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人間とは何か -人類学

2025年4月12日 (土)

人類は多くの人類と共存した ネアンデルタール人、アカシカ人、デニソワ人、フローレス人、膨湖人、ルソン人 2025年、追記版

 ◎2025年4月12日の毎日新聞朝刊の記事に台湾沖でデニソワ人の骨が見つかりゲノム分析がなされたという記事が載っていましたので、更新して転載しました。

 

 このブログは2010年に初めて書かれてから、次々に追加の文書を加えたものです。文章を2015年に書きくわえて更新しました。2016年6月にも、フローレス人の記事を追加しました。

 

 ネアンデルタール人が、ホモ・サピエンスと同時代に生きていて、アフリカ人以外のホモ・サピエンスと交配しその遺伝子がホモ・サピエンスに組み込まれていることは、注目されています。しかし、ネアンデルタール人以外に、ホモ・サピエンスと共存していた人類がいたことが次々にわかってきました。今後も新しい人類の発見があるかもしれません。

 

ネアンデルタール人

は、20数万年前から28000年前まで生存していました。

 

「ネアンデルタール人は私たちと交配した」スヴァンテ・ペーボ 2015年6月

 

文藝春秋 原著2014年

 

 ホモ・サピエンスがアフリカで誕生してから、いろいろな地域に移住してゆき、いろいろな地域に応じて急速に変化していったのは、共存していた他の人類と交配した、その地に適した遺伝子を取り込んでいったという話は、納得ができます。

 

3万7000年~4万2000年前、現在のルーマニアがある地域に暮らしていたある現生人類の男性に、わずか4代前にネアンデルタール人の祖先がいた。このネアンデルタール人は、男性の高祖父か高祖母になる。

 

 マックスプランク研究所のスヴァンテ・ペーボ氏が「ネイチャー」に発表した。この現生人の遺伝子には6~9%ネアンデルタール人に由来することがわかった。

 

 ネアンデルタール人と現生人は1~2万年ほども接触があり、2つの間の人類に交雑があったと思われる。それは文明の発生から1万年ほどたっていない我々現生人類にとっても極めて長い間接触があったということです。

 

 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの関係は他で詳しく書きますので、ホモ・サピエンスと同時代に生存していた人類として、ここでは、アカシカ人、デニソワ人、フローレス人について書きます。

 

追 記

ナショナル‣ジオグラフィックの6月25日のnewsで、「4代前にネアンデルタール人の親、初期人類で判明-欧州で見つかった約4万年前の人骨の研究から」

3万7000~4万2千年前、現在のルーマニアがある地域に暮らしていたある現生人類の男性に、わずか4世代前にネアンデルタール人の祖先がいた。つまりこのネアンデルタール人は、男性の高祖父か高祖母(祖父母の祖父母)だ。

「ネイチャー」に論文が発表された。発見したのは論文の共著者であるスバンテ・ペーボ氏である。現代人のゲノムの場合、最大で4%で、この骨は6~9%がネアンデルタール人に由来することがわかった。

 

「アカシカ人」の発見

 

2012年3月15日追加 

 中国南部に1万4500年~1万1500年前、未知の人類がいた可能性がある。オーストラリアと中国の研究グループが14日付の米オンライン科学誌『プロスワン』に現生人類と異なる特徴をもつ人類の化石を見つけたと発表しました。(2012年赤旗3月15日の記事)

 

 記事によれば、化石が見つかったのは、中国南部、雲南省にある2つの洞窟で、1979年(1989年3体)に最初の1体の化石が見つかって以来、研究が進められていました。これまでの研究結果からは、現代的な特徴と古代的な特徴を併せ持っていることがわかったといいます。未知の人類は洞窟でアカシカを食べていたことがわかったため、研究グループは「アカシカ人」と名付けました。

 

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アカシカ人(レッド・ディア・ケーブ・ピープル〉口絵はPeter Schoutenによる

 

追記 nappi11さんのブログから

一つの推論として彼らがデニソワ人の可能性がありロシア南部の南部アルタイ山脈のデニソワ洞窟見つかったデニソワ人がアジアにも広く分布していた可能性がある。ネアンデルタール人やデニソワ人が現生人類との共通祖先から分かれたのは80万4000年前、ネアンデルタール人とデニソワ人の祖先は64万年前に分かれたと推定される。

 

 インドネシアや、今回の中国にアジア起源の人類が、ネアンデルタール人や、そのDNAを持つホモ・サピエンスと混血し彼らが南洋や日本にまで来ていたとするのは理解しやすいし、アジア人とのホモ・サピエンスとの骨格の違いも説明がつく、想像は膨らむが、今後の科学的研究成果が待ち遠しい。

http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/3329095.html

 

赤鹿人の想像図が描かれています

★従来、アジアには原人(ホモエレクトス)が分布していましたが、アフリカからやってきた現生人類(ホモ・サピエンス)に入れ替わったと考えられていました。しかし1万年前にフローレス人が、4万年前にはデニソワ人もいたということがわかっています。

 こうしてみますと、20万年前にホモ・サピエンスが生まれて移動を開始したときにもずいぶん多くの他の人類が生存していたことになります。ヨーロッパのネアンデルタール人もホモ・サピエンスと共存し、一部混血した証拠が残っているそうです。1万年前ごろから、現生人類は家畜や、農耕などの文明がおこり、急速に人口が増えましたが、それまでの間に、まだ未知の人類も含め、様々な人類と共存していたことがわかります。しかし、言葉と文明を持ったホモ・サピエンスが、急速に人口を増やす中で、各地にいたホモ・サピエンス以外の人類も急速に絶滅していったように思われます。

 

先日NHKスペシャルで放送された、「HUMAN」でも、6万年前にアフリカを出て、南米の先端までのグレートジャーニーをしたホモ・サピエンスは、先端にフックのついた投げ槍機を発明し、そのことにより離れた距離からでも、獲物をとったり、敵の人類を倒すことができるようになったといいます。これも、ホモ・サピエンスが他の人類を圧倒した理由でもあるのでしょう。

 

★ 「ヒューマン なぜ人は人間になれたのか」 NHKスペシャル取材班

2012年1月22日発行 1600円 角川書店

 

デニソワ人の発見  

 

2010年12月23日追加の文章です

2010年3月25日のイギリスの科学誌「ネイチャー」に、ドイツなどのマックス・プランクの進化人類学研究所などの研究チームが、ロシアのシベリア南部のデニソワ洞窟から約4万年前の人類の指の骨片が見つけ、DNA解析の結果、現生人類であるホモ・サピエンスやネアンデルタール人の共通の祖先から104万年前に枝分かれして進化した人類であると載せられました。そのニュースは、さっそく各新聞で報道されました。この化石は2008年に、4万8000から3万年前の地層の洞窟から発見されたものです。

 

追記 2015年3月21日  

デニソワ人はDNA解析の結果、チベット人が、優れた高地適応能力をもっているのは、ちょうどネアンデルタール人とホモサピエンスとの交雑で、金髪や白い肌、青い目といった寒冷地での条件に適した遺伝子を取り込んだように、交雑によりデニソワ人の高地適応能力を取り込んだと考えられる。取り込んだ遺伝子はホモサピエンスの6%ぐらいではなかろうかといわれている。

 

追記 2015年8月14日

「ネアンデルタール人は私たちと交配した」というスヴァンテ・ペーボ氏の著作には、第22章に「デニソワ人」を発見するという章と、第23章の「30年の苦闘は報われた」は主に、デニソワ人について、書かれています。

 

 22章の冒頭、2008年に発見され、2009年、デニソワ洞窟から小さな骨が届いた。さして重要と思わなかったが、一応DNAを調べると、なんと未知の絶滅した人類だったのだ。と書かれています。これは小指の本の小さい骨片です。調べてみると、ホモ、エレクトスより後ネアンデルタール人の祖先より前にアフリカを離れた一員だったのだ。

 

 そして、デニソワ人の臼歯も発見されました。これらのDNAの解析の結果,第一に、デニソワ人の核ゲノムは、現生人類のゲノムよりネアンデルタール人のゲノムとより密接な関係があること、アジアにいたより古代型のホミニンがこれらデニソワの個体のmtDNAに寄与したという筋書きだ。第2の発見は、デニソワ人は、ゲノムをネアンデルタール人と比較した現代人5人の中で特にパプア人とより多くのSNPを共有していたのだ。

 

 デニソワ人の指の骨の持ち主は5~7歳の少女だと結論付けられた。又調査の結果デニソワの少女とデニソワ人は現生人類とよりも、互いに密接につながっていたということもわかりました。(41,000年前の化石と判明)

 

 またデニソワ人はパプアニューギニアの人たち(メラネシア)により近いということもわかった。デニソワ人のDNAから、アフリカ人以外の人々の約、2、5%はネアンデルタール人由来で、パプア人はそれに加えてゲノムの約、4,8%をデニソワ人から寄与されたと推定しました。また中国南部の住人の遺伝子構造のやく1%が、デニソワ人由来ということも、スエーデンのウプサラ大学の研究チームから出されている。従ってパプア人のおよそ7%をデニソワ人とネアンデルタール人からもらったことになる。p339.そして、これは、ネアンデルタール人デニソワ人も完全には、絶滅していないことを意味する。

 

以下、ウイキペディアより

 デニソワ洞窟はネアンデルタール人の化石発見地のうち、もっとも近いイラクのシャニダール遺跡から、4000㎞の距離がある。(ロシア、アルタイ地方でロシア、中国、モンゴルの国境に近い地域)

 

 40-30万年前にアフリカを出、中東を経てヨーロッパに拡がった集団がネアンデルタール人になり、中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人になった。それに送れて6-5万年前にアフリカを出た我々現生人類の祖先は、中東やアジアの内陸部でネアンデルタール人やデニソワ人と交雑しながら全世界に広がり、現在に至った。

 ジョージワシントン大学の古人類学者のブライアン・リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった大人の臼歯から、デニソワ人の体格はネアンデルタール人と同じか、それよりも大きいと見ている。

 

 アジア内陸部でデニソワ人と交雑した現生人類祖先は、そののち長い期間をかけてメラネシアなどに南下していったと考えられる。また中国方面に移住したグループは漢民族となり、高地に移住したグループはチベット人になったともされる。

 

2025年4月12日 追記 毎日新聞 4月12日〈土)朝刊 21面

謎の人類デニソワ人 台湾で発見 アジア南部まで分布

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デニソワ人の想像図  孫 氏作成

 台湾沖の海底で見つかった19万年前~1万年前の人類の下顎化石は,たんぱく質の解析により「謎の人類」とされる絶滅した旧人「デニソワ人」男性と分かったと、総合研究大学院大や東京大学の国際研究チームが10日付の米科学誌のサイエンスに発表した。総研大の鶯谷匠助教(自然人類学)は「温暖な台湾で見つかったことでアジア南部まで広範囲に分布していたことが、裏付けられた」としている。

 これまでデニソワ人の化石が発見されたのは、シベリアと中国・チベット高原のみで、姿や詳しい分布域はよくわかっていない。頑丈な顎や大きな臼歯があり現生人類のホモ・サピエンスや4万年前に絶滅したネアンデルタール人とは異なる特徴があるという。

 これまでのゲノム〈全遺伝情報〉研究から、ホモ・サピエンスがデニソワ人やネアンデルタール人と交雑した可能性が高いことが判明。現代の日本人のゲノムにもわずかにデニソワ人との交雑の痕跡が残っていることがわかってきた。化石は、過去に陸地だったとみられる台湾の膨湖諸島近くの海底で発見された。

 

フローレス人

2011年12月24日追加 NHKBSプレミアム「人類進化はるかな旅」

 

 すでに、2004年(2003年とも)には、インドネシアのフローレス島(コモドオオトカゲで有名なコモド島の東隣の小さな島)で、身長1m程度で、頭の大きさもホモ・サピエンスの3分の1程度(猿人なみの脳容積400ml)の人類が、約10万年前に発生し、1万8000年前まで存在し、その後1万3千年前火山噴火で絶滅するまで、ホモ・サピエンスと共存していたと発表されています。彼らはインドネシアに存在していた、ジャワ原人の子孫とも思われます。小さい島にいると全体に身体が小型化して適応する傾向がみられ、他の動物たちも全体に小型化しています。脳がきわめて小さいにも関わらず、一緒に出てきた石器などを見るとかなり高度な文化を持っていたとみられます。当時フローレス島に住んでいた、小型の象であるステゴドンや大型で獰猛なコモド大トカゲなども食料にしていました。

 

現代人との大きさの比較。極めて小さいということが分かります。

 

 現生人類では、現在ホモ・サピエンスのみが生存しておりますが、今から4万年前には、旧人と呼ばれる、ネアンデルタール人、今度発見されたデニソワ人、そしてフローレス人が共存していたということになります。他にもおそらくまだ発見されていない、未知の人類がいたと思われます。ネアンデルタール人はおよそ3万年前に絶滅しましたが、フローレス人はその後も生き残っていたとは驚きです。

 

身長は極めて低く、1メートルくらいしかありません。

 

 従来は、人類の祖先は、アフリカにいた初期ホモ属から、170万~70万年前に、アフリカ人、アジア人の元の北京原人、オーストラリア先住民のもととなるジャワ原人、ヨーロッパではネアンデルタール人から、クロマニヨン人へと進化していったという、いわゆる他地域起源説が有力でした。この説はヨーロッパ人が早くから、ほかの人類より優秀であるという根拠にも使われました。

 

フローレス原人についての追加記事 2013年4月19日

 

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 2013年4月19日のしんぶん赤旗にフローレス人についての記事が掲載されました。興味深い記事なので、転載いたします。

 

 小柄な「フローレス原人」祖先はジャワ原人か

 

 インドネシア・フローレス島で2003年に化石が発見された小柄な「フローレス原人」は、初期のジャワ原人が孤島に渡って身体が小さくなった可能性が高いと、東京大学と国立科学博物館の研究グループが17日、科学誌『英王立協会紀要』電子版に発表しました。もうの大きさを精密に測定して分かりました。

 

 フローレス原人は7万4000年~1万7000年前に、同等に生息していたことが判明。食料が少ない熱帯雨林の島で「島しょ化」とよばれる現象が起き、身長が約1メートルまで小さくなったと考えられていますが、祖先は謎とされていました。

東アジアと東南アジアには以前からジャワ原人や北京原人など、アフリカから進出してきた大柄で進歩した原人「ホモ・エレクトス」がいました。

 

 東大の久保大輔特任研究員や同博物館の河野礼子研究主幹らは約2万年前のフローレス原人の成人女性頭骨化石について、X線コンピューター断層撮影(CT)で内部を精密に測定し、模型を作製。壊れた部分を粘土で修復しました。その結果、頭骨う内部の脳容積量は426CCと、従来推定の約400CCより大きいことがわかりました。

 研究グループは初期ジャワ原人の脳容量・860CC程度で、差が縮まったことなどから、初期ジャワ原人が祖先の可能性が高くなったと見ています。

 

参考 フローレス島とは

 インドネシア連邦の島の一つです。小スンダ列島の中にあり、細長い島です。面積は、13,540km2で、日本の四国を小さくしたほどの大きさです。島の中には9つの県があります。西隣に小さなコモド島があり、コモドオオトカゲが有名ですが、そこへの中継地点ともなっています。あまり観光化されてはいませんが、この島のリアンブア洞窟でフローレス人が発見され有名となりました。 

 

2016年6月9日追記、「マタ・メンゲ原人」はフローレス原人?

 

 6月9日の新聞、テレビなどの報道機関で、国立科学博物館の海部陽介・人類史研究グループ長たちの国際研究グループはインドネシアのフローレス島に少なくとも70万年前前に小型の、小型の原人が住んでいたことを突き止め、8日付(9日?)の科学誌『ネイチャー』に発表しました。(新聞各紙の総合)

フローレス原人(ホモ・フロレシエンシス)の化石は見つかったフローレス島西部の、リャン・プア洞窟で2003年に発見されました。洞窟から75キロほど離れた島の中部のソア盆地では100万~70万年前の石器が見つかっていますが、人骨は見つかっていませんでした。オーストラリアとインドネシアの研究者たちは14年前に、盆地内のマタ・メンゲで、人類の右下顎骨1個と歯6本を発見し、海部さんに形態学的分析を依頼していました。

 大きさはフローレス原人と同程度かやや、下顎骨はジャワ原人やフローレス原人のものと似ており下顎大臼歯は全体的に初期のジャワ原人のものに似ていました。地層は70万年前ごろと決定されました。

海部さんは「マタ・メンゲの原人」はフローレス原人の直接の祖先であった可能性が極めて高い。分類学的にもフローレス原人といってよいと思うが、結論付けるには頭骨化石の発見が必要だ」と説明しています。

初期のジャワ原人がフローレス島にわたり島しょかと呼ばれる現象で小型化したという説が有力です。

フローレス島は、初期のジャワ原人が住んでいたとみられるほかの大陸や島と陸続きになったことがなく、初期のジャワ原人がどうやってフローレス島にやって来たかわかっていません。

海部さんは「70万年前からフローレス原人のような小型の人類がいたことに驚いている。100万年前にいたのはどんな人類だったのか見てみたい」と今後の発掘に期待しています。

 

ミトコンドリアのDNA(デオキシボリボ核酸)で起源を探る

細胞の中にある、細胞内でエネルギーを発生させる重要な小器官である、ミトコンドリアは母方からしか受け継がれない性質があります。ミトコンドリアは一定の年数で、突然変異していくという傾向があります。そこでミトコンドリアのDNAの塩基配列を調べると、どの系統とどの系統が近いか、どのくらい前に分岐していったかの系統がわかるようになっています。その祖先をさかのぼっていくと約16万年(14~29万年)前に、アダムとイヴにちなんでミトコンドリア・イヴということを考えたのです。(イヴ仮説)ただし、一人の女性というわけではありません。そこで、現生人類である、ホモ・サピエンスはアフリカ大地溝帯に生まれた人類が世界中に広がったという、単一人類起源説が今では有力になっています。                  また、全身骨格が発見されなくともDNAさえ採取されれば、デニソワ人のように指の骨だけで、系統と位置づけを知ることができるようになるのです。

 

アフリカ単一起源説と人類の拡散

16から20万年くらい前に、生まれたホモ・サピエンスは、同時代にいた、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシスただしネアンデルタール人もホモ・ピエンスに加える考え方もあります)と共存していたということはすでに述べました。ネアンデルタール人は、脳容積は現生人類より大きく、埋葬等の宗教的なものの芽生えなどがあり、以前考えられたほどのちがいはなく、現生人類とほとんど変わらない外見でした。しかし大きな違いは、言葉の発声に必要な顎(おとがい)が発達しておらず、言語をとうした文化の差の違いで、次第に競争に負け、ついには絶滅してしまいました。ホモ・サピエンスは10万年前にアフリカを出て、世界中に広がっていきました。15000年前には氷結したベーリング海を渡りアメリカ大陸に到達し、南下をつづけて、12000年前には南米の先端にまで到達しました。現在は、それぞれの地域に適応した人種の違いがあり、一見大きな変異があるように見えますが、ホモ・サピエンスの中での変異はきわめて小さいものです。人種で、優劣をうんぬんする考え方は完全に破たんしました。

 

2010年12月23日追加  

23日付の新聞に、今年の3月に発表された、「デニソワ人」が骨から細胞内器官である、ミトコンドリアのDNAを調べた結果、ネアンデルタール人の姉妹種であるということが分かったと、科学誌『ネイチャー』に発表されたと載せられました。デニソワ人はこの地域にいた現生人類(ホモ・サピエンス)とも、ネアンデルタール人とも違う人類であったというのです。そしてデニソワ人は64万年前に、ネアンデルタール人と分離したということが分かったといいます。ニューギニアなどメラネシアの人々とわずかながら共通した部分(5%)があり、現生人類とデニソワ人が混血し、その人たちがメラネシアに移動したのではないかと言っています。なお、同じ地層から見つかった上顎の臼歯はデニソワ人と確認されたが、小指の骨は別人であると分かったということです。  すでに他のネアンデルタール人とも、ホモサピエンスと混血したといわれていますので。混血することができるということはホモサピエンスと、ネアンデルタール人や、デニソワ人との差異がきわめて小さいということができます。混血し子どもがうまれ、さらに子孫を残していくとすれば、生物学的に言って、同じ種であるということになるのではないでしょうか。

 

追 記

2018年8月16日、「こういちの人間学ブログ」 ・

「デニソワ洞窟で、母ネアンデルタール人、父デニソワ人の人骨発見」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/08/post-6ef4.html

追 記  2019年4月18日

☆アジアで第4の原人として台湾の膨湖人、さらに第5の原人としてフィリピンでルソン人(5万~7万年前)が発見されています。

アジアでは第一の原人としてジャワ原人、二番目が北京原人,三番目がフローレス原人です。

 

2025年2月 8日 (土)

「こういちの人間学ブログ」 修正版 ブログ第1号を2025年に 追記して更新しました。

[こういちの人間学ブログ]と人間学研から人間学懇話会への略史 

 (追記 2019年訂正版 

  2025年2月 再度修正版 設立から 60年が経過しました)

 

 私は、学生時代から人間学を研究し、もう60年になりました。(2011年では46年です.さらに2021年では56年になります 2025年 60年)会社経営をしながら、研究をつづけ、人間学研究所などもつくり、すでに20年(同じく22年)になります。66歳になり(68歳-82歳)、仕事も辞め、人間学に専念しています。人間学といってもいろいろあります。大学の講座から、単なる人生論まで。私の場合は、実用的人間学というのを提唱していまして、要は人間に関する知識を、どう実際によりよく生きるために使うか、ということに興味を持っています。

以前は、月に二回ほど、新大久保にある、研究所で、二つの研究会をやっていました。

2024年に「人間」って何ですか、という本を出してから1年が経過しました。

ひとつは、研究者中心の教育人間学部会。ひとつは私のやっている、実用的人間学研究会です。実用的人間学研究会は30名ほどの会員がいて、10名ほどがいつも参加しています。7月には「血液型人間学」について、6月は「後漢初期の建武、永平の治」とはでした。(ちなみに2011年10月実用的人間学研究会例会は第37回で、「日本人のルーツと顔のいろいろ」というお話を私(佐竹幸一)がお話しします)

◎2019年8月3日(土)追記

「こういちの人間学ブログ」(以前は「面白」という言葉を入れていましたが、今は抜いております)も、書き始めて、ちょうど10年になります。冒頭の文章で、人間学の研究を始め44年になりましたと書きましたが、、その後ちょうど10年が経過し54年、また人間学研究所を作ってから30年になります。ブログ筆者の年齢も76歳になりました。

◎2024年4月より

 人間学研究所並びに実用的人間学研究会は人間学懇話会となりました。

 

◎2022年7月  

  佐竹年齢 79歳から  2025年2月 82歳

  人間学研究所 教育人間学部会 会員会員数27名

       実用的人間学研究会会員数14名 (一部重複有)

   前所長、柴田義松氏はお亡くなりになり、次の所長の岩田好宏氏は退所。

   他にも亡くなられたり、高齢のために退会されたため,メンバーは大幅に減少しました。

   以前は月2回の例会でしたが、現在は月に1回です。

人間学懇話会 会員数 25名 例会 2月に1度開催

 

以前の記事

私は人間すべてについて、広く浅く勉強しています。また、後漢初期を書いた、膨大な小説『人相食む』を書いていますが、なかなか完成しません。また特に、わたしが興味を持っているのが、占いや超能力について、宗教問題、あとは、人相手相などについてはは、相当本格的に批判的に検討しています。いろいろな悩みがあっても、今簡単に相談できるところはありません。それで、占いや、新興宗教などに、ひかれることが多いのですが。私は、人間学全体を学んだ、「人間に関するゼネラリスト」がたくさんいて、気軽に相談に乗れるようになればいいのだけれどと思っています。これからいろいろ書いていきますので、ぜひ感想をお願いいたします。

 

人間学研究会~の歴史 

 1,「人間学」分科会 

        1963年12月 佐竹幸一、関東生物科懇談会〈生懇〉の部会に、

       『人間学』分科会を作る。

   当時、ブログ筆者 佐竹幸一 東京教育大学 

        生物学科動物学専攻2年生、4年生の時 生懇の代表となる。

   哺乳類学者の小原秀雄氏とお会いして、人間学の必要性

        を話し合う。 

 2、第1次人間学研究会

   1965年4月16日 人間学研究会始まる。小原秀雄氏会長 

         佐竹幸一 事務局長 例会月2回 人間学ニュース発行

   1967年5月 解散 一部で作った人間論研究会は1970年9月まで

 3、第2次人間学研究会

   1965年 女子栄養大学に人間学研究室ができる。

          柴田義松、小原秀雄氏、岩城正夫氏

   群羊社 で『人間学シリーズ」出版

   1985年 人間学研究会 上記3氏と佐竹 その後解散

 4,第3次人間学研究会

   1991年4月 第2サタケビル2階に 人間学研究所準備室できる 

           第3次人間学研究会

   会長 小原秀雄氏、副会長 柴田義松、佐竹幸一 

          事務局長 岩城正夫氏

   1993年4月 実用的人間学研究会できる 佐竹提唱

   1993年10月 人間学研究会を人間サロンに 岩城氏提唱

   1996年 両会合併 実用的人間学研究会

   1998年6月 人間学研究会と実用的人間学研究会に戻す

5,人間学研究所設立

   1999年4月1日 所長 柴田義松 名誉所長 小原秀雄 

           副所長 岩田好宏 事務局長 佐竹幸一

   所員 14名 所友 60名 54名

   例会 教育的人間学部会 実用的人間学部会 各月1回

        2000年12月 「人間学研究所年誌」第1号

   2002年 「総合人間学会準備室」~「総合人間学研究会」

   2006年5月 「総合人間学会」できる

 

   2021年10月 『人間学研究所通信91号』最終号

   2022年3月10日 『人間学研究所年誌2021』最終巻

   2022年 新コロナで活動停止

   2023年7月25日 人間学研究所 第167回例会 最終回

6,人間学懇話会設立

   2024年4月 第1回懇話会

       2025年2月 第5回懇話会例会    

 

人間学研究所  169-0073  2022年7月現在

    東京都新宿区百人町1-3-17 佐竹ビル 3階 

     現在は場所を変更しております 

    新宿区百人町3ー1-5 西戸山タワーホームズノースタワー。

 

    所長 旧 柴田義松 東京大学名誉教授  教育学 (柴田氏逝去により)

       旧 岩田好宏 子どもと自然学会顧問 教育学 生物学

       新 森岡修一  大妻女子大 名誉教授 教育学

    副所長  里見 脩

    名誉所長 小原秀雄 女子栄養大学栄誉教授 動物学 逝去

         岩田好宏

    専務理事事務局長 佐竹幸一

    実用的人間学研究会会長  佐竹幸一

         副会長     杉山靖夫

    

 人間学懇話会  2024年4月より

     世話人

         佐竹幸一  森岡修一  里見 脩  杉山靖夫  

    

    ◎メールアドレス お問い合わせは下記メールまで

       pcr92240@nifty.com 

 

  著作物

  「人間学研究所年誌」

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    人間学研究所年誌 2000号(創刊1号)

                2000年12月1日

    人間学研究所年誌 2017号(通巻15号発行) 

                2019年3月

    人間学研究所年誌 2021号(通巻19号発行)

                   最終号

  「人間学研究所通信」

            Kimg3621-1_20250208143401

    

    人間学研究所通信(Humanology ) NO 1号   1999年6月

    人間学研究所通信 NO84号  2019年6月

    人間学研究所通信 NO91号  2021年10月7日号 

                    最終号

        

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    『人間』って何ですか 工作舎  2024年1月20日 発行 

                       2600円+税

      編著 佐竹幸一  森岡修一  里見 脩  杉山靖夫

                 著者 岩城正夫  高橋喜代治  西田隆男  白村直也 

         松本 孚  野本雅夫  木村廣子 上杉徳治郎

         壇上 新 

 

    ★ お問い合わせは 佐竹まで 090-6549-2677

 

 

2023年12月13日 (水)

NHK [フロンティア] 日本人とは何者なのか 新しい見方

 1)旧石器時代

 タイの山中に30人ぐらいの集団で、森の民 マニ族が現在も狩猟採集の生活をしている。

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国立科学博物館館長の篠田謙一氏が彼らの集落を訪問する。彼らは狩猟採集の生活をしている。吹き矢で鳥を取ったり、山芋を掘ったり。様々なものを採集。

(参考書) 

『人類の起源 古代DNAが語る ホモ・サピエンスの「大いなる旅」』篠田謙一 中公新書 2022年2月 960円+税

『新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』 篠田謙一 NHKブックス 2019年3月 1300円+税

  

謎の起源 マニ族のDNAと縄文人のDNAとは、よく似ていて、日本人の祖先の大本ではないかと思われる。

ホモビニアン文化 日本人が最初にたどり着いた、4~5万年前から 彼らの一部が東南アジアを去り北上していった。

  日本に至り縄文人になったのでは

 

2)縄文時代-今も残る縄文DNA

 そしてフロンティア精神の大きい人達が、3万年まえに日本にたどりついた。(旧石器時代)

16000年前に土器がつくられた縄文時代は、彼らが縄文人となっていった時代である。

最初に日本に来た来た縄文人は1000人ぐらいではないかといわれている。金沢大学 角張氏

縄文人は他のアジア人と遺伝子的にかなり離れている

 DNAの近縁性で比較してみると、他のアジア人は1連の系列に並ぶ。

 赤の縄文人はほかのアジア人とかけ離れている。アジア人と縄文人の中間の薄茶の現代日本人。

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徳之島のウンブキ洞窟 

9000年前は氷期 今は水中洞窟だが、縄文時代初期は気温が低く、海水面が低かった。

洞窟に縄文人が住み、縄文土器が残る。

下図のように、大陸と日本も陸続きか距離が短く日本へ移動しやすかった。その後温暖化で海水面が上昇し、大陸と日本の距離が離れる。

 (氷河期にはマンモスやナウマンゾウが日本に渡ってきた。)

 約2万年前の大陸と日本の位置関係(下図)

 

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三内丸山遺跡(青森県)

独自の縄文文化 大きな建築物 火焔式土器 様々な土偶 など

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礼文島 寺泊遺跡(北海道)

当時は現在より礼文島は暖かかった。礼文島での人骨。下図の顔の復元は、この人骨から。

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縄文人の位置づけ 赤色

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 骨格とDNAにより縄文人の女性の顔の復元 1998年 2019年

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釣り針、石斧、貝のアクセサリー、貴重なヒスイのアクセサリー 遠距離との交易のしるし

糸魚川周辺からの交易によるヒスイ

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現代人に残る縄文のDNA(上図)

 東京、1割、沖縄、3割、アイヌ 7割

 

3、激動の時代(弥生時代)

(弥生時代は日本に農耕社会が成立する紀元前5世紀ころから始まる。

中国から水稲栽培、金属器、機織り技術などが日本に伝わる。

 紀元前5世紀から3世紀にかけては中国は戦国時代。戦いに敗れた各地の人々が日本へ逃れてきた。-色々な中国各地の人々のDNAを持った人々が日本に流入してきた。以後も中国の戦乱の旅に日本に逃れてきた。)

青谷上地遺跡  鉄製の武器 人骨が戦争で武器で傷つけられた跡

縄文、弥生のほかに第3のDNAがはいってきている

 

金沢 古墳時代の墓 3世紀から7世紀

第3のDNA 二重構造説の限界 3重構造モデルが必要

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アジアで動乱が続くーアジア各地方の大量の渡来人が日本に移住してきた。

下図

はじめ黄色の北東アジア系の人たち (ツングース系など)が渡来 ( 細面のお雛様方 百済、新羅、高句麗など)

  青色の中国各地方(東アジア)の人たちが渡来 戦乱を逃れ、次々に日本へ逃れてきた、

 

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日本人のルーツいろいろなところから

 モンゴル、北京、南中国、タイ、雲南省などの他の少数民族、ベトナム(キン族)など

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緑は漢、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済。 その後~五胡十六国の動乱など

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◎中国では動乱が続いた。中国の戦国時代、3世紀の魏 呉 蜀の三国時代、4世紀末 五胡の華北侵入,匈奴、6世紀 突くつの侵入

8世紀末唐代の~安史の乱、黄巣の乱  宋から元への争乱~

その騒乱のたびに日本へ逃げてきた人々 

言葉が通じない人々がたくさんいたであろう その状態は 中世ぐらいまで続く

従来の考え方

 縄文人と弥生人の二重構造説

 ところが現代の日本人のDNAを調べると、それ以外の遺伝子を持った日本人が多くを占める   水色部分

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    縄文人、赤  弥生人・黄色 古墳時代・多くのアジア人・青

    右端は現代日本人

 

◎日本人は多くのアジア人の吹だまり 他の本から、人相(顔相)

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上 坂本宇一郎 顏相と日本人 5つの顔 基本型

1、モンゴル型 2、北方ツングース型 3、中国江南型 4、海洋民族型 5、北方原住民型

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  「めんたんぴん」 による分類法

モンゴリアン(蒙古系・丸顔)  ミカドニアン(韓国系・細面キツネ顔)  ドラグーン(中国の仙人 山東省の人)  

ヤマタイ(日本人に多いタヌキ顔・南方系)  トロピカル(南方系)  オリジン(アイヌ系・縄文系)   

ミックス(モザイク)  ミックス(ブレンド)

◎こうしてみても、日本人がいかに多くの人々から成り立っているかがわかる。

2023年1月29日 (日)

「人(ヒト)は食べられて進化した」などというという本がいろいろあります。(14冊以上)

1,「ヒトは食べられて進化した」    ”Man the Hunted"

       ドナ・ハート、ロバートとW・サスマン 伊東伸子訳 2007年7月1日

  2010年第6刷  2200円+税   化学同人  356p

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トラ、ライオン、ヒョウ、ピューマ、クマ、オオカミ、ハイエナ、ヘビ,ワニ,ワシ

・・・人類の祖先は数々の肉食動物に捕食されていた脆弱な生き物だった。

多くの人が持ち続ける「人類=狩猟者」のイメージを徹底的に打ち破り、新たな

初期人類像を描き出す。

 

1960年代から70年にかけて南アフリカの遺物群を、ボブ・ブレインが調査し

化石の散らばり具合から、殺人者たるヒト科が寝床で行った殺傷行為の結果ではなく

~化石人骨は捕食者や歯肉あさりが食べ残した残骸だと云う事が明らかになった。

そして、若いアウストラロピテクスの頭骨片に空いた1対の穴が化石ヒョウの歯と完全に

一致することを、ブレインは見事に立証した。

p333 化石ヒョウの牙が化石人類の頭骨にぴったり合う、という写真。

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◎末尾の解説で元京都大学総長の山極寿一が、次のように書いています。

1968年に書かれた、”Man the Hunter”(人間―狩りをする者)1968年刊行

この本の人間観を全くひっくり返すものである。(人間―狩られるもの)として

ゴリラの家族でも、強力なオスがいないときには、樹上に寝床を作る

地上にはヒョウや、ワニや、ヘビが居てゴリラを襲うのである。

 

2、「人類は噛んで進化した」”Evolution ’S Bite”

   ”A Story of Teeth,Diet and Human Origins”

   歯と食性の謎をめぐる古人類学の発見

        ピーター・S・アンガー        河合信和訳   2019年9月2日

   3000円+税   原書房   367p

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更新世の始まりに起こった環境の変化。狩猟が、採集が、われわれを人間にした。

食料を集めてそれを処理する新しい道具が、われわれを人間にした。

又、料理がわれわれを、人間にしたかもしれない。

第6章 ヒトを人間にしたもの

アフリカのハッザ族はアフリカ最後の食糧採集民である。何がわれわれを人間にしたのか。

オルドヴァイ峡谷での、ホモ・ハビリスの発見。男は狩猟を。

人間の脳は多くのエネルギーを消費する。

おばあちゃんと根茎ほり 調理がヒトを人間にした。調理した食物の分配。社会的な絆を結ぶ。

食物の変化。小さな大臼歯とあご。脳の巨大化と腸の軽減。次に起きた新石器革命。

  ーヒトを人間にした一部のもの。

7章 新石器革命

 

8章 自らの成功の犠牲者

   本当に問題なのは、砂糖、すなわち卓上に置かれたグラニュー糖である。砂糖は歯を損なう

  齲歯を引き起こす細菌を助け、最近がコロニーをつくり、累積し、乳酸を産生するのを

  容易にするのだ。~狩猟採集民は大臼歯を12本持っているが、アメリカの典型的な歯科

  患者は8本しか持っていない。

  (ブログ筆者は大臼歯を11本もっています。)

3、「人は海辺で進化した」

   エレイン・モーガン                             

   1588円   どうぶつ社

        1998年3月11日  料理で~

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4,『人は感情によって進化した」

   石川幹人 進化心理学

   ディスカバー・トュエンティーワン出版

    ディスカバー携書

        1100円  2011年6月

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5、「ヒトはなぜ人間に進化した」

    12の仮説とその変遷

    〈ナレディ発見にあたり考えた)

   National Geographic

        2015年9月

 

6,「文化がヒトを進化させた」

   ジョセフ、ヘンリック

   2019年7月

   白揚社   3960円 

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7、「人は宗教を信じるように進化した」

   河田 雅経 東北大

   2021年12月

   インターネット記事

 

8.「人間はなぜ歌うのか」

   人間はなぜ歌うのか 歌の起源

   ジョーゼフ・ジョルダーニア

    アルク出版

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9.「ミラーリングの心理学 人は模倣して進化する」

   フィオナ・マーディン

   原書房  2021年8月

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10、「ヒトは家畜化して進化した」

  -私たちなぜ、寛容で、残酷な生き物になったのか 

   ブライアン・ヘア、  ヴィネッサ・ウッズ

   藤原多加夫訳

   白揚社 3300円 2022年6月3日

   

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◎本を読んでいませんが、英文の原題は、”友人関係(親友、友達)を強めて、生存競争にうち勝った”

というようなと思いますが、『人は家畜化して進化した』という日本語の題は何か、合わないように

感じられるのですが・・・。

 

11,ヒューマン なぜ人は人間になれたのか

   NHKスペシャル取材班

   880円

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12, 火の賜物 ヒトは料理で進化した

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  リチャード・ランガム 依田卓己訳

 

 13,この6つのおかげでヒトは進化した

    -つま先、親指、のど、笑い、涙、キス

  チップ・ウオルター

  2007年8月24日  2200円

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14、ヒトは病気とともに進化した

  太田博樹 長谷川真理子

  2013年12月20日  2970円

 

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15,人類は肉食で進化した

     福田一典

     NTT出版  2010年3月  4329円

 

近い本  ヒトは~

1,

 

2、ヒトはなぜ子育てが下手か

  戸川幸夫

3、ヒトはなぜ争うのか

  若原正巳

4,ヒトはなぜ助平になったか

 

5,ヒトはなぜ眠くなるのか

 

6,ヒトはどうして人間になったか

  R, リーキー、R,レヴィン

7、ヒトは狩人だった。

  福島章

8、ヒトはいつ人になるのか

  村松 聡

  日本評論社

2022年10月 4日 (火)

ペーボ博士  ネアンデルタール人のゲノム解析で ペーボ ノーベル医学・生理学賞

スエ―デン人でドイツのマックス・プランク研究所の,スヴァンテ・ペーボ博士が、ノーベル医学・生理学賞を受賞しました。

とっている新聞の扱いでは、赤旗が社会面トップに大きく掲載していました。日経新聞は小さくですが1面に記事が載っています、また社会面にかなりはのスペースで記事を書いています。毎日新聞は6面に少し記事が載っていました。

スヴァンテ・ペーボは日本には「ネアンデルタール人は私たちと交配した」という本が訳されてから有名になりました。原本は2014年に出版された”NEANDERTHAL  MAN~”です。日本では2015年6月30日、野中香方子訳 文藝春秋刊です。

ぺーボ氏のお父さんもノーベル賞受賞者です。

 また沖縄科学技術大学院大学の非常勤教授でもあります

赤旗

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日経新聞

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日経新聞

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毎日新聞

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2015年8月23日発売 スヴァンテ・ペーボ 文藝春秋 1750円+税 訳 野中香方子

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2015年8月 「こういちの人間学ブログ

 に関連したブログをたくさん書きました。

「ネアンデルタール人は私たちと交配した スヴァンテ・ペーボ」

  2015年8月23日

「ネアンデルタール人について 図像の変化」

  2015年8月10日   図像多数

「人類は多くの人類と共存した ネアンデルタール人 デニソワ人 赤鹿人」

  2015年8月17日

ネアンデルタール人の首飾り  岩城正夫監修 2008年  新評論

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2022年2月 6日 (日)

150万年前の原人化石 アフリカから移動の波多数 今度見つかった原人のほかに原人がいくつか

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/01/post-4422.html

参考 「アフリカ外最古の現生人類がイスラエルで発見~」詳しくは文末で

 

2020年2月6日の赤旗の12面の記事に「150万年前の原人化石」という記事がありました。

その内容を紹介いたします。

ゥぺイディア遺跡とその周辺の景観

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さまざまな角度から撮影した150万年前の原人の腰椎

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記事

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文章は下記で

イスラエル

150万年前原人の化石がイスラエルで見つかったと、同国などの国際研究グループが科学誌『サイエンティフィック・リポーツ』〈2日付)に発表しました。アフリカで誕生した原人がどのようにアフリカからユーラシアへと広がったかを考えるうえで重要だとしています。

 化石が見つかったのはイスラエル北部のウぺイディア遺跡。1960年から発掘が始まったこの遺跡からは、これまでに百数十万年前の石器や動物などの骨などの化石が多数見つかっています。イスラエルのバル・イラン大学などの国際研究グループは、これまでの発掘調査で出土した化石の中から約150万年前の原人の腰椎を発見しました。

 腰椎は6~12歳の子どものものとみられ、その大きさから身長は155センチ、体重は45から50キログラムと推定されました。大人になれば180センチメートル以上に成長したと考えられることがわかりました。

 東アフリカ・ケニアでは150~160万年前頃生きていた7~11歳で身長が約160cmの子どもの骨の化石が見つかっており、こちらも大人になれば180センチメートル以上になったと推定されます。研究グループはウベイディア遺跡で見つかった原人は、ケニアなどで見つかっている大型の原人が150万年前ごろアフリカを出てユーラシアに広がったことを示すとみています。

 一方、イスラエルより北に位置するコーカサス地方ジョージアのドマニシ遺跡では180万年前ごろのおとなの身長が140~160センチの原人の骨の化石が見つかっています。

 研究グループは今回の発見について、アフリカからユーラシアへの原人の移動の波が複数あったことを示すものだとしています。

 

こういちの人間学ブログ  2018年1月28日 文頭で

 「アフリカ外、最古現生人類がイスラエルで発見。ネアンデルタール人と重なる期間が長く」

  

2021年9月24日 (金)

現代日本人のルーツ大陸からの3起源に 金沢大グループ発表 古墳人(東アジアからの渡来人)が多数を占める 他の説についても

従来は縄文人に弥生時代、弥生人が到来し混血して、日本人になったといわれてきたが,金沢大学を中心とするグループの研究により、日本人のルーツは縄文人、弥生人のほか、大陸から到来した古墳人も含めた3つのルーツがあると、発表されました。

金沢大学の覚張隆史助教(考古分子生物学)らは2021年9月17日付の「サイエンス、アドバンシズ」に論文を発表しました。

これに関する記事は各新聞、テレビ等で報道されました。

 

読売新聞オンライン 「日本人の遺伝情報の変化」9月18日

 従来の、縄文時代人、弥生時代人の混血で日本人が成立したのではなく、古墳時代人も含めた3つのルーツで成り立っていると報告した。

 古墳時代に東アジア系の人々が大量に入り日本人では最大のグループをなすという学説。

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縄文人は南方由来の人々で、高床式住宅、鯨面(入れ墨)をした人々。当時の日本は温暖で青森の三内丸山古墳や礼文島の遺跡があるように日本の北方まで住んでいました。関東地方では海が関東の奥深く入り込んでいました(縄文海進)。人は当時、倭人と呼ばれ倭人は中国南部や、韓国にも住んでいました。朝鮮南部の人たちはやはり倭人と呼ばれていたのです。

弥生人は世界全体が寒冷化し中国北方(北東アジア)に住んでいたツングース系の人々(寒冷地適応をした満州族、女真族系の人たち)は南下していった。朝鮮では扶余国から高句麗が生じそこからさらに百済が生じた。南方の加羅(伽耶)国と日本の倭の国ぐには極めてルーツが近かった。当時の日本・弥生時代には小さな集落が分立していた。

◎弥生人には縄文系弥生人と弥生系弥生人とが存在した.弥生時代には東アジア人はいなかったのでしょうか。

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従来の学説

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KNB(北日本放送)ニュース

  日本人の祖先 大陸からの3集団

小竹貝塚(富山県)など6遺跡の人骨をゲノム解析

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県埋蔵文化財センターや金沢大学などの研究グループが米科学誌電子版に発表

人物は覚張助教

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縄文、弥生、古墳時代の国内の6遺跡で出土した人骨をゲノム解析

 

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従来の説

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新しい学説 約1400年前に古墳人(東アジアからの渡来人)が多数到来し日本人での多数派を占める。

 

◎1400年前は朝鮮では高句麗、新羅,伽耶の時代である。この時代に古墳人(東アジアからの渡来人)がたくさん到来したのでしょうか。倭の5王(巨大古墳のころ)が中国南朝に朝貢したころですが。紀元前221年に即位した秦の始皇帝の時代に中国から渡来している徐福のように中国からは東アジアから継続して渡来してきているようにも感じます。日本の古墳は300年ごろに現れ600年ころに終末期を迎えました。

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参考

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◎ミトコンドリアDNAハプログループの分布図 

 

「新版 日本人になった祖先たち」

    篠田謙一氏 NHKブックス  2019年3月20日 1300円+税より

DNAで系統をさぐる。母から子に伝わるミトコンドリアDNAと、男性に継承されるY染色体を構成するDNAなのです。

日本人の持つハプログループのそれぞれについて、どこで生まれ、どのような経路を通って日本に入ってきたかを現在利用できるデータをもとに見てゆくことにする。私たちの持つ16種類のDNAのルーツを明らかにする。

モンゴロイドのミトコンドリアDNA の主要なハプログループは、主として

  1,東南アジアから中国南部にかけて分布するもの 

      2,大陸中央部からバイカル湖を中心とした北方アジアに分布するもの

  3,アムール川の流域を中心にした沿海州に分布するもの

 

ハプログループD  東アジアの最大集団

   アメリカ先住民がD1と2 アジアに住むグループ,D4グループ、D5,D6 

   D4、D5で日本で4割を占める 中国北部の漢民族中心の人々 

        D4グループ(東アジア最大集団)は東アジア東北部 日本では32,6% 

   日本にも最も占める比率が大きい。D4a 7,4% D4b  2,4% D4d 2,7% D4その他19,7%

   D5は日本で4,8% 中国南部に多い

   あらゆる時期にあらゆるところから入ってきた人々。(弥生時代に以後多数入ってきた。)

ハプログループB  第2のグループ(7人に一人、14,3%)が4万年前日本へ、

   ハプログループBは 4万年前 中国南部で生じた。縄文人にも見つかっている 

   B4 9%  B5 4,3%

   環太平洋から アメリカ先住民にも広がる。

ハプログループM7 関西地方から中国にかけて 日本の基層集団を生む)

   沖縄では4人に一人と多い

   M7a 7,5% M7b  4,5%

   (とN9b 3,5%ほぼ日本列島だけに存在)

 

ハプログループA(7%)北東アジアのマンモスハンター 

   バイカル湖から南下して日本にまで到達

   (満州、朝鮮の扶余系ー高句麗、百済系か 日本の支配階級に)

ハプロGグループ(7%)カムチャッカと北東アジア 

   北方に特化する地域集団 朝鮮半島より日本へ

ハプロFグループ(5,3%)東南アジアの最大集団

ハプロN9a(4,6%) 中国南部由来、N9b(2,1%)

   関東以北の縄文人に多い

ハプロYグループ   アイヌの人に多い N9の側枝

ハプロM8a グループ     中原に分布  M8にM8aとCそして

    zという3つのグループがある

ハプロCグループ 中央アジア平原 日本ではほとんど見当たらぬ

ハプロzグループ  アジアとヨーロッパを結ぶ 徳川家治と生母がZ

M7a(7,5%)とN9b(2,1%)は日本独自のグループ

 

p98

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p114

日本人の持つミトコンドリア  DNAのハプログループ割合

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p140

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日本人の完成は古墳時代だった。 石倉氏  朝日新聞デジタル 9月18日

金沢市で発見された1500年前の古代人の骨の解析

従来の縄文人と弥生人の混血という説ではないことを明らかにした。

 

群馬県の渋川市の金井東裏遺跡で発掘された古墳人の骨の復元図

古墳人の顔の想像図

 

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現代日本人の成り立ち

北東アジア人

 バイカル湖から旧満州にかけて住んでいた人々

東アジア人

 幅広く東アジアに住んでいた人たち

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朝日新聞デジタル

従来は1991年に埴原和郎氏が提唱していた、縄文人と弥生人の2つがルーツであるという二重構造モデルが提唱されていた。

 

付記  邪馬台国の場所について

「日本古代史を科学する」PHP新書 という中田 力氏が書いた本がとても興味深いです。中田氏は自然科学者(脳科学)で自然科学の目で見た歴史について論じています。邪馬台国の位置は2説唱えられていますが、中田氏は宮崎であると主張されています。説明を読むとなるほどと思います。

Y染色体ハプログループを追いかけることにより父系の先祖をさかのぼることができる。

弥生、と呼ばれた時代は温帯ジャポニカを持った弥生人の渡来によるものである。その人々は上海地方から直接海を渡って日本の九州にわたっ人々なのである。

図19 Oハプロタイプ

 アジアの基本的なY染色体ハプロタイプはOである。

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図21 日本、中国、モンゴル、チベットの男性が持つY染色体ハプロタイプ

日本はO(水色)とD(草色)が最も多い。赤はCタイプ。紫はその他。

Oは上海あたりで枝分かれし他グループ 米作りの民となった。日本の弥生人を形成した人がO2で中国本土を離れている

越は百越と呼ばれた民族の国家 呉の滅亡そして海路で日本に逃れる。倭人はみづから 姫姓の呉の末裔と称していた。博多の奴国で光武帝から金印をもらう 。

秦の始皇帝の時、斉人の徐福に童・童女数千人を送って仙人を探させた。

卑弥呼(天照大神)の邪馬台国は魏王朝から金印を賜ること(天孫降臨)に成功し倭国の宗主国のとしての地位を固めることになる。やがて博多の奴国と結んだ邪馬台国は狗奴国を抑えることになる。

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弥生と呼ばれる時代は、温帯ジャポニカを持った弥生人の渡来によってもたらされた。上海地方から直接海を渡って日本の九州に到達した人々なのである。紀元前473年。呉の滅亡。倭人は呉の末裔と称していた、秦の時代、徐福に率いられた若き貴族の一団が日本に来た・

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漫画 ビックコミック・  オリジナルのなかの漫画「卑弥呼」も宮崎説にもとづいて書かれています。

 

2020年3月31日 (火)

2020年3月30日、赤旗科学欄に、「7万年以上前、インドの現生人類 大噴火生き延びたか?」追記 原人出現は20万年さかのぼる

記事 「大噴火生き延びたか? 一掃されたはずが・・・”証拠”の石器出土

   7万年以上前 インドの現生人類

現生人類(ホモ・サピエンス)を絶滅の危機に追い込んだとされる7万数千年前の火山大噴火。とりわけインドはその影響が大きく、アフリカを出てそこに到達していた人々は一掃されてしまったという説が有力です。ところが、インド北部の遺跡の発掘調査から、人々は大噴火の危機を乗り越え、そこで生き続けていたことを示す証拠が見つかったといいます。オーストラリア・クイーンズランド大学などの国際研究グループが科学誌『ネイチャー・コミュニケーションズ』[2月25日付)に発表しました。

 

7万4000年前ごろ、インドネシアのスマトラ島のトバ火山が過去200万年間で最大といわれる火山噴火を起こしました。この噴火の噴出物は2000立方キロメートルを超えたとされます。九州の広い範囲内だけでなく山口県にまで火砕流が押し寄せたとされる9万年前ごろの阿蘇山の噴出物が600立方キロメートルとされており、その噴火の巨大さが分かります。火山の噴火の規模を示す火山爆発指数では最大のカテゴリー8に位置付けられています。

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現生人類の出アフリカと遺跡

 赤線 定説(8万~5万年前)青線 定説より早い

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気温5度も低下

トバ火山の噴出物は東南アジアや南アジアを中心に世界中に降り注ぎました。また大気中に滞留して太陽の光をさえぎったため、地球の平均気温が5度も低下するような激しい寒冷化が長く続いたと指摘されています。この影響はさまざまな方面におよびましたが、中でも現生人類にとっては人口が極端に減少するなど、絶滅寸前まで追い詰められた出来事だったとする説があります。

この説が正しいかどうかを検証する上で最も注目されている場所がインドです。トバ火山が噴火したのは30~20万年前ごろアフリカで誕生した現生人類が8万~5万年前に誕生の地アフリカを出て世界各地へ広がろうとしていたと考えらているからです。

ダバ遺跡から出土した石器

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ダバの遺跡の発掘調査の様子

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研究グループはインド北部,マディア-プラデシュ州のミドル・ソン川の流域にあるダバ遺跡に注目しました。遺跡は8万~4万前にかけて現生人類が作ったとみられる石器が大量に出土しています。研究グループは、これらの石器の種類の変遷とその年代を詳しく調べれば、トバ火山の大噴火で現生人類がどのような影響を受けたのかが分かると考えたのです。

最新の年代測定技術を駆使して、これらの石器の年代を測定した結果、ダバ遺跡では8万~6万5000年前にかけて石器が連続的に出土し、これらの石器の種類に変化は見られなかったといいます。これは7万4000年前ごろに起こったトバ火山の大噴火に、ダバ遺跡で生活していた現生人類はそれほど大きな影響を受けず、生き延びることができたことを示すと研究グループはみています。

ダバ遺跡で見つかった8万~6万5000年前の石器は、アラブ首長国連邦のジュベル-ファヤ遺跡で見つかった12万年前頃の石器と似ていました。また6万5000年前と5000年前とされるオーストラリア北部のマジェドベベで見つかった石器とも似ていたといいます。

人類拡大の議論

現生人類がいつアフリカを出て世界は、各地に広がったかは、遺伝学的研究などから8万~5万年前ごろに1回だけだったとする見方が有力ですが、ジュベル・ファヤ遺跡を含め、それより古いとされる現生人類の遺跡がアフリカ以外の場所で見つかっており、議論が続けられています。

イスラエルでは以前からスクールやカフゼーの遺跡で10万年前頃の現生人類の化石が見つかっており、、2018年にはミスリア遺跡で見つかっていた化石が18万5000年前の現生人類のものと分かったと報告されています。

スクールやカフゼーの遺跡に足跡を残した現生人類は、その後地球の寒冷化に伴ってアフリカに戻ったか絶滅し、南下したネアンデルタール人と入れ替わったと考えられていますが、アフリカ以外の他の地に移動した可能性も考えられています。

研究グループは、ダバ遺跡で見つかった石器の種類が、ジュベル・マヤ遺跡や、マジェドベベ遺跡で見つかった石器と似ていたことは、定説より早い時期にアフリカを出た現生人類がいて、その人々がインドを経てオーストラリアへ到達したことを示している可能性があるとしています。

◎恐ろしいのは温暖化ではなく寒冷化

先日、NHKで放送した「食の起源」シリーズでは、ホモ・サピエンスが、トバ火山が噴火した時に地球が寒冷化し、食物も激減した時に、南アフリカに逃れた、ホモサピエンスが、波打ち際で貝類を食べて生き残った、と放送していました。いずれにしても、人口が2000人とか1万人とか、極端に減り絶滅寸前になったため、ホモ・サピエンスの遺伝子の変異が他の霊長類にくらべく少ないのだ、と説明していました。

アフリカだけでなく、インドにもホモ・サピエンスがいたということになると前に書いたことは成り立たなくなります。

2万1000年前から18000年前には最終氷期の極寒期となった。いずれにしても温暖期においては種は繁栄し、極寒期に絶滅する。地球上の平均気温が2℃以上上昇すると世界が破滅的な機器に陥るというが、そんなことはない。今までもっと温かい時期は生物も人類も繁栄しているのだ。

最終氷期の7万年の間に6回ほど急速に寒くなった時期があった。大陸にあった氷床が崩れ、巨大な氷山となって大西洋に漂流する、この1万年周期で起こる急速な寒冷化はハインリッヒ・イベントと呼ばれる。グリーンランドの気候はハインリッヒイベントが発生するごとに、グリーンランドの気温は3度から6度、急低下した。(『気候文明史』田家康)

2020年4月7日 追記

 2020年4月5日の赤旗14面に「原人ホモ・エレクトス 出現時期は200万年前 20万年さかのぼる」

の記事が掲載されました。

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オーストラリアのラ・トローブ大学などの国際研究グループが米科学誌「サイエンス」3日付に発表しました。

南アフリカのヨハネスブルクから北西約40キロのところにさまざまな人類の化石が見つかっている洞窟遺跡が点在する、人類のゆりかごと名付けられた世界遺産があります。ドリモレン洞窟で、150個以上に断片化した人類の頭蓋骨を発見しました。これは3~6才の子供のヅ骸骨と分かりました。これは200万年前に生きていたと推定されました。これまではコーカサス地方のドマニシ遺跡で見つかった180万年前の駅が最古でした。ホモエレクトスの起源がアフリカであることが確認できたとしています。

2019年8月29日 (木)

380万年前のアナム猿人の顔再現 最古のアウストラロピテクス 2019年8月新聞各紙で報道 アナム猿人とァファール猿人は共存か

380万年前の最古のアウストラロピテクスであるアナム猿人の顔が再現されました。2019年8月29日の新聞各紙に掲載されました。

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(上図)

(2019年8月29日の赤旗、社会・総合面14面にカラーで記事が載りました。

380万年前に生きていた猿人のほぼ完全な頭蓋骨化石がアフリカ東部のエチオピアで見つかったと、米クリーブランド自然史博物館のヨハネス・ハイレ=セラシエ博士たちの国際研究グループが、29日づけの科学誌『ネイチャー』に発表しました(日経と毎日では28日付)。アウストラロピテクス属としては最古のアナム猿人アウストラロピテクス・アナメンシス)成人男性であるとしており、頭蓋骨化石に基づく復顔像も公表されました。

 

下図 アナム猿人の複顔像(マット・クロウ撮影、米クリーブランド自然史博物館提供)

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(下図)エチオピアの発掘現場の地図 化石が見つかったのはエチオピア北東部のアファール凹地のウイランソ・ミル。

研究グループは2016年にこの化石を発見しました。頭蓋骨の化石の特徴を、これまでに見つかっているだまざまな種の化石と比較検討した結果、上顎や歯などがアナム猿人のものと最もよく一致することが分かりました。

新たに見つかったアナム猿人の頭蓋骨化石は、犬歯が大きいことなどから成人男性と判断されました。脳の大きさは370mlと推定されチンパンジー並み。頭蓋骨の形もこれまで知られているアウストラロピテクス属にくらべ原始的でより古い人類祖先とのつながりをうかがわせるといいます。

貌は縦に長く、中央部はくぼみ,上部が狭く、下部が突き出しているなどの特徴を持つこともわかりました。以前に見つかっていたアナム猿人の化石はあごの骨と歯が主で、脳の大きさや顔などはわかっていませんでした。年代測定で、頭蓋骨化石が見つかった地層の年代は、約380万年前と推定され、従来、アナム猿人が生きていたとされる年代より10万年新しいことが分かりました。

◎アナム猿人は従来では420万年~390万年前とされていましたが、今度発見された化石は380万年前のものであるとわかりました。

従来はアナム猿人やァファール猿人などを、華奢型猿人といい、顎が頑丈で草食のパラントロプスを頑丈型猿人といっていましたが、今は余りそういう言い方をしないようです。2018年11月に翻訳書が出された『人類の進化大図鑑』河出書房新社によれば、アナム猿人はまだ頭蓋骨が全部そろわず、復元図が載っていませんでした。 

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下図 アナム猿人の頭骸骨化石を持つ、ヨハネス・ハイレ=セラシエ博士(米クリーブランド自然史博物館提供)

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アナム猿人は、1994年にアフリカ東部のケニアにあるトゥルカナ湖の湖畔で発見された化石人類です。その後、エチオピアでも発見され、それらの化石の年代や発見場所を基に、420万~390万年前にアフリカ東部に住んでいたと考えられてきました。しかし、今回380万年前まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考えが塗り替えられる可能性が出てきました。

その一つが、同じアウストラロピテクス属のアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)との関係です。アファール猿人は390~300万年まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考え方が塗り替えられる可能性が出てきました。

アファール猿人はアナム猿人同様アフリカ東部に住んでいた化石人類で、エチオピアのアファール凹地で1974年発見され「ルーシー」と名づけられた全身骨格で広く知られています。アファール猿人はその後、現生人類とつながる進化の道筋で重要な位置を占めていたと考えられています。それぞれの化石の発見された年代や場所、化石の特徴などから、アナム猿人が先祖で、アファール猿人が子孫の関係にあるとする見方が示されていました。

しかし、今回の発見により、アナム猿人とアファール猿人は10万年の間、アフリカ東部で共存していた可能性が出てきました。研究グループは、アナム猿人とァファール猿人が祖先と子孫の関係だという見方に疑問を投げかけています。(間宮利夫)以上全文、赤旗より。

 

下図 同日の毎日新聞朝刊

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化石は頬骨が前に突き出し、耳の穴が小さく、脳を収容する空間が細長くて小さい。こうした特徴は700万年ごろの極めて初期の猿人に近いという。一方、頬骨が前に出ているなど、250万年前頃の比較的新しい特徴も持っていた。

(ワシントン共同)

下図 同日の日本経済新聞朝刊

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下図 同日の日本経済新聞

◎復元された顔はかなりチンパンジーに似ています。しかしアウストラロピテクス類は直立2足歩行をしていました。そこがチンパンジーと決定的に違います。

後日他の資料が書かれましたら追記します。8月30日追記しました。

 

2019年5月14日 (火)

縄文人の全ゲノム解析 起源3万8000年前か 国立科学博物館 日経新聞

2019年5月14日(火)の、日経新聞朝刊に「縄文人の起源 3万8000年前か 全ゲノム解析 国立科学博物館」という記事が載りました。

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が約3万8千年前~1万8千年前に大陸の集団から分かれたとみられることが分かったと発表した。日本人の祖先がどこからどこから来たのかといった謎にゲノムから初めて迫った貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌に発表する。

(研究チームには、他に国立遺伝学研究所の斉藤成也教授研究者や、札幌医科大学、金沢大、山梨大などの研究者研究者が参加しています)

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国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された約3800年前~3500年前の縄文時代後期の女性人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

 

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国立科学博物館

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団から分かれた時期が約3万8千年前から1万8千年前であることが判明したという。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から30000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことが、これまで知られていた。

今回の解析によると、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なっていた。東京でサンプルをとった本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が7割、沖縄県の人たちで3割だった。

 

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ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、縄文人のゲノムから説明できる可能性もあるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか、研究の進展が期待される。

今後研究チームはデータの解析を進める。配列を公開して、海外の研究機関との共同研究も検討していく。

◎大陸からの日本列島への流入には南西諸島や朝鮮半島からの流入もありますが、寒冷期に海水面が低下し大陸から樺太地方を通じての流入もあったのではないかと考えられます。船泊遺跡はかえってそのルートではないかとも考えられますがいかがでしょうか。

◎追 記:

船泊23号人骨の特長

性別は女性。

その瞳(虹彩)が茶色く、

髪の毛が細い,又ちじれている。

高脂肪食に適応した遺伝的特徴を持つ。このことは遺跡からアシカなどの骨が多数出土している状況とも一致する。

アルコールには強い。

背は低い―高くならない。

皮膚の色。は濃く、シミができやすい。

耳あかはウエット型。

などの遺伝子から判明したもの。下記の2018年3月14日のブログ参照。5月24日の日経新聞の記事で追加。

◎参考書

「新版 日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 篠田健一 NHKブックス 2019年3月20日 1300円プラス税

篠田謙一氏は1955年生まれ、京都大学理学部卒業、医学博士、国立科学博物館人類研究部長、専門は分子人類学。

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本の表カバーに船泊23号人骨の複顔像が載っています。

この遺跡からは南方産のイモガイでつくられたペンダントや、新潟産糸魚川産のヒスイ、さらにはシベリアでつくられたものと同じタイプの貝玉のアクセサリーなども見つかっており、礼文島の縄文人が広い地域と交流を持っていたことが示唆されています。p5

◎「こういちの人間学ブログ」2018年3月14日

 「ゲノム情報で縄文人の女性の顔復元 ビートたけしに似る?」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/03/post-cd8b.html

 

2019年5月24日の日経新聞「ニュースな科学」29面に「日本人の起源解明へ」、「縄文人の全ゲノム解明」という記事が載りました。

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ゲノム解析によって人類の起源を探る研究が加速している

2003年 ヒトゲノム解析が完了

2010年 ネアンデルタール人のDNA解析で、現代人のなかに彼ら由来の遺伝子が含まれることが判明

2014年 ネアンデルタール人のDNAが完全解析

2019年 日本列島の縄文人のDNAが完全に解析

アフリカを出た人類が東アジアに広がった。

5万~10万年前 アフリカ大陸から人類が拡散

4万~5万年前 東アジアに進出

3万8000年前~1万8000年前 日本列島進出

約1万5000年前 米国大陸進出

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