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日記・コラム・つぶやき

2017年5月 6日 (土)

近況1、「新しいカテゴリー「地球温暖化論批判」、2、二火会有志の会3、ブログの状況

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何年も咲いている胡蝶蘭です。お正月に咲き始めて5月にまだこの状態です。来年咲かせるため、早めに花を切ってしまいます。3つの花をまとめました。他にデンドロビュームなどもたくさん咲いています。
1、新しいカテゴリー、「地球温暖化論批判」を加えました。
 今まで、「人為的二酸化炭素地球温暖化仮説批判」(略して地球温暖化論批判)についてのブログは、「こういちの人間学ブログ」において、カテゴリー「自然と歴史」に分類していました。しかし、2017年6月22日にこの問題に関して人間学研究所でお話をすることになり、記事が増えてきましたので、2017年5月3日、改めて新しいカテゴリーとして「地球温暖化論批判」というカテゴリーを作り、組み替えました。
 2017年5月1日現在の、カテゴリーの記事数は22です。
 どのようなブログがあるかは、カテゴリーで検索するか、2017年3月26日に書いたブログ
「地球温暖化問題に対して私のブログに書いたこと―リンク集 追記版」
をご覧ください。
 現在、8冊ほどの本やインターネットでの資料、などを基にして、「人為的二酸化炭素地球温暖化説をめぐる論争資料」を作っています。IPCCが作られたころから現在に至る論争の歴史資料を作っています。各年次の出来事と、日本を中心とした書物の名前を、懐疑論の書物と温暖化論ないしは不明の本を書きだしています。温暖化論と不明の本は〇を付けました。本はアマゾンでの資料を基にしています。国立国会図書館のリストにはかなりの量がありますが、国や地方自治体の発行しているものが極めて多くあります。
 資料は5月5日現在15ページになります。今後さらにいろいろな資料を書き加えています。6月の例会までには多くが書き加えられるでしょう。この資料を基にして希望者には配布して、あとの方には簡略版をお配りする予定です。
2、異業者交流会の二火会定例会、お城のはなし、有志の会が5月9日に
 4月11日の二火会定例会を自宅のそばで開催していただき、参加しました。お話は会員の八木哲雄さんで、「私が知ってるお城のはなし」でした。当日は16ページのオールカラーの資料「お城の基本的知識」を配布していただきました。大変興味深いお話で、とても面白く聞かせてもらいました。八木さんは建築関係の仕事をしておられて、とてもお城には詳しいのです。
 ブログ筆者はお城が好きで前の国宝の城は全部行きました。姫路城、松本城、彦根城、犬山城で、昨年島根県の松江城が国宝になりました。彦根城はちょうど彦根城を見た日に脳出血を起こしたので印象深いのです。
 天守閣が国宝ではありませんが、熊本城、江戸城、大阪城、名古屋城、二条城、若松会津城、函館五稜郭、岡崎城、小諸城、小田原城、沖縄の首里城などは印象深かったです。特に熊本城は地震前に行き、ちょうど本丸御殿は建築中でした。すばらしいお城です。
 参考までにそのほかに現在も残っている天守では、弘前城、丸岡城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城です。いづれも重要文化財です。
名古屋城を木造で立て直す話も出ています。また江戸城の天守閣の再現のはなしも出ています。
お話のあと、懇親会をブログ筆者がセットした高田馬場のキリンシティであったのですが、かなり本降りの雨で、気温も低く車いすでは無理だったので参加を断念しました。
 それで、5月も再度新大久保周辺の「あうん」にしていただいたと思います。曇りの予報ですが、多少の雨でも参加します。
 
3、「こういちの人間学ブログ」の状況
2017年4月末
アクセス累計       145、5万件
  4月アクセス数       約2万件
4月アクセスのあった記事  543件
このところ、アクセスが一日平均600件以上になっています。
記事数累計       841
コメント数累計     814
訪問組織 人
日本電気         132
日立製作所        127
N H K           77
朝日新聞社        63
東京放送          62
東京大学          53
日本通運          50
日本テレビ         46
東日本電信電話     46
日本ヒューレット・P    44
早稲田大学        36
富士通           36
パナソニック        36
博報堂           36
1か月で70~80人ほどのアクセスがあります。閲覧件数は多くなります。
2013年11月からカウントを開始しています。

2017年4月 1日 (土)

近況 1温暖化問題準備、2チラシ折込、3大久保の状況、4ブログの状況 

近況
 
1、地球温暖化問題・発表の準備をしています
 2017年6月の人間学研究所の例会で、今度は地球温暖化問題をお話しすることにしました。地球温暖化問題に関しては、「こういちの人間学ブログ」に20以上の記事を書いてきました。
 その一覧は「地球温暖化問題に対して,私のブログに書いてきたこと リンク集」3月26日
 
3月はその準備でいろいろ調べ物をしていて、あまりブログを書けませんでした。
 今までは「人為的二酸化炭素地球温暖化論・懐疑論」の立場の本を主に読み、ブログにも紹介してきましたが、いわゆる主流派?の温暖化論の本は読んできませんでした。
 今度は温暖化論の本や資料も読み、総合的に考えてみようと思っています。今まで読んだ資料などが自宅にもってきていなくて、人間学研究所に置いたままになっているようで非常に不便です。
2、4月1日、新聞チラシ折込の状況
 
 今日は4月1日の年度初めの土曜日です。新聞にあまりに多くの折込が入っているので調べてみました。新聞は新宿百人町にある、今田販売店で、日経新聞、毎日新聞を配っています。ちょうどうちでもその二つをとっているので両方まとめて配達してくれます。
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              日経新聞   毎日新聞
不動産、マンション     8        2
スーパー           7        8
レストラン・デリ       0        5
リフォーム・家具      3        0
フィトネスクラブ       3        5
墓地             3         2
男子服            2        2
京王線            1        1
学習塾            1        1
老人ホーム         0        1
合  計          28        27
 
 日経新聞と毎日新聞ではとっている人がかなり違います。チラシでは不動産やリフォーム関係は圧倒的に日経新聞が多く(日経11対毎日2)逆にレストラン、デリバリー関係は圧倒的に毎日新聞が多いのです。(日経0対毎日5)。
 前に入っていた日経新聞の高級品専門の厚手のカタログチラシでは、高級ブランド品の広告が載っています。時計では4~5000万する時計が載っています。家が1軒買えてしまいます。
 
 
 
3、大久保の状況
A 新大久保のカプセルホテルが完成しました
3月中にホテル部分はもう完成したらしく、外国人のホテル客と思われる人が出入りしていました、1,2階店舗はまだ内装工事中でした。ホテルの名前は9h(9 hours)となっています。京都、仙台、成田空港にもあるそうです。1,2階は店舗だそうですが。1時間準備、1時間シャワー、7時間睡眠で、ナイン、アワーズだそうです。
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B,ロッテの工場跡地の解体が始まりました。
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ロッテの工場跡地です。ロッテ発祥の地。2013年に閉鎖。チューインガムを作っていました。広さは7500m2(約2270坪)。周辺のところは、駐車場が多くなっています。その駐車場もロッテの所有地が多いそうです。女子寮のあったところには分譲住宅が建てられました。一部売れ残っています。
 
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高田馬場から新宿へ抜ける道です。まだ新大久保から歌舞伎町に抜ける道のところは完成していません。右奥がロッテの工場跡地。何になるのでしょうか。駅に近い1等地で非常に広い敷地です。左に見える高いマンションは高田馬場ガーデンタワーです。
4、「こういちの人間学ブログ」の状況
 2017年3月 アクセス数 17687件
          人数     14000人
 アクセス累計       143万5千件
 記事累計            826件
 コメント累計          796件
5、追記 BBCのエプリルフールの画面、「空飛ぶペンギンの画像」
 4月1日のとら猫イーチさんのコメントで、BBCの「ペンギンの新種発見」として、空を飛ぶペンギンの画像を紹介していただきました。大変よくできた画像なので、見やすいように本文でも追記させていただきました。ぜひご覧ください。
 2008年4月に放送されたもので、2016年にYou-Tubeに公開されました。
「ペンギンの新種発見ーBBC」で検索でも出てきますし、下記でもつながります。
 

2017年3月 2日 (木)

近況、1、JAPAN SKEPTICSの会誌、2、村上春樹氏の本発売、ブログアクセス増加    3、ブログの状況

1、”Journal of the JYAPAN SKEPTICS”
[「超自然現象」を批判的・科学的に究明する会]の会誌送られてくる
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"JAPAN SKEPTICS "は、1991年4月に設立された、「超常現象を科学的に究明する学会」です。世に流布される様々な非科学的な怪しげな言説に対して、科学的に追及するものです。
 1976年に超常現象への科学的調査のための会としてCSICOPがアメリカで設立されました。それの支部のような会が世界中で作られた。
 日本でも1991年4月に、日本支部というような形で学会として「JAPAN SKEPTICS」が設立されました。
 ブログ筆者も設立された年に入会しました。2代目の安斉育夫会長の時、よく総会にも参加し、講演を聞いたり、安斉会長のスプーン曲げなどの「超能力奇術」を教えてもらいました。それは人間学などのいくつかの会でやってみました。スプーン曲げなどは3つほど方法があります。
 スプーンをひざなどで曲げてしまってから放り投げるもの、安い柔らかいスプーンを使い何度も折り曲げて曲がりやすくしておくこと、そしててこの原理で曲げること、最後はスプーンに小さいやすりで切れる寸前までに切っておき、隙間に銀粉を塗る方法です。種も仕掛けもないと言ってスプーンを机でこんこんとたたきますが、くっついているほうを下にしてたたきます。他にいろいろな奇術を習い、奇術セットを買いました。手を触れないで物を動かすように見せるにはナイロン靴下の糸を使います。その糸は少し離れると見えません。
 そのまま、ずっと会に所属していました。「こういちの人間学ブログ」でも非科学的な言説に対して批判的なブログを書いてきました。
 ところが、3年前に脳出血を起こしました。会誌がそれ以後送られてこず、連絡がないので、事務局に連絡してみました。
 すると、会誌の発行が遅れていて、2014,23巻と、2015,24巻が送られてきてから会費を払ってくださいということでした。2017年の2月に会誌が2年分送られてきました。発行日は共に2016年12月31日です。2014が16ページ、2015が20ページでした。
 会の人数は100名ほどですが、それほど厚くない会誌がこれほど遅れて発行されるとはなかなか運営が大変のようです。
会誌の内容
2014
科学不信?            今村一夫
第22回総会報告
HPVワクチンの問題について 平岡 厚
オカルト漂流記          大槻義彦
2015
科学者と軍事研究        坂本成一
インターネットにおける論文不正発覚史
                    田中嘉津夫
人間の非合理さには合理的な理由がある
                    松田卓也
オカルト漂流記          大槻義彦
 
 
2、「騎士団長殺し」発売、村上春樹氏の本に関するブログ増加
 村上春樹氏の『騎士団長殺し』が4年ぶりの長編(14作目)として2017年2月24日に発売されました。
出版社は新潮社で、1部、顕れるイデア編、2部、遷ろうメタファー編、で価格は各1800円、
1,2部合わせて初版130万部だそうです。長編14作目となります。
前回、前々回の長編は購入して、読んでから、感想を2013年4月のブログに書きました。
「1Q84]は長編として、12作目、新潮社、1,2 2009年5月、3は2010,4月発売
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」は 長編13作目、2013年4月の発売です。
 前2冊は、さっそく購入してその感想をブログに書きました。「1Q84]に関しては、かなりアクセスがあり、今度の長編の発売にあたっても多くのアクセスがありました。2017年2月のブログアクセス4位と5位。(3のブログアクセス参照)
新聞には夜12時から発売を開始し、行列をして、本を買い求める人たちを紹介していました。熱狂的な読者が多いのですね。
 
筆者も高田馬場の芳林堂書店に行ってみました。
ポスターが張りめぐされ、本は大きくコーナーが作られていました。本の中をパラパラと読み、書店を写真を撮りました。
 事前にインターネットで感想などを読んでいました。相変わらず最初からセックス描写が目立つようです。普通なら購入するのですが、最近は長く本を読むと目が痛くなるので、やめておきました。
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2013年5月のブログ
「1Q84」における性描写 ファンタジーにしてもおかしいとおもったこと
「村上春樹、『1Q84』とカルト宗教、 『多崎つくる~』の本と関連して」
毎日新聞の書評
2017年3月5日の書評「今週の本棚」に橋爪大三郎氏の書評が載りました。
「自身による最良の村上春樹論」として  要約です
 主人公(私)と妻(柚)が夫婦の危機を乗り越える、が大枠だ。
 見かけよりかなり複雑な小説である。
 宙ぶらりんの私が小田原の山荘で暮らす半年余は、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」に似せてある。
 主人公は画家、36才。もう一緒に暮らせないと妻に言われ家を出る。級友政彦の父雨田具彦の空いた山荘につく。そして「騎士団長殺し」の絵を発見する。
 私は近くに住む実業家免色わたるに肖像画を依頼される。
本作の補助線の一つが視線である。
 村上春樹は社会の矛盾を描かず通俗だとみられやすい。
 村上春樹は人間の欲望や感性の普遍的な場所から出発し、日本から出発しない。これが川端や三島や大江と異なり世界に受け入れられる理由である。
 仕事も結婚も、私はうまくいかない。若い世代の典型だ。村上は大丈夫「信じる力が備わって入れ」ばと声援を送る。私は意を決して妻の元に戻り、やがて生まれる生命の誕生を待ち望む。
 村上作品は、寓話に満ちているので、つい謎解きをしたくなる。
 世界と作品は、人物と肖像画のような関係のはず。そのことを主題とする本作は、村上自身による最良の村上春樹論にになっている。
同じ本の書評が鴻巣 友季子氏のものも載っています。
「肖像画文学」に独自の位置 見出し
自己の闇と悪に対峙し、その深みへと降りていく通い路を探す物語である。一方親になることを巡る話でもある。免色というのは「色彩のない多崎つくる」を想起するが~
◎どうもよくわかりません。
3、2月ブログアクセスの状況、「こういちの人間学ブログ」
アクセス累計  約 142万件
2月アクセス    17,565件
記事累計       824件
コメント        787件
2月アクセス数の多い記事
1、秋山~「不食という生き方」
2、多い射精~「唾液健康法」」
3、「長いきしたけりゃ肉を食べるな」~
5、「1Q84]における性描写~
6、村上春樹「1Q84」と宗教~
7、韓国の歴史ドラマと歴史
8、人相術2、耳
9、長寿、大川さん、ごちそう食べる
10、中国の3大悪女と傾国の美女
2月アクセスの多い組織 累計 人 件数は多い
日本電気     127
日立        121
NHK         76
東京放送      59
朝日新聞      60
日通         48
日テレ        46
NTT         45
東大         42
ヒューレット・P   40
博報堂       38
パナソニック    37
リコー        36
早大         32
京大         27
千葉大       27
 
 

2017年2月 1日 (水)

近況、1、体調戻る。人間学例会参加目指しリハビリ、2、アクセスの状況累計140万件

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2017年2月18日 6時31分 東側、千葉県方面に雲があることが多いです。
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6時37分、だいぶ太陽が上がってきています
1、退院して3年、体調しだいに戻る。人間学例会参加をめざして。
 2017年2月20日に74才となります。また2月25日に退院してから3年がたちます。リハビリでは結構歩いていて、またマンションの階段を手すりを使って上の階に上ったりするのですが、普段リハビリ以外では歩いているのは、ベッドから食卓までで、トイレも事務机も車いすで行ってしまっています。
 以前、リハビリが進んだとき、油断して一度、転倒してしまい、また家の中で転倒して頭を打ってその日のうちに亡くなった父を見ているので、用心深くなり、実用としての歩く能力が上がりませんでした。だいぶまた、リハビリが進んだなと思ったら、今度は巻き爪などで化膿して指先が痛くなり、またリハビリが停滞してしまいました。靴を大きくしましたら足が滑って、足の指先が靴にあたり、左足だけでなく右足の親指の先まで痛くなりました。
 足のむくみが少なくなってきたせいか、元はいていたよこはばが少し狭い靴に戻しました。また、右足の爪のところの炎症もだいぶ収まってきました。幅の広すぎる靴は靴の中で足が動いてしまい、爪が当たるなど、よくない事がわかりました。
 まだ、1月、2月は外が寒いので家の中で歩くのが中心ですが、3月になり暖かくなったら、リハビリのレベルをすすめたいと思っています。
 とりあえず、家の中ではベッドから食卓へ歩くだけでなく、事務机とトイレへもつえで行こうと思っています。それで足が鍛えられることでしょう。
 電動車いすが便利でついたよってしまいますが、日常的に事務机、トイレまでつえで行くとほぼ室内は車いす無しで済ませるようになります。
 そして力をつけて、元の自宅のあるビルの3階の人間学研究所まで上がり、例会に参加したいと思います。
 ただ前住んでいた佐竹ビルは1階の階段の上り口に電動車いすを置かねばならず、1から2階には階段の手すりがありますが2階以上にはありません。1,2階はテナントさんに貸しています。また3階にも室内に手すりを付けなければなりません。それらをクリアして、現在月1回行われている人間学研究所の例会に参加したいと思っています。
 そのくらいの力がついてくれば、行動範囲も広がってきます。車いすをどうするかの問題もありますが、段差のある建物も入れるようになります。
 5階には3匹の内1匹だけ残った黒猫、くろべえがいます。もう3年あっていないのですが、猫はもう忘れてしまったかもしれません。
「こういちの人間学ブログ」アクセスの状況
 ブログのアクセスは12月は累計14,478件で、一日400件ほどの時もありましたが、1月に2017年1月には1月の1,2日だけは400件台ですがあとは平均600件ほどのアクセスがあり、700件以上も多くなりました。以下にアクセスの概況を書いておきます。
(2017年1月末)
アクセス累計  140万件
記 事 数    818件
コ メ ン ト    765件
1月アクセス数 18、378件
約1日 600件
アクセス内訳 
検索   11636件
SNS    135件
その他  330件
参照無し 2002件
(検索で見ていただく件数が極めて多い)
人気記事ランキング 2017年1月
1、秋山氏「不食という生き方」
2、多い射精により長生き
3、若杉友子氏、長生きしたけりゃ肉を食べるな
4,1000匹の猫と寝る女
5、人相術「耳」福耳について
6、15年後に地球が寒冷化?
7、117才大川さん,長寿はごちそう食べること
8、1Q84,批判について
9、中国の三大悪女と傾国の美女
10、TBS世界の恐い夜
11、人相術 額 頭の良さとの関連
12、ネアンデルタール人図像の変化
13、韓国テレビドラマ2
14、コスメ店、リメイクオープン
15、体に良い食べ物なぜ変わるのか
1月の記事のアクセス数 
544件(818件の内)
月別のアクセス数53も入ります
 
訪問組織ランキング 累計 人
日本電気  125  日  立 118   NHK 75
朝日新聞  59  東京放送 59   東大 47
日本テレビ 46   日通   46   NTT 44
ヒューレット・P39  博報堂  37  リコー 36
パナソニック 36  富士通  36  早大 32
・・・
千葉大 27  京大 24  日本福祉大 24
広島大 21 東北大20 筑波大 20 関西学院大20
・・他多数
1月 訪問組織 69  訪問者 92人
アクセス数はもっと多くなります。  
 

2017年1月 2日 (月)

近況、1、元日日の出と近況、2、新宿区の外国人の変化、3、親戚集まる、4、ブログの状況

1、元日日の出と近況
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2017年1月1日の日の出です。朝6時56分です。雲一つない素晴らしい天気です。右の塔は防衛省の電波塔です。
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2016年12月29日の日の出です。朝焼けで雲がきれいでした。左の塔がスカイツリー、右端が防衛省の電波塔です。 6時49分です。冬至は過ぎていますが、日照時間は長くなっていますが、日の出は遅くなっています。その代り日没の時間は遅くなっています。
2、新宿区の外国人の変化
 「大久保、百人町地区の外国人について、人口比較、1,2丁目日本人3割」というブログを2010年8月28日に書きました。「こういちの人間学ブログ」
 これは、「新宿区の外国人」ということで、検索すると1ページ目に出てくるので、今でもアクセスが多いのです。途中での状況も追記という形で追加しました。
         2016、12    2008    2003、12
中  国     15258人   10066     9844
韓国朝鮮    10266人   14490    11009
ベトナム     3587人    155      59
ネパール    3407人    565      78
ミャンマー    1912人   1090      940
アメリカ     1040人    850       760
フランス     837人    1196      932
フィリピン    749人     897      898
タイ       729人     699       608
イギリス     365人    424       469
マレーシア   144人     274       961 
・                   
2016年12月 129国  41577人   人口の変化が目まぐるしいです
 新宿区においては1979年ころから、大体において1番多いのは、韓国、朝鮮系でした。
2011年(平成23年)韓国・朝鮮系は最大となり14515人となりました。それが翌年2012年に中国人のほうが多くなり、以後ずっと中国人のほうが多いのです。中国人は増え続け、韓国・朝鮮系は減り続けています。ただ、韓国系の人は正式に住民登録をしないで、3か月おきに観光ビザで来る人が多いのです。実際の数は韓国系の人がまだ多いのかもしれません。ベトナム、ネパールの急増と2003年3位で961人いたマレーシアの急減が激しいです。
 
3、親戚集まる
 1月2日に家内の親戚一同が集まりました。今年は昨年以上に集まり、家内のお母さんを第一世代とし、われわれの世代4家族、7人、その子の第3世代が13人、孫の第4世代で5人で、全部で26人となります。
4、ブログの状況
      2016年12月末  2015、12月末  2014,12末
アクセス累計 138万件   117万件     97万件
記   事   805件     706件      620件
コメント    748件     658件      543件
一番アクセスが多かったのは病気になる前の2013年でした。その頃は月に1000件ほどのアクセスがありました。2013年の11月から2014年2月まで入院していて、ブランクがありました。その後のブログは一日で平均550件ほどのアクセスがありました。このところアクセスが多くなるような記事が少なく、一日に400件台になることもあります。
 

2016年12月 7日 (水)

大江戸線で、牛込神楽坂へ、日本料理鱻(セン)で昼食 ,副都心線もバリアフリー

地下鉄大江戸線のバリアフリーの実態 
毎日新聞の11月の新聞で、「バリアフリー最前線5⃣」で都営地下鉄大江戸線で、ホームかさ上げ介助不要という記事がありました。これは『ぐるっと首都圏』での連載記事の一部です。前後に、ディズニーリゾート、賃貸マンションの記事がありました。
 大部分の駅で、車いすでは駅員の介助を受け、プラットホームと電車に渡し板を渡してもらって乗降する。対応は親切ですがいちいち駅員に頼むのは面倒だし、気持ちの面でも負担だろう。そんな中で障害者から『地下鉄大江戸線はいいですよ。介助なしで乗り降りできる』と聞いた。なぜ大江戸線は介助が不要?駅で確かめてみた。という記事がありました。
 今世紀に入り開業した新路線でも、駅によってはホームと車両の段差や隙間の問題を解消できていないとする。大江戸線でも、車いす利用者が求めれば駅員が介助している。
 記事の最後に、川口教授は、「障害者が駅員に依存せずに移動できる環境を作るべきで、今の鉄道の『介助依存システム』は間違っている」と指摘する。
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 12月6日のお出かけの日に試してみました。
 いつものように午後1時にヘルパーの斉藤さんが来ました。初めの予定では、大江戸線の一番近い東新宿の駅まで、電動車いすで行き、そこから牛込神楽坂まで大江戸線で2駅6分の予定でした。しかし天気は良いのですが風が強く、電動車いすで行くのを断念し、タクシーで行きました。家から東新宿駅までは、電動車いすで前に行ったことがありますが20分ほどかかります。
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段差はほかの地下鉄と同じくらいあります。段差0は特別な駅の特別な場所だけなのでしょうか。
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このようにホームがかさ上げされているところは、このようなマークがつくようです。
都電の荒川線すべてかさ上げされてバリアフリー化されているそうです。今度試してみます。
 
 大江戸線の地下鉄に乗ってみました。記事ではドアとホームの間が数センチかさ上げされ段差はほぼ0と書いてありました。東新宿駅では、ホームとドアの間の数センチは段差がありました。ほかの地下鉄とあまり差がないようにかんじます。しかしこれくらいは普段でも車いすの背中の後のほうに重心をかけて、前の車輪を浮かしてあがりますから大丈夫でした。ホームと車の間の隙間はあまりありませんでした。乗り降りは一人でスムースにできました。
 牛込神楽坂の駅からのエレベーターは1つしかなく、神楽坂の商店街の道まではかなり距離があります。神楽坂商店街に近い出口はエスカレーターだけでした。
昼食は和食、センで
 早速昼食の場所を探し始めましたが、ランチ営業をしていない店が多く、段差がきつすぎて入れない店ばかりです。店を探しているうちに2時過ぎになってしまい、前ランチでいった店も2時過ぎには閉店でした。一時は自宅へ帰って食べようかとも思いましたが、日本料理の鱻(セン)が開いていました。魚が三つでセンと呼ぶそうです。今までは2回ともフランス料理店でした。
新宿区神楽坂5-1-2 神楽坂TNヒルズ 03-5579-8653
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お店の入口です。神楽坂のメイン通りに面した1階のお店です。
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お店の中の様子です。カウンター席で食べました。
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 ここでお昼のランチを頼みました。中にかなり高い段差がありますが、斉藤さんに上げてもらいました。お魚ミニ会席で、少しおごって3400円のものを頼みました。ふつうは1000円台です。結構いろいろな品が付きます。
 頼んだものはメインはカレイの煮つけです。ほかに少しづつ刺身とステーキ、前菜とデザートが付きます。なかなかおいしい味付けでした。ごはんは残しましたが他は全部食べました。
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大江戸線は自分一人で行けることが分かりましたが。しかしすいているときはいいのですが、エレベーターは小さく、二回乗り換えないとだめです。少し大変です。自宅から駅までが、かなりの距離があります。近い新都心線はどうでしょうか。今度試してみます。
 寒いとトイレが近くなり、障害者用トイレもそうありません。いろいろな点で、まだまだ不便です。東京オリンピックまでには全体が障害者に便利なようになるといいのですが。
12月20日、副都心線で池袋まで電動車いすで行ってみました
 12月20日のお出かけの日に、今度は車いすで
地下鉄副都心に乗って、西早稲田駅から副都心線の池袋駅まで行ってみました。
 電車とホームの段差は大江戸線より少ないということがわかりました。
ただ地下鉄副都心線ののホームから地上へはエレベーター3つ乗り継がねばならず、エレベーターからJRの駅、東武デパートまでかなりの距離がありました。
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西早稲田の駅からの段差です。あまりありません。
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池袋駅に着いた時のホームとの段差、あまりありません。
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副都心線池袋駅のエレベーターから見たJR池袋駅と東武デパート
 
 

2016年12月 1日 (木)

近況、1、時がたつのが早い,年誌の原稿、2、セキュリティー3、大久保街歩き4、アクセス

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1、時がたつのが早い、人間学研究所年誌の原稿
 2016年も残すところあと1か月、このところ、月日が経つのが早く感じています。いままで.,特に病気前は毎日いろいろなことがあり、長く感じられましたが、最近は毎日がリハビリや医者、ヘルパーさんが来るなどの繰り返しで、変化に乏しく、もう一週間たったなー、という感じです。
 月2回ヘルパーの斉藤さんと出かける以外、週1度程度本屋へ行くか、新大久保周辺で写真を撮るぐらいです。12月は人間学研究所の忘年会を家の近くでやってもらえるので参加するぐらいです。
 7月22日のブログはリハビリが順調に進んだと書いています。ところが8月6日のブログでは体調がいまいちと書いています。9月22日には、2回転んでしまったこと、天候不順で体調が悪いと書いています。11月半ばごろからようやく体調が元に戻ってきました。
 先月10日間ほどブログの更新をしませんでした。今年の「人間学研究所年誌2016,14号」へは、エッセイでなく論文として出そうとしています。『どこまで人間と見るかー過去、未来』というテーマです。年に実用的人間学研究会の例会でお話してから、2016年の今年、人間学研究所の例会、二火会の例会と相次いでお話ししました。
 参考書の本などを読んで整理していますが、資料が多く大変です。
 例会でのお話しは資料は少なめで、写真や図版を多くしましたが、その後いろいろな資料を読み、文章を付け加え、論文の20ページの制限を超えてしまいました。
 前半は人間を奴隷扱いなどして人間と見ない、という各国の歴史などを書き、後半は、いろいろなマンガや映画で、人間とロボット、宇宙人などを書いたもの、さらには最近急速に発展してきたAI(人工知能)などについてどうまとめるかということです。
 あまりにも資料が多くなり少ない文章枠でどうまとめるかに困っています。
一応完成しましたので、編集をしていただく岩田さんにメールでお送りしました。
2、ノートン、ウイルスバスターのセキュリティーでの重複支払いについて
 パソコンのセキュリティーで、現在は、ウイルスバスター、前は、ノートン(トレンドマイクロ)に入っていました。ウイルスバスターは4年ほど前にパソコンを買い替えたときに入りました。ノートンはそれまで入っていて、ノートンを削除、取り消しをしました。パソコン画面上にはウイルスバスターだけがのっていてノートンは姿形もありませんでした。それだけでいいと思っていました。ところが、今年12月12日のJCBでのカード払いの請求書に、シマンテックストア(Norton)8618円というのがのっていました。どうも2回ほど引き落としで8618円を払ってきたようです。
 インターネットで解約の方法を調べました。それによりますと、赤字で!が出ていて、「コンピュータからノートン製品を削除しても利用停止とはなりません。シマンテックストアから利用停止手続きをしてください」とありました。
 よく解約手続きを読まず、削除すればよいと考えていました。コンピューター上に何も情報がなく銀行引き落としだけが続けられました。3年前に脳出血になり1年ほどは注意散漫でノートンから引き落としがされているのも気づきませんでした。
 今回はノートンストア(03-5642-2682)に連絡して比較的スムースに手続きがされました。12月12日には引き落とされないと思いますがどうでしょうか。
 ウイルスバスターから、昨日12月6日の催促メールで振り込みがされていません。振込用紙を送るというメールが入ってきました。重複請求が来ていた分で、無視していたものです。前はこのような請求で払ってしまいました。今回も無視します。
 ウイルスバスターでも昨年1度、1年分の金額5000円ぐらいを払った後、3か月後に、また請求書がきて、注意散漫のためまた支払ってしまいました。ウイルスバスターに電話しましたら、その分は次の支払いに使えるとのことでした。今年5000円を支払いましたら、3か月後にまた5000円の請求書が来ました。もう面倒なのでそのまま放置しました。こちらは自動引き落としでないので払わなければそのまま1つは終了です。
 私の不注意で、1台のパソコンで、一時ノートン1回、ウイルスバスター2回と3回分も払っていたことになります。
普通なら気が付くのですが。病気をした後など注意散漫になるのに気をつけなばならないと思いました。それにしても、平気で重複してとる会社もお客様サービスの点でどうかと思います。
 
3、大久保街エスニック料理店歩き、について
 このところ、新大久保、大久保駅周辺のエスニック料理店の様子を電動車いすで回り、ブログに書いています。今人口増加が一番目覚ましいのが、ネパール人とベトナム人です。2016年の11月1日の新宿区に住むベトナム人は3574人、ネパール人は3374人です。また特に目立つのがネパール料理店です。新大久保では私の知る限りで25店ほどで、特に去年から今年にかけて急増しています。(ブログ参照)ネパール料理店には、食事に行ってきました(ブログ参照)。インド料理と中華料理を足して2で割った感じで、日本人には食べやすいのです。またハワイ料理とネパール料理を出す珍しいお店もあります。(ネパール専門店に代わりました。)
 あと2店の写真を撮れば全店の写真が入ります。-全店の写真を撮りました。
新宿新聞ではいずれ特集するようです。
 ベトナム料理店も増えています。タイ料理店もあります。ベトナム料理店は前はタイ料理店に比べ非常に少なかったのですが、今はベトナム料理店のほうが多くなっています。(タイ料理店のほうが少し多いことがわかりました)タイ料理より日本人には、食べやすいということもあります。
 そのほかにブログにも書きましたが、大久保駅周辺にいろいろ珍しい店があります。チュニジア料理2店、トルコ料理店、もちろんネパール、ベトナム料理店があります。中国では中国延辺(朝鮮)料理、中国東北料理(旧、満州地方)、蒙古料理、台湾の精進料理、チベット料理などがあります。コロンビア(中南米)料理というのも珍しいと思います。ミャンマー料理店は高田馬場に集中していて大久保に見当たりません。
 食材店で料理店ではありませんが、ハラルフードの店が増えています。また筆者のビルのテナントでアフリカのコンゴの食材店があります。
急激に増えていたのが、ケバブを売るお店です。初めは3店ぐらいでしたが、2016年12月現在、分かっているだけで新大久保地区(百人町、大久保)に8店です。小さなお店で扱う商品も少ないお店です。以前は店頭で韓国のホットクのお店が多く、簡単に済ませていましたが。甘いお菓子のようなものでそれで昼食にするには不十分です。
 ケバブは400円から500円で十分昼食にできます。それで簡単で増えているのでしょう。
4、アクセスの現状
 2016年12月1日現在、のアクセスの現状です。
記  事: 800件
アクセス: 137万件
コメント:  744件
アクセスのほとんどは検索で80%。その他は20%です。
1日500件ほどです。1000件ぐらいになることもあります。
訪問組織は11月で90人ほど、件数はもっと多くなります。
NECと日立製作所が115人ほど。

2016年11月 6日 (日)

近況、発病してから3年に、視床出血、病気の経過と現状について

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2016年11月6日、久しぶりに朝からいい天気で朝日が昇るのを見ました。
2016年11月6日(日)、発病してから3年に
 久しぶりに朝の日の出からいい天気でした。このところ、昼から晴れても、朝のうち曇りか雨が降ったりすることが多いのです。
 2013年の11月6日に、旅行先の大津周辺で脳出血を起こし、大津赤十字病院に入院しました。出血した部位は視床(出血)で、一番多い被殻出血に次いで、脳出血で約30%を占め二番目に多い病気です。視床は脳の中心部、知覚神経が集中しているところで、例えば、麻痺側の右手は、3年たった今でも 触覚がほとんど戻りません。温度や痛みの感覚は戻っているのですが、触覚が戻らず、目をつぶって、ものを触っても、なんだかよくわかりません。
 発病してしばらくの入院直後は、軽い失語症になり、字は全く書けず、携帯電話のかけ方もわからなくなりました。幻覚症状も現れました。ああ、これが幻覚なんだなと興味深かったです。
 はじめ大津の赤十字病院に入院した直後には、右半身が全く動かず、すべての感覚が失われました。右半身は痛みも何も感じないのです。前にも書きましたが言語も不自由でした。感覚のない右半身を下にして横向きで寝て、それは今でも続いていますが、理学療法士さんによると普通は逆なのだそうです。
 その後、東京に戻り、代々木病院に入院しました。そして病状が安定してからリハビリ病棟に行き、土日も含め、1日3回のリハビリを続けました。リハビリはとても厳しかったですがおかげさまで努力の甲斐があり次第に感覚も戻ってきました。
元、住んでいたビルに帰れるかどうか
 杖を使ってあるくこと できるようになりましたが、リハビリの時に歩くのがせいぜいで、日常的に歩いているわけではありません。
 電動車いすを使うようになってから、エレベーターのある借りたマンションから新大久保周辺、高田馬場周辺、また単独では行っていませんが、電車に乗ってあちこちへ出かけられるようになっています。
 8月6日と9月22日のブログにも書きましたが、天候が不順な日が続き、リハビリの状況はかえって後退してしまいました。雨や曇りの日が続き、リハビリをしている人多くの人が体調を悪くしたようです。野菜の出来も悪く、値段が高騰しました。
 10月の半ばになり天候が良くなるに従い、リハビリも以前の状況に戻りました。
 10月30日31日11月1日と、家内が2泊3日で泊りがけの旅行に行きましたが、一人で留守番でも問題ありませんでした。
 3月24日のブログにもかきましたが、 階段も手すりがあれば、今住んでいるマンションも上の階まで上がれるようになりました。
 元住んでいた、佐竹ビルに戻れるか、階段昇降機を再度とりつけることができるか。業者さんに聞きました。はじめ3件ほどの業者の方は難しいと言っていましたが、その後再度ほかの業者の方は可能かもしれないということでした。障害者が増え設置基準が緩くなったようです。
 ところが階段昇降機を付けても車いすをどうするのかが問題です。1階まで降りても、電動車いすを置いておく場所がないのです。1階と2階を韓国のコスメ店とグッズ店に貸しているのです。現状では難しいようです。
身体障害者として、困難になったこと、わずかな利点
 身体障害者となり、様々なことができなくなりました。元の自宅に戻れず、自宅の一部に作った人間学研究所の例会に参加できなくなりました。1万冊そろえた資料も、2000冊を新しいマンションに持ってきましたが、8000冊は置いたままです。持ってきた本も取りにくいのです。人間学の例会で自分が講師としてお話しするときは、マンションの集会室まで来てもらいます。
 好きなドライブも免許証の更新を断念しました。せっかく買いなおしたボルボも半年で手放しました。やはり好きな釣りも一度も行っていません。旅行も泊りがけでは一泊旅行2回だけです。
 いろいろな楽しみは、かなり減少してしまいました。
 その代わり、唯一良いことは自分が身障者となり、身障者の気持ちがよくわかり、身障者から見た町の不便さなどに気が付くことです。4年後のオリンピック、パラリンピックなどでは特にパラリンピックに向け、ブログに書いて発信していくことで、町のバリアフリー化に少しでも役立てればと思っています。
身体障害者となってからの体調と能力の変化は、「こういちの人間学ブログ」で詳しく書いてきました。
発病してから3年に、病気の経過と現状について(このブログ)
   2016,11,6
天気が悪く体調も悪化した
   2016,9,22
体調がいまいち、(リハビリが停滞)
   2016,8,6
身障者2級継続されました
   2016,6,26
電動車いすで旅行、まだまだ車いすでの旅行は厳しい
   2016,6,18
ほとんどの店入れず-段差がきつい(新大久保、高田馬場)
   2016,5,23
階段上がる(マンションの)
   2016、3,24
退院から2年目に、新しい杖のレンタルと洗面所を元に戻す
   2016,2,5
電動車いすを借りてみました(自分一人で出かけられるようになる)
   2015,12,16
病気になってから二年、回復はゆっくりです
   2015,11,11
病気による手相の変化ー筋が多くなる
   2015,5,8
リハビリの状況、免許更新の断念
   2014,12,18
身体障害者は投票しにくいーいろいろな不便さ
   2014,10,13
視床出血10か月の現状
   2014,9,15
リハビリ進む、つえで歩けるようになるか
   2014,6,13
長い間、脳出血で入院していました。経過と現状
   2014,6,3
 
2級身体障害者の認定を受けました
   2014,5,16
近況3、まぶたの調子がおかしいー今も続く
   2014,5,5
退院して1か月余り,ようやく物事が順調に
   2014,3,25
現状について
頭の状態
 右のまぶたが痛い、ずきずきする 前からずっと(一番影響が強い)
 右顔面全体のの軽いしびれ
 右顔面の変化、眉毛、目の位置が左より低下(しかめっつらに)
 右の口、舌の弱いしびれ。声がうまく出ないことがある
 飲み込むのがうまくできないで、むせることがある
 鼻が詰まりやすい、点鼻薬(寝る前)と飲み薬の服用を朝晩
 口をあいて寝るせいか、のどがはれやすい トローチを手放せない
 ときどき、頭がやたらかゆくなる
 記憶力の低下ー老化のせいかも
右手・右上半身
・ 
 右手のしびれ
 握力はだいぶ回復
 字は左手で書いたほうがうまく書けるようになった。右手使わず
 歩いているときなど、手に力が入ってしまう、手の関節(特に人差し指が痛くなる)
 スムースな動きができない、かくかくという動き
 右の肩の関節などが痛くなる
 右肩などがかゆくなりやすい
右足
 右足のしびれ、麻痺が治りにくい
 右足の親指の爪がまき爪で炎症が起きる(歩行が減少により)
 右左ともに筋力の低下
左足
 左足のしびれ、特に足裏(発病前にはなかった)
 右足親指に力入りにくい、歩くときの踏ん張りが弱くなる
 左足の筋力低下、左足が細くなる
右左の足の力、バランスをとる力弱い
 実用的な歩行困難、やっているのはベッドからテーブルまでの歩行のみ
左手
 特に問題ない
全体として
 疲れやすく、持続力が欠ける
その他
 体重は発病前84-88キロぐらい
 入院時、72キロぐらい
 現在 75キロー77キロぐらい
診療、リハビリ、などの状況
 月2回 内科医の訪問診療
 月1回 歯科医の訪問診療
 週3回 理学療法士によるリハビリ 
 月1回 看護師訪問
 週1,5 訪問マッサージ
 週2回 入浴サービス
 月1回 ケアマネージャーの訪問
現在服用している薬等
ロサルヒド配合錠 (降圧剤) 朝1錠
マグミット配合錠 (胃酸の中和、便通をよくする、尿路結石予防) 朝夕1錠
フェブリク錠  (尿酸を下げる) 朝1錠
センノシド錠  (便通をよくする) 夕1錠 便秘気味昼追加1錠
ラチニジン錠  (胃酸を抑える) 夕1錠
エビナスチン塩酸塩錠 (ぜんそくやアレルギー性鼻炎) 朝、夕1錠
アラミスト点鼻薬 (副腎皮質ホルモン剤)
インドメタシンパップ (貼薬)
抗生物質軟膏 (巻き爪による炎症)
前は服用
ユーロジン (睡眠導入剤) 今はほとんど使わない
自分で買っている薬
風邪薬 パブロン
胃腸薬 パンシロン
ビタミン剤 ビタミンECB2剤
目薬
トローチ のど
活動状況
リハビリ、診察、マッサージなどを生活の中心に、予定表あり
ブログの作成とアクセスの状況を見る
月に2回、ヘルパーさんとお出かけ、食事その他
天気の良いとき、新大久保、高田馬場の町歩き(電動車いすで)
本を買ったり、コンビニ、スーパーへ1人で出かける
人間学研究所年誌などへの投稿、講師として話
2か月に1度程度、人間学研究所などの例会、、二火会、クラス会等参加など
学会等は参加できず
 総合人間学会、日本顔学会、
 ジャパン・スケプティクス(超常現象を科学的に解明する学会)
 
 

2016年10月 5日 (水)

わが家のファミリーストーリー、父を中心として ・戦後から現在まで(その2)

筆者の子どものころ

 私の記憶がはっきりするのは小学校入学ころ(1950年ころ)からで、戸山小学校といいます。そこは、木造二階建てで二部授業でした。体育館はまだがれきの山のままでした。途中から、西戸山小学校ができて、友達の一部が移りました。私の家の裏のほうではニワトリを飼っていました。近くの家では、ヤギを飼っていて、そのお産を見たりしていました。そのお産を見ていた私は、小学校で、人間の赤ちゃんはどこから生まれるかという話しになったとき、私はヤギを見ていたので、お尻から生まれるといいました。他の友達はおなかから生まれるというのです。おなかを切って生まれるので包帯の帯をしていると。私はそれからなにかと「尻から生まれたこうもん(肛門、こういちなので)でー」とみんなに、ひやかされました。

 当時は焼け野原で大きな家がなく、家からそのまま、新宿の伊勢丹や三越が見えました。今の歌舞伎町のあたりは、池があったように記憶しています。そこで万国博覧会みたいな会場ができてその建物の後に、今の映画館街ができました。現在の歌舞伎町2丁目は昔は西大久保1丁目で、普通の民家だけでした。新宿の紀伊国屋書店も、二階建ての建物でした。この古い紀伊国屋に行ったことがあります。

風呂桶の製造、販売

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まだ平屋のころの佐竹製作所。右側が住居部分。左が店舗と風呂の製造場所でした。

裏でニワトリを飼っていました。風呂桶の製造と卸、小売りもやっていました。

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まだ東京ガスの委託店をする前のお店。

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2階建てに立て直した建物。間口が5間ぐらいありました。半分が風呂店、半分が東京ガスのサービスセンターまだ仕事の中心は風呂桶の製造と販売の仕事でした。

 家では、風呂桶の製造販売(桶商佐竹)を戦後すぐから初めて、祖父や父、叔父が、そして次第に職人さんも入ってきました。はじめは新大久保と大久保駅の間の現在の百人町2丁目に店がありました。そのほかにお滝橋通りに3階建ての家があり、富士山がよく見えたそうです。次第に町の人口も増えて、風呂の需要も増えてきました。今の第2佐竹ビルのところに土地を買い、平屋建ての家を建てました。

 その後二階建で、下は材木の乾燥場所、上は職人さんの寝る部屋を作りました。現在のサタケビルのところも、家もバラックから木造二階建てに建て替えました。当時店のあるほうの家は土地が80坪あまりあって、前面は二階建の家、奥はやはり材木の乾燥場と、二階は職人さんの住まいの家を建てました。その家は、総檜づくりで、二階はふすまをとりはらうと、5つの部屋が全部つながるようになっていました。おじいさんがなくなった時には、自宅で葬儀を行ったのですが、全部つながった部屋で、お通夜の宴を行ったものでした。そのほかに近くのお米屋さんの隣に30坪の土地を買い材木の干場と職人さんの宿舎にしました。今は第2サタケビルが建っています。

 祖父の庄次郎は親分肌で、デーンという言葉をよく使っていました。戦前から戦後にかけての大久保・百人町地区の有力者でした。皆中神社の神主さんはお爺さんが木曽から連れてきたそうです。もう少し弁が立てば区議会議員にでも簡単になったのにと言っていました。

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祖父、庄次郎の写真です。

祖父から父へ 

 うちで作る桶ぶろは木曽の材木商から現金でじかに安く仕入れた木で作り、他の業者よりいい材料を使ったので、大変評判がよかったのです。現金を胴巻きに入れて木曽に買い付けに行ったそうです。掛売でなく現金を目の前に出されると、安くでも売ってしまうそうです。当時は風呂桶の材料は木場のほうから仕入れるのが普通でした。いい木で風呂を作って売りますからよく売れます。他の業者からはだいぶねたまれました。朝暗いうちにトラックできた材料を総出で乾燥場に運びました。箱風呂を作る檜の長い板。桶風呂を作る椹(サワラ)の板です。桶風呂は1人でなんと3本も作ってしまいます。私も子どものとき当然手伝いましたが大変な作業でした。うちは余った板がたくさんでき、その木っ端からチャンバラの刀を作ったり、船の模型を作ったり、クラスの同級生には評判でした。

 父は、風呂の職人として、朝早くから夜遅くまで、桶ぶろを作りました。昔は休みは盆と正月だけで、大みそかの夜まで仕事がありました。ずいぶんと仕事で頑張ってきたのです。そのおかげで、かなり店に蓄えもできてきました。戦後佐竹製作所に名称を変えました。当時一番売れたのは、桶ぶろにガスバーナーをつけた、ガス風呂で東京ガスのガス風呂指定商に最初に認定され、その後ガス料金を受けたり、ガス器具も売る、東京ガスのサービスセンターにもなりました。認定を受けた最初の10数社だったのです。同じ新宿の倉前産業さんに卸をしてもいました。作れば売れるという時代でだいぶ儲かったようです。当時は公団住宅がたくさん作られ、ガスぶろが山のように積み上げられました。

 祖父は昭和44年の4月22日に亡くなりました。76歳でした。食道がんでした。今まで病気などしたことがなかったのですが、たばこをよく吸い、晩酌にはおかんした日本酒を毎日飲んでいました。これが影響したのでしょう。

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 三越本店でのガス風呂の製造の実演をする父

 父は、東京ガスでの会議に出席するようになりましたが、そういった会議は苦手でした。当時、父がよく話していたのは、東京ガスの手数料を小切手で受け取りに行くのが遅れたり、ガス器具の売り上げが、少ないというので、東京ガスの係長が経営が大丈夫なのか、このままでは、サービスセンターをやめてもらうかも知れないなどとと脅かしたそうです。その時に、父は会社の決算書を見せたそうです。私も記憶がありますが、無借金で預金が800万円あって、当時の会社の社員の月の給料の合計の半年分もあったのです。東京ガスの手数料は、はした金だからとりに行かなくても大丈夫だったと言っていました。

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交通少年団の子供たちと、父は新宿交通少年団の団長でした。

 父は、町会の仕事を熱心に行い、町会長が何もしないので町会の実務をほとんどやってきたと言っていました。 又交通少年団の団長などの活動も熱心に行っていました。そういう点でも大変律義に行ってきました。おじいさんも父もそうですが、もう少し人前でしゃべれれば、すぐ区議会議員にでもなったのにと言っていました。祖父庄次郎は昭和44年4月に亡くなりました。ちなみに祖母いさは平成4年7月に98歳の長寿を全うしました。

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父は目と眉の間が狭く、いわゆる奥目で、比較的ほりの深い顔をしていました。今の若い人は名前を知らないでしょうが、俳優のゲーリー・クーパーに似ていると言われたと楽しそうに話していました。

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右側が祖母のいさおばあさんです。隣は大阪からでてきた、祖母の妹のうめこおばさんです。2人とも100近くまで長生きしました。

筆者は経営をやりながら人間学の確立のために研究所を作りました

 私は、東京教育大学の生物学科の学生で、学生時代から関東地域の生物科の学生組織で人間学研究会を主催したりして研究者になりたかったのですが、祖父と、父とで、東京ガス関連の仕事が増え、われわれには中なか対応できないのでどうしても家の仕事をしてくれと言われ、卒業とともに、家の仕事につきました。当時は有限会社佐竹製作所(昭和36年、4月5日、1961年創立)という名前で、その名前から見ても風呂の製造販売が主力でした。私が入社して数年後に、祖父が死去し、昭和44年父親が社長となり、私はまだ25歳くらいでしたが、専務取締役店長となり、東京ガス関係の仕事はすべて担当することになりました。父親は、風呂部門を担当していました。

その後業容が建設業関連の仕事も多くなり、株式会社サタケ(1986年、昭和61年5月8日)と変えて私が社長となり、父は会長となりました。私が入社したころの会社は社員数20名ほどの会社でしたが、80名になり創業100年の時には100名の会社にしようと言っていました。会社の売り上げの3分の一は東京ガス以外の仕事でした。うちは下請けに仕事を回さないで、ほとんど自店で仕事ができました。ガス工事だけでなく水道工事、電気工事も同時に同じ人間がやってしまいます。ガスでの担当地域は新宿の大久保地区西新宿地区、渋谷区の代々木、千駄ヶ谷地区でした。大変効率がよく利益も上がりました。不動産の仕事も専従の人が2人行うようでした。東京ガスの委託店のガス器具売り上げは100店ぐらいのうち達成率は常にベストテンでした。成績優秀でもらった銀杯も7つもあります。賞罰という言葉がありますがうちには罰というものがほとんどなくいろいろな賞を付けました。しかし途中から東京ガスの資本が入った合弁会社にされてしまいました。その後、現在は息子が社長となり(社長4代目)、筆者は会長です。会社は東京ガス関連の仕事から離れましたが不動産管理の会社として存続しています。

 私は、1963年の学生時代から人間学に取り組んでいました。生物科の学生組織の「生懇」の分科会「人間学」の責任者となり、卒業してからも1965年に民間の研究会(人間学研究会)を立ち上げました。1985年に第2次人間学研究会、その後1991年に第2サタケビル建設とともにささやかながら人間学研究所準備室を経て1999年に人間学研究所を立ち上げました。そして現在も活動を続けています。自分が研究者となるよりは、商売で儲けて、研究を支えたほうがいいと思ったのです。思ったほどもうかりませんでしたが、なんとか人間学研究所の1室を作り、その活動は今も続いています。(「人間学研究所年誌2015」まで発行)

父とキャバレー

 父親はあまり趣味もなく、派手な遊びをしませんでしたが、当時のキャバレーに行くのが最大の楽しみでした。今は、いわゆる大箱と言われるキャバレーは、コマ劇場と隣の東宝会館が閉鎖されるとともに、昨年末クラブハイツを最後としてなくなってしまいました。わたしも家の仕事をはじめた時に、父に池袋の金の扉というキャバレーに連れていってもらったことがあります。昔は、今のようなカラオケをやるようなクラブというものがなかったのです。父は、クラブハイツには20年近く通いました。毎週月曜日には開店と同時に行って終わりまでいました。お酒をあまり飲まないのですが、前は社交ダンスをよく踊っていました。バンド演奏をする大きな舞台で歌を歌ったと自慢もしていました。私も時々お付き合いしましたが。お気に入りのホステスさんが私と同い年ですし、友達で来るホステスさんもそのような年で、少し閉口しました。父親からみればちょうど娘の年でちょうど良いのですが。母が施設に入るようになってからは、10数年間私と月に2回、クラブハイツに行くのを楽しみにしていました。それは、昨年末まで続きました。(2009年当時)でもきちんと無駄なお金を使わず、限度をきちんと決めて遊んでいました。ホステスさん相手に戦争の昔話をするのが好きでした。普通戦争の時の話はしないのが普通ですが父には楽しい思い出のほうが多かったのです。でも91歳まで、クラブに行くのは、大したものだと思います。ただ他の趣味があまりなく、クラブに行けなくなってからは、テレビを見るだけが楽しみとなってしまいました。

 父は、大変な倹約家で、特に電気ガスを使わないようにし、省エネ大賞でももらえそうです。家の電気は照明をあまりつけないようにし、トイレには、トイレの電気をつけないで、戸をあけてすること。風呂には浴槽の半分しか入れないで、水道と瓦斯代を節約すること。しかしそれは、風呂の残り水に雑菌が繁殖し、膀胱炎を引き起こすもとでした。株などの投資もせず、もちろんかけごともしないで、せっせと、お金をためていました。(賭け事は禁止という佐竹家の家訓)又枕が変わると寝られないと言って旅行もあまりいきませんでした。しかしそのおかげで、私が会社の経営を引き継いでから、お金が足りなくなったときに、父親から借りることができましたし、私や妹が家を買うときにも援助をしてくれました。でももっと自分の楽しみのために使ったらとよくいっていましたが、それができない人でした。楽しみは、いろいろな昔話を聞いてもらうことでした。戦争時代の話が多く、もう何度も何度も同じ話を聞いているのですが。半年余り、父親のところに、5階から3階の父親のところまで、朝と晩に食事を持っていって、話を聞いていたのですが、それが、私のできた最大の親孝行だったなと思っています。

父の手相

 最後に、父の手相を見たのですが、見事に運命線が一直線でそれが中指まで通じているのです。私もかなりいろいろな人の手相を見ているのですが、このようにまっすぐな線をした人を見たことがありません。今思えば記録に取っておけばよかったと思います。自分でもそのことを知っていて、この筋は、豊臣秀吉か、石川五右衛門の手相だと、いっていました。運命線がまっすぐというのは、必ずしも、有名になるというのではなく、何かの道をまっすぐに進んできたともいえるので、そういう点では、見事にまじめに仕事一筋で生きた証ではないかと思っています。

 

わが家のファミリーストーリー、父を中心として ・戦争中まで(その1)

◎ 2009年に書いたブログですが、記事を増やし、写真も新たに加えて更新しました。

佐竹家のファミリー・ストーリー

 NHKでは、ある家族の先祖を訪ねて、ファミリー・ストーリーという番組をやっています。9月29日7時半から8時15分まで、恵俊彰さんのルーツについてやっていました。無人島探検に挑む先祖。というものでした。

 筆者の私の父のことを中心に書きましたが、その後さらにさかのぼって、同じように我が家のファミリー・ストーリーを書いてみます。(2016年9月)

突然の父の死

 一日、二日おきぐらいでブログを更新していましたが、しばらく中断してしまいました。12月17日の朝、いつものように朝食を持って行った時、部屋の中で転んで、目の上を強打して大きく膨らんでいました。その時はまだ大丈夫と本人も言っていたのですが、そのうちに、もどすようになり、かかりつけの医者の指示で、救急車で国立医療センターに行きました。その結果、硬膜下の出血がひどく、脳幹部も圧迫されて、手術不能と言われました。すぐ親族を呼ぶようにと言われ、みな集まりました。そして翌日の朝私と妻と妹の三人が見守る中で息を引き取りました。

 一時、多発性脳こうそくで寝たきりに近い状態からだいぶ回復し、週に三回は夕食を外に一緒に食べに行っていて、前の日にはすし屋で、いつもより多い9かんを食べて元気だったのに、あまりに急な変化で皆びっくりしてしまいました。しかし、92歳という年齢でもあり、朝夕食を5階から3階の父のところまで持って行くのが13年、食事を持って行って隣で話を聞きながら、後かたずけの家事を行うのが半年余りやってきたので、まあ少し親孝行できたのかなという思いと、死ぬなら長く寝込まないでぽっくり死にたいと日ごろからいっておりましたので、まったく苦しまないで逝って本望かなという思いがありました。その後お通夜、告別式とバタバタして、ようやく落ち着いてきました。

大阪で生まれ東京へ ルーツをさかのぼる

 父親、佐竹実は大正6年5月(1917年)に大阪で佐竹庄次郎の二男として生まれました。父方の祖先はもともとは、新潟の長岡で桶づくりを大規模に行う御用商人で、蔵がいくつもあり、苗字帯刀を許されたそうですが、藩に貸していたお金が戊辰戦争後にだめになり、没落してしまいました。長岡での戸籍を見ると、長岡市先手町3丁目832番地で、長岡駅の近くです。古い戸籍を見ると高祖父は傳右衛門ですがその先は戦災で焼失したという「戦災焼失証明書」が発行されるだけです。

 お祖父さんは、こいつがいけないんだと言って、位牌にカンナをかけて削ってしまったと言っていました。ずっと前の先祖の墓は長岡市の浄土真宗大谷派、広西寺(長岡市柿町4666)にあるそうで、叔父はお寺の過去帳を見せてもらい、永代供養のお金をおいてきたそうです。以前私もお寺に行きましたが場所確認だけで、住職さんには会いませんでした。新しいお墓は祖父が新宿の抜け弁天のところの専福寺に作りました。曽祖父から墓碑銘に名があります。

 私の祖父佐竹庄次郎は明治21(1888)年の2月26日に曽祖父佐竹傳蔵の長男として生まれました。祖父庄次郎の母親とは離婚し曾祖母のていは3番目の奥さんで明治34年に結婚しています。子どもが生まれるので、実家に帰っているときに他の女性に手を付けて離縁するというひどい先祖です。3番目には役所でもうこれくらいにしておきなさいよと言われたそうです。 ていの父親は白井熊蔵といいます。曽祖父がていと再婚したとき庄次郎は13歳の時になります。

 私の祖父の庄次郎が東京に出ていて、椅子職人として仕事をしていたのですが、それを頼って曾祖父の傳蔵が東京へ出てきました。「わがやー、わがやー」と言いながら長岡から風呂やタガをなおしながら歩いて東京へでてきたそうです。明治の終わりころです。その後曽祖父傳蔵は東京で桶やを始めました。東京での桶屋の創業は明治の末頃です。大正の時代の商店名を書いた地図には新大久保と大久保駅の間に桶商佐竹の店の名が載っています。店を作ったころは大久保駅だけでした。1914年(大正3年11月)新大久保駅ができました。店はその後新大久保駅ができた後に新大久保寄りに転居しました。私は4代目、現在は私の息子が社長ですが5代目となります。 曽祖父は奥さんのていも呼び寄せました。ところが曾祖父も曾祖母も、かなりのばくち好きで、祖父の給料が入るとそれを取り上げてばくちに行ってしまう始末です。ばくちでだいぶ祖父は苦労したので、それ以後賭け事には一切手を出さないというのが我が家の家訓で、祖父も父も、私も、息子たちも賭け事には手を出しません。

これではどうしようもないので、それを嫌って、祖父が、大阪東成郡へ行きそこで大正3年11月に祖母(米田いさ)と結婚しました。そして伯父房次郎と父実が生まれました。

 祖母の父親は米田藤吉(万延元年生まれ)で祖父の新吉は天保2年生まれです。曽祖父は藤兵衛といったようです。お父さんの藤吉には、淀川でとれたじゃこをたくさん食べさせてもらい、それで骨が丈夫になったと言っていました。祖母の系統はみんな長生きです。曾祖母はかなりの年で大阪から汽車で東京まで出てきて私も会いました。100近くまで長生きでした。祖母は98歳ぐらいまで生きていました。祖母の妹の梅子叔母さん(おばあさん)とも会いましたが、やはり100近くまで長生きしました。

 わたしの父親の実は大正6(1917年)年5月15日の生まれです。祖父の庄次郎には、男三人と女三人の子供ができました。曾祖父傳蔵が病気で倒れたというので、大正9年1月13日に祖父一家は長男房次郎と次男実をつれて大阪から東京に戻りました。その後大正11年に曽祖父傳蔵はなくなりましたが曾祖母ていは長生きしました。なにしろすごいお姑さんで、海苔巻きを作れと言われ、関西風の太巻きの海苔巻きを作ると、こんなもの食べられるかと捨てられたそうです。味付けも合わず、散々いじめられたそうです。ばくちうちで、着物の裾をたくし上げて大股で歩くような人で、すごいおばあさんだったようです。祖母は大阪へ帰りたかったが切符の買い方がわからずかえれなかったそうです。曾祖母と父や私たちとは血のつながりはありません。

東京で生まれた、父実の妹は2人とも若くして病死しました。叔母の一人すみ子はまだ健在です。

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 伯父や叔母きよ子です。一番上の伯父はなくなった房次郎です。当時中学生です。その右側は父の実です。小学生でした。後写真で左は叔父良平や叔母きよ子です。叔母きよ子は昭和14年に病死しました。この写真にはありませんが叔母、すみ子は現在も存命中です。叔母志津恵も昭和11年に死去しました。

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 酸欠事故でなくなった伯父房次郎です。お祖母さんの自慢の息子でしたが井戸掘りの酸欠事故でなくなってしまいました。

 6人の子供のうち、長男房次郎はなかなか優秀で、中学校から現在の薬専(現在の薬科大学)に合格したのですが、学校をやめさせ、桶やと途中から始めた井戸掘りの仕事をするようになりました。ところが昭和15年に9月に29歳で、井戸の酸欠事故で死亡してしまいました。それは事故として新聞に載ったようです。その翌月10月に曾祖母のていもなくなりました。

 父親も兄と同じ仕事をしていて同じ現場で事故で倒れ、九死に一生を得たと言っていました。父親は小学校しか出ておらず、早くから、文房具の卸の商店に丁稚奉公をして苦労しました。途中からおけ屋の仕事をやるようになり、伯父の死で、家の跡取りになりました。他に父の弟、良平が一人、妹が三人で、一人は3歳ほどで赤痢で死にもう一人も結核で19歳ほどで死に、おば、すみ子一人が残りました。叔父も昨年亡くなり、父もなくなりましたので今では叔母だけが残る形になりました。叔母の息子さんは村上正さんです。大久保駅近くで「あうん」というレストランをやっています。

 父実は大正12年の関東大震災を大久保の地で経験しています。まだ6歳のころで、ものすごい揺れだったそうです。そして昼の食事の大好きなとんかつが、震災の揺れで埃だらけで食べられなくがっかりしたと言っていました。このあたりは地盤が固く、倒壊した家は少なかったようです。この関東大震災で、下町の人たちが多く大久保周辺に住むようになり、街が急速に発展したと言っていました。それ以前はまだこの地域は東京市ではなく郡部だったのです。多くの人たちが移住してきて桶や井戸掘りの仕事も急に増えてきました。

前後8年近くも戦争へ

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 父、実の出征の時の写真です。真ん中やや右の坊主頭で紋付を着ているのが父です。その左隣はお兄さんの房次郎、一番左に祖父庄次郎と祖母いさです。昭和12年末か13年の1月です。今から80年ほど昔です。

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軍歴書によれば昭和13年1月10日に歩兵第1連隊に入隊。3月31日には騎兵となり、いきなり、1等兵となります。4月に満州に向け東京出発。4月には満州国黒河州孫吾県に到着。騎兵第一連隊第2中隊に編入。14年9月ノモンハン事件に参加するため事件地域へ.まもなく停戦命令。昭和15年12月には上等兵となります。昭和16年2月に除隊となります。

騎兵となった父の写真です。騎兵はサーベルを持ちます。

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騎兵の写真です。かっこいいだろうと言っていました。

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軍歴簿の最初のところ昭和13年の1月に入隊しています。4月にはすぐ1等兵になっています。満州へ行きました。2ページもあります。

昭和18年3月に再召集、中支に派遣、安徽省に派遣。昭和21年に日本に帰還しています。

 

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除隊の時の記録です。

 父は昭和13年1月(1938年)に21歳で招集され、3月には騎兵第一連隊に配属され、早くも一等兵になっています。昭和14年に中国東北地方(満州)に行きました。その年第三次ノモンハン事件の時で、間もなく停戦となりました。もう少し早くいっていたら死んでいたと話していました。上官にはオリンピックで乗馬で入賞した西大尉がいたそうです。とてもいい上官だったそうです。硫黄島へいき戦死しました。ひどい寒さで、まつ毛も凍る、大小便もただちに凍ってしまうという寒さで、大変苦労したという話をさんざん聞かされました。父は、ほかの人よりは背が高かったそうで、騎兵になったというのですがいかに当時の人たちの身長が低かったかがわかります。その当時の写真がありますが、騎兵は2等兵でもサーベルを下げ、長靴で、カッコよかったというのが自慢でした。すぐ1等兵になっています。背中に銃をしょっていて落馬した時にはまともに銃が背中に当たり、大変な衝撃があると言っていました。昭和15年には上等兵になっています。そこで、私の母よりの兄と親友となり、その関係を強めるために、日本に帰国後母と結婚しました。昭和18年の2月に私が生まれたのですが、なんと翌月の3月にふたたび、父親は徴兵されました。今度は中シナ(中国中部)の安徽省に行きました。昭和19年には独立歩兵第212大隊の所属でした。そして、昭和21年にようやく日本に帰ってきました。その時の位は兵長でした。二回の徴兵で、7年以上も戦地にいたのです。この記録は薄い紙に履歴書として軍隊で発行したものがあり、そこから詳しい内容がわかりました。

 安徽省周辺では、上等兵ではあリますが、かなりの古参兵であることと、桶や井戸掘りの技術があり、なかなか重宝がられたそうです。直接的な戦闘も少なかったそうです。でも、半分の部隊が南方に行き、そちらに行っていたら死んでいただろうと言っていました。父親は中国人の村に近いトーチカにかなり長い間いたそうです。ちょうど下から高尾山の高さくらいところに、丸い二階建のトーチカだったそうです。トーチカの責任者はふつう、下士官がなるのですが、村人からの評判がよく、本人も進んでその仕事をやるので、上等兵でも責任者でした。村人が、苦力(クーリー)として水や食料を届けに来たリ、洗濯に女性がきたのですが、父はそのトーチカの責任者として、米やいろいろなものを中国の人に与え、喜ばれたそうです。お米はトーチカにじっとしているとおなかがすかず余るそうです。当時の中国の村には、医者がいないので、薬のある、トーチカに薬をもらいに来るそうです。薬を飲んだことのない村人にはとても薬がよくきいたそうです。とくに胃痙攣で苦しがっている女性に、命の保証はできないがいいかということで、モルヒネを与えてみたらいっぺんに症状が治まり、とても感謝されたといっていました。モルヒネは錠剤でトーチカに常備してあります。傷ついたとき医者はいませんから、モルヒネで痛みを抑えるのです。父はモルヒネのことをモヒと言っていました。そのように村人から感謝されいろいろ収入もあったそうです。中国人から接待麻雀を受けるのだそうです。逆に、村民を虐待したり、手伝いに来ている女性を犯したりした兵隊は、村人にひそかに殺されたりしたそうです。

 父親は、まともに相手を狙って弾を打ったこともなく、現地の人にとても優しかったので、いろいろと転売したり収入があり、なんと、軍票で2万円も貯蓄して、それで日本に帰ってきた時に日本円に替えられたので家を買うたしにできたというのです。大したものです。でも、戦争中に日本の飛行機が、飛行場の上空を飛んでいる間は敵機は来ず、降りてくるとすぐに敵機が来て、爆撃し、飛行機がこわされたそうで、これでは日本は負けると思ったそうです。父の親友の私の伯父幸雄は、部隊から離れていたときにゲリラに襲われ、20年の3月に戦死しました。父は中国から戻りましたが、私はなにぶん3歳で生まれてから、父の顔を見ていないものですから、かえってきた父親を父親と思わず、むずがったそうです。

 ふつう戦争の時の話を、兵隊で行った人は話しません。私の家内の父親は、東大の電波関係の学科を首席で出て、戦後電波研究所の副所長までやっていました。戦争に行ったとき、海軍で電波関係で特殊な任務で大尉にまでなっていたそうです。ニューギニアに行っていたそうですが、戦争が激しくなる前に日本に帰されました。ニューギニアからオウムを連れてくるというような、そういう恵まれた地位でも、大事な部下が戦死し、それを悔やみ、戦争は嫌いでした。

大久保の地に戻る

 祖父母と父の妹は、大久保の地に残っていましたが、空襲で焼け野原になってしまいました。祖母はその時の焼夷弾のふってくる中を逃げまどった話をよくしていました。おばあさんの話で、B29がすぐ近くに見えたこと、日本の戦闘機はとてもかなわなかったことを聞きました。

 戦時中私は母親と新潟の母方の実家に疎開していました。母がたの祖父は金子幸作、曽祖父は幸四郎といいます。新潟の北蒲原郡笹岡村です。祖父の出身が新潟、母がたの祖父も新潟です。母がたの先祖には村相撲の大関を張る大きな人がいて、それで私も息子たちも比較的大きいのでしょう。母がたの祖母の実家は渡辺といいます。

 母ヨリの両親は金子幸作(明治27年生まれ)、金子タケで、下町の尾久のほうで大々的に大変儲かる八百屋をやっていて、戦前は大変儲かって、お札を樽の中に入れ上から足で押しつぶすほどもうかったと母は言っていました。大八車を押すのを手伝ってお小遣いをもらうのが楽しみだったそうです。戦災で焼け、唯一の長男幸雄は終戦直前中国で戦死しました。私の父と大変仲良くなり、妹と結婚してくれれば親戚として縁がずっと続くと結婚させたそうです。終戦直前匪賊に襲われ戦死しました。何も残らなかったそうです。

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母がたの祖父母、金子幸作とタケの写真です。八百屋さんの店先です。

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結婚前の母親と6人姉妹です。母は長女でした。

 母の両親は新潟に帰ったままになってしまいました。

 祖父は焼けあとから、トタンや木材を集め、大久保通りで、最初のバラックを建てたと言っています。その後もう少しましな家に建て替えました。平屋の家です。戦後疎開先から帰った私は、その家をよく覚えています。その狭い家に、祖父母、両親、海軍に行っていた叔父(私は海軍ちゃんと言っていました)、おばと小さい妹と8人で住んでいました。さらに住み込みの職人さんまでいたのです。

  続く

大正、昭和、平成時代を生きた父の死(2)

これが新しいアクセスです。つながります。

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