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人間とは何か -人類学

2024年12月11日 (水)

「『人間』って何ですか」の訂正がありました。ネアンデルタール人とクロマニヨン人を、取り違えていました。

人間学研究所と実用的人間学研究会のメンバーで作った本、「『人間』って何ですか」工作舎、2024年1月20日、出版も、出されてからほぼ1年になります。それに伴って、今までの研究会は解消し、『人間学懇話会』と名前を変え、4回の例会が開かれました。

さて、たまたま、本の中で、自分の書いたところ、を、読み返してみましたところ、文章の間違えが、見つかりました。

第2部、ブログ筆者の書いた「実用的人間学との歩み」の中の、「ペーボのノーベル賞『ネアンデルタール人の図像の変化』」という記事の中の、179ページの9行目から11行目、「さらに投げやりの発明、さらに遠くに飛ばす技術などを発明しました。それに対してクロマニヨン人は大型獣に手槍でぶつかっていきけがを負うことが多かったと言います。」

ここで、投げやりやさらに遠くへ飛ばす技術(投石機―アトラトル)を発明したのは、クロマニヨン人であり、手槍で大型獣にぶつかっていったのは、ネアンデルタール人です。クロマニヨン人のところはネアンデルタール人に修正しなければなりません。

マンモスなどの大型獣に手槍でぶつかってゆけば、大きなけがを負うことも多かったでしょう。この狩りには男性だけでなく女性のネアンデルタール人も参加していたそうです。これでは男女ともに大きなけがを負うことが多かったでしょう。ネアンデルタール人はクロマニヨン人に比べ、1グループの人数が少なかったようです。これはネアンデルタール人の人口減少につながります。

2022年の10月に発行された、レベッカ・ウラッグ・サイクスの「ネアンデルタール」筑摩書房、3960円は、ネアンデルタール人についての、最新の知識を与える本だとされています。とても面白い本です。

けが人をケアし、肉を加熱調理し、ホモサピエンスと交配した「わたしたちに最も近い人種」その文化と暮らしを、最新の研究をもとに生き生きと描く、とされています。

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2023年12月13日 (水)

NHK [フロンティア] 日本人とは何者なのか 新しい見方

 1)旧石器時代

 タイの山中に30人ぐらいの集団で、森の民 マニ族が現在も狩猟採集の生活をしている。

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国立科学博物館館長の篠田謙一氏が彼らの集落を訪問する。彼らは狩猟採集の生活をしている。吹き矢で鳥を取ったり、山芋を掘ったり。様々なものを採集。

(参考書) 

『人類の起源 古代DNAが語る ホモ・サピエンスの「大いなる旅」』篠田謙一 中公新書 2022年2月 960円+税

『新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』 篠田謙一 NHKブックス 2019年3月 1300円+税

  

謎の起源 マニ族のDNAと縄文人のDNAとは、よく似ていて、日本人の祖先の大本ではないかと思われる。

ホモビニアン文化 日本人が最初にたどり着いた、4~5万年前から 彼らの一部が東南アジアを去り北上していった。

  日本に至り縄文人になったのでは

 

2)縄文時代-今も残る縄文DNA

 そしてフロンティア精神の大きい人達が、3万年まえに日本にたどりついた。(旧石器時代)

16000年前に土器がつくられた縄文時代は、彼らが縄文人となっていった時代である。

最初に日本に来た来た縄文人は1000人ぐらいではないかといわれている。金沢大学 角張氏

縄文人は他のアジア人と遺伝子的にかなり離れている

 DNAの近縁性で比較してみると、他のアジア人は1連の系列に並ぶ。

 赤の縄文人はほかのアジア人とかけ離れている。アジア人と縄文人の中間の薄茶の現代日本人。

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徳之島のウンブキ洞窟 

9000年前は氷期 今は水中洞窟だが、縄文時代初期は気温が低く、海水面が低かった。

洞窟に縄文人が住み、縄文土器が残る。

下図のように、大陸と日本も陸続きか距離が短く日本へ移動しやすかった。その後温暖化で海水面が上昇し、大陸と日本の距離が離れる。

 (氷河期にはマンモスやナウマンゾウが日本に渡ってきた。)

 約2万年前の大陸と日本の位置関係(下図)

 

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三内丸山遺跡(青森県)

独自の縄文文化 大きな建築物 火焔式土器 様々な土偶 など

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礼文島 寺泊遺跡(北海道)

当時は現在より礼文島は暖かかった。礼文島での人骨。下図の顔の復元は、この人骨から。

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縄文人の位置づけ 赤色

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 骨格とDNAにより縄文人の女性の顔の復元 1998年 2019年

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釣り針、石斧、貝のアクセサリー、貴重なヒスイのアクセサリー 遠距離との交易のしるし

糸魚川周辺からの交易によるヒスイ

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現代人に残る縄文のDNA(上図)

 東京、1割、沖縄、3割、アイヌ 7割

 

3、激動の時代(弥生時代)

(弥生時代は日本に農耕社会が成立する紀元前5世紀ころから始まる。

中国から水稲栽培、金属器、機織り技術などが日本に伝わる。

 紀元前5世紀から3世紀にかけては中国は戦国時代。戦いに敗れた各地の人々が日本へ逃れてきた。-色々な中国各地の人々のDNAを持った人々が日本に流入してきた。以後も中国の戦乱の旅に日本に逃れてきた。)

青谷上地遺跡  鉄製の武器 人骨が戦争で武器で傷つけられた跡

縄文、弥生のほかに第3のDNAがはいってきている

 

金沢 古墳時代の墓 3世紀から7世紀

第3のDNA 二重構造説の限界 3重構造モデルが必要

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アジアで動乱が続くーアジア各地方の大量の渡来人が日本に移住してきた。

下図

はじめ黄色の北東アジア系の人たち (ツングース系など)が渡来 ( 細面のお雛様方 百済、新羅、高句麗など)

  青色の中国各地方(東アジア)の人たちが渡来 戦乱を逃れ、次々に日本へ逃れてきた、

 

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日本人のルーツいろいろなところから

 モンゴル、北京、南中国、タイ、雲南省などの他の少数民族、ベトナム(キン族)など

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緑は漢、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済。 その後~五胡十六国の動乱など

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◎中国では動乱が続いた。中国の戦国時代、3世紀の魏 呉 蜀の三国時代、4世紀末 五胡の華北侵入,匈奴、6世紀 突くつの侵入

8世紀末唐代の~安史の乱、黄巣の乱  宋から元への争乱~

その騒乱のたびに日本へ逃げてきた人々 

言葉が通じない人々がたくさんいたであろう その状態は 中世ぐらいまで続く

従来の考え方

 縄文人と弥生人の二重構造説

 ところが現代の日本人のDNAを調べると、それ以外の遺伝子を持った日本人が多くを占める   水色部分

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    縄文人、赤  弥生人・黄色 古墳時代・多くのアジア人・青

    右端は現代日本人

 

◎日本人は多くのアジア人の吹だまり 他の本から、人相(顔相)

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上 坂本宇一郎 顏相と日本人 5つの顔 基本型

1、モンゴル型 2、北方ツングース型 3、中国江南型 4、海洋民族型 5、北方原住民型

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  「めんたんぴん」 による分類法

モンゴリアン(蒙古系・丸顔)  ミカドニアン(韓国系・細面キツネ顔)  ドラグーン(中国の仙人 山東省の人)  

ヤマタイ(日本人に多いタヌキ顔・南方系)  トロピカル(南方系)  オリジン(アイヌ系・縄文系)   

ミックス(モザイク)  ミックス(ブレンド)

◎こうしてみても、日本人がいかに多くの人々から成り立っているかがわかる。

2023年1月29日 (日)

「人(ヒト)は食べられて進化した」などというという本がいろいろあります。(14冊以上)

1,「ヒトは食べられて進化した」    ”Man the Hunted"

       ドナ・ハート、ロバートとW・サスマン 伊東伸子訳 2007年7月1日

  2010年第6刷  2200円+税   化学同人  356p

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トラ、ライオン、ヒョウ、ピューマ、クマ、オオカミ、ハイエナ、ヘビ,ワニ,ワシ

・・・人類の祖先は数々の肉食動物に捕食されていた脆弱な生き物だった。

多くの人が持ち続ける「人類=狩猟者」のイメージを徹底的に打ち破り、新たな

初期人類像を描き出す。

 

1960年代から70年にかけて南アフリカの遺物群を、ボブ・ブレインが調査し

化石の散らばり具合から、殺人者たるヒト科が寝床で行った殺傷行為の結果ではなく

~化石人骨は捕食者や歯肉あさりが食べ残した残骸だと云う事が明らかになった。

そして、若いアウストラロピテクスの頭骨片に空いた1対の穴が化石ヒョウの歯と完全に

一致することを、ブレインは見事に立証した。

p333 化石ヒョウの牙が化石人類の頭骨にぴったり合う、という写真。

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◎末尾の解説で元京都大学総長の山極寿一が、次のように書いています。

1968年に書かれた、”Man the Hunter”(人間―狩りをする者)1968年刊行

この本の人間観を全くひっくり返すものである。(人間―狩られるもの)として

ゴリラの家族でも、強力なオスがいないときには、樹上に寝床を作る

地上にはヒョウや、ワニや、ヘビが居てゴリラを襲うのである。

 

2、「人類は噛んで進化した」”Evolution ’S Bite”

   ”A Story of Teeth,Diet and Human Origins”

   歯と食性の謎をめぐる古人類学の発見

        ピーター・S・アンガー        河合信和訳   2019年9月2日

   3000円+税   原書房   367p

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更新世の始まりに起こった環境の変化。狩猟が、採集が、われわれを人間にした。

食料を集めてそれを処理する新しい道具が、われわれを人間にした。

又、料理がわれわれを、人間にしたかもしれない。

第6章 ヒトを人間にしたもの

アフリカのハッザ族はアフリカ最後の食糧採集民である。何がわれわれを人間にしたのか。

オルドヴァイ峡谷での、ホモ・ハビリスの発見。男は狩猟を。

人間の脳は多くのエネルギーを消費する。

おばあちゃんと根茎ほり 調理がヒトを人間にした。調理した食物の分配。社会的な絆を結ぶ。

食物の変化。小さな大臼歯とあご。脳の巨大化と腸の軽減。次に起きた新石器革命。

  ーヒトを人間にした一部のもの。

7章 新石器革命

 

8章 自らの成功の犠牲者

   本当に問題なのは、砂糖、すなわち卓上に置かれたグラニュー糖である。砂糖は歯を損なう

  齲歯を引き起こす細菌を助け、最近がコロニーをつくり、累積し、乳酸を産生するのを

  容易にするのだ。~狩猟採集民は大臼歯を12本持っているが、アメリカの典型的な歯科

  患者は8本しか持っていない。

  (ブログ筆者は大臼歯を11本もっています。)

3、「人は海辺で進化した」

   エレイン・モーガン                             

   1588円   どうぶつ社

        1998年3月11日  料理で~

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4,『人は感情によって進化した」

   石川幹人 進化心理学

   ディスカバー・トュエンティーワン出版

    ディスカバー携書

        1100円  2011年6月

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5、「ヒトはなぜ人間に進化した」

    12の仮説とその変遷

    〈ナレディ発見にあたり考えた)

   National Geographic

        2015年9月

 

6,「文化がヒトを進化させた」

   ジョセフ、ヘンリック

   2019年7月

   白揚社   3960円 

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7、「人は宗教を信じるように進化した」

   河田 雅経 東北大

   2021年12月

   インターネット記事

 

8.「人間はなぜ歌うのか」

   人間はなぜ歌うのか 歌の起源

   ジョーゼフ・ジョルダーニア

    アルク出版

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9.「ミラーリングの心理学 人は模倣して進化する」

   フィオナ・マーディン

   原書房  2021年8月

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10、「ヒトは家畜化して進化した」

  -私たちなぜ、寛容で、残酷な生き物になったのか 

   ブライアン・ヘア、  ヴィネッサ・ウッズ

   藤原多加夫訳

   白揚社 3300円 2022年6月3日

   

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◎本を読んでいませんが、英文の原題は、”友人関係(親友、友達)を強めて、生存競争にうち勝った”

というようなと思いますが、『人は家畜化して進化した』という日本語の題は何か、合わないように

感じられるのですが・・・。

 

11,ヒューマン なぜ人は人間になれたのか

   NHKスペシャル取材班

   880円

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12, 火の賜物 ヒトは料理で進化した

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  リチャード・ランガム 依田卓己訳

 

 13,この6つのおかげでヒトは進化した

    -つま先、親指、のど、笑い、涙、キス

  チップ・ウオルター

  2007年8月24日  2200円

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14、ヒトは病気とともに進化した

  太田博樹 長谷川真理子

  2013年12月20日  2970円

 

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15,人類は肉食で進化した

     福田一典

     NTT出版  2010年3月  4329円

 

近い本  ヒトは~

1,

 

2、ヒトはなぜ子育てが下手か

  戸川幸夫

3、ヒトはなぜ争うのか

  若原正巳

4,ヒトはなぜ助平になったか

 

5,ヒトはなぜ眠くなるのか

 

6,ヒトはどうして人間になったか

  R, リーキー、R,レヴィン

7、ヒトは狩人だった。

  福島章

8、ヒトはいつ人になるのか

  村松 聡

  日本評論社

2022年10月 4日 (火)

ペーボ博士  ネアンデルタール人のゲノム解析で ペーボ ノーベル医学・生理学賞

スエ―デン人でドイツのマックス・プランク研究所の,スヴァンテ・ペーボ博士が、ノーベル医学・生理学賞を受賞しました。

とっている新聞の扱いでは、赤旗が社会面トップに大きく掲載していました。日経新聞は小さくですが1面に記事が載っています、また社会面にかなりはのスペースで記事を書いています。毎日新聞は6面に少し記事が載っていました。

スヴァンテ・ペーボは日本には「ネアンデルタール人は私たちと交配した」という本が訳されてから有名になりました。原本は2014年に出版された”NEANDERTHAL  MAN~”です。日本では2015年6月30日、野中香方子訳 文藝春秋刊です。

ぺーボ氏のお父さんもノーベル賞受賞者です。

 また沖縄科学技術大学院大学の非常勤教授でもあります

赤旗

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日経新聞

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日経新聞

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毎日新聞

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2015年8月23日発売 スヴァンテ・ペーボ 文藝春秋 1750円+税 訳 野中香方子

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2015年8月 「こういちの人間学ブログ

 に関連したブログをたくさん書きました。

「ネアンデルタール人は私たちと交配した スヴァンテ・ペーボ」

  2015年8月23日

「ネアンデルタール人について 図像の変化」

  2015年8月10日   図像多数

「人類は多くの人類と共存した ネアンデルタール人 デニソワ人 赤鹿人」

  2015年8月17日

ネアンデルタール人の首飾り  岩城正夫監修 2008年  新評論

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2022年2月 6日 (日)

150万年前の原人化石 アフリカから移動の波多数 今度見つかった原人のほかに原人がいくつか

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/01/post-4422.html

参考 「アフリカ外最古の現生人類がイスラエルで発見~」詳しくは文末で

 

2020年2月6日の赤旗の12面の記事に「150万年前の原人化石」という記事がありました。

その内容を紹介いたします。

ゥぺイディア遺跡とその周辺の景観

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さまざまな角度から撮影した150万年前の原人の腰椎

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記事

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文章は下記で

イスラエル

150万年前原人の化石がイスラエルで見つかったと、同国などの国際研究グループが科学誌『サイエンティフィック・リポーツ』〈2日付)に発表しました。アフリカで誕生した原人がどのようにアフリカからユーラシアへと広がったかを考えるうえで重要だとしています。

 化石が見つかったのはイスラエル北部のウぺイディア遺跡。1960年から発掘が始まったこの遺跡からは、これまでに百数十万年前の石器や動物などの骨などの化石が多数見つかっています。イスラエルのバル・イラン大学などの国際研究グループは、これまでの発掘調査で出土した化石の中から約150万年前の原人の腰椎を発見しました。

 腰椎は6~12歳の子どものものとみられ、その大きさから身長は155センチ、体重は45から50キログラムと推定されました。大人になれば180センチメートル以上に成長したと考えられることがわかりました。

 東アフリカ・ケニアでは150~160万年前頃生きていた7~11歳で身長が約160cmの子どもの骨の化石が見つかっており、こちらも大人になれば180センチメートル以上になったと推定されます。研究グループはウベイディア遺跡で見つかった原人は、ケニアなどで見つかっている大型の原人が150万年前ごろアフリカを出てユーラシアに広がったことを示すとみています。

 一方、イスラエルより北に位置するコーカサス地方ジョージアのドマニシ遺跡では180万年前ごろのおとなの身長が140~160センチの原人の骨の化石が見つかっています。

 研究グループは今回の発見について、アフリカからユーラシアへの原人の移動の波が複数あったことを示すものだとしています。

 

こういちの人間学ブログ  2018年1月28日 文頭で

 「アフリカ外、最古現生人類がイスラエルで発見。ネアンデルタール人と重なる期間が長く」

  

2021年9月24日 (金)

現代日本人のルーツ大陸からの3起源に 金沢大グループ発表 古墳人(東アジアからの渡来人)が多数を占める 他の説についても

従来は縄文人に弥生時代、弥生人が到来し混血して、日本人になったといわれてきたが,金沢大学を中心とするグループの研究により、日本人のルーツは縄文人、弥生人のほか、大陸から到来した古墳人も含めた3つのルーツがあると、発表されました。

金沢大学の覚張隆史助教(考古分子生物学)らは2021年9月17日付の「サイエンス、アドバンシズ」に論文を発表しました。

これに関する記事は各新聞、テレビ等で報道されました。

 

読売新聞オンライン 「日本人の遺伝情報の変化」9月18日

 従来の、縄文時代人、弥生時代人の混血で日本人が成立したのではなく、古墳時代人も含めた3つのルーツで成り立っていると報告した。

 古墳時代に東アジア系の人々が大量に入り日本人では最大のグループをなすという学説。

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縄文人は南方由来の人々で、高床式住宅、鯨面(入れ墨)をした人々。当時の日本は温暖で青森の三内丸山古墳や礼文島の遺跡があるように日本の北方まで住んでいました。関東地方では海が関東の奥深く入り込んでいました(縄文海進)。人は当時、倭人と呼ばれ倭人は中国南部や、韓国にも住んでいました。朝鮮南部の人たちはやはり倭人と呼ばれていたのです。

弥生人は世界全体が寒冷化し中国北方(北東アジア)に住んでいたツングース系の人々(寒冷地適応をした満州族、女真族系の人たち)は南下していった。朝鮮では扶余国から高句麗が生じそこからさらに百済が生じた。南方の加羅(伽耶)国と日本の倭の国ぐには極めてルーツが近かった。当時の日本・弥生時代には小さな集落が分立していた。

◎弥生人には縄文系弥生人と弥生系弥生人とが存在した.弥生時代には東アジア人はいなかったのでしょうか。

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従来の学説

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KNB(北日本放送)ニュース

  日本人の祖先 大陸からの3集団

小竹貝塚(富山県)など6遺跡の人骨をゲノム解析

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県埋蔵文化財センターや金沢大学などの研究グループが米科学誌電子版に発表

人物は覚張助教

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縄文、弥生、古墳時代の国内の6遺跡で出土した人骨をゲノム解析

 

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従来の説

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新しい学説 約1400年前に古墳人(東アジアからの渡来人)が多数到来し日本人での多数派を占める。

 

◎1400年前は朝鮮では高句麗、新羅,伽耶の時代である。この時代に古墳人(東アジアからの渡来人)がたくさん到来したのでしょうか。倭の5王(巨大古墳のころ)が中国南朝に朝貢したころですが。紀元前221年に即位した秦の始皇帝の時代に中国から渡来している徐福のように中国からは東アジアから継続して渡来してきているようにも感じます。日本の古墳は300年ごろに現れ600年ころに終末期を迎えました。

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参考

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◎ミトコンドリアDNAハプログループの分布図 

 

「新版 日本人になった祖先たち」

    篠田謙一氏 NHKブックス  2019年3月20日 1300円+税より

DNAで系統をさぐる。母から子に伝わるミトコンドリアDNAと、男性に継承されるY染色体を構成するDNAなのです。

日本人の持つハプログループのそれぞれについて、どこで生まれ、どのような経路を通って日本に入ってきたかを現在利用できるデータをもとに見てゆくことにする。私たちの持つ16種類のDNAのルーツを明らかにする。

モンゴロイドのミトコンドリアDNA の主要なハプログループは、主として

  1,東南アジアから中国南部にかけて分布するもの 

      2,大陸中央部からバイカル湖を中心とした北方アジアに分布するもの

  3,アムール川の流域を中心にした沿海州に分布するもの

 

ハプログループD  東アジアの最大集団

   アメリカ先住民がD1と2 アジアに住むグループ,D4グループ、D5,D6 

   D4、D5で日本で4割を占める 中国北部の漢民族中心の人々 

        D4グループ(東アジア最大集団)は東アジア東北部 日本では32,6% 

   日本にも最も占める比率が大きい。D4a 7,4% D4b  2,4% D4d 2,7% D4その他19,7%

   D5は日本で4,8% 中国南部に多い

   あらゆる時期にあらゆるところから入ってきた人々。(弥生時代に以後多数入ってきた。)

ハプログループB  第2のグループ(7人に一人、14,3%)が4万年前日本へ、

   ハプログループBは 4万年前 中国南部で生じた。縄文人にも見つかっている 

   B4 9%  B5 4,3%

   環太平洋から アメリカ先住民にも広がる。

ハプログループM7 関西地方から中国にかけて 日本の基層集団を生む)

   沖縄では4人に一人と多い

   M7a 7,5% M7b  4,5%

   (とN9b 3,5%ほぼ日本列島だけに存在)

 

ハプログループA(7%)北東アジアのマンモスハンター 

   バイカル湖から南下して日本にまで到達

   (満州、朝鮮の扶余系ー高句麗、百済系か 日本の支配階級に)

ハプロGグループ(7%)カムチャッカと北東アジア 

   北方に特化する地域集団 朝鮮半島より日本へ

ハプロFグループ(5,3%)東南アジアの最大集団

ハプロN9a(4,6%) 中国南部由来、N9b(2,1%)

   関東以北の縄文人に多い

ハプロYグループ   アイヌの人に多い N9の側枝

ハプロM8a グループ     中原に分布  M8にM8aとCそして

    zという3つのグループがある

ハプロCグループ 中央アジア平原 日本ではほとんど見当たらぬ

ハプロzグループ  アジアとヨーロッパを結ぶ 徳川家治と生母がZ

M7a(7,5%)とN9b(2,1%)は日本独自のグループ

 

p98

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p114

日本人の持つミトコンドリア  DNAのハプログループ割合

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p140

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日本人の完成は古墳時代だった。 石倉氏  朝日新聞デジタル 9月18日

金沢市で発見された1500年前の古代人の骨の解析

従来の縄文人と弥生人の混血という説ではないことを明らかにした。

 

群馬県の渋川市の金井東裏遺跡で発掘された古墳人の骨の復元図

古墳人の顔の想像図

 

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現代日本人の成り立ち

北東アジア人

 バイカル湖から旧満州にかけて住んでいた人々

東アジア人

 幅広く東アジアに住んでいた人たち

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朝日新聞デジタル

従来は1991年に埴原和郎氏が提唱していた、縄文人と弥生人の2つがルーツであるという二重構造モデルが提唱されていた。

 

付記  邪馬台国の場所について

「日本古代史を科学する」PHP新書 という中田 力氏が書いた本がとても興味深いです。中田氏は自然科学者(脳科学)で自然科学の目で見た歴史について論じています。邪馬台国の位置は2説唱えられていますが、中田氏は宮崎であると主張されています。説明を読むとなるほどと思います。

Y染色体ハプログループを追いかけることにより父系の先祖をさかのぼることができる。

弥生、と呼ばれた時代は温帯ジャポニカを持った弥生人の渡来によるものである。その人々は上海地方から直接海を渡って日本の九州にわたっ人々なのである。

図19 Oハプロタイプ

 アジアの基本的なY染色体ハプロタイプはOである。

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図21 日本、中国、モンゴル、チベットの男性が持つY染色体ハプロタイプ

日本はO(水色)とD(草色)が最も多い。赤はCタイプ。紫はその他。

Oは上海あたりで枝分かれし他グループ 米作りの民となった。日本の弥生人を形成した人がO2で中国本土を離れている

越は百越と呼ばれた民族の国家 呉の滅亡そして海路で日本に逃れる。倭人はみづから 姫姓の呉の末裔と称していた。博多の奴国で光武帝から金印をもらう 。

秦の始皇帝の時、斉人の徐福に童・童女数千人を送って仙人を探させた。

卑弥呼(天照大神)の邪馬台国は魏王朝から金印を賜ること(天孫降臨)に成功し倭国の宗主国のとしての地位を固めることになる。やがて博多の奴国と結んだ邪馬台国は狗奴国を抑えることになる。

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弥生と呼ばれる時代は、温帯ジャポニカを持った弥生人の渡来によってもたらされた。上海地方から直接海を渡って日本の九州に到達した人々なのである。紀元前473年。呉の滅亡。倭人は呉の末裔と称していた、秦の時代、徐福に率いられた若き貴族の一団が日本に来た・

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漫画 ビックコミック・  オリジナルのなかの漫画「卑弥呼」も宮崎説にもとづいて書かれています。

 

2020年3月31日 (火)

2020年3月30日、赤旗科学欄に、「7万年以上前、インドの現生人類 大噴火生き延びたか?」追記 原人出現は20万年さかのぼる

記事 「大噴火生き延びたか? 一掃されたはずが・・・”証拠”の石器出土

   7万年以上前 インドの現生人類

現生人類(ホモ・サピエンス)を絶滅の危機に追い込んだとされる7万数千年前の火山大噴火。とりわけインドはその影響が大きく、アフリカを出てそこに到達していた人々は一掃されてしまったという説が有力です。ところが、インド北部の遺跡の発掘調査から、人々は大噴火の危機を乗り越え、そこで生き続けていたことを示す証拠が見つかったといいます。オーストラリア・クイーンズランド大学などの国際研究グループが科学誌『ネイチャー・コミュニケーションズ』[2月25日付)に発表しました。

 

7万4000年前ごろ、インドネシアのスマトラ島のトバ火山が過去200万年間で最大といわれる火山噴火を起こしました。この噴火の噴出物は2000立方キロメートルを超えたとされます。九州の広い範囲内だけでなく山口県にまで火砕流が押し寄せたとされる9万年前ごろの阿蘇山の噴出物が600立方キロメートルとされており、その噴火の巨大さが分かります。火山の噴火の規模を示す火山爆発指数では最大のカテゴリー8に位置付けられています。

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現生人類の出アフリカと遺跡

 赤線 定説(8万~5万年前)青線 定説より早い

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気温5度も低下

トバ火山の噴出物は東南アジアや南アジアを中心に世界中に降り注ぎました。また大気中に滞留して太陽の光をさえぎったため、地球の平均気温が5度も低下するような激しい寒冷化が長く続いたと指摘されています。この影響はさまざまな方面におよびましたが、中でも現生人類にとっては人口が極端に減少するなど、絶滅寸前まで追い詰められた出来事だったとする説があります。

この説が正しいかどうかを検証する上で最も注目されている場所がインドです。トバ火山が噴火したのは30~20万年前ごろアフリカで誕生した現生人類が8万~5万年前に誕生の地アフリカを出て世界各地へ広がろうとしていたと考えらているからです。

ダバ遺跡から出土した石器

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ダバの遺跡の発掘調査の様子

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研究グループはインド北部,マディア-プラデシュ州のミドル・ソン川の流域にあるダバ遺跡に注目しました。遺跡は8万~4万前にかけて現生人類が作ったとみられる石器が大量に出土しています。研究グループは、これらの石器の種類の変遷とその年代を詳しく調べれば、トバ火山の大噴火で現生人類がどのような影響を受けたのかが分かると考えたのです。

最新の年代測定技術を駆使して、これらの石器の年代を測定した結果、ダバ遺跡では8万~6万5000年前にかけて石器が連続的に出土し、これらの石器の種類に変化は見られなかったといいます。これは7万4000年前ごろに起こったトバ火山の大噴火に、ダバ遺跡で生活していた現生人類はそれほど大きな影響を受けず、生き延びることができたことを示すと研究グループはみています。

ダバ遺跡で見つかった8万~6万5000年前の石器は、アラブ首長国連邦のジュベル-ファヤ遺跡で見つかった12万年前頃の石器と似ていました。また6万5000年前と5000年前とされるオーストラリア北部のマジェドベベで見つかった石器とも似ていたといいます。

人類拡大の議論

現生人類がいつアフリカを出て世界は、各地に広がったかは、遺伝学的研究などから8万~5万年前ごろに1回だけだったとする見方が有力ですが、ジュベル・ファヤ遺跡を含め、それより古いとされる現生人類の遺跡がアフリカ以外の場所で見つかっており、議論が続けられています。

イスラエルでは以前からスクールやカフゼーの遺跡で10万年前頃の現生人類の化石が見つかっており、、2018年にはミスリア遺跡で見つかっていた化石が18万5000年前の現生人類のものと分かったと報告されています。

スクールやカフゼーの遺跡に足跡を残した現生人類は、その後地球の寒冷化に伴ってアフリカに戻ったか絶滅し、南下したネアンデルタール人と入れ替わったと考えられていますが、アフリカ以外の他の地に移動した可能性も考えられています。

研究グループは、ダバ遺跡で見つかった石器の種類が、ジュベル・マヤ遺跡や、マジェドベベ遺跡で見つかった石器と似ていたことは、定説より早い時期にアフリカを出た現生人類がいて、その人々がインドを経てオーストラリアへ到達したことを示している可能性があるとしています。

◎恐ろしいのは温暖化ではなく寒冷化

先日、NHKで放送した「食の起源」シリーズでは、ホモ・サピエンスが、トバ火山が噴火した時に地球が寒冷化し、食物も激減した時に、南アフリカに逃れた、ホモサピエンスが、波打ち際で貝類を食べて生き残った、と放送していました。いずれにしても、人口が2000人とか1万人とか、極端に減り絶滅寸前になったため、ホモ・サピエンスの遺伝子の変異が他の霊長類にくらべく少ないのだ、と説明していました。

アフリカだけでなく、インドにもホモ・サピエンスがいたということになると前に書いたことは成り立たなくなります。

2万1000年前から18000年前には最終氷期の極寒期となった。いずれにしても温暖期においては種は繁栄し、極寒期に絶滅する。地球上の平均気温が2℃以上上昇すると世界が破滅的な機器に陥るというが、そんなことはない。今までもっと温かい時期は生物も人類も繁栄しているのだ。

最終氷期の7万年の間に6回ほど急速に寒くなった時期があった。大陸にあった氷床が崩れ、巨大な氷山となって大西洋に漂流する、この1万年周期で起こる急速な寒冷化はハインリッヒ・イベントと呼ばれる。グリーンランドの気候はハインリッヒイベントが発生するごとに、グリーンランドの気温は3度から6度、急低下した。(『気候文明史』田家康)

2020年4月7日 追記

 2020年4月5日の赤旗14面に「原人ホモ・エレクトス 出現時期は200万年前 20万年さかのぼる」

の記事が掲載されました。

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オーストラリアのラ・トローブ大学などの国際研究グループが米科学誌「サイエンス」3日付に発表しました。

南アフリカのヨハネスブルクから北西約40キロのところにさまざまな人類の化石が見つかっている洞窟遺跡が点在する、人類のゆりかごと名付けられた世界遺産があります。ドリモレン洞窟で、150個以上に断片化した人類の頭蓋骨を発見しました。これは3~6才の子供のヅ骸骨と分かりました。これは200万年前に生きていたと推定されました。これまではコーカサス地方のドマニシ遺跡で見つかった180万年前の駅が最古でした。ホモエレクトスの起源がアフリカであることが確認できたとしています。

2019年8月29日 (木)

380万年前のアナム猿人の顔再現 最古のアウストラロピテクス 2019年8月新聞各紙で報道 アナム猿人とァファール猿人は共存か

380万年前の最古のアウストラロピテクスであるアナム猿人の顔が再現されました。2019年8月29日の新聞各紙に掲載されました。

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(上図)

(2019年8月29日の赤旗、社会・総合面14面にカラーで記事が載りました。

380万年前に生きていた猿人のほぼ完全な頭蓋骨化石がアフリカ東部のエチオピアで見つかったと、米クリーブランド自然史博物館のヨハネス・ハイレ=セラシエ博士たちの国際研究グループが、29日づけの科学誌『ネイチャー』に発表しました(日経と毎日では28日付)。アウストラロピテクス属としては最古のアナム猿人アウストラロピテクス・アナメンシス)成人男性であるとしており、頭蓋骨化石に基づく復顔像も公表されました。

 

下図 アナム猿人の複顔像(マット・クロウ撮影、米クリーブランド自然史博物館提供)

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(下図)エチオピアの発掘現場の地図 化石が見つかったのはエチオピア北東部のアファール凹地のウイランソ・ミル。

研究グループは2016年にこの化石を発見しました。頭蓋骨の化石の特徴を、これまでに見つかっているだまざまな種の化石と比較検討した結果、上顎や歯などがアナム猿人のものと最もよく一致することが分かりました。

新たに見つかったアナム猿人の頭蓋骨化石は、犬歯が大きいことなどから成人男性と判断されました。脳の大きさは370mlと推定されチンパンジー並み。頭蓋骨の形もこれまで知られているアウストラロピテクス属にくらべ原始的でより古い人類祖先とのつながりをうかがわせるといいます。

貌は縦に長く、中央部はくぼみ,上部が狭く、下部が突き出しているなどの特徴を持つこともわかりました。以前に見つかっていたアナム猿人の化石はあごの骨と歯が主で、脳の大きさや顔などはわかっていませんでした。年代測定で、頭蓋骨化石が見つかった地層の年代は、約380万年前と推定され、従来、アナム猿人が生きていたとされる年代より10万年新しいことが分かりました。

◎アナム猿人は従来では420万年~390万年前とされていましたが、今度発見された化石は380万年前のものであるとわかりました。

従来はアナム猿人やァファール猿人などを、華奢型猿人といい、顎が頑丈で草食のパラントロプスを頑丈型猿人といっていましたが、今は余りそういう言い方をしないようです。2018年11月に翻訳書が出された『人類の進化大図鑑』河出書房新社によれば、アナム猿人はまだ頭蓋骨が全部そろわず、復元図が載っていませんでした。 

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下図 アナム猿人の頭骸骨化石を持つ、ヨハネス・ハイレ=セラシエ博士(米クリーブランド自然史博物館提供)

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アナム猿人は、1994年にアフリカ東部のケニアにあるトゥルカナ湖の湖畔で発見された化石人類です。その後、エチオピアでも発見され、それらの化石の年代や発見場所を基に、420万~390万年前にアフリカ東部に住んでいたと考えられてきました。しかし、今回380万年前まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考えが塗り替えられる可能性が出てきました。

その一つが、同じアウストラロピテクス属のアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)との関係です。アファール猿人は390~300万年まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考え方が塗り替えられる可能性が出てきました。

アファール猿人はアナム猿人同様アフリカ東部に住んでいた化石人類で、エチオピアのアファール凹地で1974年発見され「ルーシー」と名づけられた全身骨格で広く知られています。アファール猿人はその後、現生人類とつながる進化の道筋で重要な位置を占めていたと考えられています。それぞれの化石の発見された年代や場所、化石の特徴などから、アナム猿人が先祖で、アファール猿人が子孫の関係にあるとする見方が示されていました。

しかし、今回の発見により、アナム猿人とアファール猿人は10万年の間、アフリカ東部で共存していた可能性が出てきました。研究グループは、アナム猿人とァファール猿人が祖先と子孫の関係だという見方に疑問を投げかけています。(間宮利夫)以上全文、赤旗より。

 

下図 同日の毎日新聞朝刊

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化石は頬骨が前に突き出し、耳の穴が小さく、脳を収容する空間が細長くて小さい。こうした特徴は700万年ごろの極めて初期の猿人に近いという。一方、頬骨が前に出ているなど、250万年前頃の比較的新しい特徴も持っていた。

(ワシントン共同)

下図 同日の日本経済新聞朝刊

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下図 同日の日本経済新聞

◎復元された顔はかなりチンパンジーに似ています。しかしアウストラロピテクス類は直立2足歩行をしていました。そこがチンパンジーと決定的に違います。

後日他の資料が書かれましたら追記します。8月30日追記しました。

 

2019年5月14日 (火)

縄文人の全ゲノム解析 起源3万8000年前か 国立科学博物館 日経新聞

2019年5月14日(火)の、日経新聞朝刊に「縄文人の起源 3万8000年前か 全ゲノム解析 国立科学博物館」という記事が載りました。

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が約3万8千年前~1万8千年前に大陸の集団から分かれたとみられることが分かったと発表した。日本人の祖先がどこからどこから来たのかといった謎にゲノムから初めて迫った貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌に発表する。

(研究チームには、他に国立遺伝学研究所の斉藤成也教授研究者や、札幌医科大学、金沢大、山梨大などの研究者研究者が参加しています)

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国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された約3800年前~3500年前の縄文時代後期の女性人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

 

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国立科学博物館

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団から分かれた時期が約3万8千年前から1万8千年前であることが判明したという。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から30000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことが、これまで知られていた。

今回の解析によると、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なっていた。東京でサンプルをとった本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が7割、沖縄県の人たちで3割だった。

 

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ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、縄文人のゲノムから説明できる可能性もあるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか、研究の進展が期待される。

今後研究チームはデータの解析を進める。配列を公開して、海外の研究機関との共同研究も検討していく。

◎大陸からの日本列島への流入には南西諸島や朝鮮半島からの流入もありますが、寒冷期に海水面が低下し大陸から樺太地方を通じての流入もあったのではないかと考えられます。船泊遺跡はかえってそのルートではないかとも考えられますがいかがでしょうか。

◎追 記:

船泊23号人骨の特長

性別は女性。

その瞳(虹彩)が茶色く、

髪の毛が細い,又ちじれている。

高脂肪食に適応した遺伝的特徴を持つ。このことは遺跡からアシカなどの骨が多数出土している状況とも一致する。

アルコールには強い。

背は低い―高くならない。

皮膚の色。は濃く、シミができやすい。

耳あかはウエット型。

などの遺伝子から判明したもの。下記の2018年3月14日のブログ参照。5月24日の日経新聞の記事で追加。

◎参考書

「新版 日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 篠田健一 NHKブックス 2019年3月20日 1300円プラス税

篠田謙一氏は1955年生まれ、京都大学理学部卒業、医学博士、国立科学博物館人類研究部長、専門は分子人類学。

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本の表カバーに船泊23号人骨の複顔像が載っています。

この遺跡からは南方産のイモガイでつくられたペンダントや、新潟産糸魚川産のヒスイ、さらにはシベリアでつくられたものと同じタイプの貝玉のアクセサリーなども見つかっており、礼文島の縄文人が広い地域と交流を持っていたことが示唆されています。p5

◎「こういちの人間学ブログ」2018年3月14日

 「ゲノム情報で縄文人の女性の顔復元 ビートたけしに似る?」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/03/post-cd8b.html

 

2019年5月24日の日経新聞「ニュースな科学」29面に「日本人の起源解明へ」、「縄文人の全ゲノム解明」という記事が載りました。

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ゲノム解析によって人類の起源を探る研究が加速している

2003年 ヒトゲノム解析が完了

2010年 ネアンデルタール人のDNA解析で、現代人のなかに彼ら由来の遺伝子が含まれることが判明

2014年 ネアンデルタール人のDNAが完全解析

2019年 日本列島の縄文人のDNAが完全に解析

アフリカを出た人類が東アジアに広がった。

5万~10万年前 アフリカ大陸から人類が拡散

4万~5万年前 東アジアに進出

3万8000年前~1万8000年前 日本列島進出

約1万5000年前 米国大陸進出

2019年5月 2日 (木)

デニソワ人はアジア人に大きく影響か デニソワ人はチベット高原にもいた。膨湖人などは原人ではなくデニソワ人?追記 3系統が存在か

2019年5月2日のしんぶん赤旗に、「姿不明のデニソワ人 チベット高原にもいた ゲノムで予想の広い分布 骨が裏付け」という記事が載りました。記事の内容は下記のようです。

姿形などがいまだ不明の、謎のデニソワ人が中国のチベット高原にもいたことがわかったと、中国やドイツなどの国際研究グループが2日付の科学誌『ネイチャー』に発表しました。これまで、存在の確実な証拠となる骨などはロシアのシベリア南部、アルタイ山脈にあるデニソワ洞窟でしかみつかっていませんでした。

デニソワ人がチベット高原にもいたことを示す証拠は、歯のついた下あごの骨の右半分です。チベット高原の一角にある中国甘粛省の標高3280メートルのところにある洞窟、白石崖溶洞で1980年に発見され、蘭州大学で保管されていました。

中国科学院や蘭州大学、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの研究者たちがこの骨と歯を調べた結果、ゲノム(全遺伝情報)を取り出すことはできませんでしたが、歯に残っていたタンパク質の解析からデニソワ人と判明した。骨に付着していた炭酸塩に含まれていたウランを使った年代測定の結果、少なくとも16万年前に生きていたことがわかりました。下あごの骨と歯の形態もデニソワ人と考えられる特徴を示していたといいます。

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デニソワ人と判明した下あごの骨と歯 上図

デニソワ人は2008年にデニソワ洞窟で骨や歯が発見されたことで存在が明らかになりました。このうち、約4万年前の小指から取り出されたゲノムが2010年に解読され、これまで知られているどの人類とも異なる未知の人類であることがわかりました。ネアンデルタール人と近縁な姉妹種と考えられています。

 

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デニソワ洞窟と白石崖溶洞と台湾やニューギニア島の位置関係(上図)

デニソワ洞窟には19万5000年前ごろから4万年前ごろにかけてデニソワ人が住んでいたことがわかっています。しかし、これまでに見つかっている骨などは断片的なものにすぎず、どんな人類だったか謎に包まれています。

 

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チベット高原の白石崖溶洞の内部(上図)

解説 「ゲノムで予想の広い分布 骨が裏付け」

デニソワ人は、ゲノム(全遺伝子情報)の研究からネアンデルタール人と47万~45万年前ごろに分かれた姉妹種であることがわかっています。同じデニソワ洞窟見つかったネアンデルタール人のゲノムを調べた結果、デニソワ人とネアンデルタール人が混血していたことが明らかになりました。またアジアやオセアニアなどに住む現代人がデニソワ人のゲノムの一部を受け継いでいることから、現生人類(ホモ・サピエンス)もデニソワ人と混血していたことが判明しています。

現代人のなかで、デニソワ人のゲノムを受け継いでいる比率が最も高いのはデニソワ洞窟から遠く離れたニューギニア島とその周辺の島々に住む人々です。このため、デニソワ人はデニソワ洞窟の周辺だけでなく、より広い範囲に分布していたのではないかと考えられていました。しかしデニソワ洞窟以外では骨などは見つかっていませんでした。今回の研究結果は、デニソワ人が実際に広い範囲に分布していたことを裏付けるものです。

チベット高原にデニソワ人がいたと発表した研究グループは、白石崖溶洞の下あごの骨の形態が、国立科学博物館人類学研究部の海部陽介研究グループ長たちが発表した台湾沖の海底から見つかった19万年前より新しいとみられる膨湖人や中国山西省の許家窯遺跡で見つかった12万5000~10万4000年前の人類化石と形態学的類似性があると指摘しています。この指摘が正しければ、デニソワ人の骨はチベット高原だけでなく、中国のほかの地域でもすでに見つかっていることになります。

今回の研究結果からチベット高原に人類が進出したのが、これまで考えられていたよりも少なくとも12万年さかのぼることが明らかになりました。これまで、低酸素の高地に適応できたのは現生人類だけとされ、実際チベット高原に人類が進出した証拠は4万~3万年前のものが最古でした。チベット高原に進出した現生人類はデニソワ人から受け継いだゲノムの一部によって高地適応を果たした可能性があると、研究グループはみています。

        間宮利夫

◎ 赤旗には他紙に先駆けて、人類の起源に関しての記事をよく書いています。たとえば、この記事は、4月2日の毎日、日経新聞には出ていませんでした。これはここに名前が書かれている間宮利夫氏が『ネイチャー』などの記事をいち早く記事を紹介している、ということです。(赤旗の記者である間宮利夫氏は『科学の今を読む』を新日本出版社で出版しています。)

このところ新種の人類化石が発見されています。「こういちの人間学ブログ」でも2015年1月に、第4の原人としての台湾沖の「膨湖人」について書きました。また2019年4月11日には、5万年~7万年前の第5の原人としてのフィリピン、ルソン島のルソン原人と相次いで報道されています。

45から47万年前ごろにネアンデルタール人がわかれ、ホモサピエンスも起源がおよそ20万年前ぐらいといわれている。ネアンデルタール人やデニソワ人もホモサピエンスの亜種とみる説がある。ホモ・サピエンスはホモ・サピエンス・サピエンス、ネアンデルタール人はホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと呼ぶのが正しいと思われます。亜種ですから混血可能です。ネアンデルタール人やデニソワ人はホモサピエンスと混血し、遺伝子がホモサピエンスに移入されている。ネアンデルタール人は3万年前ほどに絶滅したといいます。この中でずっと昔のジャワ原人や北京原人、フローレス原人とともにルソン人や膨湖人を原人と位置づけしていいものか疑問です.間宮氏の文章でも膨湖人はデニソワ人に近いと書いています。

他の人類と隔絶していたフローレス原人に比べて、5~7万年前のルソン原人や19万年前の膨湖人は原人というよりはデニソワ人かその近縁の亜種(ホモ・サピエンスの亜種)ぐらいがせいぜいと思いますが。

何とかデニソワ人の頭骨が発見され、顔の復元がされるのを心待ちしています。

2019年5月3日追記

5月3日の日経新聞朝刊にチベット高原で発見されたデニソワ人についての記事が載りました。

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5月3日の毎日新聞朝刊には、普通の記事には、載りませんでしたが、「余禄」に同じ内容がかかれました。

前半は雪男「イエティ」のことなどがかかれていますが、後半はチベット高原で見つかった、デニソワ人の化石のことでした。~どうやら未確認動物とは、まだまだ見知らぬ自分を内に秘めた人類自身のようだ。

追 記  5月6日の赤旗10面に大きくデニソワ人のことの記事のが大きく出ていました。

謎の人類 デニソワ人 3系統が存在か

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記事の全体 カラーで大きく取り上げられています

人骨の一部や歯が見つかる

シベリア南部のデニソワ洞窟で人骨の一部や歯の一部しか見つかっておりませんが,スバンテ・ペーボ博士らによるゲノムの研究から、肌は褐色で,髪と目は茶色だったことなどが明らかにされました。ネアンデルタール人や現生人類と混血していたことも明らかになっています。

デニソワ人を調べた結果、デニソワ洞窟でのデニソワ人と、オセアニアに行ったものとインドネシアに行ったものとの3系統のデニソワ人がいたことになります。

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インドネシア・カイ諸島の人々。デニソワ人のゲノムの一部を比較的多き受け継いでいます。

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3系統のデニソワ人が現生人類と混血か

3万年前頃混血の可能性世界各地に広がった現生人類(図中の黒い矢印)が3万年前ごろインドネシアの島々やニューギニア島でデニソワ人と混血した可能性があるとみています。ただそれよりも前にオーストラリアに渡ったとされる先住民にもデニソワ人のゲノムの一部が受け継がれていることから、現生人現生人類とデニソワ人の混血が3万年前だと説明がつかないといいます。

コックス教授らの研究結果は米科学誌『セル』4月11日付に発表されましたが、デニソワ人が何系統かに分かれていたという指摘はか、米ワシントン大学のシャロン・ブラウニング教授らの研究グループが昨年の5月の『セル』に発表しています。ブラウニング教授らは、東アジアに住む現生人類のゲノムの塩基配列を解読して調べた結果、東アジアの現生人類の祖先は2系統のデニソワ人と混血していたことが明らかになったとしていました。

研究グループはアフリカで30万~20万年ごろに誕生し、8万~6万年前ごろアフリカから出て

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復元した下あご全体の骨

人類の進化の多様な場示す

東アジアと東南アジアで今世紀に入ってインドネシアの小型のフローレス原人、台湾の膨湖原人、フィリピンで新種の原人、ルソン人が発見。

今回の発見は東アジアと東南アジアが多様な人類の進化の場だったことを改めて示しています。

 

 

 

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