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人間とは何か

2019年8月29日 (木)

380万年前のアナム猿人の顔再現 最古のアウストラロピテクス 2019年8月新聞各紙で報道 アナム猿人とァファール猿人は共存か

380万年前の最古のアウストラロピテクスであるアナム猿人の顔が再現されました。2019年8月29日の新聞各紙に掲載されました。

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(上図)

(2019年8月29日の赤旗、社会・総合面14面にカラーで記事が載りました。

380万年前に生きていた猿人のほぼ完全な頭蓋骨化石がアフリカ東部のエチオピアで見つかったと、米クリーブランド自然史博物館のヨハネス・ハイレ=セラシエ博士たちの国際研究グループが、29日づけの科学誌『ネイチャー』に発表しました(日経と毎日では28日付)。アウストラロピテクス属としては最古のアナム猿人アウストラロピテクス・アナメンシス)成人男性であるとしており、頭蓋骨化石に基づく復顔像も公表されました。

 

下図 アナム猿人の複顔像(マット・クロウ撮影、米クリーブランド自然史博物館提供)

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(下図)エチオピアの発掘現場の地図 化石が見つかったのはエチオピア北東部のアファール凹地のウイランソ・ミル。

研究グループは2016年にこの化石を発見しました。頭蓋骨の化石の特徴を、これまでに見つかっているだまざまな種の化石と比較検討した結果、上顎や歯などがアナム猿人のものと最もよく一致することが分かりました。

新たに見つかったアナム猿人の頭蓋骨化石は、犬歯が大きいことなどから成人男性と判断されました。脳の大きさは370mlと推定されチンパンジー並み。頭蓋骨の形もこれまで知られているアウストラロピテクス属にくらべ原始的でより古い人類祖先とのつながりをうかがわせるといいます。

貌は縦に長く、中央部はくぼみ,上部が狭く、下部が突き出しているなどの特徴を持つこともわかりました。以前に見つかっていたアナム猿人の化石はあごの骨と歯が主で、脳の大きさや顔などはわかっていませんでした。年代測定で、頭蓋骨化石が見つかった地層の年代は、約380万年前と推定され、従来、アナム猿人が生きていたとされる年代より10万年新しいことが分かりました。

◎アナム猿人は従来では420万年~390万年前とされていましたが、今度発見された化石は380万年前のものであるとわかりました。

従来はアナム猿人やァファール猿人などを、華奢型猿人といい、顎が頑丈で草食のパラントロプスを頑丈型猿人といっていましたが、今は余りそういう言い方をしないようです。2018年11月に翻訳書が出された『人類の進化大図鑑』河出書房新社によれば、アナム猿人はまだ頭蓋骨が全部そろわず、復元図が載っていませんでした。 

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下図 アナム猿人の頭骸骨化石を持つ、ヨハネス・ハイレ=セラシエ博士(米クリーブランド自然史博物館提供)

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アナム猿人は、1994年にアフリカ東部のケニアにあるトゥルカナ湖の湖畔で発見された化石人類です。その後、エチオピアでも発見され、それらの化石の年代や発見場所を基に、420万~390万年前にアフリカ東部に住んでいたと考えられてきました。しかし、今回380万年前まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考えが塗り替えられる可能性が出てきました。

その一つが、同じアウストラロピテクス属のアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)との関係です。アファール猿人は390~300万年まで生きていたことが明らかになり、アナム猿人をめぐる従来の考え方が塗り替えられる可能性が出てきました。

アファール猿人はアナム猿人同様アフリカ東部に住んでいた化石人類で、エチオピアのアファール凹地で1974年発見され「ルーシー」と名づけられた全身骨格で広く知られています。アファール猿人はその後、現生人類とつながる進化の道筋で重要な位置を占めていたと考えられています。それぞれの化石の発見された年代や場所、化石の特徴などから、アナム猿人が先祖で、アファール猿人が子孫の関係にあるとする見方が示されていました。

しかし、今回の発見により、アナム猿人とアファール猿人は10万年の間、アフリカ東部で共存していた可能性が出てきました。研究グループは、アナム猿人とァファール猿人が祖先と子孫の関係だという見方に疑問を投げかけています。(間宮利夫)以上全文、赤旗より。

 

下図 同日の毎日新聞朝刊

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化石は頬骨が前に突き出し、耳の穴が小さく、脳を収容する空間が細長くて小さい。こうした特徴は700万年ごろの極めて初期の猿人に近いという。一方、頬骨が前に出ているなど、250万年前頃の比較的新しい特徴も持っていた。

(ワシントン共同)

下図 同日の日本経済新聞朝刊

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下図 同日の日本経済新聞

◎復元された顔はかなりチンパンジーに似ています。しかしアウストラロピテクス類は直立2足歩行をしていました。そこがチンパンジーと決定的に違います。

後日他の資料が書かれましたら追記します。8月30日追記しました。

 

2019年5月14日 (火)

縄文人の全ゲノム解析 起源3万8000年前か 国立科学博物館 日経新聞

2019年5月14日(火)の、日経新聞朝刊に「縄文人の起源 3万8000年前か 全ゲノム解析 国立科学博物館」という記事が載りました。

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が約3万8千年前~1万8千年前に大陸の集団から分かれたとみられることが分かったと発表した。日本人の祖先がどこからどこから来たのかといった謎にゲノムから初めて迫った貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌に発表する。

(研究チームには、他に国立遺伝学研究所の斉藤成也教授研究者や、札幌医科大学、金沢大、山梨大などの研究者研究者が参加しています)

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国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された約3800年前~3500年前の縄文時代後期の女性人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

 

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国立科学博物館

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団から分かれた時期が約3万8千年前から1万8千年前であることが判明したという。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から30000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことが、これまで知られていた。

今回の解析によると、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なっていた。東京でサンプルをとった本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が7割、沖縄県の人たちで3割だった。

 

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ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、縄文人のゲノムから説明できる可能性もあるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか、研究の進展が期待される。

今後研究チームはデータの解析を進める。配列を公開して、海外の研究機関との共同研究も検討していく。

◎大陸からの日本列島への流入には南西諸島や朝鮮半島からの流入もありますが、寒冷期に海水面が低下し大陸から樺太地方を通じての流入もあったのではないかと考えられます。船泊遺跡はかえってそのルートではないかとも考えられますがいかがでしょうか。

◎追 記:

船泊23号人骨の特長

性別は女性。

その瞳(虹彩)が茶色く、

髪の毛が細い,又ちじれている。

高脂肪食に適応した遺伝的特徴を持つ。このことは遺跡からアシカなどの骨が多数出土している状況とも一致する。

アルコールには強い。

背は低い―高くならない。

皮膚の色。は濃く、シミができやすい。

耳あかはウエット型。

などの遺伝子から判明したもの。下記の2018年3月14日のブログ参照。5月24日の日経新聞の記事で追加。

◎参考書

「新版 日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 篠田健一 NHKブックス 2019年3月20日 1300円プラス税

篠田謙一氏は1955年生まれ、京都大学理学部卒業、医学博士、国立科学博物館人類研究部長、専門は分子人類学。

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本の表カバーに船泊23号人骨の複顔像が載っています。

この遺跡からは南方産のイモガイでつくられたペンダントや、新潟産糸魚川産のヒスイ、さらにはシベリアでつくられたものと同じタイプの貝玉のアクセサリーなども見つかっており、礼文島の縄文人が広い地域と交流を持っていたことが示唆されています。p5

◎「こういちの人間学ブログ」2018年3月14日

 「ゲノム情報で縄文人の女性の顔復元 ビートたけしに似る?」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/03/post-cd8b.html

 

2019年5月24日の日経新聞「ニュースな科学」29面に「日本人の起源解明へ」、「縄文人の全ゲノム解明」という記事が載りました。

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ゲノム解析によって人類の起源を探る研究が加速している

2003年 ヒトゲノム解析が完了

2010年 ネアンデルタール人のDNA解析で、現代人のなかに彼ら由来の遺伝子が含まれることが判明

2014年 ネアンデルタール人のDNAが完全解析

2019年 日本列島の縄文人のDNAが完全に解析

アフリカを出た人類が東アジアに広がった。

5万~10万年前 アフリカ大陸から人類が拡散

4万~5万年前 東アジアに進出

3万8000年前~1万8000年前 日本列島進出

約1万5000年前 米国大陸進出

2019年5月 2日 (木)

デニソワ人はアジア人に大きく影響か デニソワ人はチベット高原にもいた。膨湖人などは原人ではなくデニソワ人?追記 3系統が存在か

2019年5月2日のしんぶん赤旗に、「姿不明のデニソワ人 チベット高原にもいた ゲノムで予想の広い分布 骨が裏付け」という記事が載りました。記事の内容は下記のようです。

姿形などがいまだ不明の、謎のデニソワ人が中国のチベット高原にもいたことがわかったと、中国やドイツなどの国際研究グループが2日付の科学誌『ネイチャー』に発表しました。これまで、存在の確実な証拠となる骨などはロシアのシベリア南部、アルタイ山脈にあるデニソワ洞窟でしかみつかっていませんでした。

デニソワ人がチベット高原にもいたことを示す証拠は、歯のついた下あごの骨の右半分です。チベット高原の一角にある中国甘粛省の標高3280メートルのところにある洞窟、白石崖溶洞で1980年に発見され、蘭州大学で保管されていました。

中国科学院や蘭州大学、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの研究者たちがこの骨と歯を調べた結果、ゲノム(全遺伝情報)を取り出すことはできませんでしたが、歯に残っていたタンパク質の解析からデニソワ人と判明した。骨に付着していた炭酸塩に含まれていたウランを使った年代測定の結果、少なくとも16万年前に生きていたことがわかりました。下あごの骨と歯の形態もデニソワ人と考えられる特徴を示していたといいます。

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デニソワ人と判明した下あごの骨と歯 上図

デニソワ人は2008年にデニソワ洞窟で骨や歯が発見されたことで存在が明らかになりました。このうち、約4万年前の小指から取り出されたゲノムが2010年に解読され、これまで知られているどの人類とも異なる未知の人類であることがわかりました。ネアンデルタール人と近縁な姉妹種と考えられています。

 

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デニソワ洞窟と白石崖溶洞と台湾やニューギニア島の位置関係(上図)

デニソワ洞窟には19万5000年前ごろから4万年前ごろにかけてデニソワ人が住んでいたことがわかっています。しかし、これまでに見つかっている骨などは断片的なものにすぎず、どんな人類だったか謎に包まれています。

 

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チベット高原の白石崖溶洞の内部(上図)

解説 「ゲノムで予想の広い分布 骨が裏付け」

デニソワ人は、ゲノム(全遺伝子情報)の研究からネアンデルタール人と47万~45万年前ごろに分かれた姉妹種であることがわかっています。同じデニソワ洞窟見つかったネアンデルタール人のゲノムを調べた結果、デニソワ人とネアンデルタール人が混血していたことが明らかになりました。またアジアやオセアニアなどに住む現代人がデニソワ人のゲノムの一部を受け継いでいることから、現生人類(ホモ・サピエンス)もデニソワ人と混血していたことが判明しています。

現代人のなかで、デニソワ人のゲノムを受け継いでいる比率が最も高いのはデニソワ洞窟から遠く離れたニューギニア島とその周辺の島々に住む人々です。このため、デニソワ人はデニソワ洞窟の周辺だけでなく、より広い範囲に分布していたのではないかと考えられていました。しかしデニソワ洞窟以外では骨などは見つかっていませんでした。今回の研究結果は、デニソワ人が実際に広い範囲に分布していたことを裏付けるものです。

チベット高原にデニソワ人がいたと発表した研究グループは、白石崖溶洞の下あごの骨の形態が、国立科学博物館人類学研究部の海部陽介研究グループ長たちが発表した台湾沖の海底から見つかった19万年前より新しいとみられる膨湖人や中国山西省の許家窯遺跡で見つかった12万5000~10万4000年前の人類化石と形態学的類似性があると指摘しています。この指摘が正しければ、デニソワ人の骨はチベット高原だけでなく、中国のほかの地域でもすでに見つかっていることになります。

今回の研究結果からチベット高原に人類が進出したのが、これまで考えられていたよりも少なくとも12万年さかのぼることが明らかになりました。これまで、低酸素の高地に適応できたのは現生人類だけとされ、実際チベット高原に人類が進出した証拠は4万~3万年前のものが最古でした。チベット高原に進出した現生人類はデニソワ人から受け継いだゲノムの一部によって高地適応を果たした可能性があると、研究グループはみています。

        間宮利夫

◎ 赤旗には他紙に先駆けて、人類の起源に関しての記事をよく書いています。たとえば、この記事は、4月2日の毎日、日経新聞には出ていませんでした。これはここに名前が書かれている間宮利夫氏が『ネイチャー』などの記事をいち早く記事を紹介している、ということです。(赤旗の記者である間宮利夫氏は『科学の今を読む』を新日本出版社で出版しています。)

このところ新種の人類化石が発見されています。「こういちの人間学ブログ」でも2015年1月に、第4の原人としての台湾沖の「膨湖人」について書きました。また2019年4月11日には、5万年~7万年前の第5の原人としてのフィリピン、ルソン島のルソン原人と相次いで報道されています。

45から47万年前ごろにネアンデルタール人がわかれ、ホモサピエンスも起源がおよそ20万年前ぐらいといわれている。ネアンデルタール人やデニソワ人もホモサピエンスの亜種とみる説がある。ホモ・サピエンスはホモ・サピエンス・サピエンス、ネアンデルタール人はホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと呼ぶのが正しいと思われます。亜種ですから混血可能です。ネアンデルタール人やデニソワ人はホモサピエンスと混血し、遺伝子がホモサピエンスに移入されている。ネアンデルタール人は3万年前ほどに絶滅したといいます。この中でずっと昔のジャワ原人や北京原人、フローレス原人とともにルソン人や膨湖人を原人と位置づけしていいものか疑問です.間宮氏の文章でも膨湖人はデニソワ人に近いと書いています。

他の人類と隔絶していたフローレス原人に比べて、5~7万年前のルソン原人や19万年前の膨湖人は原人というよりはデニソワ人かその近縁の亜種(ホモ・サピエンスの亜種)ぐらいがせいぜいと思いますが。

何とかデニソワ人の頭骨が発見され、顔の復元がされるのを心待ちしています。

2019年5月3日追記

5月3日の日経新聞朝刊にチベット高原で発見されたデニソワ人についての記事が載りました。

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5月3日の毎日新聞朝刊には、普通の記事には、載りませんでしたが、「余禄」に同じ内容がかかれました。

前半は雪男「イエティ」のことなどがかかれていますが、後半はチベット高原で見つかった、デニソワ人の化石のことでした。~どうやら未確認動物とは、まだまだ見知らぬ自分を内に秘めた人類自身のようだ。

追 記  5月6日の赤旗10面に大きくデニソワ人のことの記事のが大きく出ていました。

謎の人類 デニソワ人 3系統が存在か

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記事の全体 カラーで大きく取り上げられています

人骨の一部や歯が見つかる

シベリア南部のデニソワ洞窟で人骨の一部や歯の一部しか見つかっておりませんが,スバンテ・ペーボ博士らによるゲノムの研究から、肌は褐色で,髪と目は茶色だったことなどが明らかにされました。ネアンデルタール人や現生人類と混血していたことも明らかになっています。

デニソワ人を調べた結果、デニソワ洞窟でのデニソワ人と、オセアニアに行ったものとインドネシアに行ったものとの3系統のデニソワ人がいたことになります。

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インドネシア・カイ諸島の人々。デニソワ人のゲノムの一部を比較的多き受け継いでいます。

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3系統のデニソワ人が現生人類と混血か

3万年前頃混血の可能性世界各地に広がった現生人類(図中の黒い矢印)が3万年前ごろインドネシアの島々やニューギニア島でデニソワ人と混血した可能性があるとみています。ただそれよりも前にオーストラリアに渡ったとされる先住民にもデニソワ人のゲノムの一部が受け継がれていることから、現生人現生人類とデニソワ人の混血が3万年前だと説明がつかないといいます。

コックス教授らの研究結果は米科学誌『セル』4月11日付に発表されましたが、デニソワ人が何系統かに分かれていたという指摘はか、米ワシントン大学のシャロン・ブラウニング教授らの研究グループが昨年の5月の『セル』に発表しています。ブラウニング教授らは、東アジアに住む現生人類のゲノムの塩基配列を解読して調べた結果、東アジアの現生人類の祖先は2系統のデニソワ人と混血していたことが明らかになったとしていました。

研究グループはアフリカで30万~20万年ごろに誕生し、8万~6万年前ごろアフリカから出て

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復元した下あご全体の骨

人類の進化の多様な場示す

東アジアと東南アジアで今世紀に入ってインドネシアの小型のフローレス原人、台湾の膨湖原人、フィリピンで新種の原人、ルソン人が発見。

今回の発見は東アジアと東南アジアが多様な人類の進化の場だったことを改めて示しています。

 

 

 

2019年4月11日 (木)

フィリピン・ルソン島で第5のルソン原人・5万~7万年前の化石が発見されたと報道されました

2019年4月11日の新聞各紙やインタ―ネットに、アジア第5の原人がフィリピンのルソン島で発見されたという記事が報道されました。

日経新聞の記事から アジア第5の原人 5万年以上前の化石

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赤旗の記事から 比で新種人類化石 5万~7万年前

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時事通信の記事から 5万年以上前の人類、新種=フィリピン・ルソン島で化石発見

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上はカヤオ洞窟、下はカヤオ洞窟で見つかった新種人類の歯

記事の内容をまとめてみますと、

フィリピンのルソン島北部にあるカラオ洞窟で5万~6万7000前ごろに生きていた新種の人類の化石が見つかったと、フランス国立自然史博物館やフィリピン大などの国際研究チームが4月10日付の英科学誌『ネイチャー電子版』に発表しました。2007年に人類の足の指の骨の化石が見つかってから発掘調査が続けられ、これまでに歯や手と足の指、太ももの骨の化石が見つかっています。

研究グループがこれらの歯や骨の化石の形態を調べ、現生人類やさまざまな原人や猿人のものと比較してヒト(ホモ)属と確認しました。しかし,小臼歯と臼歯の大きさや形、手足の指の形状から、現生人類やジャワ原人、フローレス原人とは異なる新種と判断、ルソンの人を意味する「ホモ・ルゾネンシス」と名付けました。 

インドネシアのフローレス島に生存していたフローレス原人は2003年以降に発見されてから、「ホモ・フロシエンス」と名付けられ、10万年前から6万年前(5万年前とも)に生存していたとみられます。

同じころ東南アジアにはジャワ原人やフローレス原人がおり、現生人類(ホモサピエンス)もいたという報告があります。ルソン島北部では約70万年前とみられる石器も見つかっているが、ルゾネンシスとの関係は不明。

国立科学博物館の海部陽介人類史研究グループ長は「現生人類のように進歩的な面と、チンパンジーなどにみられる原始的な面が混じっている。ルソン原人と呼んでいいと思う。アジアに多様な人類がいたことが示された 新化石の形態は奇妙で、現時点で進化上の由来としているのは妥当な結論と思う」と話している。(日経・時事通信)

札幌医大の松村博文教授(形質人類学)の話(日経新聞)(猿人に近い印象)

足の指の骨が大きくカーブしており百万年前に生息していた猿人のアウストラロピテクスに近い印象だ。現生人類と同じホモ属の新種だが、研究チームは名称を付けるのに悩んだのではないか。化石はこの種が約6万年前と比較的最近までルソン島に生息していたことを示している。これまでは化石の数が少なく、新種かどうかで論争があったが、追加の化石が見つかったことで決着がついた。

カナダ・レイクヘッド大学のマシューシェリ博士はネイチャーに(今回の発表は、今後東南アジア人類に関する議論に)火をつけるだろう」とコメントしています。(赤旗)

◎筆者の感想

日経新聞のいうアジア第5の原人、というのが今度の5万~7万年前のルソン人のほかに、どの人類を言っているのかがわかりません。北京原人(68~78万年前)などに続き5種類目、といっています。あとはジャワ原人(170~180万年前)とフローレス原人(12000年前まで)らしいのですが・・・。 あと一つは何でしょうか。

4つ目の原人とは海部氏によれば、台湾で見つかった膨湖人のようです。インターネットによれば、やはり19万年前から1万年の膨湖人のようです。

ただ、南中国の赤鹿人でしょうか、日本での明石原人でしょうか。原人ではないのですが、デニソワ人(4万年前)もいます。いずれにしても、いろいろな人類がいて、これからも未知な人類が発見されることでしょう。

「こういちの人間学ブログ」2015年1月

1、台湾にアジア第4の原人(膨湖人)、2、ピケティ~

 

2019年1月31日 (木)

シカの歯ペンダント 謎の旧人デニソワ人が作製?ネアンデルタール人も作製、現生人類との差縮まる。

2019年1月31日の赤旗に,「シカの歯ペンダント 謎の旧人デニソワ人が作製?という記事が載っていました。ネアンデルタール人はすでに装飾品を作っていたとされていますので。デニソワ人も装飾品を作っているとしたら、いわゆる旧人といわれるネアンデルタール人、デニソワ人と現生人類との差は少なくなります。従来は、ペンダントなどの装飾品の製造は現生人類(ホモ・サピエンス)だけが始めたといわれていました。
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◎デニソワ人は2008年に発見。2010年にDNA解析が行われたと発表された。ネアンデルタール人とデニソワ人との混血の骨も見つかっている。残念ながら頭骨の化石はまだ見つかっておらず、顔の復元は行われていない。
南シベリアーロシアと中国とモンゴルの国境地帯のデニソワ洞窟で見つかっていた、シカの歯を加工してつくったペンダントは、謎の旧人デニソワ人が作った可能性があると、ドイツのマックスプランク人類史学研究所のカテリーナ・ドウカ博士たちの国際研究グループが31日付の科学誌『ネイチャー』に発表しました。
40年ほど前から発掘が行われているデニソワ洞窟ではネアンデルタール人の骨や、小指の骨から抽出したDNAにもとづくゲノム(全遺伝情報)から、ネアンデルタール人の姉妹種とみられるデニソワ人の骨や歯、デニソワ人の父とネアンデルタール人の母から生まれた女の子の骨、さらに石器、動物の骨や象牙で作ったペンダントなどの人工物が見つかっています。
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デニソワ洞窟で見つかった人工物。中央と右の穴のあいている穴のあいているのが,シカの歯でつくったペンダント。
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デニソワ洞窟
研究グループは、ネアンデルタール人やデニソワ人がいつ頃どのようにデニソワ洞窟を利用していたのかを明らかにするため、さまざまな方法で、骨や歯、人工物の50の試料について年代測定を行いました。
その結果、デニソワ人は早ければ19万5000年前からデニソワ洞窟に住んでいたこと、アカシカやヘラジカの歯を加工してつくったペンダントの製作年代は4万9000年前から4万3000年前であることなどがわかりました。
従来、ペンダントなどの装飾品の製造は現生人類(ホモ・サピエンス)が始めたとされてきました。しかも、当時のデニソワ洞窟では現生人類が当時住んでいたことを示す証拠が見つかっていないことなどからデニソワ人がシカの歯を加工してペンダントを作った可能性があるとしています。
Natureによれば、今回Z・Jacobs、たちは光ルミネッセンス年代測定法を用いて、デニソワ洞窟の編年を確立し、この洞窟の約30万~2万年を調べた。
この時代には、デニソワ人とネアンデルタール人と現生人類が同時にすんでいたと思われている。
◎当時のアジアでは、中国南部にはさらには赤鹿人が住んでいて、ジャワのほうにはフローレンス人も住んでいて、わかるだけで5種類です。またさらには,未だ未知の人類があるかもしれません。きわめて多くの人類が共存していたことがわかります。
ネアンデルタール人の装飾品については
「こういちの人間学ブログ」
「ネアンデルタール人の首飾り 岩城正夫氏の解説についても

2019年1月16日 (水)

人骨に向き合って、人類学者土肥直美さんに聞く 沖縄の旧石器人について解明か

2018年4月21日の「こういちの人間学ブログ」の記事で、「国内最古の旧石器人の人骨 石垣島で発見   港川人との違いは 国内最古の顔復元」というものを書きました。
2019年1月12日(土)から3日間にわたって、この人骨の発見者である、人類学者の土肥直美さんの話が赤旗に載っていたので紹介します。(記者、間宮利夫)
◎土肥(どい)直美さんは、1945年(昭和20年)生まれ、現在73歳。九州大学理学部卒業、その後九州大学大学で助手に、その後、あこがれの西表島での調査をきっかけに沖縄に移り住んで四半世紀になります。1992年に琉球大学医学部解剖学教室に単身、赴任。その後准教授となり、その後非常勤講師になりました。
古くは27000年前の旧石器時代から、100年ほど前までの近代まで、1000人もの人の骨と向き合い先人たちの声なき声に耳を傾けてきました。
著書
「沖縄骨語り」人類学が迫る沖縄人のルーツ 2018年4月29日 琉球新報社
なかなか興味深い内容でしたので、新聞記事全文を転記、掲載しました。最初にあげたブログでは港川人の想像図が載っていて興味深いのでぜひご覧ください。
「人骨に向き合って」-沖縄で四半世紀
1、生と死の近さに驚いて  2019年1月12日
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白保竿根田原洞窟遺跡4号人骨の複顔像
「顔を復元」
ー昨年、東京の国立科学博物館で開かれた「沖縄の旧石器時代が熱い」の展示でおとづれた人の目を人の目をひときわ引き付けたものがあります。土肥さんたちが復元した石垣島白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞窟遺跡で見つかった27000年前の旧石器時代の人の顔です。旧石器時代の人の顔が復元されたのは、日本では、沖縄・八重瀬町の港川人以来2例目です
保存状態がよかった4つの頭骨の一つです。保存状態がよいとはいえ、欠けた部分もありますから完全ではありません。国立科学博物館の河野玲子さん(現慶応大学准教授)と、コンピューターでかけた部分を補うデジタル復元という新しい技術を使いました。その方法で完成した頭骨に、DNA解析に基づく情報や石垣島の気候などを考慮して肉付けしたり肌の色を決めたりして複顔しました。
通常、骨が完成すればそれでよしということになるのですが、やっぱりどんな顔か見てみたい。かっこいいきりりとした顔立ちだったので大満足です。まわりからも、沖縄ではけっこう見かける顔だと言っていただき、ほっとしています。
「ある衝撃
ー1990年代初め、九州大学医学部で助手として人骨の研究をしていた時、西表島でダムの建設に伴って古いお墓が沈んでしまうらしいという話を聞いて初めて沖縄へ。その時受けた驚きが、単身沖縄に住み、研究を始めるきっかけになったといいます。
 学生時代は理学部で生態学を研究しました。京都大学の人たちがアフリカで類人猿の研究を始めたというのを聞いて、自分も自分も人類進化の研究をやれたらいいなと思ったのですが,九大理学部にはそういうコースがなく、マイマイ(カタツムリ)にマニキュアをぬって印をつけ、生態を追う毎日でした。
学生時代にかなりのエネルギーを注いだのが探検部です。当時顧問だった医学部解剖学教室の永井昌文教授が私のことを覚えていてくれて、後に助手に採用してもらい、念願だった人類学の研究をスタートすることができました。
探検部のころイリオモテヤマネコが発見され、西表島はみんなの憧れの場所でした。案内してくれた方は「夕方迎えに来るから」っていうので、1人でスケッチしたり、写真を撮ったり、丹念に観察しました。
集落の裏山の岩陰の草むらに人骨がごろごろという状態で,生と死がすごく近い感じでカルチャーショックを受けました。18から19世紀の墓だと思いますけど、これをダムで沈ませていいものだろうかと、怖いもの知らずで県の教育委員会に行き「なんとかなりませんか」って言ったら、水位を下げてくれたんです。
その後、他の人類学者と何度か調査しましたが、その時は沖縄で職があるとは全く思っていませんでした。ところが1年後に琉球大学医学部に赴任することになったのですから、人骨が呼んでくれたのかな。
2 、沖縄・アイヌ骨格似ず 2019年1月13日
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王族の顔
ー1992年に単身琉球大学に赴任し、沖縄のあちこちの発掘調査に参加発掘。数万年前から沖縄の島々で生きた1000人もの人骨と向き合い、その移り変わりを目の当たりにしてきました。中でも浦添市の王陵(王の墓)「浦添ようどれ」で出会ったある人物の顔が印象に残っているといいます。
浦添ようどれは沖縄が北山,中山,南山との3つに分かれていた三山時代の13世紀後半中山王英祖(英祖)が作り、のちに琉球王国の第二尚氏七代王尚寧が改修した墓で、調査の結果、英祖王陵には100人以上が葬られていることがわかりました。英祖とその一族とみられます。
英祖王陵の石棺の一つに納められた頭骨を合わせた結果、王族ということで想像していた
顔つきと異なり,歯が前に突き出していました。突顎(とつがく)といって、本土では鎌倉時代から室町時代によく見られますが、沖縄では初めて見る顔つきでした。
沖縄では,本土の縄文時代にあたるころから狩猟採集生活を中心とした貝塚時代が長く続いていましたが、11世紀ごろ突然、石垣を築いて作った巨大なグスク(城)が各地に出現します。英祖王陵に葬られていた突顎の人物は、沖縄の外から人々がやってきたことを示しています。
国立科学博物館の篠田健一さん(人類研究部長)による、尚寧王陵の人骨のDNA解析では中国南部や東南アジアとの関連が見られ、琉球王国の成立にこれらの地域の人々との交流が重要な役割を果たした可能性があると考えられます。
説明困難
ー日本人の成り立ちを考える仮説に、1991年東京大学の埴原和郎教授(当時)が提唱した「二重構造モデル」があります。日本人は、古くから日本列島にやってきていた縄文人と弥生時代の初めに大陸からやってきた人々が混血して出来上がったとするものです。辺縁部に位置する沖縄や北海道は混血の影響が及びにくく、縄文人の形質が残ったとされています。土肥さんは、沖縄で見つかる人骨の研究をする中で、それだけでは説明できないと考えるようになったといいます。
 
1993年から94年にかけて、札幌医大の百々(どど)教授(当時)たちと、アイヌ、本土、沖縄の古人骨の比較をしました。その結果,沖縄の古人骨の顔立ちは、アイヌの古人骨に比べ平坦で、必ずしも両者がよく似ているとは言えないことが明らかになりました。
◎アイヌと沖縄の人は縄文系とひとくくりにしている考え方は多い。しかし、アイヌと沖縄の人は、毛深いなど、共通なところもあるが、極めてよく似ているとは言えません。北方から樺太などを経由してきた人たちと、南方の東南アジアや中国南部から来た人たちとは明らかに違います。
沖縄では、骨が残りやすい地質のところが多く、約2万年前の港川人はじめ非常に古い人骨が日本で唯一といっていいぐらい発見されていますが、近世とその間をつなぐ先史時代の人骨は余り見つかっていません。特に,宮古・八重山といった先島諸島の先史時代の古人骨が重要なのですが、この地域ではそれがまったくと言っていいくらい見つかっていませんでした。
そこで、1997年ごろから先島諸島のあちこちで先史時代の人骨を探す発掘調査に取り組みました。しかし、これがまったく当たらない。2000年前ぐらい前からの生活の跡がたくさん見つかっている宮古島の浦底遺跡でもだめでした。何年やっても当たらないので、「日本一骨運のない人類学者」と言われたほどです。
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記事中の写真の拡大図 骨を見る土肥直美さん。
石垣島の白保竿根田原洞窟遺跡や宮古島の浦底遺跡、沖縄本島の浦添ようどれ遺跡,港川遺跡など。
3、骨”運”の無さが大逆転 2019年1月15日
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探検仲間
ー10年余り先島諸島で先史時代の人骨を探し続けたのに見つからず、日本1骨運がない人類学者といわれていた土肥さん。ところが、2007年に石垣島の新空港建設予定地で約2万年前の人骨が見つかったのをきっかけに、日本ではこれまで例のない、多数の旧石器人の人骨と出会うことになりました。
白保竿根田原洞窟で人骨を最初に発見したのは沖縄鍾乳洞協会理事長の山内平三郎さんたちで、人骨を大学までもってこられました。山内さんとは琉球大学に赴任したころ、以前医学部長だった先生の紹介でお会いしてからの洞窟仲間でした。
「沖縄に来たんだったら洞窟を知らないとだめです」って言われて。探検部だったので、洞窟に潜ったことがありましたが、行くと落差が20っもある。高いところは怖いけれど「下に人骨があるから」っていわれると行っちゃう。
人骨が見つかると持ってこられて、一見古そうなのですが、年代を調べてみると数百年前ぐらいというのが多かった。その時も、古そうでしたが「年代を調べないと」といいました。人骨と一緒に見つかったネズミの骨の年代を調べたら、約2万年前で、これは大変ということで頭骨の一部ですが人骨も調べたら、これも約万年前でした。
2010年と13~16年に県立埋蔵文化財センターが中心となって、私たち形質人類学者や考古学者だけでなく、DNA人類学などさまざまな分野の研究者参加する画期的な発掘調査が行われました。合わせて1300点もの人骨が見つかっています。これまでの分析で、少なくとも19人の旧石器人の骨を含んでいることがわかっています。
人骨の出土状況から、調査の最初のころから風葬の墓だと考えていましたが、15年の調査で決定的な証拠が見つかりました。一番古い2万7000年前のもので、最初に複顔できた4号人骨です。骨の位置から、亡くなった後、あおむけで両腕と両足を折り曲げた形で安置されたことをしめしていました。
次の地へ
ー白保竿根田原洞窟で見つかった多数の人骨は、現在土肥さんたちが1つ一つ付着した石や土を取り除くクリーニングという作業や、つなぎ合わせる作業を進めています。
こういう人骨が出てくるような遺跡が今後、いつ見つかるかわからない。そこで発掘ができて、今こうやってクリーニングや、クロスワードパズルを解くようなつなぎ合わせる作業を行わせてもらっている。たぶん日本で一番幸せな人類学者かもしれないですね。
これで若い人類学者が、大きくなってもらいたいし、育ってほしい。河野さん(河野礼子・慶応大学准教授)が若い人類学者のチームを作ってくれて頭骨以外の部分の研究も緒に次いでいるので、どんな成果が出るのか楽しみです。
それと、白保竿根田原遺跡は墓だったということがはっきりしたので、では生活の場はどこだったのか。近くにあるはずなので、ぜひ探したいと思っています。
◎以上が新聞記事の内容です。
2万7000年前の白保竿根田原遺跡の人骨の複元像は至極まっとうなものです。
しかし、2万年前の港川人の新しい復元図では、オーストラリアのアボリジニに近いということで大きく想像図を変えています。沖縄に住んでいた人のルーツは一つには南中国から台湾経由で来た人のほかにはるか南の東南アジアから黒潮に乗ってきた人たちとが考えられますが、オーストラリアのアボリジニに近いというのはどうでしょうか。今後の調査が待たれます。(港川人の復元図のいろいろは、は最初にあげたブログをご覧ください)
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新しい研究により国立科学博物館が作った港川人の復元図。アボリジニに近いというのですが。

2018年12月24日 (月)

日本人成立の謎、弥生人のDNA分析 NHKサイエンスZERO。渡来人が何回も来たあかし

2018年12月13日、午後11時30分からNHKサイエンスZEROで「日本人成立の謎 弥生人のDNA分析」という番組が放送されました。
鳥取県、青谷上寺地遺跡で大量の弥生時代人の人骨などが発掘されました。
この遺跡では大量の人骨と脳が3つ見つかり、大量な大陸からの道具などが発掘されました
国立科学博物館の篠田健一氏(国立科学博物館副館長)が解説します。
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◎青谷上寺地遺跡
 鳥取県鳥取市青谷町に大量の弥生時代の遺跡が発掘された。100人分を超える人骨と、その中に3つの脳が残存しました。人骨には110点にわたる殺傷痕が見つかっている。様々な鉄製品や中国の貨幣などが発見されている。2008年に国の史跡に指定された。
こういちの人間学ブログ
「縄文人と『弥生人』について NHK 日本人のルーツ解明 ~」
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弥生時代の位置づけ
弥生時代人のDNAの解析・ミトコンドリアの解析と細胞核の解析がある。
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ミトコンドリアのDNAは母系のルーツを探ることができる。
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青谷上寺地の人骨37体をDNA解析した結果を見た。渡来系7割、縄文系3割ぐらいの比率かと思われた。
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実際には縄文系が1人しかいなかった。推測されることは、北九州から次第に鳥取まで来たのではなく、朝鮮半島から直接鳥取の地に来て間もないということが分かった。-縄文人との接触が少ないということ。
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37人のルーツをDNAで調べてみると、大陸の様ざまな地から来ていることが分かった。縄文系は1人だけ。北中国朝鮮系D4が14人で一番多い。
ハプログループ
人類のミトコンドリアのDNAの型はAからRまでに分かれる。ミトコンドリアのDNAは女系につながっていて、はじめの女性はミトコンドリア・イヴともいわれる。
一方Y染色体は男系でのつながりである。日本人はいろいろなタイプが混合しているが特に多いのがO1タイプ(韓国・大陸系-日本に多い)とDタイプ(チベット・アイヌ・縄文系)である。O2タイプは中国、朝鮮に多く日本人も15~20%を占める。 
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ミトコンドリアのDNAの塩基数は16500ばかり。それに対して、核のDNAは30億の塩基の組み合わせ。核の塩基は両親から受け継ぐ。それを調べると、髪の形、色、なりやすい病気などいろいろなことがわかる。
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青谷上寺地遺跡群は弥生前期の末頃から3世紀の弥生時代後期まで。海辺の遺跡。
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遺跡発掘の状況
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国立歴史民俗博物館 藤尾慎一郎教授
DNAと年代を図ることによってより時期が明確になったので、わかってきた。
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2世紀のごろの骨であることが判明した。2世紀に大陸から来たばかりの人骨。
◎2世紀は倭国大乱のころであり、日本中が戦いに明け暮れていたころである。その後
卑弥呼が出て(170~248)日本はおさまる。それ以後古墳時代になる。
中国では後漢の時代です。卑弥呼は魏志倭人伝に出てきます。
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遺跡で発掘された中国の貨幣
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発掘された鉄製品。ガラス製品もあった。
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この遺跡の弥生人の人骨の特徴は戦いで傷ついた人骨が極めて多いことである。矢じりが刺さったままの人骨もある。110も殺傷痕後のついた骨がある。いかに争いが激しかったか。(倭国大乱)
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当時の弥生人の顔の復元図。
◎土井が浜遺跡と国立科学博物館での展示
山口県下関市の砂丘地、土井が浜で発見された弥生時代中期の遺跡の展示
砂丘地は石灰分が多く、骨が保存されやすかった。300体を超える弥生時代最大の遺跡である。
1962年に国の史跡に指定された。
2018年12月11日から2019年3月24日まで国立科学博物館で企画展「砂丘に眠る弥生人 土井が浜遺跡の半世紀」開催。
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身分の高い人の甕棺。副葬品が立派である。
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弥生時代中期の女性の骨。身分の高い人と予測される。
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DNAで比べた中国。韓国、縄文人の位置。
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同じ弥生人でも福岡の弥生人と長崎の離島の弥生人、DNA。岩手の弥生人と、それぞれの違いがある。福岡の弥生人は渡来系の遺伝子の影響が強い。岩手の弥生人は縄文人そのままのDNA
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前の図から、現代日本人は真ん中の黄色のところと推測される。
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しかし現実の現代日本人を見ると、ずっと大陸よりである。結局。2世紀以後も何回も渡来人が来て、より大陸寄りになったと考えられる。
◎弥生時代以後の古墳時代にも多くの渡来人が入り、さらに西暦660年、百済は滅亡した。その時にも大量の亡命人が日本へ来た。また高句麗が滅亡した時にも大量の渡来人が日本に来た。

2018年11月18日 (日)

デニソワ洞窟で、母・ネアンデルタール人、父・デニソワ人の人骨発見・追記ネアンデルタール人”けがが多い”は誤り

追記版 ネアンデルタール人”けがが多い”は誤り

1、5万年前の人骨は混血の少女

シベリアの洞くつ

2018年8月23日の新聞「赤旗」の記事で、シベリア南部の洞窟で、見つかっていた5万年前ごろの人骨は、ネアンデルタール人の母とデニソワ人の父から生まれた混血の少女だったことがわかったと、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの国際研究グループが22日付の科学誌『ネイチャー』の電子版に発表しました。 (以下、赤旗の記事です)

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(様々な角度から撮影したデニソワ11、 c,T Higham, University of oxford)

2つの人類が混血していたことは知られていましたが、それぞれの人類を両親とする人の骨が見つかったのは初めてです。

人骨は、2012年にアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟で、他の多くの骨と一緒に見つかりました。長さが2センチほどで、腕や脚の骨の一部とみられていますが、どこの骨かは、わかっていません。「デニソワ11」と呼ばれています。

研究グループがゲノム(全遺伝情報)を解析。これまで知られている人類のものと比較した結果、ネアンデルタール人やデニソワ人のゲノムとそれぞれ40%程度づつ一致していることがわかりました。両者とも比率が高く、しかも同程度の割合を占めているいることはデニソワ11がネアンデルタール人とデニソワ人の混血で生まれた人の遠い子孫でなく、子どもであることを示しています。

母親からだけ子どもに受け継がれるミトコンドリアDNAはネアンデルタール人のものと一致しており、母親がネアンデルタール人で父親がデニソワ人と判明しました。性染色体はX 染色体しか見つからなかったこと、骨の皮質の暑さから13歳程度とみられたことから、デニソワ11は少女だったことも分かりました。

デニソワ人は主としてユーラシア大陸の東部に、ネアンデルタール人は西部に分かれて住んでいたと考えられています。今回の研究で、父親ののデニソワ人の祖先にはネアンデルタール人と混血した人がいたことも分かりました。

デニソワ人は主としてユーラシア大陸の東部に、ネアンデルタール人は西部に分かれて住んでいたと考えられています。今回の研究で父親のデニソワ人の祖先にはネアンデルタール人と混血した人がいたことも分かりました。マックスプランク進化人類学研究所のスパンテ・ペーボ博士は「ネアンデルタール人とデニソワ人がこれまで考えられていたより頻繁に混血していた可能性がある」と説明しています。

デニソワ人

2008年にデニソワ洞窟で見つかった手の小指の骨のゲノムを解析して発見され、これまで知られていなかった未知の人類。その後の解析で、ネアンデルタール人に近隣な人たちだったことがわかりました。オセアニアやアジアの現生人類のゲノムにはデニソワ人のゲノムの1部がふうまれており、現生人類とも混血したと考えられています。頭や顔の骨は見つかっておらず、どんな人たちだっかは謎に包まれたままです。デニソワ洞窟からはデニソワ人とネアンデルタール人の骨が見つかっています。


「こういちの人間学ブログ」  2015年8月の記事

「人類は多くの人類と共存した。ネアンデルタール人,アカシカ人、フローレス人」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2015/08/20134-2304.html

すみません。つながりません。

◎デニソワ人の骨はほんの小さな小指の骨のかけらでも、ゲノムが明らかになりました。今度はネアンデルタール人とデニソワ人の両親から生まれた少女の骨が見つかり、ゲノムも分かりました。
ゲノムがわかったということは皮膚の色や目や髪の色も分かってきているはずです。顔の形もある程度わかるでしょう。発掘がさらに進みデニソワ人の頭骨の発掘が待たれます。ネアンデルタール人が現生人類と混血し明るい肌や金髪などがひきつがれたようですが、デニソワ人とネアンデルタール人と現生人類の混血が北方系のアジア人に引き継がれているように感じますが、今後の発見が待たれます。

2018年11月18日追記

2、「ネアンデルタール人”けがが多い”は誤り」

2018年11月18日の赤旗の記事で上記のことが載りました。

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記事の写真から、「大型の動物を捕獲しようとしてけがをするネアンデルタール人の想像図」

ネアンデルタール人は、ほぼ同じ環境で生活していた初期の現生人類(ホモ・サピエンス)に比べ、けがが多く、過酷な生活を送っていたとみられています。ところが、ネアンデルタール人と初期の現生人類の骨格を調べた結果、両者のけがをする率に大きな違いはないことがわかりました。ドイツ・チュービンゲン大学などの研究グループが15日付の「ネイチャー」に発表しました。

ネアンデルタール人は大型の動物の狩りを行っていました。しかし現生人類のようにやりを投げる道具や弓矢を持たなかったため、至近距離から大型動物とたたかわねばならず、ネアンデルタール人にけがが多い原因の一つとされてきました。

研究グループは、8万年前~2万年前までのヨーロッパやアジア西部のネアンデルタール人と初期の現生人類の遺跡で収集された800体の骨格標本を詳しく調べました。その結果、ネアンデルタール人がけがをする割合は、0,03~0,17%、初期の現生人類がけがをする割合は0,02~0,12%で同程度であることがわかりました。

また、ネアンデルタール人も初期の現生人類も、女性より男性のほうがけがをする割合が高いことがわかりました。これは、現代人の男性が日常行動や成人儀式、暴力行為などで女性よりもけがをしやすいのと同じだと研究グループはみています。

◎ネアンデルタール人が滅び、現生人類が生き残ったのは、ネアンデルタール人が大型動物と接近戦をし、さらには子どもを産む女性も狩りをしたため、けがで死ぬ率が多く、それでネアンデルタール人がほろんだといわれていました。

ブログ筆者もそのように書いてきました。しかし実際に骨を比較して,ネアンデルタール人がほろんだのは、違う理由であるということが明らかになったといいます。今後いろいろ興味深い発見が続くことでしょう、

 

2018年9月27日 (木)

クローズアップ現代、「謎のマッチョな弥生人」船を漕いでマッチョというのはおかしい。追記丸木舟で2019年7月9日与那国島到着。

2018年9月26日(水)の夜10時から、10時25分まで放送された、NHKの「クローズアップ現代+」で、「謎のマッチョな弥生人、骨から探るミステリー」という番組がありました。
九州北部には弥生人が早くに朝鮮半島から渡来し住み着きました。彼ら弥生人は背が高く、ほっそりしていて、顔も面長で、いわゆるしょうゆ顔であるということになっていましたが、九州西部の海岸や島部に住んでいた人の骨は、背が低く、筋肉ががっしりしていて、いわゆるマッチョな体つきで、顔つきも違う人たちでした。一体これはどうしてだろうかということです。

 

遺跡では権力の象徴として南方でとれる貝の腕輪の副葬品が権力者の骨と一緒に発掘されています。その貝の副葬品を得るために、ときに黒潮に逆らって、沖縄方面に行っていたので、筋肉が発達したのではないかと言っていました。季節によっては黒潮の流れに逆らった風の動きがあるのだそうであるが、それらを利用して手に入れたのであろうという。

 

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九州西部の海岸や島で発掘された骨は、身長は1メートル50センチほどだが、背は低いががっちりした体つきであった。

 

◎この顔つき、体系を見ても、縄文系由来の人である。縄文系の人たちは各地のへき地の海の近く、南九州、沖縄、四国、都会地以外の関東、東北特に太平洋側などに多い。

 

がっちりになったのではなくもともとがっちりなのである。

 

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平野部の弥生人と異なるマッチョな人々の集団があるということ。
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国立科学博物館の海部陽介氏はいう。

 

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弥生人のイメージ。ほっそりとした体つき。稲作もたらした人々。

 

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どんな暮らしでマッチョに。骨をCTスキャンして調べてみる。

 

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(弥生式)土器を運んだルート

 

長崎・高島にある遺跡と同じようなものが鹿児島さつま市にある。貝の腕輪など。

 

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赤い服を着た女性-筋肉を売り物にした芸能人ーはマッチョな弥生人と同じくらいの背の高さ。

 

このテレビでは、ほっそりして、背が高い弥生人が、船に乗るために筋肉が強くなって、外見も変わったというが、あまり納得できる話ではない

 

もともと、2400~3000年以前には日本には縄文人しかいなかった。縄文人は南方起源や、中国から来た人々、アイヌ系で北方に住む人たちなど雑多な人々が住んでいた。縄文時代にも稲作が伝わったようだが、弥生時代のように大規模なものではなかった。

 

大陸から中国江南の人たち(百越と呼ばれた)が漢民族の圧迫から逃れる形で渡来してきた。そのころ、広く倭人と呼ばれる人たちで、稲作文化をもたらし、高床式倉庫、抜歯、刺青の習慣を持った人たちだった。

 

倭人のことはや後漢の「漢書地理誌」や王充の「論衡」に書かれている。そこに書かれている倭人ということを、広く南中国から日本にかけて住んでいた人ととらえる人と、日本人とだけとらえる人がいる。

 

紀元前300年ころからいずれにしても沖縄諸島経由や朝鮮半島経由で、日本に渡来してきた。弥生時代の始まりとなる。そして、前から住んでいた縄文式文化の人たちと混血していった。

 

弥生人を狭義には渡来した人だけをいう場合があり、広義にはもともと住んでいた縄文人を含めて(縄文系弥生人という)と弥生時代になり、弥生時代の文化を取り入れ、渡来人と混血もしていった、人たちも含めて言う場合がある。

 

1700年前ごろ、弥生時代から古墳時代になるころから、気温の低下により、大陸の北方系のツングース系の人たちが、南下し、高句麗、百済を建国し、さらに朝鮮半島から大挙してやってきた。さらに、百済滅亡などに際して多くの渡来人が来た。また新羅系の人泰は日本海から富山、新潟から関東に住み着いたともいわれる。百済系の人たちは日本の支配層になっていった。彼らは細面、平面的な顔、いわゆるお雛様顔をしている人たちである。そして古墳時代になっていく。

2019年7月12日(金)追記

海部陽介氏の率いる国立科学博物館を中心とするチームが台湾東部から、原始的な方法でつくった丸木舟で台湾東部を7月7日出発したものが、7月9日に与那国島に到着しました。丸木舟の乗りては5人で、1人は女性でした。今まで葦の船などで2回失敗していました。台湾から与那国島までは200キロほどの距離があります。方角は太陽や月のいちで確認しました。予想しています。およそ3万年前に丸木舟に乗って渡来したと考えられています。

 

 

 

 

 

2018年9月13日 (木)

ゲノムで解明、日本人の起源 縄文人は東南アジア起源か、各紙で報道

2018年9月2日(日))の日経新聞の朝刊と、9月11日(火)の毎日新聞夕刊に、日本人の起源が、ゲノムで解明された、と報道していました。特に、日経新聞はカラー版で大きく出ていました。30面サイエンス版
日経新聞の30面サイエンス版の図版。
日経新聞の記事
DNA追い古代人に迫る
 縄文人 東南アジア起源か
 ホアビン文化民族が縄文人となった可能性可能性が高い。
ラオス、マレーシアなどの文化の担い手が作るホアビン文化の人たちと、縄文遺跡の愛知県井川津貝塚(4000年から2500年前)の2500年前の成人女性の骨がこの研究の立役者となった。
金沢大学、北里大学、国立歴史民俗博物館を中心とする研究グループが、頭部(耳の骨-側頭骨錐体)にわずかに残る遺伝子を注意深く採取し、全遺伝子情報の解読に成功した。
その情報をもとにこの7月、縄文人の起源について成果を発表した金沢大の覚張隆史特任助教は「縄文人の全遺伝情報を解読した初の成果。東南アジアの人々の遺伝情報と比較して遺伝的なつながりを調べる足掛かりができた」と解説する。
比較した相手は現在のアジアの人々や8000~2000年前の東南アジアの古代人ら80を超える集団だ。古代の人たちの遺伝子で調べる研究はすでに試みられていたが、日本で解読できた遺伝情報の割合が数%と低く詳細な分析はなかなかむずかしかった。全遺伝情報が解読できれば情報量も多くなり、より深い研究ができる。
覚張特任助教らは遺伝情報の類似性などに着目し6つのグループに分けた。その結果、井川津貝塚の女性の遺伝子は、約8000年前のラオスの遺跡や約4000年前のマレーシアの遺跡で見つかった古代人の遺伝子に近く、同じグループに分類されることが判明した。
そのころの東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作っていたと考えられる。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果となった。
このグループの遺伝子は他の5つのグループと大きな違いがあったが、地理的に近いグループの間で交流が起きたとみられる痕跡も見つかった。東南アジアでは、古い石器時代から住んでいた狩猟採集民が、稲作などの農耕文化を持つ集団の移動によって置き換わる「2層構造仮説」が長く信じられてきた。
今回の成果から単純な置き換わりはなく「複数のグループが移動と交流を繰り返す、新しい枠組みが浮かび上がってきた」(覚張特任助教)という。
国立歴史民俗博物館の山田康弘教授は「遺伝情報に基づく研究は日本の考古学にとってもおおいな力となる」と強調する。
遺伝子を解析して古代人の足跡をたどる世界の研究者に共通する考えでもある.浸透に合わせてこの分野の研究は活発になってきた。~
日本のような高温多湿なところでは遺伝子がきちんと残りにくい。乾燥した地域の多い欧州やアフリカは遺伝子の保存状態が良い。
今回の研究では,歯の中に残る細胞から遺伝子を取り出す方法ではなく、非常に硬い側頭骨に採取場所を変えた。~
この研究はデンマークのコペンハーゲン大学を核とする国際研究チームとの、共同作業でもあり、海外の複数の大学でも同様に遺伝子を解読した。北里大太田博樹淳教授は「1つの研究所だけでは信用度を高められない。国際協力体制で高い精度のデータを出せる」と話す。
キーワード「縄文人と弥生人」、「互いに交流し日本人に」
縄文人、1万数千年前から、約2300年前に日本列島に暮らしていた。丸顔で鼻が高く、えらが張っている特徴がある。狩猟採集生活を送り、現在の台湾や朝鮮半島などを経由して移り住んだと考えられている。
 
井川津遺跡は4000年から2500年前の遺跡で、縄文後期から晩期に当たる。
弥生人は約2500年前にアジア大陸から九州地方にわたり,コメ作りを始めていたという。面長で目が細くあごは細い。徐々に日本全体に広がり、縄文人などと交流しながら現在の日本人へと移り変わっていった。
 
Photo
上図は日経新聞の図表
・。
 縄文人の顔の特徴
  鼻が高い、えらが張っている、丸顔
 遺伝子の並び方
  古東アジア人の遺伝子と違う
  ホアビン文化の遺伝子と近い
◎下の図は、毎日新聞の記事を1,5倍に拡大してスキャンしました。今までスキャンがうまくできませんでしたが、パソコンを変えて、はじめからWindows10で入っているものに変えたら、うまく取り込めました。W7から10に変わったときうまく対応できませんでした。
 毎日新聞の記事は「ホアビン文化」のことは書いて無く、逆に日経新聞の記事は、日本全体に住む「ヤポネシア人―日本列島の人類」のことはかいてありませんでした。
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毎日新聞の記事
日本人の起源ゲノムで解明へ
分離融合の新手法
離島など50地域500人を解析
ゲノム歴史学という新手法
本州に住む人や北海道のアイヌ民族、南西諸島の人など、地域でDNAに違いがあることが分かっている。
チームでは、日本全体に住む人類を意味する「ヤポネシア人」-日本列島人―となずけ、ルーツを包括的に調べる。
全国で離島や半島など特に土着性の高い50か所の地域の約500人のゲノムを詳しく解析。5か年の研究には、プロジェクトには北海道大学、人間文化研究機構、国立歴史民俗博物館などが参加し研究費は約2億円。~
 
これは携帯カメラで撮影したものです。両方とも読みにくいですね。
180912_194501
◎日本人と倭について
倭について書かれるのは、「漢書地理誌」や,王充の「論衡」などであり。倭人が暢草を献じた、という記録がある。これを日本の倭が献じたという説もあるが、当時揚子江一帯に住んでいた人たちも、日本に住んでいた人たちも倭と呼ばれていたので、揚子江一帯の百越と呼ばれた人々をさすのではないかと思われる。
倭人については、「魏誌倭人伝」が詳しい。米作をし,鯨面文身(入れ墨)をし、高床式の家に住み,貫頭衣を着るなどの風俗が描かれている。日本では弥生時代を表しているようである。
中国では倭人は中国人(漢人)に押され南方に行き中国の少数民族やタイ、ラオス、ベトナムなどの東南アジア人となったと思われます。
遺伝子的に、日本人と東南アジア人と近いのはそういう理由があります。
しかし日本人はアジアの諸民族の吹き溜まりのような存在で、南はベトナムやインドネシアに近い人たち、南中国系、北方中国系、モンゴル系、ツングース系のお雛様顔の人たち、アイヌ系などがいて、本当に様々な民族が混血しています。
国立科学博物館で一連の人類の起源と歴史のNHK番組の展示があると思います。楽しみです。
参考
                 日本         中 国
紀元前300年ころまで縄文時代            前漢
                                新
                        紀元25年   後漢成立
                           57年  倭の奴国朝貢
 
           弥生時代               「漢書」、「論衡」
                        220年     後漢滅亡
                                 魏,呉,蜀
紀元300年以後 古墳時代
 
 

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