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人間とは何か

2019年1月16日 (水)

人骨に向き合って、人類学者土肥直美さんに聞く 沖縄の旧石器人について解明か

2018年4月21日の「こういちの人間学ブログ」の記事で、「国内最古の旧石器人の人骨 石垣島で発見   港川人との違いは 国内最古の顔復元」というものを書きました。
2019年1月12日(土)から3日間にわたって、この人骨の発見者である、人類学者の土肥直美さんの話が赤旗に載っていたので紹介します。(記者、間宮利夫)
◎土肥(どい)直美さんは、1945年(昭和20年)生まれ、現在73歳。九州大学理学部卒業、その後九州大学大学で助手に、その後、あこがれの西表島での調査をきっかけに沖縄に移り住んで四半世紀になります。1992年に琉球大学医学部解剖学教室に単身、赴任。その後准教授となり、その後非常勤講師になりました。
古くは27000年前の旧石器時代から、100年ほど前までの近代まで、1000人もの人の骨と向き合い先人たちの声なき声に耳を傾けてきました。
著書
「沖縄骨語り」人類学が迫る沖縄人のルーツ 2018年4月29日 琉球新報社
なかなか興味深い内容でしたので、新聞記事全文を転記、掲載しました。最初にあげたブログでは港川人の想像図が載っていて興味深いのでぜひご覧ください。
「人骨に向き合って」-沖縄で四半世紀
1、生と死の近さに驚いて  2019年1月12日
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白保竿根田原洞窟遺跡4号人骨の複顔像
「顔を復元」
ー昨年、東京の国立科学博物館で開かれた「沖縄の旧石器時代が熱い」の展示でおとづれた人の目を人の目をひときわ引き付けたものがあります。土肥さんたちが復元した石垣島白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞窟遺跡で見つかった27000年前の旧石器時代の人の顔です。旧石器時代の人の顔が復元されたのは、日本では、沖縄・八重瀬町の港川人以来2例目です
保存状態がよかった4つの頭骨の一つです。保存状態がよいとはいえ、欠けた部分もありますから完全ではありません。国立科学博物館の河野玲子さん(現慶応大学准教授)と、コンピューターでかけた部分を補うデジタル復元という新しい技術を使いました。その方法で完成した頭骨に、DNA解析に基づく情報や石垣島の気候などを考慮して肉付けしたり肌の色を決めたりして複顔しました。
通常、骨が完成すればそれでよしということになるのですが、やっぱりどんな顔か見てみたい。かっこいいきりりとした顔立ちだったので大満足です。まわりからも、沖縄ではけっこう見かける顔だと言っていただき、ほっとしています。
「ある衝撃
ー1990年代初め、九州大学医学部で助手として人骨の研究をしていた時、西表島でダムの建設に伴って古いお墓が沈んでしまうらしいという話を聞いて初めて沖縄へ。その時受けた驚きが、単身沖縄に住み、研究を始めるきっかけになったといいます。
 学生時代は理学部で生態学を研究しました。京都大学の人たちがアフリカで類人猿の研究を始めたというのを聞いて、自分も自分も人類進化の研究をやれたらいいなと思ったのですが,九大理学部にはそういうコースがなく、マイマイ(カタツムリ)にマニキュアをぬって印をつけ、生態を追う毎日でした。
学生時代にかなりのエネルギーを注いだのが探検部です。当時顧問だった医学部解剖学教室の永井昌文教授が私のことを覚えていてくれて、後に助手に採用してもらい、念願だった人類学の研究をスタートすることができました。
探検部のころイリオモテヤマネコが発見され、西表島はみんなの憧れの場所でした。案内してくれた方は「夕方迎えに来るから」っていうので、1人でスケッチしたり、写真を撮ったり、丹念に観察しました。
集落の裏山の岩陰の草むらに人骨がごろごろという状態で,生と死がすごく近い感じでカルチャーショックを受けました。18から19世紀の墓だと思いますけど、これをダムで沈ませていいものだろうかと、怖いもの知らずで県の教育委員会に行き「なんとかなりませんか」って言ったら、水位を下げてくれたんです。
その後、他の人類学者と何度か調査しましたが、その時は沖縄で職があるとは全く思っていませんでした。ところが1年後に琉球大学医学部に赴任することになったのですから、人骨が呼んでくれたのかな。
2 、沖縄・アイヌ骨格似ず 2019年1月13日
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王族の顔
ー1992年に単身琉球大学に赴任し、沖縄のあちこちの発掘調査に参加発掘。数万年前から沖縄の島々で生きた1000人もの人骨と向き合い、その移り変わりを目の当たりにしてきました。中でも浦添市の王陵(王の墓)「浦添ようどれ」で出会ったある人物の顔が印象に残っているといいます。
浦添ようどれは沖縄が北山,中山,南山との3つに分かれていた三山時代の13世紀後半中山王英祖(英祖)が作り、のちに琉球王国の第二尚氏七代王尚寧が改修した墓で、調査の結果、英祖王陵には100人以上が葬られていることがわかりました。英祖とその一族とみられます。
英祖王陵の石棺の一つに納められた頭骨を合わせた結果、王族ということで想像していた
顔つきと異なり,歯が前に突き出していました。突顎(とつがく)といって、本土では鎌倉時代から室町時代によく見られますが、沖縄では初めて見る顔つきでした。
沖縄では,本土の縄文時代にあたるころから狩猟採集生活を中心とした貝塚時代が長く続いていましたが、11世紀ごろ突然、石垣を築いて作った巨大なグスク(城)が各地に出現します。英祖王陵に葬られていた突顎の人物は、沖縄の外から人々がやってきたことを示しています。
国立科学博物館の篠田健一さん(人類研究部長)による、尚寧王陵の人骨のDNA解析では中国南部や東南アジアとの関連が見られ、琉球王国の成立にこれらの地域の人々との交流が重要な役割を果たした可能性があると考えられます。
説明困難
ー日本人の成り立ちを考える仮説に、1991年東京大学の埴原和郎教授(当時)が提唱した「二重構造モデル」があります。日本人は、古くから日本列島にやってきていた縄文人と弥生時代の初めに大陸からやってきた人々が混血して出来上がったとするものです。辺縁部に位置する沖縄や北海道は混血の影響が及びにくく、縄文人の形質が残ったとされています。土肥さんは、沖縄で見つかる人骨の研究をする中で、それだけでは説明できないと考えるようになったといいます。
 
1993年から94年にかけて、札幌医大の百々(どど)教授(当時)たちと、アイヌ、本土、沖縄の古人骨の比較をしました。その結果,沖縄の古人骨の顔立ちは、アイヌの古人骨に比べ平坦で、必ずしも両者がよく似ているとは言えないことが明らかになりました。
◎アイヌと沖縄の人は縄文系とひとくくりにしている考え方は多い。しかし、アイヌと沖縄の人は、毛深いなど、共通なところもあるが、極めてよく似ているとは言えません。北方から樺太などを経由してきた人たちと、南方の東南アジアや中国南部から来た人たちとは明らかに違います。
沖縄では、骨が残りやすい地質のところが多く、約2万年前の港川人はじめ非常に古い人骨が日本で唯一といっていいぐらい発見されていますが、近世とその間をつなぐ先史時代の人骨は余り見つかっていません。特に,宮古・八重山といった先島諸島の先史時代の古人骨が重要なのですが、この地域ではそれがまったくと言っていいくらい見つかっていませんでした。
そこで、1997年ごろから先島諸島のあちこちで先史時代の人骨を探す発掘調査に取り組みました。しかし、これがまったく当たらない。2000年前ぐらい前からの生活の跡がたくさん見つかっている宮古島の浦底遺跡でもだめでした。何年やっても当たらないので、「日本一骨運のない人類学者」と言われたほどです。
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記事中の写真の拡大図 骨を見る土肥直美さん。
石垣島の白保竿根田原洞窟遺跡や宮古島の浦底遺跡、沖縄本島の浦添ようどれ遺跡,港川遺跡など。
3、骨”運”の無さが大逆転 2019年1月15日
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探検仲間
ー10年余り先島諸島で先史時代の人骨を探し続けたのに見つからず、日本1骨運がない人類学者といわれていた土肥さん。ところが、2007年に石垣島の新空港建設予定地で約2万年前の人骨が見つかったのをきっかけに、日本ではこれまで例のない、多数の旧石器人の人骨と出会うことになりました。
白保竿根田原洞窟で人骨を最初に発見したのは沖縄鍾乳洞協会理事長の山内平三郎さんたちで、人骨を大学までもってこられました。山内さんとは琉球大学に赴任したころ、以前医学部長だった先生の紹介でお会いしてからの洞窟仲間でした。
「沖縄に来たんだったら洞窟を知らないとだめです」って言われて。探検部だったので、洞窟に潜ったことがありましたが、行くと落差が20っもある。高いところは怖いけれど「下に人骨があるから」っていわれると行っちゃう。
人骨が見つかると持ってこられて、一見古そうなのですが、年代を調べてみると数百年前ぐらいというのが多かった。その時も、古そうでしたが「年代を調べないと」といいました。人骨と一緒に見つかったネズミの骨の年代を調べたら、約2万年前で、これは大変ということで頭骨の一部ですが人骨も調べたら、これも約万年前でした。
2010年と13~16年に県立埋蔵文化財センターが中心となって、私たち形質人類学者や考古学者だけでなく、DNA人類学などさまざまな分野の研究者参加する画期的な発掘調査が行われました。合わせて1300点もの人骨が見つかっています。これまでの分析で、少なくとも19人の旧石器人の骨を含んでいることがわかっています。
人骨の出土状況から、調査の最初のころから風葬の墓だと考えていましたが、15年の調査で決定的な証拠が見つかりました。一番古い2万7000年前のもので、最初に複顔できた4号人骨です。骨の位置から、亡くなった後、あおむけで両腕と両足を折り曲げた形で安置されたことをしめしていました。
次の地へ
ー白保竿根田原洞窟で見つかった多数の人骨は、現在土肥さんたちが1つ一つ付着した石や土を取り除くクリーニングという作業や、つなぎ合わせる作業を進めています。
こういう人骨が出てくるような遺跡が今後、いつ見つかるかわからない。そこで発掘ができて、今こうやってクリーニングや、クロスワードパズルを解くようなつなぎ合わせる作業を行わせてもらっている。たぶん日本で一番幸せな人類学者かもしれないですね。
これで若い人類学者が、大きくなってもらいたいし、育ってほしい。河野さん(河野礼子・慶応大学准教授)が若い人類学者のチームを作ってくれて頭骨以外の部分の研究も緒に次いでいるので、どんな成果が出るのか楽しみです。
それと、白保竿根田原遺跡は墓だったということがはっきりしたので、では生活の場はどこだったのか。近くにあるはずなので、ぜひ探したいと思っています。
◎以上が新聞記事の内容です。
2万7000年前の白保竿根田原遺跡の人骨の複元像は至極まっとうなものです。
しかし、2万年前の港川人の新しい復元図では、オーストラリアのアボリジニに近いということで大きく想像図を変えています。沖縄に住んでいた人のルーツは一つには南中国から台湾経由で来た人のほかにはるか南の東南アジアから黒潮に乗ってきた人たちとが考えられますが、オーストラリアのアボリジニに近いというのはどうでしょうか。今後の調査が待たれます。(港川人の復元図のいろいろは、は最初にあげたブログをご覧ください)
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新しい研究により国立科学博物館が作った港川人の復元図。アボリジニに近いというのですが。

2018年12月24日 (月)

日本人成立の謎、弥生人のDNA分析 NHKサイエンスZERO。渡来人が何回も来たあかし

2018年12月13日、午後11時30分からNHKサイエンスZEROで「日本人成立の謎 弥生人のDNA分析」という番組が放送されました。
鳥取県、青谷上寺地遺跡で大量の弥生時代人の人骨などが発掘されました。
この遺跡では大量の人骨と脳が3つ見つかり、大量な大陸からの道具などが発掘されました
国立科学博物館の篠田健一氏(国立科学博物館副館長)が解説します。
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◎青谷上寺地遺跡
 鳥取県鳥取市青谷町に大量の弥生時代の遺跡が発掘された。100人分を超える人骨と、その中に3つの脳が残存しました。人骨には110点にわたる殺傷痕が見つかっている。様々な鉄製品や中国の貨幣などが発見されている。2008年に国の史跡に指定された。
こういちの人間学ブログ
「縄文人と『弥生人』について NHK 日本人のルーツ解明 ~」
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弥生時代の位置づけ
弥生時代人のDNAの解析・ミトコンドリアの解析と細胞核の解析がある。
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ミトコンドリアのDNAは母系のルーツを探ることができる。
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青谷上寺地の人骨37体をDNA解析した結果を見た。渡来系7割、縄文系3割ぐらいの比率かと思われた。
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実際には縄文系が1人しかいなかった。推測されることは、北九州から次第に鳥取まで来たのではなく、朝鮮半島から直接鳥取の地に来て間もないということが分かった。-縄文人との接触が少ないということ。
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37人のルーツをDNAで調べてみると、大陸の様ざまな地から来ていることが分かった。縄文系は1人だけ。北中国朝鮮系D4が14人で一番多い。
ハプログループ
人類のミトコンドリアのDNAの型はAからRまでに分かれる。ミトコンドリアのDNAは女系につながっていて、はじめの女性はミトコンドリア・イヴともいわれる。
一方Y染色体は男系でのつながりである。日本人はいろいろなタイプが混合しているが特に多いのがO1タイプ(韓国・大陸系-日本に多い)とDタイプ(チベット・アイヌ・縄文系)である。O2タイプは中国、朝鮮に多く日本人も15~20%を占める。 
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ミトコンドリアのDNAの塩基数は16500ばかり。それに対して、核のDNAは30億の塩基の組み合わせ。核の塩基は両親から受け継ぐ。それを調べると、髪の形、色、なりやすい病気などいろいろなことがわかる。
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青谷上寺地遺跡群は弥生前期の末頃から3世紀の弥生時代後期まで。海辺の遺跡。
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遺跡発掘の状況
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国立歴史民俗博物館 藤尾慎一郎教授
DNAと年代を図ることによってより時期が明確になったので、わかってきた。
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2世紀のごろの骨であることが判明した。2世紀に大陸から来たばかりの人骨。
◎2世紀は倭国大乱のころであり、日本中が戦いに明け暮れていたころである。その後
卑弥呼が出て(170~248)日本はおさまる。それ以後古墳時代になる。
中国では後漢の時代です。卑弥呼は魏志倭人伝に出てきます。
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遺跡で発掘された中国の貨幣
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発掘された鉄製品。ガラス製品もあった。
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この遺跡の弥生人の人骨の特徴は戦いで傷ついた人骨が極めて多いことである。矢じりが刺さったままの人骨もある。110も殺傷痕後のついた骨がある。いかに争いが激しかったか。(倭国大乱)
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当時の弥生人の顔の復元図。
◎土井が浜遺跡と国立科学博物館での展示
山口県下関市の砂丘地、土井が浜で発見された弥生時代中期の遺跡の展示
砂丘地は石灰分が多く、骨が保存されやすかった。300体を超える弥生時代最大の遺跡である。
1962年に国の史跡に指定された。
2018年12月11日から2019年3月24日まで国立科学博物館で企画展「砂丘に眠る弥生人 土井が浜遺跡の半世紀」開催。
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身分の高い人の甕棺。副葬品が立派である。
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弥生時代中期の女性の骨。身分の高い人と予測される。
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DNAで比べた中国。韓国、縄文人の位置。
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同じ弥生人でも福岡の弥生人と長崎の離島の弥生人、DNA。岩手の弥生人と、それぞれの違いがある。福岡の弥生人は渡来系の遺伝子の影響が強い。岩手の弥生人は縄文人そのままのDNA
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前の図から、現代日本人は真ん中の黄色のところと推測される。
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しかし現実の現代日本人を見ると、ずっと大陸よりである。結局。2世紀以後も何回も渡来人が来て、より大陸寄りになったと考えられる。
◎弥生時代以後の古墳時代にも多くの渡来人が入り、さらに西暦660年、百済は滅亡した。その時にも大量の亡命人が日本へ来た。また高句麗が滅亡した時にも大量の渡来人が日本に来た。

2018年11月18日 (日)

デニソワ洞窟で、母・ネアンデルタール人、父・デニソワ人の人骨発見・追記ネアンデルタール人”けがが多い”は誤り

追記版 ネアンデルタール人”けがが多い”は誤り

1、5万年前の人骨は混血の少女

シベリアの洞くつ

2018年8月23日の新聞「赤旗」の記事で、シベリア南部の洞窟で、見つかっていた5万年前ごろの人骨は、ネアンデルタール人の母とデニソワ人の父から生まれた混血の少女だったことがわかったと、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの国際研究グループが22日付の科学誌『ネイチャー』の電子版に発表しました。 (以下、赤旗の記事です)

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(様々な角度から撮影したデニソワ11、 c,T Higham, University of oxford)

2つの人類が混血していたことは知られていましたが、それぞれの人類を両親とする人の骨が見つかったのは初めてです。

人骨は、2012年にアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟で、他の多くの骨と一緒に見つかりました。長さが2センチほどで、腕や脚の骨の一部とみられていますが、どこの骨かは、わかっていません。「デニソワ11」と呼ばれています。

研究グループがゲノム(全遺伝情報)を解析。これまで知られている人類のものと比較した結果、ネアンデルタール人やデニソワ人のゲノムとそれぞれ40%程度づつ一致していることがわかりました。両者とも比率が高く、しかも同程度の割合を占めているいることはデニソワ11がネアンデルタール人とデニソワ人の混血で生まれた人の遠い子孫でなく、子どもであることを示しています。

母親からだけ子どもに受け継がれるミトコンドリアDNAはネアンデルタール人のものと一致しており、母親がネアンデルタール人で父親がデニソワ人と判明しました。性染色体はX 染色体しか見つからなかったこと、骨の皮質の暑さから13歳程度とみられたことから、デニソワ11は少女だったことも分かりました。

デニソワ人は主としてユーラシア大陸の東部に、ネアンデルタール人は西部に分かれて住んでいたと考えられています。今回の研究で、父親ののデニソワ人の祖先にはネアンデルタール人と混血した人がいたことも分かりました。

デニソワ人は主としてユーラシア大陸の東部に、ネアンデルタール人は西部に分かれて住んでいたと考えられています。今回の研究で父親のデニソワ人の祖先にはネアンデルタール人と混血した人がいたことも分かりました。マックスプランク進化人類学研究所のスパンテ・ペーボ博士は「ネアンデルタール人とデニソワ人がこれまで考えられていたより頻繁に混血していた可能性がある」と説明しています。

デニソワ人

2008年にデニソワ洞窟で見つかった手の小指の骨のゲノムを解析して発見され、これまで知られていなかった未知の人類。その後の解析で、ネアンデルタール人に近隣な人たちだったことがわかりました。オセアニアやアジアの現生人類のゲノムにはデニソワ人のゲノムの1部がふうまれており、現生人類とも混血したと考えられています。頭や顔の骨は見つかっておらず、どんな人たちだっかは謎に包まれたままです。デニソワ洞窟からはデニソワ人とネアンデルタール人の骨が見つかっています。


「こういちの人間学ブログ」  2015年8月の記事

「人類は多くの人類と共存した。ネアンデルタール人,アカシカ人、フローレス人」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2015/08/20134-2304.html

すみません。つながりません。

◎デニソワ人の骨はほんの小さな小指の骨のかけらでも、ゲノムが明らかになりました。今度はネアンデルタール人とデニソワ人の両親から生まれた少女の骨が見つかり、ゲノムも分かりました。
ゲノムがわかったということは皮膚の色や目や髪の色も分かってきているはずです。顔の形もある程度わかるでしょう。発掘がさらに進みデニソワ人の頭骨の発掘が待たれます。ネアンデルタール人が現生人類と混血し明るい肌や金髪などがひきつがれたようですが、デニソワ人とネアンデルタール人と現生人類の混血が北方系のアジア人に引き継がれているように感じますが、今後の発見が待たれます。

2018年11月18日追記

2、「ネアンデルタール人”けがが多い”は誤り」

2018年11月18日の赤旗の記事で上記のことが載りました。

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記事の写真から、「大型の動物を捕獲しようとしてけがをするネアンデルタール人の想像図」

ネアンデルタール人は、ほぼ同じ環境で生活していた初期の現生人類(ホモ・サピエンス)に比べ、けがが多く、過酷な生活を送っていたとみられています。ところが、ネアンデルタール人と初期の現生人類の骨格を調べた結果、両者のけがをする率に大きな違いはないことがわかりました。ドイツ・チュービンゲン大学などの研究グループが15日付の「ネイチャー」に発表しました。

ネアンデルタール人は大型の動物の狩りを行っていました。しかし現生人類のようにやりを投げる道具や弓矢を持たなかったため、至近距離から大型動物とたたかわねばならず、ネアンデルタール人にけがが多い原因の一つとされてきました。

研究グループは、8万年前~2万年前までのヨーロッパやアジア西部のネアンデルタール人と初期の現生人類の遺跡で収集された800体の骨格標本を詳しく調べました。その結果、ネアンデルタール人がけがをする割合は、0,03~0,17%、初期の現生人類がけがをする割合は0,02~0,12%で同程度であることがわかりました。

また、ネアンデルタール人も初期の現生人類も、女性より男性のほうがけがをする割合が高いことがわかりました。これは、現代人の男性が日常行動や成人儀式、暴力行為などで女性よりもけがをしやすいのと同じだと研究グループはみています。

◎ネアンデルタール人が滅び、現生人類が生き残ったのは、ネアンデルタール人が大型動物と接近戦をし、さらには子どもを産む女性も狩りをしたため、けがで死ぬ率が多く、それでネアンデルタール人がほろんだといわれていました。

ブログ筆者もそのように書いてきました。しかし実際に骨を比較して,ネアンデルタール人がほろんだのは、違う理由であるということが明らかになったといいます。今後いろいろ興味深い発見が続くことでしょう、

 

2018年9月27日 (木)

クローズアップ現代、「謎のマッチョな弥生人」船を漕いでマッチョというのはおかしい

2018年9月26日(水)の夜10時から、10時25分まで放送された、NHKの「クローズアップ現代+」で、「謎のマッチョな弥生人、骨から探るミステリー」という番組がありました。
九州北部には弥生人が早くに朝鮮半島から渡来し住み着きました。彼ら弥生人は背が高く、ほっそりしていて、顔も面長で、いわゆるしょうゆ顔であるということになっていましたが、九州西部の海岸や島部に住んでいた人の骨は、背が低く、筋肉ががっしりしていて、いわゆるマッチョな体つきで、顔つきも違う人たちでした。一体これはどうしてだろうかということです。
遺跡では権力の象徴として南方でとれる貝の腕輪の副葬品が権力者の骨と一緒に発掘されています。その貝の副葬品を得るために、ときに黒潮に逆らって、沖縄方面に行っていたので、筋肉が発達したのではないかと言っていました。季節によっては黒潮の流れに逆らった風の動きがあるのだそうであるが、それらを利用して手に入れたのであろうという。
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九州西部の海岸や島で発掘された骨は、身長は1メートル50センチほどだが、背は低いががっちりした体つきであった。
◎この顔つき、体系を見ても、縄文系由来の人である。縄文系の人たちは各地のへき地の海の近く、南九州、沖縄、四国、都会地以外の関東、東北特に太平洋側などに多い。
がっちりになったのではなくもともとがっちりなのである。
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平野部の弥生人と異なるマッチョな人々の集団があるということ。
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国立科学博物館の海部陽介氏はいう。
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弥生人のイメージ。ほっそりとした体つき。稲作もたらした人々。
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どんな暮らしでマッチョに。骨をCTスキャンして調べてみる。
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(弥生式)土器を運んだルート
長崎・高島にある遺跡と同じようなものが鹿児島さつま市にある。貝の腕輪など。
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赤い服を着た女性-筋肉を売り物にした芸能人ーはマッチョな弥生人と同じくらいの背の高さ。
このテレビでは、ほっそりして、背が高い弥生人が、船に乗るために筋肉が強くなって、外見も変わったというが、あまり納得できる話ではない
もともと、2400~3000年以前には日本には縄文人しかいなかった。縄文人は南方起源や、中国から来た人々、アイヌ系で北方に住む人たちなど雑多な人々が住んでいた。縄文時代にも稲作が伝わったようだが、弥生時代のように大規模なものではなかった。
大陸から中国江南の人たち(百越と呼ばれた)が漢民族の圧迫から逃れる形で渡来してきた。そのころ、広く倭人と呼ばれる人たちで、稲作文化をもたらし、高床式倉庫、抜歯、刺青の習慣を持った人たちだった。
倭人のことはや後漢の「漢書地理誌」や王充の「論衡」に書かれている。そこに書かれている倭人ということを、広く南中国から日本にかけて住んでいた人ととらえる人と、日本人とだけとらえる人がいる。
紀元前300年ころからいずれにしても沖縄諸島経由や朝鮮半島経由で、日本に渡来してきた。弥生時代の始まりとなる。そして、前から住んでいた縄文式文化の人たちと混血していった。
弥生人を狭義には渡来した人だけをいう場合があり、広義にはもともと住んでいた縄文人を含めて(縄文系弥生人という)と弥生時代になり、弥生時代の文化を取り入れ、渡来人と混血もしていった、人たちも含めて言う場合がある。
1700年前ごろ、弥生時代から古墳時代になるころから、気温の低下により、大陸の北方系のツングース系の人たちが、南下し、高句麗、百済を建国し、さらに朝鮮半島から大挙してやってきた。さらに、百済滅亡などに際して多くの渡来人が来た。また新羅系の人泰は日本海から富山、新潟から関東に住み着いたともいわれる。百済系の人たちは日本の支配層になっていった。彼らは細面、平面的な顔、いわゆるお雛様顔をしている人たちである。そして古墳時代になっていく。
 
 
 

2018年9月13日 (木)

ゲノムで解明、日本人の起源 縄文人は東南アジア起源か、各紙で報道

2018年9月2日(日))の日経新聞の朝刊と、9月11日(火)の毎日新聞夕刊に、日本人の起源が、ゲノムで解明された、と報道していました。特に、日経新聞はカラー版で大きく出ていました。30面サイエンス版
日経新聞の30面サイエンス版の図版。
日経新聞の記事
DNA追い古代人に迫る
 縄文人 東南アジア起源か
 ホアビン文化民族が縄文人となった可能性可能性が高い。
ラオス、マレーシアなどの文化の担い手が作るホアビン文化の人たちと、縄文遺跡の愛知県井川津貝塚(4000年から2500年前)の2500年前の成人女性の骨がこの研究の立役者となった。
金沢大学、北里大学、国立歴史民俗博物館を中心とする研究グループが、頭部(耳の骨-側頭骨錐体)にわずかに残る遺伝子を注意深く採取し、全遺伝子情報の解読に成功した。
その情報をもとにこの7月、縄文人の起源について成果を発表した金沢大の覚張隆史特任助教は「縄文人の全遺伝情報を解読した初の成果。東南アジアの人々の遺伝情報と比較して遺伝的なつながりを調べる足掛かりができた」と解説する。
比較した相手は現在のアジアの人々や8000~2000年前の東南アジアの古代人ら80を超える集団だ。古代の人たちの遺伝子で調べる研究はすでに試みられていたが、日本で解読できた遺伝情報の割合が数%と低く詳細な分析はなかなかむずかしかった。全遺伝情報が解読できれば情報量も多くなり、より深い研究ができる。
覚張特任助教らは遺伝情報の類似性などに着目し6つのグループに分けた。その結果、井川津貝塚の女性の遺伝子は、約8000年前のラオスの遺跡や約4000年前のマレーシアの遺跡で見つかった古代人の遺伝子に近く、同じグループに分類されることが判明した。
そのころの東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作っていたと考えられる。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果となった。
このグループの遺伝子は他の5つのグループと大きな違いがあったが、地理的に近いグループの間で交流が起きたとみられる痕跡も見つかった。東南アジアでは、古い石器時代から住んでいた狩猟採集民が、稲作などの農耕文化を持つ集団の移動によって置き換わる「2層構造仮説」が長く信じられてきた。
今回の成果から単純な置き換わりはなく「複数のグループが移動と交流を繰り返す、新しい枠組みが浮かび上がってきた」(覚張特任助教)という。
国立歴史民俗博物館の山田康弘教授は「遺伝情報に基づく研究は日本の考古学にとってもおおいな力となる」と強調する。
遺伝子を解析して古代人の足跡をたどる世界の研究者に共通する考えでもある.浸透に合わせてこの分野の研究は活発になってきた。~
日本のような高温多湿なところでは遺伝子がきちんと残りにくい。乾燥した地域の多い欧州やアフリカは遺伝子の保存状態が良い。
今回の研究では,歯の中に残る細胞から遺伝子を取り出す方法ではなく、非常に硬い側頭骨に採取場所を変えた。~
この研究はデンマークのコペンハーゲン大学を核とする国際研究チームとの、共同作業でもあり、海外の複数の大学でも同様に遺伝子を解読した。北里大太田博樹淳教授は「1つの研究所だけでは信用度を高められない。国際協力体制で高い精度のデータを出せる」と話す。
キーワード「縄文人と弥生人」、「互いに交流し日本人に」
縄文人、1万数千年前から、約2300年前に日本列島に暮らしていた。丸顔で鼻が高く、えらが張っている特徴がある。狩猟採集生活を送り、現在の台湾や朝鮮半島などを経由して移り住んだと考えられている。
 
井川津遺跡は4000年から2500年前の遺跡で、縄文後期から晩期に当たる。
弥生人は約2500年前にアジア大陸から九州地方にわたり,コメ作りを始めていたという。面長で目が細くあごは細い。徐々に日本全体に広がり、縄文人などと交流しながら現在の日本人へと移り変わっていった。
 
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上図は日経新聞の図表
・。
 縄文人の顔の特徴
  鼻が高い、えらが張っている、丸顔
 遺伝子の並び方
  古東アジア人の遺伝子と違う
  ホアビン文化の遺伝子と近い
◎下の図は、毎日新聞の記事を1,5倍に拡大してスキャンしました。今までスキャンがうまくできませんでしたが、パソコンを変えて、はじめからWindows10で入っているものに変えたら、うまく取り込めました。W7から10に変わったときうまく対応できませんでした。
 毎日新聞の記事は「ホアビン文化」のことは書いて無く、逆に日経新聞の記事は、日本全体に住む「ヤポネシア人―日本列島の人類」のことはかいてありませんでした。
3
 
 
毎日新聞の記事
日本人の起源ゲノムで解明へ
分離融合の新手法
離島など50地域500人を解析
ゲノム歴史学という新手法
本州に住む人や北海道のアイヌ民族、南西諸島の人など、地域でDNAに違いがあることが分かっている。
チームでは、日本全体に住む人類を意味する「ヤポネシア人」-日本列島人―となずけ、ルーツを包括的に調べる。
全国で離島や半島など特に土着性の高い50か所の地域の約500人のゲノムを詳しく解析。5か年の研究には、プロジェクトには北海道大学、人間文化研究機構、国立歴史民俗博物館などが参加し研究費は約2億円。~
 
これは携帯カメラで撮影したものです。両方とも読みにくいですね。
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◎日本人と倭について
倭について書かれるのは、「漢書地理誌」や,王充の「論衡」などであり。倭人が暢草を献じた、という記録がある。これを日本の倭が献じたという説もあるが、当時揚子江一帯に住んでいた人たちも、日本に住んでいた人たちも倭と呼ばれていたので、揚子江一帯の百越と呼ばれた人々をさすのではないかと思われる。
倭人については、「魏誌倭人伝」が詳しい。米作をし,鯨面文身(入れ墨)をし、高床式の家に住み,貫頭衣を着るなどの風俗が描かれている。日本では弥生時代を表しているようである。
中国では倭人は中国人(漢人)に押され南方に行き中国の少数民族やタイ、ラオス、ベトナムなどの東南アジア人となったと思われます。
遺伝子的に、日本人と東南アジア人と近いのはそういう理由があります。
しかし日本人はアジアの諸民族の吹き溜まりのような存在で、南はベトナムやインドネシアに近い人たち、南中国系、北方中国系、モンゴル系、ツングース系のお雛様顔の人たち、アイヌ系などがいて、本当に様々な民族が混血しています。
国立科学博物館で一連の人類の起源と歴史のNHK番組の展示があると思います。楽しみです。
参考
                 日本         中 国
紀元前300年ころまで縄文時代            前漢
                                新
                        紀元25年   後漢成立
                           57年  倭の奴国朝貢
 
           弥生時代               「漢書」、「論衡」
                        220年     後漢滅亡
                                 魏,呉,蜀
紀元300年以後 古墳時代
 
 

2018年9月10日 (月)

NHKスペシャル 「人類誕生 未来編」1(なぜホモ・サピエンスが生き残ったのか)

2018年9月8日(土)NHK BS1で10時から50分間放送がありました。翌日、9日にはその続き2,3がありましたが見損ないました。

「こういちの人間学ブログ」では

2018年5月14日

「NHKスペシャル『人類誕生2』 「ネアンデルタール人謎の絶滅人類」「現生人類、生存は集団の力」

http//koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/05/nhk-66bf.html

2018年7月20日

「NHKスペシャル『人類誕生3』「日本人のルーツ解明」「ホモサピエンス日本へ」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/nhk3-a78f.html

つながります。

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人類の未来で、ロボット(AI)の少女、エヴァが人間について、謎の老人ドクに質問をする。ホモ・サピエンスは逆転に次ぐ逆転で、、、現在生き残っている人類は、ホモ・サピエンスのみである。それはどういうわけか。

 

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700万年前、チンパンジーと人類が分化した。

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エチオピアのミドルカッシュで人骨を発掘

440万年前

アルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人

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骨盤の形は人類に近い―二足歩行をしていた

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アフリカの土地が隆起して、一部が乾燥化した。森林の減少。

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ラミダス猿人は樹木と草原の両方で生活。足はまだ木をつかむのに適した形だった。

乾燥が進むと草原においては二足歩行のほうが有利

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ラミダス猿人は家族を持つ

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チンパンジーに比べ犬歯が小さい。メスをめぐっての争いがないということ。

370万年前

オーストラロピテクス・アファレンシス

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タンザニア のエラトリ遺跡

370万年前の10人以上の団体で歩いた足跡の化石が残る

猛獣に襲われないために仲間と行動した。-仲間を持つヒト

240万年前

ホモ・ハビリス(華奢型人類)とパラントロプス・ボイセイ(頑丈型人類)が共存していた。

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ホモ・ハビリス 死肉をハイエナなどと争う。適応力の強さ。

パラントロプスは固い植物ー食べ物ーを噛める強力なあごをもつ。パラントロプスのほうが絶滅した。

ホモ属(ヒト属)へホモ・エレクトスとなって幅広く分布

ジャワ原人や北京原人など。

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石器によって残された傷跡

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石器など、道具を持つ ホモ・ハビリス

180万年前

ホモ・エレクトゥス

身長が身長180センチにも  ドマニシ遺跡(ジョージア)

長距離を走ることができた。大殿筋の発達。体毛が薄くなるー汗をかいて体温を下げる働きが生まれた。狩りに有力な力を得た。

アジアでは、ジャワ原人や北京原人など。

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様々な 心の進化が起きてきた。

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歯がなくなった老人でも生きていけるように助け合った。

食料の変化ー肉食の増加 消化が良くなり負担減少―脳の増大へ心を持つようになる

◎タンパク質の増大が脳を大きくする

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40~50万年前ごろ

ハイデルベルグ人(ホモ・ハイデルベルゲンシス)が生まれる。)アフリカや、ヨーロッパ、アジアに広がった。20万年前ごろに絶滅した。

その後、ヨーロッパで寒冷地に適応していった人類―ネアンデルタール人、と、20数万年前にアフリカで生まれた、ホモ・サピエンスに分離していった。

◎ハイデルベルグ人は50から70万年前ころに生存。20万年前に絶滅。脳容積が大きい。ホモ・エレクトスの1種だとみる見方もある。

寒冷化が進む中で、ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモサピエンスに分かれた。ネアンデルタール人は40万年前から2万数千年ごろに生存。ネアンデルタール人もホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスとされる。

ホモ・サピエンスはネアンデルタール人に比べスマートな形をしていた。

◎アジアではデニソワ人、赤鹿人、フローレス人ー(原人)などたくさんの人類が存在した。

19万年前から氷期が始まった。

ヨーロッパではネアンデルタール人がうまく氷期に適応できた。マンモスやトナカイなどの狩り。寒さに適応したずんぐりとした強力な体,弱い日光に対し、赤い髪、白い肌など。

東南アジアでは氷期の厳しさは余り無かった。ヨーロッパに比べ温暖であった。

アフリカでは乾燥化が強く、ホモ・サピエンスは1万人以下の絶滅寸前となった。これは現代のホモ・サピエンスの遺伝子がほとんどないことからわかる。これを「ボトルネック現象」と呼ぶ。

南アフリカの最南端の海岸の遺跡(ピナクルポイント遺跡)にムール貝の貝殻などがたくさん出てくる。貝を食べるなど食べ物に対する柔軟性などが存続へとつながった。

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◎氷期は人間に大きな打撃を与えた。現在は温暖な間氷期の期間である。氷期になったら現代文明に壊滅的な打撃を与える。今騒がれている温暖化など問題にならない。

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アフリカの最南端。ピナクル・ポイント。

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ムール貝を食用にした。貝殻が遺跡に残る。食物の多様性。

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ネアンデルタール人は言葉を喋ることができたとされている。知能もそれほど劣らなかった。

◎ネアンデルタール人は10人程度の小人数で行動し、新しい文化が生まれ、広がるのが遅かった。また女性も狩りに参加し、狩りで傷ついたり死んだりもした。2万1000年前ころには、最も厳しい氷河期(最終氷期)となり、ネアンデルタール人は絶滅した。

それに対し、ホモ・サピエンスは大きな集団で行動し、何かを生み出していった。そして地球全体に広がっていった。ネアンデルタール人は絶滅し、ホモ・サピエンスは栄えた。そして、1万年前頃から地球は温暖化していった。そして文明の誕生へ。

◎未来編の3つの巻の最後に、アンドロイドーAIと、人間との話がある。

地球上の人類は絶滅し、いわば人類が生きた証としてのアンドロイド・エヴァを残した―という話で終わっていました。

2018年7月20日 (金)

NHKスペシャル「人類誕生」3「日本人のルーツ解明」・ホモサピエンス日本へ

2018年7月15日、NHKスペシャル、「人類誕生「の最後は、「高橋一生の人類誕生3、「日本人のルーツ解明!?」「海を越え、極寒に耐えた苦難の道をリアル体験」でした。

人類は現在76億人もいる。その原動力は何か。鍵は日本列島にある。
日本は大陸から海で隔てられ(台湾と与那国島は110キロも離れている)、北は極寒の地シベリアとつながっている。そこを乗り越えられたのはホモ・サピエンスのみ

沖縄県石垣島の白保竿根多原遺跡で、2万7000年前の遺跡が発見された。そこで、全部で19体の人骨が発掘されました。彼らは白保人と名づけられました。以前に発見された港川人より背が高いということがあきらかになりました。
土肥正美氏は白保人を調べ、外耳道骨種があることがわかりました、海に潜るのが習慣としていたと分かりました。

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南方ルートの大海原を渡って日本に至るコースと、北方の氷河時代で陸続きになった陸地を通って日本に至る道がある。

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白保人の顔の復元図・南方系の顔

「こういちの人間学ブログ」2018年4月21日

「国内最古の旧石器時代人、石垣島で発見。港川人との違いは?追記国内最古の顔復元」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/04/


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氷河時代海水面の低下により、東南アジアに広大なスンダランドができ、そこにたくさんの遺跡群が
篠田謙一氏がそこに住む人々のDNAの解析する。

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インドネシアのティンプセンドウロ壁画 アジア最古の壁画。 今までは壁画はラスコーなどのヨーロッパが最初と思われていた
39900年前の手形やいろいろな絵も残っている。

台湾の八仙洞遺跡に絵が残っている
台湾から島伝いに日本にわたってきたのではないか。
台湾から日本へ、黒潮の流れー台湾から物を流すと日本まで届かない

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南方ルートについて解明しようと、海部陽介氏の研究グループは、草(ヒメガマ)で作った船を試す。(実験考古学)船で新しい土地に移り住むには最低、5組10人は必要であると。2隻で与論島を出発。しかしこの船では黒潮の流れに逆らって、石垣島などへ渡るのは困難と分かった。


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北方ルート
2万5千年前、2003年北方の地、シベリアでマンモスの骨で作ったアクセサリーが見つかった。いろいろな細石器が発見される。また骨から作った針も発見。これで皮を縫いあわせて服を作り寒さを防ぐことができた。

エベンキ族 縫い針を4つの工程で作る。縫い針を作れるのはホモ・サピエンスのみ

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脳・ブローカ野―言語能力をつかさどる分野が発達。道具と言語が並行して発達。

白保人は釣り針を作ることができた。世界最古の釣り針。


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石器で斧を作り、丸木船を作り、海に乗り出す。実際に試してみる。草の船に比べ力強く進んでいく。
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海部陽介氏(国立科学博物館人類史研究部長)


参考書

「日本人はどこから来たのか」、NHKスペシャル制作班、馬場悠男、海部陽介監修、2016年2月10日

「大逆転!奇跡の人類史」、NHKスペシャル制作班、馬場悠男、海部陽介監修。2018年5月26日

◎日本人は、古くは、中国大陸や、台湾など南方から丸木舟にのってきた人たち一方、北の大陸から来た、人々が混合し縄文文化を形成しました。地球寒冷化に伴い、百済、新羅、高句麗などの朝鮮半島の人々や、中国大陸の戦乱を逃れてきた人たちが相次いで移住してきた。

日本人は北はツングース系(韓国由来の細面の狐顔―おひな様顔)、モンゴル系(丸顔)、北方の漢民族系、(四角などいろいろ)
南中国系、(庶民的な丸顔―狸顔)、南方の(海洋民族的な顔―白保人の顔は典型的)、少数だが遠くシルクロードから来た人の顔など様々である。東洋の諸民族の吹き溜まりのような状況にあります。それらが融合して日本人が形成されました。

7月25日:追記

7月25日の毎日新聞夕刊1面トップに「日本人の足跡たどる」、「3万年前の航海再現」
今回は丸木舟、台湾~与那国島で来夏挑戦、という記事が載りました。

2018年5月14日 (月)

NHKスペシャル「人類誕生」2、「ネアンデルタール人謎の絶滅人類」ー現生人生存は集団の力

5万5000年前にヨーロッパに住んでいた、ネアンデルタール人とアフリカに住んでいた現生人(ホモ・サピエンス)が中東のエルサレム付近で出会った。共存期間は1万年余りとみられます。
参考
◎マノット洞窟(ホモ・サピエンス)とアムッド洞窟(ネアンデルタール人)40キロと極めて近い。
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参考、「そして最後に人が残った」ネアンデルタール人と私たちの50万年史 白揚社より
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ホモ・サピエンスがネアンデルタール人との混血が考えられる頭骨
◎マノット洞窟はイスラエルの北方、ガリラヤ湖のレパント地方にある。5万5000年前のホモ・サピエンスの頭骨が発見された。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが出会って、混血した可能性が強く、証拠が見つかるかもしれない。2015年1月28日に科学誌、ネイチャーに発表された。
ネアンデルタール人は優れた能力
ブリュニケル洞窟、ネアンデルタール人の400個の鍾乳洞内の遺跡。ストーン・サークルを作っていた。
ネアンデルタール人にはしゃべる能力があったと思われる。骨の構造から。
皮をなめすことができた。なめす道具-りソワール
貝のペンダントやブレスレットなどをしていた
◎埋葬をしていたという説も。花粉がいっぱいの墓か。宗教の萌芽。
「ネアンデルタール人の首飾り」ファン・ルイス・アルスアガ、新評論
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ネアンデルタール人の顔の復元図。色が白く髪が金髪か茶色。
額が後退。眼窩上隆起が強い.鼻が広い。北欧ヨーロッパ人の顔に近い。
寒さに適応。アレンの法則により、胴長・短足よりに。
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アフリカで生まれたホモ・サピエンス。体はきゃしゃ。手足は細長い。
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ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの体の比較。女の子は現在のヨーロッパ人に近い顔をしていた。
◎ネアンデルタール人もホモ・サピエンスの1員であり、亜種であるともされている。
 ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス 学名
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ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの比較
ネアンデルタール人は接近して獣を倒す、力が強い。氷期の屈強ハンター。しかし獲物に接近し倒すため、大けがをする可能性が大きい。ネアンデルタール人の化石の骨を見ると傷跡がたくさんあった。
30歳ぐらいまでに多くが死んだ。女性も狩りに参加。
5万年前ほどのホモ・サピエンスの狩りでは小動物程度しか取れなかった。その代わりいろいろなものを食べ、雑食だった。
4万3000年ころになるとヨーロッパでは、ホモサピエンスは投げ槍器(アトラトル)を使うようになる。普通の槍の2倍以上飛ぶ。
解説者―長谷川真理子 進化生物学
◎ほかの資料で、ネアンデルタール人は女性も狩りに参加するので、ケガをしたり死んだりしやすい。現生人は男女の仕事を分業し、おんなは怪我をしない。人口に影響。
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ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの能力比較。
肉体の能力はネアンデルタール人のほうが上。1対1で戦えばネアンデルタール人のほうが上であった。脳の働きは同程度。ストーンサークルを作るなど文化的能力も高かった。しかしホモ・サピエンスのほうが集団力に優れていた。
フランスのカスタネ遺跡、150人ほどが暮らしていた跡があった人数。人数が多いと発明品が集団に伝わりやすい。3万5000年前モスクワ郊外の遺跡では400人を超える遺跡があった。
それに対し、ネアンデルタール人の遺跡、エル・シドロン、15人から20人ぐらいまで。文化が広がらない。それにより逆転劇が起こる。
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脳容積はネアンデルタール人のほうが大きい
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シェーブル遺跡 4万年前の洞くつ
洞窟に描かれたシャーマンの姿。宗教的儀式を行う。
死者のために様々な埋葬品
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洞窟内での宗教的儀式―連帯感が生まれる。
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アトラトル(投げ槍器)を使うと倍近くも投げられる。
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ネアンデルタール人の絶滅
ネアンデルタール人は氷河期に適応した体だった。体が大きく力強い。しかしたくさんのカロリーが必要だった。
氷河期の終わりのころ―急激な気候変動ガーハインリッヒ・イベント
  極端な寒暖の差が起きる―食料が手に入りにくくなる。
人口が少しづつ減少し回復が難しくなった。家族単位の10数人の集団。新しい文化が生まれ、それが広がっていかなかった。
(ホモサピエンス―いろいろなものを食べる、集団で助け合う)
ジブラルタルのネアンデルタール人の最後の遺跡。ゴーラム洞窟、石に刻まれた、ハっシュタグーフィレイソン博士
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの混血
 ネアンデルタール人の遺伝子がホモサピエンスへ
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スヴァンテ・ペーボ博士。スエーデン人。ネアンデルタール人のゲノム解析を行う。
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ホモ・サピエンスはネアンデルタール人などと交わって様々な遺伝子を受け取って生きてきた。詳しくはこういちの人間学、「ネアンデルタール人は渡したいと交配した~」をご覧ください。文末の資料。
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迷子になったネアンデルタール人の女の子。保護される。
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10数年後混血した子供が生まれた。
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サハラ砂漠以南には混血していない、純粋なホモ・サピエンスが―アフリカ人。
それ以外では2、0%程度の、ネアンデルタール人のDNAがゲノムの中に。皮膚の色。病気に対する耐性など、生き残るのに有利な遺伝子が取り込まれた。
司会ー小林一生の唾液採取から
 2,3%から2,4%のネアンデルタール人由来の遺伝子が存在すること判明。
「こういちの人間学ブログ」
『ネアンデルタール人について 図像の変化~』
 
『ネアンデルタール人は私たちと交配した ~』

2018年4月21日 (土)

国内最古の旧石器時代の人骨、石垣島で発見 港川人との違いは?追記、国内最古の顔復元

 2018年4月20日ごろの新聞各紙に昨年5月に見つかった旧石器人の顔の復元像が出来上がり、国立科学博物館で展示されたと報じられました。追記して更新しました。
 2017年5月20日の各新聞に、国内最古、2万7000の年前の全身人骨が、沖縄石垣島の「白保竿根田原洞窟(シラホサオネダバル)遺跡」で見つかったと報じた。
 毎日新聞26面には、「旧石器時代の人骨19人分」、「2万7000年前 最古の墓」、「洞窟に風葬」とあり、日経新聞には「国内最古の全身人骨」、「沖縄・石垣島 2万7000年前と推定」「旧石器時代の墓か」とあります。
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毎日新聞
 沖縄県立埋蔵文化財センター(西原町)は19日、石垣島の遺跡で5年(2012~16年)の発掘調査で、旧石器時代の人骨を1000点超、少なくとも19人分確認したと発表した。出土量は世界最大級。国内最古の全身骨格の人骨もあった。同センターは洞窟を墓にして風葬のように葬ったと判断。旧石器時代の人骨の葬送と墓域がわかるのは初めてで国内最古とみられる。日本の墓制の起源や当時の葬送概念を考える上で重要な成果となる。(墓域を初めて確認した)
 人骨の年代は2万7000~1万8000年前。全身骨格がそろった人骨は2体分あり、うち1体の年代は2万7000年前で頭蓋骨を含めて国内最古となる。高齢の成人男性で身長は165センチ。これまで旧石器時代の全身骨格は、沖縄本島の港川フィッシャー遺跡(2万2千年前)でしか見つかっていない。
 この人骨は洞窟内の岩陰にあり、遺体はあおむけのまま、ひざは胸まで、ひじは両手が顔に近づくまで降り投げていた姿勢とわかった。他の人骨も岩陰で見つかった。同センターは屈葬の形で岩陰に置いて葬り続けたとみている。
当時の死生観反映
土肥直美・元琉球大准教授(形質人類学) 毎日新聞
 旧石器時代の人骨が19人分も出土するのは世界でもありえない発見。遺体をわざわざまげて葬っているところに、当時の死生観がうかがえる。
毎日新聞・大森顕浩
白保竿根田原洞窟遺跡
 旧石器時代から近世の人骨や骨が出土する沖縄県石垣島の複合遺跡。空港建設に伴う調査で発見され、同県立埋蔵文化財センターが2012~16年に本格調査を実施した。旧石器時代の人骨では初めてヒトのDNA抽出にも成功。中国大陸南部や東南アジアなどが起源のパターンと判明し、日本人のルーツを探る貴重なデータとなっている。
日経新聞
 
東方アジアの人類史解明進む
松浦秀治 お茶の水女子大名誉教授 日経新聞
 今回の成果から遺跡が旧石器時代人の文化的活動の場であったことが明らかとなり、遺跡の重要性が再認識された。沖縄本島を含む琉球列島各地域からの旧石器時代人骨資料の充実によって、証拠が点から線へまた面へと広がりつつあり、東南アジアの人類史の解明が進むことが期待される。
日経新聞
 同センターの金城亀信所長は、記者会見で「日本の人類史上に新たな1ページを刻むことができる重要な発見だ」とした。
 全身骨格は高齢の成人男性ととされ、推定身長、165センチで「港川人」より10センチ程度高かったと言い、虫歯のような跡もあった。
 同センターは、地中に埋葬せずに風化させる「風葬」が行われていた可能性に言及、。生活の痕跡は見られず「死者を葬る場所と生活の場所が分かれていた」と指摘する。
 全身骨格は放射性炭素年代測定値を実年代に合うように補正し、約2万7千万年前と推定した。
 全身人骨などは20~28日、同センターで一般公開される。
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毎日新聞より
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遺跡の場所
 
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岩陰に葬られた際のイメージ、沖縄県立埋蔵文化財センター提供
追  記
「しんぶん赤旗」の2017年7月24日号の『科学』欄に大きく半ページを使って記事が載っていました。
 人骨次々”謎の遺跡”正体は・・・国内最古の墓地だった。みえてきた石垣島の旧石器人
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調査が行われていた時の白保竿根田原洞窟遺跡の全景
調査に最初から携ってきた土肥直美・元琉球大学准教授(形質人類学)は、「人骨は出るのに、生活の痕跡がないので、私たちは発掘中から人骨は風葬された人たちの骨だろうと考えていました」
 土肥さんは「4号人骨の発見で、人骨が風葬されたものであるものだと確信しました
沖縄の風葬のやり方は、以前葬られた人骨を奥に集め、空いた場所に新たな遺体を安置します。白保竿根田原遺跡の出土状況は崖葬墓(外装簿)と呼ばれる、それとよく似ています。
 沖縄の崖葬墓に詳しい片桐千亜紀・沖縄県立埋蔵文化センター主任研究員は「旧石器時代の人々が、生活の場所と別の場所を墓地としていたことが明らかになりました。沖縄の風葬の歴史は、これまで 縄文時代までさかのぼるとみられていましたが、旧石器時代から続いていた可能性があるとわかったのは大きな意義があると思います」と説明します。
 崖葬墓は沖縄だけでなく、鹿児島県のトカラ列島以南の南西諸島、さらにアジアや東南アジアの島々にも広がっていると言います。
◎コメント追記
もっともしっかり人骨が残っているものを、4号人骨と呼びます。写真の人骨は4号人骨です
人骨展示の沖縄県立埋蔵文化センターは9時から午後5時までオープン、入場無料
098-835-8751
人骨にはげっ歯類(ネズミ)のかじり跡があり、風葬によって葬られた証拠と見ます。
港川人の顔の復元図いろいろ
 今回2万7000年前に見つかった人骨と、18000年前とみられる(5000年の差とも)港川人(沖縄本島)との違いは?港川人は身長男性153~155センチ、女性144センチ。身長の差10センチもある。顔つきは、顔の復元が待たれる。
 港川人は、縄文人の祖先と見られたこともあるが、最近ではアボリジニやパプアニューギニアの人たちにちかいのではないかと言われている。国立科学博物館の顔の復元図もだいぶ変わってきた。
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初めに想像された港川人、縄文人のルーツであると考えられた。
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沖縄県立博物館の復元図
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国立科学博物館で展示されている港川人
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国立科学博物館の新しい研究に基づいた復元図。
2009年に国立科学博物館で調査し直したところ、従来の復元では下あごの骨を取り違えていて、実際はもっと短いことが分かった。その結果、オーストラリアの原住民などに近いとされ作り直された復元図。
(オーストラリアの先住民アボリジニや中国南部の柳江人に近いということから変更された新しい復元図)
 さて今度の人類はどうでしょうか。
 氷河期の最後のころには海面が低下し、日本と本土はつながっていた。2万年前ごろまで最終氷期
 
2018年4月20日 追記 各紙で、国内最古の旧石器人の顔を復元したと発表
 2017年5月20日の各紙で発表されたものに、2018年4月20日の新聞各紙に、国内最古の旧石器人の顔を復元したと発表されました。
 国立科学博物館の企画展「沖縄の旧石器時代が熱い!」で展示されている4号人骨の頭骨のデジタル復元に基づく復顔像」
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記事は4月21日の赤旗によります
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これまでの頭骨の形態分析では、湊川人を含め、中国南部やベトナムなど琉球列島よりも南方系の人々に近いことがわかったと言います。
 20日から上野の科学博物館の企画展「沖縄の旧石器時代が熱い!」で展示されています。
 

2018年3月29日 (木)

ネアンデルタール人が壁画?高い知性の可能性。論争も。白人のネアンデルタール人。黒人のイギリス人。

最古6万年前の壁画、ネアンデルタール人が描いたのか?
2018年3月29日の毎日新聞の科学欄―科学の森に、
「壁画描く芸術性あった? ネアンデルタール人像、に新説、「野蛮」見直しも
 旧人のネアンデルタール人が6万年以上前に洞窟絵画を書いていたー。洞窟絵画は現生人類のホモ・サピエンスが描いたとする定説に、一石を投じる研究が発表された。4万年前に滅んだネアンデルタール人とは何者だったのか。最新研究を取材した。(鈴木理之)
● 4万年前に絶滅
毎日新聞では、すでに2月23日にはニュースで簡単に報道されています。今回はさらに詳しいニュースが書かれています。
 角を持つ牛のような動物や、梯子のようなマーク。ネアンデルタール人が描いたとの新説が浮上しているのは100年以上前に発見された世界遺産・ラバシエガ洞窟(スペイン)の壁画だ。赤い顔料が使われ、点描のような絵も見える。
 ドイツの研究チームが、壁画に付着した天然の放射性物質の年代を測定したところ、一部は6万4000年以上前に描かれたと推定した。これまでは4万年前とされていたが、2万年以上さかのぼったことになる。ネアンデルタール人は、ヒトと共通の祖先から50万年前に分かれたとみられ、私たちの「遠い親戚」に当たる。
 1856年にドイツのネアンデル谷の洞くつで、初めての骨格の化石が発掘された。これまでの遺跡調査から埋葬文化があったとされる。
 なぜ彼らがこの洞窟壁画を描いたと考えられるのか。私たちの祖先で、ホモ・サピエンスの仲間のクロマニョン人(新人)がアフリカから欧州に来たのは推定4万~4万5000年前。6万4000年以上前に欧州に定住していたのは、ネアンデルタール人だけと考えられるためだ。
 4万年前以前に壁画などは見つかっておらず、今回の研究は「すでに定住していたネアンデルタール人が描いたもので、芸術的な能力があった」(研究チーム)としている。
境界あいまい
「野蛮」などといったイメージがあったネアンデルタール人に対し、「芸術的な能力があった」とされるクロマニョン人。ショーベ洞窟(3万6000年前)やラスコー洞窟(2万年前)、アルタミラ洞窟(1万8000年前)など、クロマニョン人が描いたとされる壁画は牛やバイソンなどの動物が生き生きと描かれており、芸術性と知性がうかがえる。しかし最近の研究では両者の境界はあいまいになっていると言えそうだ。
 約4万年前には共存していたと考えられており、ゲノム(全遺伝情報)研究では、現代人にもネアンデルタール人に由来する残っている可能性が指摘されるなど、生物学的に近い種であることが明らかになっている。
 ネアンデルタール人は氷河期に適応するため身長は低く、手足の短いがっちりした体形。一方クロマニョン人は身長が高く現代人に近い容姿だ。東京大学の近藤修准教授(古人類学)は骨格を比較したうえで「ネアンデルタール人には氷河期を生き抜くだけの知恵があった。知能の優劣を認めるほど生物学的な差はない」と指摘する。
 ネアンデルタール人の遺跡からは火を使った痕跡や、壁画の絵具として使われた可能性のある赤い顔料も多く出土している。
 東京芸術大学の五十嵐ジャンヌ講師(旧石器時代美術研究)は,「両者」は共存していた時代も長い。文化的な接点があったなら、ネアンデルタール人の芸術性を示す証拠が今後見つかる可能性もある」と指摘する。「原始人」などといったネアンデルタール人のイメージを見直す必要がありそうだ。
「研究の蓄積必要」
 一方、ラパシエガ洞窟の壁画が描かれた6万4000年以前に、新人の一部がすでに欧州に進出していたーの説もあり、ネアンデルタール人を壁画の「作者」とする今回の研究には異論もある。
 国立科学博物館の海部陽介・人類史研究グループ長(人類進化学)は「ラパシエガ洞窟を含めこれまでの壁画は洞窟の奥で見つかっているが、ランプの痕跡はクロマニョン人の遺跡でしか見つかっていない」と指摘。年代測定方法についても「現時点では必ずしも制度が高いとはいけない。さまざまな角度からの検証が必要だ」と指摘する。
 近藤准教授は「生きた時代が重なる両者は何かと比較される。一般的に各研究は現代人の優位性を主張するキリスト教などの宗教的なな立場が強く影響することもある。という。両者の比較をめぐっては1980年代以降、学問的な論争が繰り返されてきた経緯があり、「確かな証拠を積み重ね、少しづつ正解に近づいていくしかない」と話している。
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100年前以上前に発見された世界遺産・ラバシエガ洞窟(スペイン)の壁画だ。赤い顔料が使われ、点描のような絵も見える。
ネアンデルタール人
 男性は身長165センチ程度
 骨格筋が発達しがっしりした形
 手足が短く、寒冷地で体温を保持しやすい
 後頭部が発達し、頑丈な下あごを持つ
クロマニョン人
 男性は身長175センチ前後、現代人に近い容姿
 手足が長く、熱帯地方で体温を拡散しやすい
 頭部が大きく,歯は小さい
ラバシエガ洞窟(スペイン)
 6万4000年前
ショーべ洞窟(フランス)
 2万6000年前
ラスコー洞窟(フランス)
 2万年前
アルタミラ洞窟(スペイン)
 1万8000年前
 
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4万年前後の中期石器時代と後期石器時代の入れ替わる時期にネアンデルタール人とクコロマニョン人が共存していたと考えられる。
赤い線で描かれたスペインの洞窟壁画―研究チーム提供(上記)
 
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1913年の論文に掲載されたスペインの洞くつ洞窟壁画を写した絵=サイエンス誌提供」
◎近藤氏の「現代人の優位性を主張するキリスト教などの宗教的な立場が強く影響することもある」という言葉は興味深い。
 クロマニョン人が、前にLIFE誌で金髪で白い肌をした姿で描かれているのに違和感を感じたことがあります。今年2018年にイギリス人やスペイン人をゲノムの解析で、目は青いが肌は黒く、今までの復元図と大きく異なる、ということがわかりました。肌が白く、目が青くというのはむしろゲノム解析でネアンデルタール人の姿であることがわかっています。
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1万年前の黒人?のイギリス人の復元図。肌は黒く髪も黒い。
「こういちの人間学ブログ」
 「1万年前のヨーロッパ人は暗い肌に黒い髪、青い目。イギリス、スペインなど」
 2018年2月23日
 
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国立科学博物館にあるネアンデルタール人の復元像。肌は白く髪の毛は茶色。
「こういちの人間学ブログ」 2015年8月
 「ネアンデルタール人について 図像の変化~」

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