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人間とは何か -人類学

2022年10月 4日 (火)

ペーボ博士  ネアンデルタール人のゲノム解析で ペーボ ノーベル医学・生理学賞

スエ―デン人でドイツのマックス・プランク研究所の,スヴァンテ・ペーボ博士が、ノーベル医学・生理学賞を受賞しました。

とっている新聞の扱いでは、赤旗が社会面トップに大きく掲載していました。日経新聞は小さくですが1面に記事が載っています、また社会面にかなりはのスペースで記事を書いています。毎日新聞は6面に少し記事が載っていました。

スヴァンテ・ペーボは日本には「ネアンデルタール人は私たちと交配した」という本が訳されてから有名になりました。原本は2014年に出版された”NEANDERTHAL  MAN~”です。日本では2015年6月30日、野中香方子訳 文藝春秋刊です。

ぺーボ氏のお父さんもノーベル賞受賞者です。

 また沖縄科学技術大学院大学の非常勤教授でもあります

赤旗

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日経新聞

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日経新聞

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毎日新聞

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2015年8月23日発売 スヴァンテ・ペーボ 文藝春秋 1750円+税 訳 野中香方子

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2015年8月 「こういちの人間学ブログ

 に関連したブログをたくさん書きました。

「ネアンデルタール人は私たちと交配した スヴァンテ・ペーボ」

  2015年8月23日

「ネアンデルタール人について 図像の変化」

  2015年8月10日   図像多数

「人類は多くの人類と共存した ネアンデルタール人 デニソワ人 赤鹿人」

  2015年8月17日

ネアンデルタール人の首飾り  岩城正夫監修 2008年  新評論

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2022年2月 6日 (日)

150万年前の原人化石 アフリカから移動の波多数 今度見つかった原人のほかに原人がいくつか

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/01/post-4422.html

参考 「アフリカ外最古の現生人類がイスラエルで発見~」詳しくは文末で

 

2020年2月6日の赤旗の12面の記事に「150万年前の原人化石」という記事がありました。

その内容を紹介いたします。

ゥぺイディア遺跡とその周辺の景観

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さまざまな角度から撮影した150万年前の原人の腰椎

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記事

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文章は下記で

イスラエル

150万年前原人の化石がイスラエルで見つかったと、同国などの国際研究グループが科学誌『サイエンティフィック・リポーツ』〈2日付)に発表しました。アフリカで誕生した原人がどのようにアフリカからユーラシアへと広がったかを考えるうえで重要だとしています。

 化石が見つかったのはイスラエル北部のウぺイディア遺跡。1960年から発掘が始まったこの遺跡からは、これまでに百数十万年前の石器や動物などの骨などの化石が多数見つかっています。イスラエルのバル・イラン大学などの国際研究グループは、これまでの発掘調査で出土した化石の中から約150万年前の原人の腰椎を発見しました。

 腰椎は6~12歳の子どものものとみられ、その大きさから身長は155センチ、体重は45から50キログラムと推定されました。大人になれば180センチメートル以上に成長したと考えられることがわかりました。

 東アフリカ・ケニアでは150~160万年前頃生きていた7~11歳で身長が約160cmの子どもの骨の化石が見つかっており、こちらも大人になれば180センチメートル以上になったと推定されます。研究グループはウベイディア遺跡で見つかった原人は、ケニアなどで見つかっている大型の原人が150万年前ごろアフリカを出てユーラシアに広がったことを示すとみています。

 一方、イスラエルより北に位置するコーカサス地方ジョージアのドマニシ遺跡では180万年前ごろのおとなの身長が140~160センチの原人の骨の化石が見つかっています。

 研究グループは今回の発見について、アフリカからユーラシアへの原人の移動の波が複数あったことを示すものだとしています。

 

こういちの人間学ブログ  2018年1月28日 文頭で

 「アフリカ外、最古現生人類がイスラエルで発見。ネアンデルタール人と重なる期間が長く」

  

2021年9月24日 (金)

現代日本人のルーツ大陸からの3起源に 金沢大グループ発表 古墳人(東アジアからの渡来人)が多数を占める 他の説についても

従来は縄文人に弥生時代、弥生人が到来し混血して、日本人になったといわれてきたが,金沢大学を中心とするグループの研究により、日本人のルーツは縄文人、弥生人のほか、大陸から到来した古墳人も含めた3つのルーツがあると、発表されました。

金沢大学の覚張隆史助教(考古分子生物学)らは2021年9月17日付の「サイエンス、アドバンシズ」に論文を発表しました。

これに関する記事は各新聞、テレビ等で報道されました。

 

読売新聞オンライン 「日本人の遺伝情報の変化」9月18日

 従来の、縄文時代人、弥生時代人の混血で日本人が成立したのではなく、古墳時代人も含めた3つのルーツで成り立っていると報告した。

 古墳時代に東アジア系の人々が大量に入り日本人では最大のグループをなすという学説。

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縄文人は南方由来の人々で、高床式住宅、鯨面(入れ墨)をした人々。当時の日本は温暖で青森の三内丸山古墳や礼文島の遺跡があるように日本の北方まで住んでいました。関東地方では海が関東の奥深く入り込んでいました(縄文海進)。人は当時、倭人と呼ばれ倭人は中国南部や、韓国にも住んでいました。朝鮮南部の人たちはやはり倭人と呼ばれていたのです。

弥生人は世界全体が寒冷化し中国北方(北東アジア)に住んでいたツングース系の人々(寒冷地適応をした満州族、女真族系の人たち)は南下していった。朝鮮では扶余国から高句麗が生じそこからさらに百済が生じた。南方の加羅(伽耶)国と日本の倭の国ぐには極めてルーツが近かった。当時の日本・弥生時代には小さな集落が分立していた。

◎弥生人には縄文系弥生人と弥生系弥生人とが存在した.弥生時代には東アジア人はいなかったのでしょうか。

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従来の学説

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KNB(北日本放送)ニュース

  日本人の祖先 大陸からの3集団

小竹貝塚(富山県)など6遺跡の人骨をゲノム解析

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県埋蔵文化財センターや金沢大学などの研究グループが米科学誌電子版に発表

人物は覚張助教

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縄文、弥生、古墳時代の国内の6遺跡で出土した人骨をゲノム解析

 

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従来の説

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新しい学説 約1400年前に古墳人(東アジアからの渡来人)が多数到来し日本人での多数派を占める。

 

◎1400年前は朝鮮では高句麗、新羅,伽耶の時代である。この時代に古墳人(東アジアからの渡来人)がたくさん到来したのでしょうか。倭の5王(巨大古墳のころ)が中国南朝に朝貢したころですが。紀元前221年に即位した秦の始皇帝の時代に中国から渡来している徐福のように中国からは東アジアから継続して渡来してきているようにも感じます。日本の古墳は300年ごろに現れ600年ころに終末期を迎えました。

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参考

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◎ミトコンドリアDNAハプログループの分布図 

 

「新版 日本人になった祖先たち」

    篠田謙一氏 NHKブックス  2019年3月20日 1300円+税より

DNAで系統をさぐる。母から子に伝わるミトコンドリアDNAと、男性に継承されるY染色体を構成するDNAなのです。

日本人の持つハプログループのそれぞれについて、どこで生まれ、どのような経路を通って日本に入ってきたかを現在利用できるデータをもとに見てゆくことにする。私たちの持つ16種類のDNAのルーツを明らかにする。

モンゴロイドのミトコンドリアDNA の主要なハプログループは、主として

  1,東南アジアから中国南部にかけて分布するもの 

      2,大陸中央部からバイカル湖を中心とした北方アジアに分布するもの

  3,アムール川の流域を中心にした沿海州に分布するもの

 

ハプログループD  東アジアの最大集団

   アメリカ先住民がD1と2 アジアに住むグループ,D4グループ、D5,D6 

   D4、D5で日本で4割を占める 中国北部の漢民族中心の人々 

        D4グループ(東アジア最大集団)は東アジア東北部 日本では32,6% 

   日本にも最も占める比率が大きい。D4a 7,4% D4b  2,4% D4d 2,7% D4その他19,7%

   D5は日本で4,8% 中国南部に多い

   あらゆる時期にあらゆるところから入ってきた人々。(弥生時代に以後多数入ってきた。)

ハプログループB  第2のグループ(7人に一人、14,3%)が4万年前日本へ、

   ハプログループBは 4万年前 中国南部で生じた。縄文人にも見つかっている 

   B4 9%  B5 4,3%

   環太平洋から アメリカ先住民にも広がる。

ハプログループM7 関西地方から中国にかけて 日本の基層集団を生む)

   沖縄では4人に一人と多い

   M7a 7,5% M7b  4,5%

   (とN9b 3,5%ほぼ日本列島だけに存在)

 

ハプログループA(7%)北東アジアのマンモスハンター 

   バイカル湖から南下して日本にまで到達

   (満州、朝鮮の扶余系ー高句麗、百済系か 日本の支配階級に)

ハプロGグループ(7%)カムチャッカと北東アジア 

   北方に特化する地域集団 朝鮮半島より日本へ

ハプロFグループ(5,3%)東南アジアの最大集団

ハプロN9a(4,6%) 中国南部由来、N9b(2,1%)

   関東以北の縄文人に多い

ハプロYグループ   アイヌの人に多い N9の側枝

ハプロM8a グループ     中原に分布  M8にM8aとCそして

    zという3つのグループがある

ハプロCグループ 中央アジア平原 日本ではほとんど見当たらぬ

ハプロzグループ  アジアとヨーロッパを結ぶ 徳川家治と生母がZ

M7a(7,5%)とN9b(2,1%)は日本独自のグループ

 

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日本人の持つミトコンドリア  DNAのハプログループ割合

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日本人の完成は古墳時代だった。 石倉氏  朝日新聞デジタル 9月18日

金沢市で発見された1500年前の古代人の骨の解析

従来の縄文人と弥生人の混血という説ではないことを明らかにした。

 

群馬県の渋川市の金井東裏遺跡で発掘された古墳人の骨の復元図

古墳人の顔の想像図

 

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現代日本人の成り立ち

北東アジア人

 バイカル湖から旧満州にかけて住んでいた人々

東アジア人

 幅広く東アジアに住んでいた人たち

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朝日新聞デジタル

従来は1991年に埴原和郎氏が提唱していた、縄文人と弥生人の2つがルーツであるという二重構造モデルが提唱されていた。

 

付記  邪馬台国の場所について

「日本古代史を科学する」PHP新書 という中田 力氏が書いた本がとても興味深いです。中田氏は自然科学者(脳科学)で自然科学の目で見た歴史について論じています。邪馬台国の位置は2説唱えられていますが、中田氏は宮崎であると主張されています。説明を読むとなるほどと思います。

Y染色体ハプログループを追いかけることにより父系の先祖をさかのぼることができる。

弥生、と呼ばれた時代は温帯ジャポニカを持った弥生人の渡来によるものである。その人々は上海地方から直接海を渡って日本の九州にわたっ人々なのである。

図19 Oハプロタイプ

 アジアの基本的なY染色体ハプロタイプはOである。

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図21 日本、中国、モンゴル、チベットの男性が持つY染色体ハプロタイプ

日本はO(水色)とD(草色)が最も多い。赤はCタイプ。紫はその他。

Oは上海あたりで枝分かれし他グループ 米作りの民となった。日本の弥生人を形成した人がO2で中国本土を離れている

越は百越と呼ばれた民族の国家 呉の滅亡そして海路で日本に逃れる。倭人はみづから 姫姓の呉の末裔と称していた。博多の奴国で光武帝から金印をもらう 。

秦の始皇帝の時、斉人の徐福に童・童女数千人を送って仙人を探させた。

卑弥呼(天照大神)の邪馬台国は魏王朝から金印を賜ること(天孫降臨)に成功し倭国の宗主国のとしての地位を固めることになる。やがて博多の奴国と結んだ邪馬台国は狗奴国を抑えることになる。

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弥生と呼ばれる時代は、温帯ジャポニカを持った弥生人の渡来によってもたらされた。上海地方から直接海を渡って日本の九州に到達した人々なのである。紀元前473年。呉の滅亡。倭人は呉の末裔と称していた、秦の時代、徐福に率いられた若き貴族の一団が日本に来た・

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漫画 ビックコミック・  オリジナルのなかの漫画「卑弥呼」も宮崎説にもとづいて書かれています。

 

2020年3月31日 (火)

2020年3月30日、赤旗科学欄に、「7万年以上前、インドの現生人類 大噴火生き延びたか?」追記 原人出現は20万年さかのぼる

記事 「大噴火生き延びたか? 一掃されたはずが・・・”証拠”の石器出土

   7万年以上前 インドの現生人類

現生人類(ホモ・サピエンス)を絶滅の危機に追い込んだとされる7万数千年前の火山大噴火。とりわけインドはその影響が大きく、アフリカを出てそこに到達していた人々は一掃されてしまったという説が有力です。ところが、インド北部の遺跡の発掘調査から、人々は大噴火の危機を乗り越え、そこで生き続けていたことを示す証拠が見つかったといいます。オーストラリア・クイーンズランド大学などの国際研究グループが科学誌『ネイチャー・コミュニケーションズ』[2月25日付)に発表しました。

 

7万4000年前ごろ、インドネシアのスマトラ島のトバ火山が過去200万年間で最大といわれる火山噴火を起こしました。この噴火の噴出物は2000立方キロメートルを超えたとされます。九州の広い範囲内だけでなく山口県にまで火砕流が押し寄せたとされる9万年前ごろの阿蘇山の噴出物が600立方キロメートルとされており、その噴火の巨大さが分かります。火山の噴火の規模を示す火山爆発指数では最大のカテゴリー8に位置付けられています。

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現生人類の出アフリカと遺跡

 赤線 定説(8万~5万年前)青線 定説より早い

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気温5度も低下

トバ火山の噴出物は東南アジアや南アジアを中心に世界中に降り注ぎました。また大気中に滞留して太陽の光をさえぎったため、地球の平均気温が5度も低下するような激しい寒冷化が長く続いたと指摘されています。この影響はさまざまな方面におよびましたが、中でも現生人類にとっては人口が極端に減少するなど、絶滅寸前まで追い詰められた出来事だったとする説があります。

この説が正しいかどうかを検証する上で最も注目されている場所がインドです。トバ火山が噴火したのは30~20万年前ごろアフリカで誕生した現生人類が8万~5万年前に誕生の地アフリカを出て世界各地へ広がろうとしていたと考えらているからです。

ダバ遺跡から出土した石器

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ダバの遺跡の発掘調査の様子

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研究グループはインド北部,マディア-プラデシュ州のミドル・ソン川の流域にあるダバ遺跡に注目しました。遺跡は8万~4万前にかけて現生人類が作ったとみられる石器が大量に出土しています。研究グループは、これらの石器の種類の変遷とその年代を詳しく調べれば、トバ火山の大噴火で現生人類がどのような影響を受けたのかが分かると考えたのです。

最新の年代測定技術を駆使して、これらの石器の年代を測定した結果、ダバ遺跡では8万~6万5000年前にかけて石器が連続的に出土し、これらの石器の種類に変化は見られなかったといいます。これは7万4000年前ごろに起こったトバ火山の大噴火に、ダバ遺跡で生活していた現生人類はそれほど大きな影響を受けず、生き延びることができたことを示すと研究グループはみています。

ダバ遺跡で見つかった8万~6万5000年前の石器は、アラブ首長国連邦のジュベル-ファヤ遺跡で見つかった12万年前頃の石器と似ていました。また6万5000年前と5000年前とされるオーストラリア北部のマジェドベベで見つかった石器とも似ていたといいます。

人類拡大の議論

現生人類がいつアフリカを出て世界は、各地に広がったかは、遺伝学的研究などから8万~5万年前ごろに1回だけだったとする見方が有力ですが、ジュベル・ファヤ遺跡を含め、それより古いとされる現生人類の遺跡がアフリカ以外の場所で見つかっており、議論が続けられています。

イスラエルでは以前からスクールやカフゼーの遺跡で10万年前頃の現生人類の化石が見つかっており、、2018年にはミスリア遺跡で見つかっていた化石が18万5000年前の現生人類のものと分かったと報告されています。

スクールやカフゼーの遺跡に足跡を残した現生人類は、その後地球の寒冷化に伴ってアフリカに戻ったか絶滅し、南下したネアンデルタール人と入れ替わったと考えられていますが、アフリカ以外の他の地に移動した可能性も考えられています。

研究グループは、ダバ遺跡で見つかった石器の種類が、ジュベル・マヤ遺跡や、マジェドベベ遺跡で見つかった石器と似ていたことは、定説より早い時期にアフリカを出た現生人類がいて、その人々がインドを経てオーストラリアへ到達したことを示している可能性があるとしています。

◎恐ろしいのは温暖化ではなく寒冷化

先日、NHKで放送した「食の起源」シリーズでは、ホモ・サピエンスが、トバ火山が噴火した時に地球が寒冷化し、食物も激減した時に、南アフリカに逃れた、ホモサピエンスが、波打ち際で貝類を食べて生き残った、と放送していました。いずれにしても、人口が2000人とか1万人とか、極端に減り絶滅寸前になったため、ホモ・サピエンスの遺伝子の変異が他の霊長類にくらべく少ないのだ、と説明していました。

アフリカだけでなく、インドにもホモ・サピエンスがいたということになると前に書いたことは成り立たなくなります。

2万1000年前から18000年前には最終氷期の極寒期となった。いずれにしても温暖期においては種は繁栄し、極寒期に絶滅する。地球上の平均気温が2℃以上上昇すると世界が破滅的な機器に陥るというが、そんなことはない。今までもっと温かい時期は生物も人類も繁栄しているのだ。

最終氷期の7万年の間に6回ほど急速に寒くなった時期があった。大陸にあった氷床が崩れ、巨大な氷山となって大西洋に漂流する、この1万年周期で起こる急速な寒冷化はハインリッヒ・イベントと呼ばれる。グリーンランドの気候はハインリッヒイベントが発生するごとに、グリーンランドの気温は3度から6度、急低下した。(『気候文明史』田家康)

2020年4月7日 追記

 2020年4月5日の赤旗14面に「原人ホモ・エレクトス 出現時期は200万年前 20万年さかのぼる」

の記事が掲載されました。

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オーストラリアのラ・トローブ大学などの国際研究グループが米科学誌「サイエンス」3日付に発表しました。

南アフリカのヨハネスブルクから北西約40キロのところにさまざまな人類の化石が見つかっている洞窟遺跡が点在する、人類のゆりかごと名付けられた世界遺産があります。ドリモレン洞窟で、150個以上に断片化した人類の頭蓋骨を発見しました。これは3~6才の子供のヅ骸骨と分かりました。これは200万年前に生きていたと推定されました。これまではコーカサス地方のドマニシ遺跡で見つかった180万年前の駅が最古でした。ホモエレクトスの起源がアフリカであることが確認できたとしています。

2019年8月29日 (木)

380万年前のアナム猿人の顔再現 最古のアウストラロピテクス 2019年8月新聞各紙で報道 アナム猿人とァファール猿人は共存か

380万年前の最古のアウストラロピテクスであるアナム猿人の顔が再現されました。2019年8月29日の新聞各紙に掲載されました。

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(上図)

(2019年8月29日の赤旗、社会・総合面14面にカラーで記事が載りました。

380万年前に生きていた猿人のほぼ完全な頭蓋骨化石がアフリカ東部のエチオピアで見つかったと、米クリーブランド自然史博物館のヨハネス・ハイレ=セラシエ博士たちの国際研究グループが、29日づけの科学誌『ネイチャー』に発表しました(日経と毎日では28日付)。アウストラロピテクス属としては最古のアナム猿人アウストラロピテクス・アナメンシス)成人男性であるとしており、頭蓋骨化石に基づく復顔像も公表されました。

 

下図 アナム猿人の複顔像(マット・クロウ撮影、米クリーブランド自然史博物館提供)

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(下図)エチオピアの発掘現場の地図 化石が見つかったのはエチオピア北東部のアファール凹地のウイランソ・ミル。

研究グループは2016年にこの化石を発見しました。頭蓋骨の化石の特徴を、これまでに見つかっているだまざまな種の化石と比較検討した結果、上顎や歯などがアナム猿人のものと最もよく一致することが分かりました。

新たに見つかったアナム猿人の頭蓋骨化石は、犬歯が大きいことなどから成人男性と判断されました。脳の大きさは370mlと推定されチンパンジー並み。頭蓋骨の形もこれまで知られているアウストラロピテクス属にくらべ原始的でより古い人類祖先とのつながりをうかがわせるといいます。

貌は縦に長く、中央部はくぼみ,上部が狭く、下部が突き出しているなどの特徴を持つこともわかりました。以前に見つかっていたアナム猿人の化石はあごの骨と歯が主で、脳の大きさや顔などはわかっていませんでした。年代測定で、頭蓋骨化石が見つかった地層の年代は、約380万年前と推定され、従来、アナム猿人が生きていたとされる年代より10万年新しいことが分かりました。

◎アナム猿人は従来では420万年~390万年前とされていましたが、今度発見された化石は380万年前のものであるとわかりました。

従来はアナム猿人やァファール猿人などを、華奢型猿人といい、顎が頑丈で草食のパラントロプスを頑丈型猿人といっていましたが、今は余りそういう言い方をしないようです。2018年11月に翻訳書が出された『人類の進化大図鑑』河出書房新社によれば、アナム猿人はまだ頭蓋骨が全部そろわず、復元図が載っていませんでした。 

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下図 アナム猿人の頭骸骨化石を持つ、ヨハネス・ハイレ=セラシエ博士(米クリーブランド自然史博物館提供)

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アナム猿人は、1994年にアフリカ東部のケニアにあるトゥルカナ湖の湖畔で発見された化石人類です。その後、エチオピアでも発見され、それらの化石の年代や発見場所を基に、420万~390万年前にアフリカ東部に住んでいたと考えられてきました。しかし、今回380万年前まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考えが塗り替えられる可能性が出てきました。

その一つが、同じアウストラロピテクス属のアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)との関係です。アファール猿人は390~300万年まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考え方が塗り替えられる可能性が出てきました。

アファール猿人はアナム猿人同様アフリカ東部に住んでいた化石人類で、エチオピアのアファール凹地で1974年発見され「ルーシー」と名づけられた全身骨格で広く知られています。アファール猿人はその後、現生人類とつながる進化の道筋で重要な位置を占めていたと考えられています。それぞれの化石の発見された年代や場所、化石の特徴などから、アナム猿人が先祖で、アファール猿人が子孫の関係にあるとする見方が示されていました。

しかし、今回の発見により、アナム猿人とアファール猿人は10万年の間、アフリカ東部で共存していた可能性が出てきました。研究グループは、アナム猿人とァファール猿人が祖先と子孫の関係だという見方に疑問を投げかけています。(間宮利夫)以上全文、赤旗より。

 

下図 同日の毎日新聞朝刊

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化石は頬骨が前に突き出し、耳の穴が小さく、脳を収容する空間が細長くて小さい。こうした特徴は700万年ごろの極めて初期の猿人に近いという。一方、頬骨が前に出ているなど、250万年前頃の比較的新しい特徴も持っていた。

(ワシントン共同)

下図 同日の日本経済新聞朝刊

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下図 同日の日本経済新聞

◎復元された顔はかなりチンパンジーに似ています。しかしアウストラロピテクス類は直立2足歩行をしていました。そこがチンパンジーと決定的に違います。

後日他の資料が書かれましたら追記します。8月30日追記しました。

 

2019年5月14日 (火)

縄文人の全ゲノム解析 起源3万8000年前か 国立科学博物館 日経新聞

2019年5月14日(火)の、日経新聞朝刊に「縄文人の起源 3万8000年前か 全ゲノム解析 国立科学博物館」という記事が載りました。

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が約3万8千年前~1万8千年前に大陸の集団から分かれたとみられることが分かったと発表した。日本人の祖先がどこからどこから来たのかといった謎にゲノムから初めて迫った貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌に発表する。

(研究チームには、他に国立遺伝学研究所の斉藤成也教授研究者や、札幌医科大学、金沢大、山梨大などの研究者研究者が参加しています)

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国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された約3800年前~3500年前の縄文時代後期の女性人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

 

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国立科学博物館

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団から分かれた時期が約3万8千年前から1万8千年前であることが判明したという。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から30000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことが、これまで知られていた。

今回の解析によると、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なっていた。東京でサンプルをとった本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が7割、沖縄県の人たちで3割だった。

 

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ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、縄文人のゲノムから説明できる可能性もあるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか、研究の進展が期待される。

今後研究チームはデータの解析を進める。配列を公開して、海外の研究機関との共同研究も検討していく。

◎大陸からの日本列島への流入には南西諸島や朝鮮半島からの流入もありますが、寒冷期に海水面が低下し大陸から樺太地方を通じての流入もあったのではないかと考えられます。船泊遺跡はかえってそのルートではないかとも考えられますがいかがでしょうか。

◎追 記:

船泊23号人骨の特長

性別は女性。

その瞳(虹彩)が茶色く、

髪の毛が細い,又ちじれている。

高脂肪食に適応した遺伝的特徴を持つ。このことは遺跡からアシカなどの骨が多数出土している状況とも一致する。

アルコールには強い。

背は低い―高くならない。

皮膚の色。は濃く、シミができやすい。

耳あかはウエット型。

などの遺伝子から判明したもの。下記の2018年3月14日のブログ参照。5月24日の日経新聞の記事で追加。

◎参考書

「新版 日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 篠田健一 NHKブックス 2019年3月20日 1300円プラス税

篠田謙一氏は1955年生まれ、京都大学理学部卒業、医学博士、国立科学博物館人類研究部長、専門は分子人類学。

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本の表カバーに船泊23号人骨の複顔像が載っています。

この遺跡からは南方産のイモガイでつくられたペンダントや、新潟産糸魚川産のヒスイ、さらにはシベリアでつくられたものと同じタイプの貝玉のアクセサリーなども見つかっており、礼文島の縄文人が広い地域と交流を持っていたことが示唆されています。p5

◎「こういちの人間学ブログ」2018年3月14日

 「ゲノム情報で縄文人の女性の顔復元 ビートたけしに似る?」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/03/post-cd8b.html

 

2019年5月24日の日経新聞「ニュースな科学」29面に「日本人の起源解明へ」、「縄文人の全ゲノム解明」という記事が載りました。

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ゲノム解析によって人類の起源を探る研究が加速している

2003年 ヒトゲノム解析が完了

2010年 ネアンデルタール人のDNA解析で、現代人のなかに彼ら由来の遺伝子が含まれることが判明

2014年 ネアンデルタール人のDNAが完全解析

2019年 日本列島の縄文人のDNAが完全に解析

アフリカを出た人類が東アジアに広がった。

5万~10万年前 アフリカ大陸から人類が拡散

4万~5万年前 東アジアに進出

3万8000年前~1万8000年前 日本列島進出

約1万5000年前 米国大陸進出

2019年5月 2日 (木)

デニソワ人はアジア人に大きく影響か デニソワ人はチベット高原にもいた。膨湖人などは原人ではなくデニソワ人?追記 3系統が存在か

2019年5月2日のしんぶん赤旗に、「姿不明のデニソワ人 チベット高原にもいた ゲノムで予想の広い分布 骨が裏付け」という記事が載りました。記事の内容は下記のようです。

姿形などがいまだ不明の、謎のデニソワ人が中国のチベット高原にもいたことがわかったと、中国やドイツなどの国際研究グループが2日付の科学誌『ネイチャー』に発表しました。これまで、存在の確実な証拠となる骨などはロシアのシベリア南部、アルタイ山脈にあるデニソワ洞窟でしかみつかっていませんでした。

デニソワ人がチベット高原にもいたことを示す証拠は、歯のついた下あごの骨の右半分です。チベット高原の一角にある中国甘粛省の標高3280メートルのところにある洞窟、白石崖溶洞で1980年に発見され、蘭州大学で保管されていました。

中国科学院や蘭州大学、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの研究者たちがこの骨と歯を調べた結果、ゲノム(全遺伝情報)を取り出すことはできませんでしたが、歯に残っていたタンパク質の解析からデニソワ人と判明した。骨に付着していた炭酸塩に含まれていたウランを使った年代測定の結果、少なくとも16万年前に生きていたことがわかりました。下あごの骨と歯の形態もデニソワ人と考えられる特徴を示していたといいます。

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デニソワ人と判明した下あごの骨と歯 上図

デニソワ人は2008年にデニソワ洞窟で骨や歯が発見されたことで存在が明らかになりました。このうち、約4万年前の小指から取り出されたゲノムが2010年に解読され、これまで知られているどの人類とも異なる未知の人類であることがわかりました。ネアンデルタール人と近縁な姉妹種と考えられています。

 

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デニソワ洞窟と白石崖溶洞と台湾やニューギニア島の位置関係(上図)

デニソワ洞窟には19万5000年前ごろから4万年前ごろにかけてデニソワ人が住んでいたことがわかっています。しかし、これまでに見つかっている骨などは断片的なものにすぎず、どんな人類だったか謎に包まれています。

 

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チベット高原の白石崖溶洞の内部(上図)

解説 「ゲノムで予想の広い分布 骨が裏付け」

デニソワ人は、ゲノム(全遺伝子情報)の研究からネアンデルタール人と47万~45万年前ごろに分かれた姉妹種であることがわかっています。同じデニソワ洞窟見つかったネアンデルタール人のゲノムを調べた結果、デニソワ人とネアンデルタール人が混血していたことが明らかになりました。またアジアやオセアニアなどに住む現代人がデニソワ人のゲノムの一部を受け継いでいることから、現生人類(ホモ・サピエンス)もデニソワ人と混血していたことが判明しています。

現代人のなかで、デニソワ人のゲノムを受け継いでいる比率が最も高いのはデニソワ洞窟から遠く離れたニューギニア島とその周辺の島々に住む人々です。このため、デニソワ人はデニソワ洞窟の周辺だけでなく、より広い範囲に分布していたのではないかと考えられていました。しかしデニソワ洞窟以外では骨などは見つかっていませんでした。今回の研究結果は、デニソワ人が実際に広い範囲に分布していたことを裏付けるものです。

チベット高原にデニソワ人がいたと発表した研究グループは、白石崖溶洞の下あごの骨の形態が、国立科学博物館人類学研究部の海部陽介研究グループ長たちが発表した台湾沖の海底から見つかった19万年前より新しいとみられる膨湖人や中国山西省の許家窯遺跡で見つかった12万5000~10万4000年前の人類化石と形態学的類似性があると指摘しています。この指摘が正しければ、デニソワ人の骨はチベット高原だけでなく、中国のほかの地域でもすでに見つかっていることになります。

今回の研究結果からチベット高原に人類が進出したのが、これまで考えられていたよりも少なくとも12万年さかのぼることが明らかになりました。これまで、低酸素の高地に適応できたのは現生人類だけとされ、実際チベット高原に人類が進出した証拠は4万~3万年前のものが最古でした。チベット高原に進出した現生人類はデニソワ人から受け継いだゲノムの一部によって高地適応を果たした可能性があると、研究グループはみています。

        間宮利夫

◎ 赤旗には他紙に先駆けて、人類の起源に関しての記事をよく書いています。たとえば、この記事は、4月2日の毎日、日経新聞には出ていませんでした。これはここに名前が書かれている間宮利夫氏が『ネイチャー』などの記事をいち早く記事を紹介している、ということです。(赤旗の記者である間宮利夫氏は『科学の今を読む』を新日本出版社で出版しています。)

このところ新種の人類化石が発見されています。「こういちの人間学ブログ」でも2015年1月に、第4の原人としての台湾沖の「膨湖人」について書きました。また2019年4月11日には、5万年~7万年前の第5の原人としてのフィリピン、ルソン島のルソン原人と相次いで報道されています。

45から47万年前ごろにネアンデルタール人がわかれ、ホモサピエンスも起源がおよそ20万年前ぐらいといわれている。ネアンデルタール人やデニソワ人もホモサピエンスの亜種とみる説がある。ホモ・サピエンスはホモ・サピエンス・サピエンス、ネアンデルタール人はホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと呼ぶのが正しいと思われます。亜種ですから混血可能です。ネアンデルタール人やデニソワ人はホモサピエンスと混血し、遺伝子がホモサピエンスに移入されている。ネアンデルタール人は3万年前ほどに絶滅したといいます。この中でずっと昔のジャワ原人や北京原人、フローレス原人とともにルソン人や膨湖人を原人と位置づけしていいものか疑問です.間宮氏の文章でも膨湖人はデニソワ人に近いと書いています。

他の人類と隔絶していたフローレス原人に比べて、5~7万年前のルソン原人や19万年前の膨湖人は原人というよりはデニソワ人かその近縁の亜種(ホモ・サピエンスの亜種)ぐらいがせいぜいと思いますが。

何とかデニソワ人の頭骨が発見され、顔の復元がされるのを心待ちしています。

2019年5月3日追記

5月3日の日経新聞朝刊にチベット高原で発見されたデニソワ人についての記事が載りました。

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5月3日の毎日新聞朝刊には、普通の記事には、載りませんでしたが、「余禄」に同じ内容がかかれました。

前半は雪男「イエティ」のことなどがかかれていますが、後半はチベット高原で見つかった、デニソワ人の化石のことでした。~どうやら未確認動物とは、まだまだ見知らぬ自分を内に秘めた人類自身のようだ。

追 記  5月6日の赤旗10面に大きくデニソワ人のことの記事のが大きく出ていました。

謎の人類 デニソワ人 3系統が存在か

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記事の全体 カラーで大きく取り上げられています

人骨の一部や歯が見つかる

シベリア南部のデニソワ洞窟で人骨の一部や歯の一部しか見つかっておりませんが,スバンテ・ペーボ博士らによるゲノムの研究から、肌は褐色で,髪と目は茶色だったことなどが明らかにされました。ネアンデルタール人や現生人類と混血していたことも明らかになっています。

デニソワ人を調べた結果、デニソワ洞窟でのデニソワ人と、オセアニアに行ったものとインドネシアに行ったものとの3系統のデニソワ人がいたことになります。

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インドネシア・カイ諸島の人々。デニソワ人のゲノムの一部を比較的多き受け継いでいます。

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3系統のデニソワ人が現生人類と混血か

3万年前頃混血の可能性世界各地に広がった現生人類(図中の黒い矢印)が3万年前ごろインドネシアの島々やニューギニア島でデニソワ人と混血した可能性があるとみています。ただそれよりも前にオーストラリアに渡ったとされる先住民にもデニソワ人のゲノムの一部が受け継がれていることから、現生人現生人類とデニソワ人の混血が3万年前だと説明がつかないといいます。

コックス教授らの研究結果は米科学誌『セル』4月11日付に発表されましたが、デニソワ人が何系統かに分かれていたという指摘はか、米ワシントン大学のシャロン・ブラウニング教授らの研究グループが昨年の5月の『セル』に発表しています。ブラウニング教授らは、東アジアに住む現生人類のゲノムの塩基配列を解読して調べた結果、東アジアの現生人類の祖先は2系統のデニソワ人と混血していたことが明らかになったとしていました。

研究グループはアフリカで30万~20万年ごろに誕生し、8万~6万年前ごろアフリカから出て

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復元した下あご全体の骨

人類の進化の多様な場示す

東アジアと東南アジアで今世紀に入ってインドネシアの小型のフローレス原人、台湾の膨湖原人、フィリピンで新種の原人、ルソン人が発見。

今回の発見は東アジアと東南アジアが多様な人類の進化の場だったことを改めて示しています。

 

 

 

2019年4月11日 (木)

フィリピン・ルソン島で第5のルソン原人・5万~7万年前の化石が発見されたと報道されました

2019年4月11日の新聞各紙やインタ―ネットに、アジア第5の原人がフィリピンのルソン島で発見されたという記事が報道されました。

日経新聞の記事から アジア第5の原人 5万年以上前の化石

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赤旗の記事から 比で新種人類化石 5万~7万年前

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時事通信の記事から 5万年以上前の人類、新種=フィリピン・ルソン島で化石発見

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上はカヤオ洞窟、下はカヤオ洞窟で見つかった新種人類の歯

記事の内容をまとめてみますと、

フィリピンのルソン島北部にあるカラオ洞窟で5万~6万7000前ごろに生きていた新種の人類の化石が見つかったと、フランス国立自然史博物館やフィリピン大などの国際研究チームが4月10日付の英科学誌『ネイチャー電子版』に発表しました。2007年に人類の足の指の骨の化石が見つかってから発掘調査が続けられ、これまでに歯や手と足の指、太ももの骨の化石が見つかっています。

研究グループがこれらの歯や骨の化石の形態を調べ、現生人類やさまざまな原人や猿人のものと比較してヒト(ホモ)属と確認しました。しかし,小臼歯と臼歯の大きさや形、手足の指の形状から、現生人類やジャワ原人、フローレス原人とは異なる新種と判断、ルソンの人を意味する「ホモ・ルゾネンシス」と名付けました。 

インドネシアのフローレス島に生存していたフローレス原人は2003年以降に発見されてから、「ホモ・フロシエンス」と名付けられ、10万年前から6万年前(5万年前とも)に生存していたとみられます。

同じころ東南アジアにはジャワ原人やフローレス原人がおり、現生人類(ホモサピエンス)もいたという報告があります。ルソン島北部では約70万年前とみられる石器も見つかっているが、ルゾネンシスとの関係は不明。

国立科学博物館の海部陽介人類史研究グループ長は「現生人類のように進歩的な面と、チンパンジーなどにみられる原始的な面が混じっている。ルソン原人と呼んでいいと思う。アジアに多様な人類がいたことが示された 新化石の形態は奇妙で、現時点で進化上の由来としているのは妥当な結論と思う」と話している。(日経・時事通信)

札幌医大の松村博文教授(形質人類学)の話(日経新聞)(猿人に近い印象)

足の指の骨が大きくカーブしており百万年前に生息していた猿人のアウストラロピテクスに近い印象だ。現生人類と同じホモ属の新種だが、研究チームは名称を付けるのに悩んだのではないか。化石はこの種が約6万年前と比較的最近までルソン島に生息していたことを示している。これまでは化石の数が少なく、新種かどうかで論争があったが、追加の化石が見つかったことで決着がついた。

カナダ・レイクヘッド大学のマシューシェリ博士はネイチャーに(今回の発表は、今後東南アジア人類に関する議論に)火をつけるだろう」とコメントしています。(赤旗)

◎筆者の感想

日経新聞のいうアジア第5の原人、というのが今度の5万~7万年前のルソン人のほかに、どの人類を言っているのかがわかりません。北京原人(68~78万年前)などに続き5種類目、といっています。あとはジャワ原人(170~180万年前)とフローレス原人(12000年前まで)らしいのですが・・・。 あと一つは何でしょうか。

4つ目の原人とは海部氏によれば、台湾で見つかった膨湖人のようです。インターネットによれば、やはり19万年前から1万年の膨湖人のようです。

ただ、南中国の赤鹿人でしょうか、日本での明石原人でしょうか。原人ではないのですが、デニソワ人(4万年前)もいます。いずれにしても、いろいろな人類がいて、これからも未知な人類が発見されることでしょう。

「こういちの人間学ブログ」2015年1月

1、台湾にアジア第4の原人(膨湖人)、2、ピケティ~

 

2019年1月31日 (木)

シカの歯ペンダント 謎の旧人デニソワ人が作製?ネアンデルタール人も作製、現生人類との差縮まる。

2019年1月31日の赤旗に,「シカの歯ペンダント 謎の旧人デニソワ人が作製?という記事が載っていました。ネアンデルタール人はすでに装飾品を作っていたとされていますので。デニソワ人も装飾品を作っているとしたら、いわゆる旧人といわれるネアンデルタール人、デニソワ人と現生人類との差は少なくなります。従来は、ペンダントなどの装飾品の製造は現生人類(ホモ・サピエンス)だけが始めたといわれていました。
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◎デニソワ人は2008年に発見。2010年にDNA解析が行われたと発表された。ネアンデルタール人とデニソワ人との混血の骨も見つかっている。残念ながら頭骨の化石はまだ見つかっておらず、顔の復元は行われていない。
南シベリアーロシアと中国とモンゴルの国境地帯のデニソワ洞窟で見つかっていた、シカの歯を加工してつくったペンダントは、謎の旧人デニソワ人が作った可能性があると、ドイツのマックスプランク人類史学研究所のカテリーナ・ドウカ博士たちの国際研究グループが31日付の科学誌『ネイチャー』に発表しました。
40年ほど前から発掘が行われているデニソワ洞窟ではネアンデルタール人の骨や、小指の骨から抽出したDNAにもとづくゲノム(全遺伝情報)から、ネアンデルタール人の姉妹種とみられるデニソワ人の骨や歯、デニソワ人の父とネアンデルタール人の母から生まれた女の子の骨、さらに石器、動物の骨や象牙で作ったペンダントなどの人工物が見つかっています。
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デニソワ洞窟で見つかった人工物。中央と右の穴のあいている穴のあいているのが,シカの歯でつくったペンダント。
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デニソワ洞窟
研究グループは、ネアンデルタール人やデニソワ人がいつ頃どのようにデニソワ洞窟を利用していたのかを明らかにするため、さまざまな方法で、骨や歯、人工物の50の試料について年代測定を行いました。
その結果、デニソワ人は早ければ19万5000年前からデニソワ洞窟に住んでいたこと、アカシカやヘラジカの歯を加工してつくったペンダントの製作年代は4万9000年前から4万3000年前であることなどがわかりました。
従来、ペンダントなどの装飾品の製造は現生人類(ホモ・サピエンス)が始めたとされてきました。しかも、当時のデニソワ洞窟では現生人類が当時住んでいたことを示す証拠が見つかっていないことなどからデニソワ人がシカの歯を加工してペンダントを作った可能性があるとしています。
Natureによれば、今回Z・Jacobs、たちは光ルミネッセンス年代測定法を用いて、デニソワ洞窟の編年を確立し、この洞窟の約30万~2万年を調べた。
この時代には、デニソワ人とネアンデルタール人と現生人類が同時にすんでいたと思われている。
◎当時のアジアでは、中国南部にはさらには赤鹿人が住んでいて、ジャワのほうにはフローレンス人も住んでいて、わかるだけで5種類です。またさらには,未だ未知の人類があるかもしれません。きわめて多くの人類が共存していたことがわかります。
ネアンデルタール人の装飾品については
「こういちの人間学ブログ」
「ネアンデルタール人の首飾り 岩城正夫氏の解説についても

2019年1月16日 (水)

人骨に向き合って、人類学者土肥直美さんに聞く 沖縄の旧石器人について解明か

2018年4月21日の「こういちの人間学ブログ」の記事で、「国内最古の旧石器人の人骨 石垣島で発見   港川人との違いは 国内最古の顔復元」というものを書きました。
2019年1月12日(土)から3日間にわたって、この人骨の発見者である、人類学者の土肥直美さんの話が赤旗に載っていたので紹介します。(記者、間宮利夫)
◎土肥(どい)直美さんは、1945年(昭和20年)生まれ、現在73歳。九州大学理学部卒業、その後九州大学大学で助手に、その後、あこがれの西表島での調査をきっかけに沖縄に移り住んで四半世紀になります。1992年に琉球大学医学部解剖学教室に単身、赴任。その後准教授となり、その後非常勤講師になりました。
古くは27000年前の旧石器時代から、100年ほど前までの近代まで、1000人もの人の骨と向き合い先人たちの声なき声に耳を傾けてきました。
著書
「沖縄骨語り」人類学が迫る沖縄人のルーツ 2018年4月29日 琉球新報社
なかなか興味深い内容でしたので、新聞記事全文を転記、掲載しました。最初にあげたブログでは港川人の想像図が載っていて興味深いのでぜひご覧ください。
「人骨に向き合って」-沖縄で四半世紀
1、生と死の近さに驚いて  2019年1月12日
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白保竿根田原洞窟遺跡4号人骨の複顔像
「顔を復元」
ー昨年、東京の国立科学博物館で開かれた「沖縄の旧石器時代が熱い」の展示でおとづれた人の目を人の目をひときわ引き付けたものがあります。土肥さんたちが復元した石垣島白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞窟遺跡で見つかった27000年前の旧石器時代の人の顔です。旧石器時代の人の顔が復元されたのは、日本では、沖縄・八重瀬町の港川人以来2例目です
保存状態がよかった4つの頭骨の一つです。保存状態がよいとはいえ、欠けた部分もありますから完全ではありません。国立科学博物館の河野玲子さん(現慶応大学准教授)と、コンピューターでかけた部分を補うデジタル復元という新しい技術を使いました。その方法で完成した頭骨に、DNA解析に基づく情報や石垣島の気候などを考慮して肉付けしたり肌の色を決めたりして複顔しました。
通常、骨が完成すればそれでよしということになるのですが、やっぱりどんな顔か見てみたい。かっこいいきりりとした顔立ちだったので大満足です。まわりからも、沖縄ではけっこう見かける顔だと言っていただき、ほっとしています。
「ある衝撃
ー1990年代初め、九州大学医学部で助手として人骨の研究をしていた時、西表島でダムの建設に伴って古いお墓が沈んでしまうらしいという話を聞いて初めて沖縄へ。その時受けた驚きが、単身沖縄に住み、研究を始めるきっかけになったといいます。
 学生時代は理学部で生態学を研究しました。京都大学の人たちがアフリカで類人猿の研究を始めたというのを聞いて、自分も自分も人類進化の研究をやれたらいいなと思ったのですが,九大理学部にはそういうコースがなく、マイマイ(カタツムリ)にマニキュアをぬって印をつけ、生態を追う毎日でした。
学生時代にかなりのエネルギーを注いだのが探検部です。当時顧問だった医学部解剖学教室の永井昌文教授が私のことを覚えていてくれて、後に助手に採用してもらい、念願だった人類学の研究をスタートすることができました。
探検部のころイリオモテヤマネコが発見され、西表島はみんなの憧れの場所でした。案内してくれた方は「夕方迎えに来るから」っていうので、1人でスケッチしたり、写真を撮ったり、丹念に観察しました。
集落の裏山の岩陰の草むらに人骨がごろごろという状態で,生と死がすごく近い感じでカルチャーショックを受けました。18から19世紀の墓だと思いますけど、これをダムで沈ませていいものだろうかと、怖いもの知らずで県の教育委員会に行き「なんとかなりませんか」って言ったら、水位を下げてくれたんです。
その後、他の人類学者と何度か調査しましたが、その時は沖縄で職があるとは全く思っていませんでした。ところが1年後に琉球大学医学部に赴任することになったのですから、人骨が呼んでくれたのかな。
2 、沖縄・アイヌ骨格似ず 2019年1月13日
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王族の顔
ー1992年に単身琉球大学に赴任し、沖縄のあちこちの発掘調査に参加発掘。数万年前から沖縄の島々で生きた1000人もの人骨と向き合い、その移り変わりを目の当たりにしてきました。中でも浦添市の王陵(王の墓)「浦添ようどれ」で出会ったある人物の顔が印象に残っているといいます。
浦添ようどれは沖縄が北山,中山,南山との3つに分かれていた三山時代の13世紀後半中山王英祖(英祖)が作り、のちに琉球王国の第二尚氏七代王尚寧が改修した墓で、調査の結果、英祖王陵には100人以上が葬られていることがわかりました。英祖とその一族とみられます。
英祖王陵の石棺の一つに納められた頭骨を合わせた結果、王族ということで想像していた
顔つきと異なり,歯が前に突き出していました。突顎(とつがく)といって、本土では鎌倉時代から室町時代によく見られますが、沖縄では初めて見る顔つきでした。
沖縄では,本土の縄文時代にあたるころから狩猟採集生活を中心とした貝塚時代が長く続いていましたが、11世紀ごろ突然、石垣を築いて作った巨大なグスク(城)が各地に出現します。英祖王陵に葬られていた突顎の人物は、沖縄の外から人々がやってきたことを示しています。
国立科学博物館の篠田健一さん(人類研究部長)による、尚寧王陵の人骨のDNA解析では中国南部や東南アジアとの関連が見られ、琉球王国の成立にこれらの地域の人々との交流が重要な役割を果たした可能性があると考えられます。
説明困難
ー日本人の成り立ちを考える仮説に、1991年東京大学の埴原和郎教授(当時)が提唱した「二重構造モデル」があります。日本人は、古くから日本列島にやってきていた縄文人と弥生時代の初めに大陸からやってきた人々が混血して出来上がったとするものです。辺縁部に位置する沖縄や北海道は混血の影響が及びにくく、縄文人の形質が残ったとされています。土肥さんは、沖縄で見つかる人骨の研究をする中で、それだけでは説明できないと考えるようになったといいます。
 
1993年から94年にかけて、札幌医大の百々(どど)教授(当時)たちと、アイヌ、本土、沖縄の古人骨の比較をしました。その結果,沖縄の古人骨の顔立ちは、アイヌの古人骨に比べ平坦で、必ずしも両者がよく似ているとは言えないことが明らかになりました。
◎アイヌと沖縄の人は縄文系とひとくくりにしている考え方は多い。しかし、アイヌと沖縄の人は、毛深いなど、共通なところもあるが、極めてよく似ているとは言えません。北方から樺太などを経由してきた人たちと、南方の東南アジアや中国南部から来た人たちとは明らかに違います。
沖縄では、骨が残りやすい地質のところが多く、約2万年前の港川人はじめ非常に古い人骨が日本で唯一といっていいぐらい発見されていますが、近世とその間をつなぐ先史時代の人骨は余り見つかっていません。特に,宮古・八重山といった先島諸島の先史時代の古人骨が重要なのですが、この地域ではそれがまったくと言っていいくらい見つかっていませんでした。
そこで、1997年ごろから先島諸島のあちこちで先史時代の人骨を探す発掘調査に取り組みました。しかし、これがまったく当たらない。2000年前ぐらい前からの生活の跡がたくさん見つかっている宮古島の浦底遺跡でもだめでした。何年やっても当たらないので、「日本一骨運のない人類学者」と言われたほどです。
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記事中の写真の拡大図 骨を見る土肥直美さん。
石垣島の白保竿根田原洞窟遺跡や宮古島の浦底遺跡、沖縄本島の浦添ようどれ遺跡,港川遺跡など。
3、骨”運”の無さが大逆転 2019年1月15日
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探検仲間
ー10年余り先島諸島で先史時代の人骨を探し続けたのに見つからず、日本1骨運がない人類学者といわれていた土肥さん。ところが、2007年に石垣島の新空港建設予定地で約2万年前の人骨が見つかったのをきっかけに、日本ではこれまで例のない、多数の旧石器人の人骨と出会うことになりました。
白保竿根田原洞窟で人骨を最初に発見したのは沖縄鍾乳洞協会理事長の山内平三郎さんたちで、人骨を大学までもってこられました。山内さんとは琉球大学に赴任したころ、以前医学部長だった先生の紹介でお会いしてからの洞窟仲間でした。
「沖縄に来たんだったら洞窟を知らないとだめです」って言われて。探検部だったので、洞窟に潜ったことがありましたが、行くと落差が20っもある。高いところは怖いけれど「下に人骨があるから」っていわれると行っちゃう。
人骨が見つかると持ってこられて、一見古そうなのですが、年代を調べてみると数百年前ぐらいというのが多かった。その時も、古そうでしたが「年代を調べないと」といいました。人骨と一緒に見つかったネズミの骨の年代を調べたら、約2万年前で、これは大変ということで頭骨の一部ですが人骨も調べたら、これも約万年前でした。
2010年と13~16年に県立埋蔵文化財センターが中心となって、私たち形質人類学者や考古学者だけでなく、DNA人類学などさまざまな分野の研究者参加する画期的な発掘調査が行われました。合わせて1300点もの人骨が見つかっています。これまでの分析で、少なくとも19人の旧石器人の骨を含んでいることがわかっています。
人骨の出土状況から、調査の最初のころから風葬の墓だと考えていましたが、15年の調査で決定的な証拠が見つかりました。一番古い2万7000年前のもので、最初に複顔できた4号人骨です。骨の位置から、亡くなった後、あおむけで両腕と両足を折り曲げた形で安置されたことをしめしていました。
次の地へ
ー白保竿根田原洞窟で見つかった多数の人骨は、現在土肥さんたちが1つ一つ付着した石や土を取り除くクリーニングという作業や、つなぎ合わせる作業を進めています。
こういう人骨が出てくるような遺跡が今後、いつ見つかるかわからない。そこで発掘ができて、今こうやってクリーニングや、クロスワードパズルを解くようなつなぎ合わせる作業を行わせてもらっている。たぶん日本で一番幸せな人類学者かもしれないですね。
これで若い人類学者が、大きくなってもらいたいし、育ってほしい。河野さん(河野礼子・慶応大学准教授)が若い人類学者のチームを作ってくれて頭骨以外の部分の研究も緒に次いでいるので、どんな成果が出るのか楽しみです。
それと、白保竿根田原遺跡は墓だったということがはっきりしたので、では生活の場はどこだったのか。近くにあるはずなので、ぜひ探したいと思っています。
◎以上が新聞記事の内容です。
2万7000年前の白保竿根田原遺跡の人骨の複元像は至極まっとうなものです。
しかし、2万年前の港川人の新しい復元図では、オーストラリアのアボリジニに近いということで大きく想像図を変えています。沖縄に住んでいた人のルーツは一つには南中国から台湾経由で来た人のほかにはるか南の東南アジアから黒潮に乗ってきた人たちとが考えられますが、オーストラリアのアボリジニに近いというのはどうでしょうか。今後の調査が待たれます。(港川人の復元図のいろいろは、は最初にあげたブログをご覧ください)
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新しい研究により国立科学博物館が作った港川人の復元図。アボリジニに近いというのですが。

より以前の記事一覧

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