれています。このブログでは、本の中で上杉さんが書かれていることの要旨と、2025年4月18日(金)の人間学懇親会の第6回例会で上杉さんがお話になった事の要旨、さらには、ブログ筆者の付け加えたこと(◎印)を書いてみました。
「タン焼き忍」に至るまで―こぼれ話とともに
レストランでの見習い修行
上杉さんは5人兄弟でしたが、戦争中のこともあり、5人兄弟のうち3人が生き残りました。戦前に生まれた子供はいろいろな戦争中の困難があり、亡くなる人が多かったのです。上杉さんのうちでは、戦後の混乱時代に、初めは新宿駅の近くで露天商をしていました。このころはまだ西武高田馬場駅馬場駅までの時です。
◎以下、ブログ筆者の佐竹の記事を上杉さんの記事と対比しながら書いていきます。◎印の部分がそうです。
◎ブログ筆者の小学生の頃の記憶で新宿のコマ劇場のできる前は、そのあたりに池があったねと佐竹が言いましたら、みんな、池があったと言いました。その場所は博覧会場となり、その後は映画館街となりました。今ではトーヨコといい若い女の子が集まる場となっています。また、今の町名では後で歌舞伎町2丁目となるところは、西大久保1丁目といっていました。町名が変更になった時、西大久保2丁目が大久保1丁目になったのです。百人町は変更がありませんでした。
上杉さんは昭和32年(1957年)に大久保中学卒業した時、手に職をつけなければということで小石川工業高校に入学しました。入学直後にアメ-バ赤痢にかかり2か月の長期入院をして、成績が落ちてしまいました。また大学を受けようと思ったが、工業高校で勉強してきたことと受験科目とが合わず受験を断念しました。それで、手に職をつけようと、飲食業界に就職しようと考えました。最初は六本木のレストランロジェでした。修業は厳しかった。このころは六本木は当時まだ薄暗い雑木林だった。確か、金魚などを養殖している池があったとか。
新所沢および新宿歌舞伎町で洋食レストラン
3年半でレストランをやめて自分の店を出そうと退職しました。そして3軒のお店で修行。その後昭和41年、いざなぎ景気の時、新所沢駅前に洋風のレストランをつくることにしました。当時は団地があるだけで、イタチやタヌキが出るようなところだった。23歳で、レストラン、ニューグリーンをオープンしました。周りにない、しゃれたお店をつくりました。しかしオープンの日には台風が来て水びたしとなり、大変でした。メニューは鉄板ハンバーグなど近くに洋風のお店がなく、駐車場に車が入れないくらいに大繁盛しました。3年半ぐらいしてそのお店は兄夫婦に任せ、父が歌舞伎町でやっていたバーのところに、2件目の洋食のレストランをつくることにしました。20坪の敷地に地下1階が厨房、2,3階がお店、4階が住居でした。オープン当時からお客はそこそこ入っていたが、しかし、お酒があまり出ないレストランでは手間がかかり儲けが少なかった。家賃がないだけ何とかやっていたが。さらに、西武新宿の駅からJRに通じるトンネルができ人の流れも変わってしまった。
◎新所沢では、ブログ筆者、佐竹は、昔東京ガスの仕事だけでは限界があると感じ、三和住設(株)という会社をつくり、三菱電機の看板を掲げ、そこで電気、ガス、リフォームを行う店を出しました。所沢ニュータウンの中のお店で新築の家がどんどん建っていました。そこで、電気のお店のノウハウ、リフォーム、水道工事の技術などを身に着けました。失敗したのは、技術の力はあるが給料の高い4人と事務員で仕事をしたので採算が合わなかったことです。数年後、私と妻だけでお店をやり、他の社員は元の(株)サタケに戻した時だけ黒字になりました。最後にお店は建物ごと最古参の新井さんに譲りました。作った会社の赤字で資本金700万は消えてしまいました。しかし、電気、リフォーム、水道工事の技術を会社に取り入れることができました。(株)サタケは単にガス器具の販売のみのお店でなくなくなり、大型湯沸かし器の取り付けの時には、同じ人が同時に、、湯沸し器の取り付け、ガス工事、水道工事、電気工事を同時に、一人で行ってしまうので、利益も上がり、お客様にも喜ばれました。そしてリフォームでは、1級建築士1人、2級建築士3人をそろえ、新築工事も受けられるようになり、ついには不動産業も始めました。社員数も86名となり同業他店の倍近くの社員がいて成績も全東京ガスのトップを争うようになりました。
その後、東京ガスの意向で各地域ごとに合併させらてしまいました。、今では上の息子は合併された会社を辞め、株式会社サタケの社長として、佐竹ビル5階をレンタルオフィス、アズサと3階のカフェ、Uriの経営と3つのビルの貸しビル業を営んでおります。 (佐竹のお店はブログ筆者の佐竹の曽祖父が明治40年ころに大久保駅近くで桶屋を始め、その後新大久保駅周辺に移転しました。そこで祖父、父と、風呂桶の製造販売と井戸掘りをやっていました。戦後、東京ガスの委託店となりました。)
牛タン店、オープンの準備
昭和48年、横浜銀行歌舞伎町支店の窓口に勤めていた奥様、佐々木忍さんと結婚。50年に娘さんの加奈代さんが誕生しました。そのころ、歌舞伎町に暴力バーが増え、家族連れが来なくなり、方向転換することにしました。
◎この時期について付け加えると歌舞伎町に隣接した、ブログ筆者の店と住まいがあって住んでいた百人町1丁目も周りにはラブホテルがたくさんでき、近くの西大久保公園の近くに麻薬取引をしている外国人がたくさんいるという状況でした。たちんぼうの女性もたくさんいて、ともかく、治安もひどく悪い状態でした。今は治安は前に比べよくなっています。
当時本店が仙台にある、徳陽相互銀行の歌舞伎町支店と取引があり、担当の千葉さんから、仙台にある流行っている牛タンのお店の支店が後楽園近くの春日町にあると教えてもらう。行ってみると、店は簡単であるが店にはいつもお客が入っている。牛タンは塩胡椒、厚みもないので焼くのも速い。それで牛タンのお店にすることにしました。6か所で手にカウンターを持ちサラリーマンがどれだけ通るか調べる。結局、新宿に決めて、四谷の駅から離れた場所(四ツ谷駅から7分)、家賃の安い、四谷3丁目のところに店を出すことにした。(新宿区の博物館の近くです)新所沢で一緒に働いてくれたと木立の岡野さんの妹婿坂口さんに自分の作りたいお店をあちこちに案内。作りたい店の雰囲気を坂口さんも賛同した。歌舞伎町の店を担保に德陽相互銀行から2300万を借り、さらに2000万を出して店の内装を建築家の坂口さんに任せる。
たん焼き忍、オープンへ
坂口さんは毎日のように、古民家が解体されるという情報で、使える廃材を買いに奔走する。普通の大工さんでは扱えないので、秋田から大工さんに来てもらう。お店は2か月ぐらいで完成。できた時はいつまでもつかと不動産屋がうわさをしたそうだ。歌舞伎町のレストランは友人に安く貸す。店の名前は四国の占い師に頼み、奥さんの名前「忍」とする。昭和54年5月6日に「たん焼忍」オープン。最初の頃は上杉さんと奥さんと井出さん(担当の保険のおばちゃん)でお店をはじめる。夜だけ、営業し、お昼はチラシ配りに。レストランではお金がかかりすぎたので、お店ではグラスやオチョコなどはメーカーの名入りのものを使い、徹底的にお金を使わない工夫をした。そして、何人かはお客は来てくれた。娘さんの佳奈世(3歳)を自宅においてお店に。自宅に人がいないとわかると大泣きで鼻水をじょろじょろ流しながら、店の窓を精一杯背伸背伸びしてのぞく。そんなことが何回も続き、東村山に住む母に来てもらって寝かしつけるが、母が帰るとまた泣いて店に。小学校に上がるころには、カミさんの家族に頼み、近くにアパートを借りて一緒に住むことに。
◎ゆでタンは上杉さんの考案とか。お店は45席。料金は5000円ほど。講演での上杉さんの話。牛タンはアメリカからの牛たんがおいしい。オーストラリア産は牛を放牧しているので、肉は固く、においもきつい。最近は南米産のものも。
新聞社などの取材が続き、お店も順調に
店は駅から遠いしお客が来てくれるか不安の2年間。3年目に安心してお店が安心して仕事ができるようになった。1年目に日経新聞の桑原才介さんが、牛タンの店、忍のことを書いてくれた。そのコラムを見て、月刊「居酒屋」とか「近代食堂」の人が来て写真入りで紹介、その後は夕刊フジや他の新聞もとりあげて何ページもさいてくれた。3年目から名刺もたまり今では、年賀状、5月のオープン記念、暑中見舞いなどを最初は、200枚位、今では6500枚を、家族総出で一言書いて出している。7年目に銀行の借り入れも無事返済。歌舞伎町の土地の担保も消えた。
「忍」を始めた時は中年の男性客ばかりだったが、女性のお客も増えてきた。山田邦子さんが「忍」を紹介してくれた時は電話が鳴りっぱなし、お客様の行列。そんな日が半年も続いた。タモリさん、みのもんたさんの番組等でも取り上げられる。多くのラッキーにも恵まれた。
◎上杉さんの年賀状などの葉書は、毎年、いただきますが、自分できれいに書いた筆の字で書かれています。これは素晴らしい能力で感心します。こういう地道なお客様第一のことが、長い間商売繁盛へとつながっていると思います。
狂牛病騒ぎ
平成13年、狂牛病騒ぎでアメリカから牛タンが入荷しなくなり大いに困る。アサヒビールの山口君が牛タンを扱う仙台の商社カメイを紹介してくれた。頼んで牛タンを集めてもらう。5倍ぐらいの値段でしたが、1年先までの量を確保してもらう。金額4500万。お客様には量を制限。赤字だが蓄えがあったので給料も遅配しないで続けることができた。翌年、銀行預金はなくなり、カミさんも心労で血圧が上がり入院。2月ごろには牛タンも入るようになり、値段ももとに戻った。
◎4500万も仕入れに使えるのは、それだけ会社の蓄えがあるからです。それが会社の信用につながります。厳しい会社の状況でもきちんと給料を払ってくれる。社員は感激して一生懸命働いてくれます。接客もとてもよくなります。社員を大切にするのは、会社にとって極めて大切です。 以前の株式会社サタケでは、3か月ごとにグループごとに売り上げ目標に対する達成率に応じてわずかですが賞金を出して競争してもらいました。東京ガスからいろいろな賞金、商品が来るのをプールして賞金の足しにするのです。グループの賞金の使い道は各グループに任せます。販売が苦にならずゲーム化させていたのです。
「忍」感謝の集い
平成元年、10周年は「日本閣」で、森川正田さん司会により、500名参加のパーティー。 20周年は「京王プラザ」で東京ボーイズさんの司会で700名。 30周年は家族の不幸が続き中止。 60周年は、「パレスホテル」で山田邦子さんの司会でスタッフも交え850名くらいのパーティーを開く。母は手に職をと、いうことがわかったような。父は経済的援助をだまってしてくれた。娘さんの加奈世さんを見守ってやれないことが悔やまれる。たんやき忍が長く続けてこられたのは.カミさんである忍がお客様の顔を覚える記憶力と接客の良さが最大の要因であると思う。それに多くの幸運に恵まれたおかげと思う。人生成り行き。
◎ 「たんやき忍」は有名店として、タン焼き店として上位に出てくる有名店です。ここまでにするには他の店にない努力が必要だったでしょう。ブログ筆者も妻とお店に行きましたが、その味のすばらしさには感動ものでした。又はガキを6500枚というのは驚嘆に値します。筆者にも毎年年賀状をもらいますが、墨できれいに一人づつ書いてくれるのは感激ものです。
今では上杉さんはお店で仕事はしなくなっているそうですが、お店の看板の奥様が仕事を終わり、夜中にお家に帰られてくるのを待って、一緒に食べる夕食の準備をされているそうです。えらいものです。
たん焼き忍 Tel 03-3355-6338
〒160-0008 新宿区四谷三栄町14-4 松啓ビル1階 三栄通り
日曜、祭日休業 平日 17時~22時 土曜16時~20時 ランチも
いろいろな取り組みをしています。
通販 自動販売機 デパートでのセール ふるさと納税返礼品など
« 新宿高島屋の中華料理店、維新號でランチを食べにへ行ってきました。おいしい料理でした。 | トップページ | 2025年4月末ごろから5月15日までの急激なブログのアクセスの増加について。『こういちの人間学ブログ」の中間報告とともに »
「人間学懇話会の例会」カテゴリの記事
- 中学校の級友、「たん焼き忍」の社長、上杉徳治郎氏の話。素晴らしい人気のお店の秘密ー佐竹も参考に、人間学懇親会で。(2025.04.29)
- 人間学懇話会、第7回(6月)例会のお知らせ。里見 脩氏「トランプと台湾有事」,追記 13日開催の結果について。14名参加で盛況。(2025.06.15)
- 人間学懇話会第6回例会のお知らせ 上杉氏の「たん焼き忍」に至るまで、こぼれ話 会員でない方もどうぞご参加ください。(2025.03.15)
- 人間学懇話会第5回例会が開催されます。高橋喜代治氏「耕地と秩父事件」2月7日開催。(2025.01.20)
- 第3回人間学懇話会例会のお知らせ 講師 森岡修一氏(2024.11.10)
« 新宿高島屋の中華料理店、維新號でランチを食べにへ行ってきました。おいしい料理でした。 | トップページ | 2025年4月末ごろから5月15日までの急激なブログのアクセスの増加について。『こういちの人間学ブログ」の中間報告とともに »
コメント