無宗教で生きる (2)マルクス主義と科学的ヒューマニズム
無宗教で生きるー実用的人間学的生き方 (2)
無宗教で生きる、自分自身で決めるためには、いろいろな困難や、問題に対して対処する、心構えが必要です。すなわち、ひとつの世界観、人生観を持って生きるということです。ひとつは、世界中でいまではあまりはやらないのですが、マルクス、レーニン主義の元、革命的人間として生きる道です。私自身が一時そのような考え方をもっていました。徹底した無神論であるマルクス、レーニン主義のもと、人民を解放するために、心も体もささげるという生き方です。しかし、ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の崩壊以後、一部を除き世界全体では以前に比べ小さな勢力になってしまいました。その原因について、私が思うにはマルクスや、エンゲルス、レーニン、さらには毛沢東などを教祖とし、マルクス主義の書物を経典とし、共産党の組織が教会となって、宗教化したからではないかと思います。そうすると、本来は民衆のためのものであったはずが、一部共産党の幹部の利益のためにと代わっていき、自由を奪い、人々を弾圧するようになりました。スターリンや毛沢東やポルポトの蛮行は、すっかり、マルクス主義のイメージを悪くしてしまいました。しかしながら、だからと言ってマルクスや、エンゲルスや、多くの唯物論の研究者すべてを否定するのは正しくありません。マルクスや、エンゲルスは世の中、社会の仕組み、歴史の仕組みを見事に、解き明かしました。その成果を全く、無視あるいは否定しては、現在の社会、歴史を正しく見ることはできません。
私は学生時代に、マルクス、エンゲルスの本から、人間に関して、書かれているものを抜き出して整理する作業を通して、その理論の正しさを知りました。弁証法的唯物論、史的唯物論は偉大な理論です。マルクスは、単なる理論だけでなく、科学的社会主義として人間の解放を実際にどのように行うかの実際の道筋を示しました。マルクスなどの考え方は、究極のヒューマニズムです。マルクスの資本論や、エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状況」は資本主義社会の中で搾取され苦しむ労働者の姿を書きました。そしてどうしたら、その人たちを解放できるのかを考えたのです。
マルクスやエンゲルスの理論が優れているからと言って、釈迦や、キリストや、孔子の話をもとに経典とし、それを唱えて、いろいろな解釈を加えて、「宗教化」したように、「マルクス主義」として宗教化してはいけません。私は、マルクスやエンゲルスを尊敬し学びます(特にエンゲルスを尊敬し、好きなのですが)。しかし私は、マルクス主義者として、限定されたくありません。当然のことに、マルクスなどの理論と比べて、社会は時代の変化によって変わっていきます。私は、特に、釈迦の「スッタニバータ」のような原始仏典にも興味がありますし、どこにとこだわることなく、すぐれたものを学んできました。
私が、依拠するものは、「科学的ヒューマニズム」です。これについてはすでに書きましたが。要は、「人間は神や超自然的なものが創った物ではなく、物質進化の過程で、自然に生まれてきたものだということ。そして人間こそが最も大切なものである」ということです。そしてどのような考え方でも、一人ひとりの、個人的生命を大切にしないような考え方に、断固反対するということです。そういう点でいえば私が今書いている小説「人相食む」の中で書いている、後漢初期の光武帝などの政治は、科学的ヒューマニズムに基づいた政治であったといえます。今こそいろいろな立場の違いを超えて、科学的ヒューマニズムの立場を自覚し、大同団結する必要があります。
「実用的人間学的に生きると」いうことは、ただ単に自分の個人的な幸せを求める生き方ではありません。世界全体、そしてみのまわり、そして、自分自身を、客観的、総合的に見る訓練をすることです。世界の、おおげさにいえば宇宙の中にいる自分の位置、その上で何かしら、社会の変革の流れに自分を、そわせていくことです。そして周りの人たちとのうまい人間関係を作りあげる努力も必要です。多くの喜びは人間関係から生まれます。それは大げさなことではなくささやかなことからでいいのです。そういう広い見地で学び、行動し、実践しながら、自分を高めていけるなら素晴らしいことだと思います。それを手だすけする道筋を示すのが実用的人間学ではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。
★ 2011年10月 字や文章の誤りを修正しました。かなりの間違いがあり、お恥ずかしい限りです。
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