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生き方について、人生論

2012年6月15日 (金)

『坂の上の雲』から、「一つだけ言え」ということ、女性が相手を選ぶ時も、何を求めるのかー古川氏の話し

 2012年6月12日の、異業者交流会である、「二火会」の例会には、二火会の準会員である久保田章市法政大学大学院教授のご紹介で、古川裕倫(ひろのり)氏にお話しをしていただきました。古川氏は会社役員をされながら、19冊の様々な著作を書き、一方で「世田谷ビジネス塾」で、で、若手の経営者に経営指導をされている方です。

 当日のテーマは「仕事で大切なことは『坂の上の雲』が教えてくれた」というものです。これと同じ題での著書が三笠書房(知的生き方文庫、2009,10)から出されています。

 レジメには、1、時代背景、2、主人公 秋山好古、秋山真之、正岡子規 3、物語から学ぶビジネスの要諦、となっています。その内容は。

1、「人生でなすべきこと」を決める 秋山好古

2、「人の心に響く言葉をもつ(上司と部下なら) 秋山貞

3、「YESマン」にならない  秋山好古

4、仕事と「情」を分ける(かきがら落とし) 山本権兵衛

5、「メンター」をもつ メンターとは理解し応援してくれる人、がいるか 

  正岡子規  みなさんをメンターと認める人が何人いるか

6、自分を高める、学ぶ(本から、仕事から、人から学ぶ) 秋山真之

 乱読よ。本は道具だからな。

7、リスクを覚悟して「決断」する 覚悟に勝る決断なし 西郷従道

8、任せてやらせて、責任は取る 大山巌

 戦「いくさの細かいことはすべて児玉さんにまかせます。しかし負け戦になった場合には、自分が陣頭に進み出て、じかに指揮をとります。

9、「責任三原則」をはっきりさせる 島村速雄(参謀長)

  責任三原則(結果責任、遂行責任、報告責任)

10、自責と他責 乃木将軍と児玉源太郎

11、「頭でっかち」にならない(知力と行動力) 児玉源太郎

12、「何は一番大切か」を見極める(何が一番大切か、一つだけ言う)

東郷は、海戦の要諦は、砲弾を敵よりも多く命中させる以外に方法はない」という基本姿勢をとった。射撃訓練を徹底。艦隊の腕の良い撃ち手を主力艦主砲に集中させた。ロシアでは貨物船を運ぶのと戦闘との二兎を追った。  東郷平八郎

13、いかなる時も動じない ピンチの時も動じない 東郷平八郎

 残念ながら、詳しい話は省略しましたが、興味のある方は本をお読みください。

今回の話しの中で、特に印象に残ったのが、12番目のお話です。古川氏は例を三つあげました。

 1、家を建てるときに、どういう家がいいかを聞く。皆がいろいろ言うことをボードに書きだす。それだけではダメ。何が大切か一つだけ決めなさいと。

 2、ある商品が売れない理由を問う。 やはりいろいろな理由を出させて書いていく。そして結局、まずかった本当の理由は何かを一つつきつめて聞いてみる。そうすると、やっと、「自分が悪かったのか」ということに気づく。そして「ようやく気付いたか」ということになる。何事も、瑣末な物事ではなく、何が最も大切かを、見極める力をもつことが大切である。

3、古川氏の「世田谷ビジネス塾」には女性の塾生も多くいるそうです。そしてある女性から、お付き合いする人を紹介してほしいという話が来るそうです。古川氏は、どういう人がいいかいろいろ聞くそうです。お金がある、学歴がある、背が高くハンサムである、できたら次男以下等々、でもそんな条件をすべて備えた人などいるわけがないのです。そして「よく自分で考えてきたらどうですか」というそうです。そして相談に来た彼女は、よく考えたら、「優しい人」が、一番いいと感じました、と。「そうですかー」といった二ヶ月後には、結婚する人が決まりましたと、報告があったそうです。

 確かに、お金や地位などこういう世の中ですから、いつ落ちてしまうかわかりません。男女ともに、残念ながら、容姿はどうしても年をとれば右下がりです。でも優しさとか人に対しての思いやりというものは、一生変わらないものです。そのカップルは長続きし、晩年も幸せでしょう.

この話は、女性の男性選びだけでなく、男性の女性選びでも全く同じであることは言うまでもありませんね。

 経営の話しを超えて、人生全体に影響を及ぼすお話しでした。

 お話しの後は、大久保駅のちかくの「あうん」で懇親会を開きました。古川氏には引き続き「二火会」の準会員になっていただくことになりました。

2011年5月31日 (火)

自分を知るとは 「ジョハリの窓」 知られていない自分(その2)

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「ジョハリの窓」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。心理学の講義を聞いたとか、経営の研修会などで聞いた方も多いでしょう。知らない方への説明とおさらいの意味であらためてお話しします。

「ジョハリの窓」とは1955年にアメリカの心理学者である、ジョセフ・ルフトと、ハリー・インガムとによって開発された「対人関係における気づきのグラフモデル」のことです。二人の名前をとって、ジョハリ(johari)と名付けられました。

 上記の表で少し暗くて分かりにくい表ですが、自分というのは、横軸に自分自身にわかっている部分と、自分自身ではわかっていない部分とがある。そして縦軸に、他人にはわかっている自分と他人にもわかっていない部分とに分けてみるというわけです。そうすると四つの窓ができます。

 1、そして、自分にも他人にもわかっている部分を「開放の窓」といい、公開された自分であるといいます ここは共にわかりあえる自由な行動領域であるといえます open self

2, 自分は気づいていないけれど、他人にはよくわかっているということがあります。こういうことはよくあることです。これは「盲点の窓」といいます blind self

3, 自分にはわかっているのだが、他人にはわかっていない、秘密にしている自分というのがあります。これをかくされた自分といい「秘密の窓」といいます hidden self

4, 最後に、自分でも知らないし、他人も気がつかない、その人の隠れた部分。誰からもまだ知られていない自分を「未知の窓」といいます。 unknoun self

 開放された窓が小さいと、すなわち自己開示が十分になされていないと人間関係がうまくいかないことがあります。自分の良いところ、欠点、よく落ちいる傾向などを良く分かっているのと、まったく知らないで行動しているのでは人間関係に大きな差が出てきます。特に盲点の窓が多いと問題です。

 自分というものは、案外にわかっていないところがあるのだなと自覚し、自分自身を日常的に知るように努力していくこと。大げさに言うと自己超越を日常的に行っていくことが人間個人の成長となっていきます。1の開放の窓を次第次第に拡大していけば人間関係はよくなっていくことでしょう。すなわち、他人にはわかっていて、自分では知らないと下手をすると物笑いの種になります。また他人にたいして自己開示しないで秘密にばかりしていくと、相手も心を開いてくれません。自分の秘密を思い切って話せれば相手の人も心を開いてくれます。

 ◎補足として、「自分」に関してのいくつかの言葉をあげてみます

1、 ウイリアム・ジェームズ

  人間は出会う人の数だけ自己を持っている ー相手によって違う自分

2、チャールズ・クーリー

  自分は他人の眼に映る自分のイメージを反映しているにすぎないー鏡に映る自己

3、竹内敏春

  自分に出会うということ 人となりが身振りや声にあらわれる                          自分とはどういうものか本来何をしたがっているのかわからない                     行為のパターンの変化 顔つき、体つきも変わる その人の存在の仕方全体が変わる

 自分が気づきたくなかった自分に気づく 人はそんなに聖人君子ではない

 恋愛での行き違い 本当に好きなのは誰?よく、すなおになれず喧嘩したり行き違いがおきるのです

★ 私が思うに、自分の考え方というものも、実は外から規制されたものにものにしたがっているのではないか。日本軍国主義の時代や、現在でも“アカは悪い”などということがすりこまれ、それを自分の考え方と思っている。マスコミ、特に読んでいる新聞などに強く影響される。世論調査なども誘導的な傾向がある。またひとはいろいろな潜在意識に支配されていることがある。フロイトは性的なものを上げ、ユングは社会的なもの、すなわち風習や、シンボルをあげています。

4、ギリシャ哲学では イドラ(偏見)からの自由を求めた

5、堺屋太一 「自分を生かす名言」序文

  子供の時代から、これをしてはダメ・・・・といわれ続けて、自分が本当にしたいことが分からなくなってしまう。就職も学校も、何々にいいからということを人に言われて、本当に自分が好きかということを良く考えないで選んでしまい。結局途中で嫌になったりする。 ー思考のタコつぼに陥る

6、孫子

  ”敵を知り、己を知れば、百戦危うからず”

 

2011年5月29日 (日)

自分を知るとは 「ソフィーの世界」死の自覚と生の素晴らしさ(その1)

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現代の日本では、特に若い人たちは、政治のことや社会的関心は薄い代わりに、自分個人に関心が集中している傾向があるとおもいます。これはミーイズムともいいます。そしてその自分を知りたいというところから、「自分探し」などという言葉が出てきました。それはささやかながらでも幸せになりたいという願いから来るものなのでしょう。

 そして、「自分探し」にお手軽なのが、特に女性週刊誌などにたくさん出てくる、占いや、各種心理テストなどがあります。一方自分探しからスピリチュアルとかの世界のほうへ進んでいく人もあります。そして、いろいろな矛盾の根源にある社会の矛盾に目を向けないで、それぞれの流儀の解決法をやってみようかななどと思います。パワーストーンやら魔法やおまじないなどというのも手っ取り早い方法です。

 学校では、よほどそういうことに関心のある先生以外、話してくれません。まして、親兄弟や、友達もそうです。大学の今はやりの「人間学」という学科に入っても、実際の内容は旧態依然たる各専門の教授の講義が羅列されているだけということもあります。

 1995年(平成7年)にノルウェーのヨースタイン・ゴルデルという人の書いた『ソフィーの世界』という本が日本で翻訳され、一時爆発的に売れました。ソフィーはごく普通の14歳の少女で、そこに差出人の名前もない一通の手紙が舞い込みます。そこにはただ「あなたはだれ?」と書いてあるだけでした。それ以後、「私っていったいだれなんだろう」と考え始め、それ以後いろいろ不思議なことがソフィーのまわりで起きてきます。

 ソフィーは鏡の中の自分を見てみたり、自分は何だろうと考え始めます。そして今私はいるけれど死んでしまえばいなくなるということに気づきます。「人は、いつかかならず死ぬということを思い知らなければ、、生きていることを実感することもできない」と考えた。そして生のすばらしさを知らなければ、死ななければならないということをじっくり考えることもできない、と。                                                            

 ソフィーは、祖母が自分の病気を告げられた日に、似たようなことを言っていたのを思い出した。「人生はなんて豊かなんでしょう、今ようやくわかった」

 たいていの人が、生きることの素晴らしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに。                           

 これが本の最初のほうに出てきます。そしてその後、次々に「哲学講座」という封筒が届きます。そして「哲学」について、「神話」について、さらにはソクラテス、プラトン、ルネサンスの哲学者たち、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、ダーウイン、フロイト(他に紹介されていますが省略しました)などと続き、そして私たちの時代として、人間は自由の刑に処されているのだという、サルトルが紹介されます。

ようは哲学史をわかりやすく少女にもわかるように説明してその中にある人間観そしてその中に自分とは何かを探る糸口を見つけ出させようというものです。でも実際に読むとそんなにわかりやすいものではありません。話では対話の相手でもあり先生でもあるようなアルベルトという男の子が登場し、ソフィーと会話をしながら、哲学のいろいろな話をつづけていきます。そして途中からヒルデという同い年の少女とそのパパが出てきます。

 後半になってくると話の主人公はソフィーからヒルデのほうに移ってきます。そして、ソフィーとアルベルトの話は「物語の世界=ソフィーの世界ーファンタジーの世界」であることが明らかになります。最後にソフィーは「ヒルデは幸せね、本当の人間なんだもの…大人になって、きっと子供ができて」アルベルトは言います「僕たちはヒルデのようには生きられないそのかわりぼくたちは死なない」

 ヒルデの世界は、現実に存在し死んでいく世界。ソフィーの世界は不死の世界ですが、ソフィーはヒルデの世界をうらやましく思います。「ファウスト」の中で、「時よとまれ、おまえは美しい、~この至高の瞬間を」、という言葉があります。

 生命のくじを引き当てたものは、死のくじも引かねばならない。なぜなら生命のくじのあたりは死なんです。                                                   

 そして最後の章「ビッグバン 私たちも星屑なんだ」には「(人間は)小さな生命体かもしれないけれど、大きな関連の中の大切な一部として大きな何かの一端をになっているのだ。僕たちは命の惑星なんです。」                                            「私たちは遺伝子をのせて生命の海を行く船なのです、この積み荷を次の港に運んで~」    「全世界が一つの大きなコミュニケーションで結ばれる・・・一つの惑星文明に生きていrことを感じることが大切である」と結んでいます。

 生命の素晴らしさと地球と自然と人々のつながりに関しては、ちょうど現在、手塚治虫のマンガ「ブッダ」とシャカについて展示会が開かれています。私も「ブッダ」は昭和49年の希望コミックス、その後の大きな立派な本、そして文庫版(いずれも潮出版社)と三つ持っているほど好きなのです。

 人間は親からその子と連綿とつながっているそして外の動物なども含め大きな網の目の一つとして存在しているというところが素晴らしかったです。

 「ブッダ」の中で、死ぬ直前にすばらしい景色を見ながら、「この世は素晴らしい、甘美なものだ」という、言葉がとても印象的でした。そして死んだrどうなるのでしょうかという問いに、「人間は誰でも死ぬ、あたりまえのことだ。死ぬということは人の肉体という殻から生命が飛び出していくだけと思うがよい。人間も肉体という殻からはなれて飛び立てばどうなるか生きている間はだから誰にも分らぬ。ただそれからさらに無限に新しい世界が続くはずじゃ。だから死は何も恐れることはない」といっています。

 自分とは何かを突きつめると、有限のいのちと死ということを考えざるを得ません。その中で、この世界で生きていることの素晴らしさを、感じ取り、精いっぱい生きていこうとすることが大切なことでしょう。たとえ病気で余命幾日と宣告されても余計残された時間を精いっぱい生きようとするでしょう。そしてあまり細かいことにくよくよ悩まなくなるかもしれません。このことは自分探しとか言って占いなどにたよるとか、眼先の利益をなにがしかで得ようということよりももっと大きくて大切なものであることがわかると思います。

                      

2011年5月27日 (金)

比較人生論 真下信一 志位和夫、B、ラッセル、村松恒平 (3)290

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ベゴニア、奥はイチゴです

三回にわたって、比較人生論を書きましたが、あげている人物もいろいろで、順序もなしに列記してあります。今回は表記の4人についてです。

真下信一

はやはり、『君たちはどう生きるか』に大きな影響を受け、『君たちは人間だ』(新日本出版社)を書きました。                                          「まず、大切なことはまず第一に人間であること、ヒューマニズムの立場に立つことである。人間を無視することなく愛と自由とで、結ばれることが望ましい。しかし人間に関する学問は遅れている」                                                   「人間には三つの大切な要素がある。 1、二本足で立ち手を使って労働すること、 2、人間は社会的などうぶつであること。人間は何より人間関係がたいせつであること、世の中や政治のあり方についてしっかりつかむことが大切である 3、精神性 人間の自覚性、自律性、心の内面を豊かにすること」                                        「何か目的を持ち、生きがいを持って、それの実現のためにわが身をはげます。そういうところに人間らしい生活がある」

B ラッセル

20世紀最大の哲学者とも言われます。私は昔『宗教から科学へ』(荒地出版社)や『ラッセル幸福論』(岩波文庫)を読んで大きな感銘を受けたものです。             

「宗教と科学は社会生活の二つの面で常にたたかってきた」                          「世界宗教は教会、教義、個人道徳のおきてを持つ」                                      「宗教の教義が、科学の理論と異なるのは永遠で絶対的な確実な真理を体現していると主張している点にある。科学は常に試験的なものであり、その現在の理論は早晩改革が必要になると予期することにある」                                            「病気にたいして悪魔や魔女の仕業とし、ドイツだけで10万人の女魔法使いが焼かれて死んだ。実際には異端審問を行い財産をかすめ取ったのである」                       「科学者は科学の範囲を超え他領域が存在することを謙虚に認め、リベラルな神学者たちは、科学的に証明されることはどんなこともあえて否定しないという点で一致している」    「日常的な不幸の起こる原因は大部分、まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣によるものである。それを正しく見つめ理解することがたいせつである」               「恋愛は自我の固い殻を打ち砕くことができる。自分の最高の幸福が愛する人の幸福につながってくる」                                                  「幸福のためには、あなたの興味をできる限り幅広くする。あなたの興味を引く人や物にたいして友好的なものにすることが必要である」                                 「愛情を受ける人は大まかにいえば愛情を与える人である」                              

 まだまだ沢山の役立つ言葉がありますが、よろしければご自分でお読みください。

志位和夫

『科学、人生、生きがい』(新日本出版社)

「マルクス主義、社会主義は死んだという大合唱があるが、討論としては粗雑である。死んだのではなく常識となったということです」                                   「資本主義の矛盾は、商品主義の無政府状態が全面的に表れる競争の強制的法則、規制緩和、教育に競争原理、農業、中小企業の圧迫などにあらわれる」                         「個人財産の否定ではなく、確立こそ社会主義の目的。目指す社会はすべての人間が人間として尊重され、自己の生き方の統一として尊重され、その能力や素質が全面的に生かされる社会である」

村松恒平氏 『神様学入門』洋泉社 

村松氏が神様にインタビューしたと内容という形の本

「神様は便利屋にあらず(困ったときの神頼みだけではだめ)」                                         「呪いは宅配のピザのようなもの(そのつけは人生で払わなければならない)」              「自分探しはうち側に向かってもだめ、他の存在と出会って認識することができる」                       「いかに生きるかと、ぐだぐだ悩んでいる人より、生き生きとしした生き方をしている人のほうが、ずっと深く人生について知っている」                                       「神を感じ、神を知り、神の恩恵を受けるには今では宗教は必要ない」                 「宗教は代理店であり、代価を要求する。宗教はゲームセンターのようなもの。しかしゲームセンターのコインはお金にならない。」                                                  「キリスト教の原罪説で神はアダムにリンゴを食べてはいけないといっているけれど、食べたくなるのが当然である。本当に食べさせたくなければ、アダムから離しておけばいいのだ。馬鹿じゃあるまいし」                                                   「善も悪も物事の裏と表、“正義”の立場で救世主を待つのはエゴの変形である」                「神は酒、宗教は阿片、そこには非常に手に入りやすい陶酔がある」

 などなど、一部しかのせられませんでしたが、非常に明快で面白い本でした。

いまどき、こんなくそまじめなような人生論なんかはやらないかと思われるでしょう。しかし、時代がいかに変わろうと、受け継がれて感銘を受けるものは続いていくと思います。

                            

2011年5月26日 (木)

比較人生論 吉野源三郎、青木雄二、三木清 伊藤光晴 その2

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きゅうり、なす、ミニトマト、イチゴ、シソなどです

吉野源三郎

『君たちはどう生きるか』は、若者にとっての人生論の古典ともいう本ですが、大人にもぜひ一読をお勧めします。戦前に出版された本ですが、私が読んだ1998年版の岩波文庫でもすでに43刷となっていました。

「みんな、自己中心的な考え方から抜けきれない。客観的に自分や世の中のことを見られるかどうかなのだが、なかなか難しい。すなわち、自分を地球として見たとき自分を中心に世の中が回っていると考える天動説の誤りに気づくこと、そして地動説に変えることが大切である」といっています。おじさんはそれに気づきつつある甥にコぺル(ニクス)君と名付けます。

「立派な人と立派そうに見える人とはちがう。自分の一生の意味、値打ちについて教えることはできない。大人になるに従い自分で学んで見つけ出していかねばならぬ。人間らしく生きること・・・ははたから教え込めない。自分で生きてみて感じる中で、人の言葉の真実が理解される」と。「そして人はみな、自分の生まれてきた境遇から”自分の考え”をもち、自己中心的な考えから抜けきれないものである。客観的に自分も世の中も見られるようになることは、大変重要なことだ。世の中の人がお互いを理解し、好意を尽くし、それを喜びとする社会を作ろうとする人間をいい人間という」

伊藤光晴氏

 10代のころ『君たちはどういきるか』を読んで強い印象が残ったという伊藤光晴氏は『君たちの生きる社会』で「君たちの生きる社会を考えるコツは、自分と相手を全部取り換えてみることだ」といいます。「桃太郎の鬼退治」の話も、鬼の立場に立って見るとちがった見方がされる。日本人は内に優しく、外に冷たい「桃太郎主義」になりがちではないか」といいます。さて戦前のこの本が書かれた当時は日本は中国に侵略戦争を仕掛けていました。普通なかなかこういう風に考えないものです。いろいろな映画でも簡単な勧善懲悪で敵味方を分けて考えます。白人から考えてインディアンは悪者であるという風に。私も前に書きましたが、スターウォーズなどで、敵の巨大な宇宙兵器デススターを破壊するところが出てきます。その巨大なものに何万人も住んでいたろうになどとは考えないのです。これは平気で広島長崎に原爆を落とすもとになります。

さて再び吉野源三郎の話に戻ります

「人を愛することがいかに自己を成長させるかについては、多くの人が言う。愛することによって、自分の殻を打ち砕いて相手を理解することができる。愛する人を作るには相手を理解しようとする心、おもいやり、自分の心を抑える一つの勇気が必要である」といっています。このような相手を思いやる心がないと結局すぐけんか別れしてしまうのだと私は思います。

 「人間は、自分の行いを決定できる。だから誤ることもある。しかし、それをつらく感じ、克服することによって、人間がどういうものであるかについて学ぶことができる」      以上、だいぶ多めに引用しましたが。いろいろとうるものが多いと思います。今からでもお読みになることをお勧めします。

 もうなくなったマンガ家である青木雄

「ゼニの幸福論」(角川春木事務所)では、幸福であることと、幸福であると思うこととはまるで違うといいます。ただ自分の心の問題で主観的に、幸福であると「思えばいい」と言う幸福論が多いのですが、幸福で「あること」が大切であるといいます。現代社会の中で、厳しい生活環境の中で、苦しんでいる人に、幸福だと思えというのはひどい話です。観念論ではだめで唯物論でなければならないと青木氏は言います。「人間の悲しみは、ゼニで埋め合わせることができない。しかしそのあとの苦労は、ゼニがあれば、なくてすむ」ともいっています。

 三木清

「人生論ノート」も戦前の本ですが、うるところの多い本です。よろしければお読みになってください。新潮文庫で長く読まれている古典的な本です。

以下は三木清の言葉です                    

 「自分を知ることは、やがて他人を知ることである。私はただ愛することによって、他の個性を理解することができる。」                                          「今日の良心とは幸福の要求である。社会、階級、人類等々のあらゆるものの名において、人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。それはヒューマニストであるかどうかの条件になっている」             「『死後の世界があるかどうかはわからない』が正しい。」

さて三木氏は死んだら愛する人に会えるかもしれないか、死は恐ろしくない、といいます。そういう人を持てたことは素晴らしいことです。三木清は戦前の軍国主義国家により、逮捕され、終戦直前に獄死しました。

 三木清は戦前に「人間学」を、日本に最初に紹介した人物です。「人間学」について彼はこのように語ります。「以前の心理学は心理批評の学であった。人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評価することによって、これを秩序づけるというのが心理学の仕事であった。この仕事において、哲学者は文学者と同じであったような価値批評としての心理学が自然科学的な方法に基づく心理学によって破壊されてしまう危険が生じたとき、これに反抗して生まれたのが、人間というものである。しかるにこの人間学も今日では最初の動機から逸脱して、人間心理の批評という固有の意味を放棄し、あらゆる任意のものが人間学と称せられるようになってい。~心理批評が文学者にのみ委ねられるようになった。そこに心理学を持たないことが一般的になった今日の現代哲学の抽象性がある。その再見逃してはならぬことは、この現代哲学の一つの特徴が幸福論の抹殺と関連しているということである。これは戦前の人間学についての批判ですが、これは多くの現在の「人間学」にも批判されるべきところのものです

 さて、ほかにも取り上げた人生論はいろいろあるのですが、とりあえず少しの紹介にとどめます。いずれにしてもこの世での人生は一度限りです。生きてきてよかったという悔いない人生を送りたいものです。そして、生き方を誤らないためにも、自分について、人間について、社会について、たまには本を読み、少しはあれこれ考えて見ることもいかがでしょうか。

比較人生論 五木寛之、石原慎太郎、大川隆法、河合隼雄(その1)

Hi3d0128_2 ベランダ バラがきれいに咲きました

1999年7月の第3回実用的人間学部会で、私は「比較人生論」と題して話をしました。今からもう12年も前のことです。その要旨を人間学研究所通信(HUMANOLOGY)にも書きました。それを基にしてここで改めて書いてみたいと思います。当日参加した皆さんに配布した資料はA4版で26ページに及ぶものでした。この当時はまだワープロを使わず手書きの資料です。私はこの資料を作るために12人、30冊の人生論を参考にして比較してみました。

 人生論とは「人生とは何か」、「人間いかに生きたらよいのか」などについて考察するものです。よりよく生きるための知恵を追及する私の「実用的人間学」にとっても重要なところです。そして人生論はまた、人間は幸福に生きることを求めることが多いので幸福論にもつながります。そして人生論をどんどん真剣に追及していくと、人間とは何かという人間論や世界観につながっていきます。

 比較した人生論の人物は、五木寛之(大河の一滴)、石原慎太郎(法華経を生きる)、河合隼雄(人生ことはじめ)、吉野源三郎(君たちはどう生きるか)、青木雄二(ゼニの幸福論)、大川隆法(幸福の革命)、村松恒平(神様学入門)、渡辺昇一(人生観、歴史観を高める事典)、三木清(人生論ノート)、高間直道(人生哲学入門)、志位和夫(科学、人生、生きがい)B,ラッセル(宗教から科学へ)その他、ゲーテなど10人ぐらいの人生に関する名言ものせました。比較するためにずいぶんと幅広い人々の言葉をのせました。(   )ないは取り上げた著書です。ここで少しだけ、紹介してみましょう。(敬称略しました)

五木寛之氏は

『大河の一滴』で、

「人間の一生とは、苦しみの連続と覚悟して、究極のマイナス状況からスタートすることだ」といいます。この世の中の不幸のもとは、人間関係がばらばらであるということだ。しかし、その中でこそ、人間関係の素晴らしさにふれた時、大きな喜びを感じるのではないか。この世の中ではあれかこれかだけでなく、あれもこれもという立場に立ったらどうだろうか。人間関係を良くするためのユーモアと、涙と励ましと、ときに共に泣いてあげることが必要であるといっています。五木氏は他力本願の浄土真宗の信者です。

一方石原慎太郎氏は

「法華経を生きる」そして五木寛之氏との対談集「自力か他力か」で、「信じる者は救われんなどという安易な他力本願などでは決してなく、自分の抱いている問題、自分を取り巻いている厄介な状況が一体なぜもたらされたのか、その仕組みを自分で探り出し、自分で解決しなくてはならない」といっています。また「法華経の絶対的な法則に身をゆだねてしまえば、現実という相対的な世界~を超越でき安心立命する」といっています。また他人のことに関心がない、私は石原教だといっています。自信満々な石原氏らしい言葉です。

 大川隆法『幸福の革命』、『繁栄の法』(幸福の科学)

「人間の歴史は集合想念で作られる。考え方一つ、心の力が未来を変える」              世の中には邪教と無神論が広がっている。無神論はあの世の恐ろしさを知らないから罪悪感を持たない」                                                    「人間は魂を持った存在であり、肉体は乗り物にすぎない」                         「人間は思いと行いによって人間となる。みなさんも衆生を救う菩薩になってほしい」           以上が大川氏の考えです。 

さて私(こういち)は思います。生き方の問題に関して、宗教と信念の問題は重要です。宗教といっても、ありとあらゆる形がありますが、一般的に宗教は、信仰すること、帰依することが基本です。織田信長がやったように討論させ比較対照などはしません。大川隆法氏の「幸福の科学」によれば、その信者となったとたんに一気に菩薩になってしまうそうです。大川隆法自体が最高神のエル・カンターレで、仏陀でも、へルメス等々であるので、信じればすぐ菩薩になるのは簡単なのでしょう。宗教は麻薬か強い酒のようであるという人がいるが、新興宗教がはやるわけである。大変てっとり早いのです。本当に信仰できた人は幸いであるといえますが、しかしそれができない人は、自分で悩みながら自分の信念を作っていくしかないのだとおもいます。

河合隼雄氏は、

「私」を中心とした「人生学」が必要だとし、それは誰にでも通用する真理などはなく、各人が自分なりの「人生学」を作らなければならないといいます。最近河合隼雄氏の講演テープ集を買いました。「心の扉」といい全7巻です。河合氏の本はかなり揃えているのですが、河合氏の講演は大変面白く、本で読むのと異なる味わいがあります。その第一巻は「自分を考える」となっています。そこに書いてあった言葉です。

そして、「華厳経」にも「自分というものはない」ということが何度も出てきます。「私」というものはいろいろなものと関係していて、例えば、私と私の前にいる人との関係、私と天井の関係、私と床の関係、そういう関係の総和の中で「私」というものができている。だから大事なのは「関係」で、私というのは仮にあるだけだというのです。

 この言葉は『フォイエルバッハにかんするテーゼ』においてマルクスの「人間とは何か」の定義について、「人間とは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」というのに大変似通っているので面白いと思いました。

 その2に続きます

2010年12月22日 (水)

スピリチュアルな生き方ではなく、科学的な立場による生き方を

 まず、あらためて、「スピリチュアルとかのいかがわしさ」という私のブログで、今は直してありますが、K氏を呼びすてで書いたというのは失礼なことでした。お詫びいたします。今は名前も書かずK氏としています。K氏の本を読んでいないで書いたものであるということもよくないことでした。申し訳ありませんでした。

さて、第29回実用的人間学でお話した「スピリチュアルな生き方か、科学的な立場による生き方か」の内容の後半についてお話します。今パワースポットが若い女性に人気で、神社やお寺などにたくさんの人が行って、いろいろお願い事をしています。恋愛のお願いが多いそうです。それは別にとがめだてすることもないのですが。全般的に、いろいろ思うようにならない世の中で、その原因を、霊とかや、運の良し悪しのせいにして、パワースポットや、神仏や占い師などに探ってもらおうという人が、特に女性には多いように思えます。原因を正しくとらえられないならば、その解決策も間違ったものになります。もちろん気持ちの問題というのが大きいですから、占い師や、パワースポットで癒されたと感じられるのは、それはそれでいいのです。

 しかしK氏の本にも書かれていますが、弱者を救済しない新自由主義の政策によって、このままでいいというメッセージがあふれていて、弱者をだまして社会の底辺にい続けさせる傾向がある。また、自分や家族が直面しているさまざまな個人的な問題や社会問題においてそれが不正を黙って見過ごしましょうというのではなく不正があればきちんと正すことが大切である。スピ原理を働かせれば、そういう困難を解決しやすいような精神状態になることができると言っています。

 私の考え方は、禅や、ヨガやいろいろなエクササイズをして、魂や、悟りの境地ともいえる霊のレベルに心を持っていくのではなく、社会や自分自身について、科学に基づいて正しくとらえてゆき、その結果に基づいて、行動しようというのです。たしかに、悟りの境地に近くなったという自信とゆとりから、周りの人にやさしくなり、心身も丈夫になって、いろいろな問題を解決しやすくなるということを別に否定するわけではなく、それはそれで結構なことなのです。ただ私の方向は、K氏が行っている社会的問題をどのように解決していくか、又心身の問題や、人間関係の問題も、冷静に科学的にとらえて判断しようというのです。

 私は、この47年間で人間に関する膨大な書物の中から、人間学に関連する本を1万数千冊を集めてきました。人間学という表題のついた書物を常に把握し、うち半数近くの500冊ほどを持っています。自分自身が人間に関するゼネラリストとなろうと、いろいろな分野の知識をを広く浅くではありますが、集めてきました。学生時代からやっている人間学研究会で、数えきれないほどの人間学の例会を開き、知識を吸収してきました。その結果、宇宙の起源、生命の起源、生物進化、歴史、人類学、社会学、心理学、哲学、宗教など多くの部門について概略をつかみ。十数回にわたって、分かりやすく全分野をお話できるようになっています。実用的人間学は膨大な知識を、わかりやすくこなして、その個人個人が生きていくうえでの知恵になるようにこなしていくものです。

 そしてそこで身につけた知識を、実生活で活用します。実用的人間学では、単なる知識としてだけとらえないで、自分自身がどのようなものであるのか現在の自分の考え方がどのようなものでありどのように変えていかなければいけないかを考えます。魂や心のレベルを上げるのではなく、自分自身の心身や健康状態、人間関係などの状態を正しくつかみ改善していきます。社会の不正があれば、きちんと正すことの方に力点を置きます。それにはそれぞれの専門家の力を借ります。もちろん健康法などで、私自身も、呼吸法などを取り入れています。でもそれは、魂のレベルを上げるためではありません。

 まだまだ実用的人間学と言っても、私自身が提唱しているだけで、人間学研究所や、実用的人間学研究会のメンバーにしか通用しておりません。しかし、宗教にかわってのスピリチュアルな生き方ではなく、科学的、批判的に生きるための科学的ヒューマニズムと実用的人間学をもとにした生き方をお勧めします。改めて。カールセーガンの言葉でしめたいと思います。

「科学的精神を持ち、それを現実の社会の中で実践した人は、学歴や職業にかかわりなく、すべて科学者なのである」

と私もそのように生きたいと思っています。

* 科学的ヒューマニズムとは、ハチョンの、「科学的ヒューマニズムの歴史」に書かれている、ブッダから孔子、ルクレチウスからカールセーガンなどまでにいたる、人間は神が造ったものではなく、自然に生成されてきたということをもとにしたヒューマニズムの思想です。

2010年12月18日 (土)

スピリチュアルな生き方か、科学的な立場による生き方か

 2010年12月16日、人間学研究所において、第29回実用的人間学例会で、「スピリチュアルな生き方か、科学的な立場による生き方か」というテーマで、このブログの筆者である佐竹幸一がお話しました。わたしが2010年8月14日に書いたブログ「スピリチュアルとかのいかがわしさ K氏」というブログに対して、9月29日のK氏のブログに「佐竹幸一氏の非難に反論する」というブログが書かれました。そこには、番組を全部聞いていないし、自分の本も読んでいず、座禅などについての知識がなく、唯識やことに仏教書を読んでいないのが誤解のもとであり、それはおかしいということでした。それから佐竹氏は、実用的人間学をと言っているがそういうプラグマティズムでは、社会の根本的解決はできないのではないかというような内容でした。また最初に書いた私のブログには、K氏というのではなく、実名を書いていました。

 確かに本を読んでいないでの批判は十分ではないと思い、本を詳しく読んだあと、11月18日の私のブログに「スピリチュアルのすすめをよんで」という、テーマで書きました。本の内容のポイントと、その批判を書きました。それに対して、高橋という名前で二回にわたって、コメントがあり、「人のことを名指しで批判されることによって傷つかないような人はいない。そんなことは子どもでもわかることだ」ということでした。私は「そんなに傷つけることをしたつもりではなく、批判というものはいけないものでしょうか」、と書きました。すると、二回目のコメントで、「私のやったことは、誹謗中傷であり、これは、名誉棄損、侮辱、信用棄損、業務妨害であり、罪を問われるものだと書いてありました。そしてもう少し人の気持ち立場を考えられる方だと思っておりましたので残念でなりませんということでした。どうも、このはげしい非難は、ご本人が書かれたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 私に対して、わたしが仏教書を読んでいない、唯識について知らない、実用的人間学はプラグマティズムだとか、あと、かなり私をつよく非難したりしていますが、どうも、専門の学者に、素人のお前が批判がましいことを書くのはけしからんというように、聞こえるのですが。いかがでしょうか。ちょうど私が提唱する、「実用的人間学にもとづく、科学的な立場に立った生き方」と、「スピリチュアルな生き方か」を比較するとより私の言うことが分かりやすくなると思い、研究会例会のテーマとしました。

 私がつくったレジメでは前半は「スピリチュアルライフのすすめ」について、その内容を5ページにわたってそのポイントを、原文のまま書きました。スピリチュアリティというのはなにか、スピリチュアリティ文化とは何かについてかかれます。要は、禅、ヨーガ、呼吸法、瞑想等等の良質なエクササイズにより、心身のバランスがとれ、健康になって心が安定し、自信をもて、他人にもやさしくなり、人生の不安が解消していくものだといっています。

 世の中には良いスピリチュアリティと悪いものがあり、江原啓之や、オーム真理教などは悪いスピリチュアルだといいます。良いスピとは絶対的存在と合一するなんて考えないで、スピ原理を発揮するエクササイズを毎日きちんと積み重ねて、利他的に生きられるようになること。エクササイズは ①祈り②ヨーガ③呼吸法二種④座禅⑤経行(きんひん)⑥ラべリング⑦GL瞑想 である。このエクササイズを行うことにより、心の段階から、魂の段階そして霊の段階にまで到達できる。霊の段階はいわば悟りの状態で、なかなか到達できない。K氏も行かせていただけるならいってみたい世界であると言っています。

 要は上記のようなエクササイズを行っていると、自分を客観的にみている高次の自分を見ているという感覚になる。いわば幽体離脱の状態。またエクササイズで、ダイエットや禁煙に成功し、肌がきれいになった。セックスは良くなったがセックスしたいと思わなくなった。

 セラピー文化とは、対人関係やその他の人生の問題の原因を社会制度や道徳の衰退にではなく、心のあり方に求め、意識の変容を様々な実践によって、結果としてそうした問題の解決をはかる態度p132

 (ここが私の実用的人間学と最も異なるところです)

座禅をしていくと、だれでも神秘体験をする。K氏も伊勢神宮の祠で地面から薄紫の光が上がり人の形になった、友人と二人でみた。それを神をみたといいます。            簡単に悟ることはできない。でも「諦める」というのは、「明らかに見る」ということだから、それができるならもう悟っていることになる。うーんということは私はもう悟っているかもしれない。それはエクササイズのおかげだ。                                  前のブログで私は、「神」とは何と書きましたが。そんなものが神様なんでしょうか。それから悟りというのは何なのでしょうね。悟りたいと言ってみたり悟っているのかもしれないと言ってみたり。K氏が天台宗のえらい坊さんに、悟ったことがありますかと聞いたら、「即座に悟ったことがあります」と答えたと言っています。悟りっぱなしではなく、悟ることもあるというもののようです。

 自分や家族の直面している、病気やリストラ、といった個人問題や社会問題が雲散霧消してしまうわけではない。エクササイズをすることによって、そういった問題をすべて受け入れられるような人になることはできる。~解決しやすいような精神状態を作ることはできる。(苦難の原因が不正にある場合、その不正を黙って耐えましょうというのではない。不正があればきちんと正すことが大切である。) p202

 以上が要旨ですが、これだけで長くなってしまいました。その批判は続けてブログに書きます。

 あと、面白かったのはp21に、なかなか思うようにならないのが人生です。私も。恋愛が思い通りにいって、女にもてまくったことは 一度もないし、仕事も思うようにはなれなかったし、結婚だって、か弱くてつくしてくれる、自分のタイプの女と結婚できたわけではもちろんない、しかし呼吸だけはある程度の自由がきく。

 こんなことを書いて、奥さんに怒られるのではないかしら。

 

2010年4月29日 (木)

どん底でこそ笑え 人気漫画家・西原理恵子さん 追記版

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「毎週かあさん」から2008年11月 小学館

先日、NHKの番組で心の遺伝子、「どん底でこそ笑え 漫画家・西原理恵子」を見ました。もともと私は、西原理恵子の漫画が好きで、いろいろ買ってきて人間学研究所にも、だいぶ移転のために本を捨てたにも関わらずまだ7冊残っています。ごく最初のころの、ギャンブル関係のものから、よんでいます。最近では、私のところでは、毎日新聞をとっているために、週一回連載の「毎日かあさん」を楽しみにしていますし、ときどき、そのテレビアニメ版も見ます。

 西原理恵子は1964年生まれで、高知県の漁師の家に生まれ、兄が一人です。三歳のときにアルコール依存症の実父と死に別れます。母は再婚しますが、義父もやはり、アルコール依存症で、暴力をふるい、娘の貯金までも使ってしまうという悲惨な生活のあげく自殺してしまいます。父は暴力をふるったとも言いますが、理恵子を溺愛したとも言われます。高校は裁判闘争をして中退します。その悲惨さから逃れるように19歳で、単身上京し、美大に合格するが生活のために、皿洗いや、ホステスなどを続けました。アルバイトで成人雑誌のカットを書いていましたが、みとめられ1988年に「ちくろ幼稚園」でデビューしました。

 ギャンブルマンガを書くために、自分もやり始めて、ギャンブル依存症になり、10年で5000万ほど使ったと言われます。テレビでは、あとで結婚するフォトジャーナリストの鴨志田穣が、マージャンしている西原理恵子の後ろで、ギャンブルなんて、そんなに面白いのか、と言って、もっと面白いものがあるよとカンボジアの戦地に西原を連れていく場面が出てきます。その内容はルポマンガ「鳥頭紀行」のマンガにもなります。西原理恵子は親が戦争で殺されても、子どもたちが、カメラの前で笑い顔を見せるのに、ショックと感銘を受けます。まさに「どん底でこそ笑え」だったのです。その後、西原理恵子は鴨志田と結婚し、一男一女が生まれます。その子どもたちは、毎日かあさんに毎回登場してきます。上のお兄ちゃんは今度中学生になりました。

追記 : 2017年6月30日

「毎日かあさん 終了―卒母、クローズアップ現代でも」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitibjog/2017/06/post-9a05.html

鴨志田さんと結婚してから

 しかし、結婚後鴨志田のアルコール依存症が悪化し、暴力をふるうようになります。奥さんが有名となり、自分はなかなか認められない。西原理恵子は色白ぽっちゃりタイプで中なか美人で何よりもいろっぽいのです。『できるかな』という漫画でも、西原理恵子のタニマチを自称する高須クリニックの院長が、どの超えた援助をし、スポンサーでなくフーリガンだと言う状態で、家族会議兼ねての鍋での食事のとき夫の鴨志田が、「一歩離れて付き合えよ」、といい、「はいそのとおりですね、おとうさん」という場面が出てきます。同じ「できるかな」という企画で、キャバレーのホステスにチャレンジするのがありますが、有名人がたくさんやってきて、ナンバーワンになってしまいます。そのような忙しい状況ですからともかくすれ違いが多く、一緒にいられない夫にも不満が高まります。その結果アルコール依存症が進み、酔えば暴力をふるうということになったのでしょう。夫の状態も、笑ってということでマンガに出てきますが、パンツもはかないで、酒を飲みエロ本まみれで寝てしまうなんて書かれたらいくらなんでも、プライドが傷つくでしょう。生みの父、義父、そして夫とアルコール依存症と暴力の負の連鎖が続きます。それがよくまたその子どもまで続けてしまうことが多いのです。

 その結果、離婚することになりますが、鴨志田はアルコール依存症が進みます。しかし恩師の写真家が戦地で死んでから、このままではいけないということで、病院に入り、アルコール依存症を治そうとします。そして治ってきてから西原理恵子と実質的に復縁します。しかし、今までの不節制の積み重ねで、アルコール依存症が治ったころには、末期の腎臓がんになってしまい、2007年に死去しました。でもしばらくの間でも、子どもたちに、やさしいお父さんと一緒に過ごせることができ、恨みを持ったままという状態で終わってしまわないでよかったと言っていましたが。また早く治すようにできればよかったとの悔やみも生まれました。

西原理恵子の漫画

 西原理恵子の漫画は、表面を飾らずに本音をずばりと、出してしまうことです。ときにその漫画にはどぎつさや毒まで含んでいたりします。でもどん底を見てきた強みがあり、また貧しい人困っている人に対しての心の底からのやさしさがあります。私は共産党にしか入れたことが無いなどとも平気で書いてしまいます。周りに登場する実在の人物も、かなりオーバーに、誇張されて登場してきます。 何々は、どうしようもない馬鹿と、そのひどさを散々書いてかいてもその底にはやさしさがあります。「ぼくんち」や「毎日かあさん」「上京ものがたり」そして、2007年に、「ベストハウス123」の番組でもっとも泣ける本の第1位になった「いけちゃんとぼく」などの抒情マンガは人々の心をうつ素晴らしい作品です。それらは、映画になり、テレビドラマになりマンガで放送され、いろいろな賞もとっています。

 皆さんの中にはマンガなんて、と読まない方も多いと思いますが、時には、テレビを見たり、書店で読んでみたらいかがでしょうか。

 あと追加です 西原理恵子は、怪しげな宗教や神秘主義をズバッと切り捨てます。

マンガの中で  

○ サイババ インド人てなんであんなインチキ

手品師を信じちゃうんだろう ー信じちゃう日本

人もいましたよ

ーサイババ死にましたね すごい隠し財産とか

○ 恐山のいたこ 死んでいない人物の霊を

 呼び出させるー西原がやったのではないが

○ 阿含の火祭り キャンプファイヤーで金儲け

しておかしいなとー笑いー               

○ 原理の教会 あれは金集めの宗教だから

教会なんかないの               

 佐野厄除け大師 自分から日本の三大師

と言って大もうけしている 42が厄年なんて

いい加減

 収監されている殺人犯 おれは人を何人も

苦しめて殺したけれど、一度も幽霊なんて出て

こなかったぞとー幽霊なんていないということ  

 

◎他にも忘れたけれどずばりと言ってしまう

ところが凄いですよね。

 追記  毎日かあさんの映画は泣けました

今も毎日新聞で毎日母さんの漫画、つづい

ています

2017年6月追記

 毎日新聞で「毎日かあさん」を楽しく見ています。

 世の中の変わった夫婦として、西原理恵子さんと整形外科医の高須院長との変わった夫婦として紹介していました。西原さんも、高須院長も連れ合いをなくしました。

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西原さんは今やマンガを何本も書いている売れっ子で、10LDKの豪邸に住んでいます。籍を入れているかどうかわかりませんが、運転できない西原さんに「おろち」という車とゴルフができないのにゴルフ会員権を相続させるようです。

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 今まではどん底に近い状態から、ともに普通では考えられないような金持ちです。いろいろと話題作りをしてマンガの題材にしています。それにしても月30本というのはすごいですね。

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 高須さんも話題作りの名人です。安倍首相を支持しフリーメイソンに入りということで、西原さんとはかなり違います。西原さんも昔と今では違うでしょうけれど。高い肉のステーキを飲むようにして食べてしまうそうです。昔は忙しかったでしょうが、今はもう少しゆっくり食べられるでしょうに。西原さんと目的地にヘリでいって、すぐ帰ってしまうとかだそうですが。。。

 

2010年4月 8日 (木)

真理は誰が述べても真理であるか? 増田哲氏の文の紹介

”Japan Skeptics” という超常現象を科学的に解明する学会誌の2010年19巻の1号に、表記のようなEssayがあり、大変面白く参考になる文章なので、みなさんに要旨をご紹介します。  増田 哲氏は、青山学院大学の物理・数理学の准教授で、”Japan Skeptics” の会員です。

 前会長の安斎育郎氏の分類によれば、命題については「科学的命題(客観的命題)」、「価値的命題」があり、「科学的命題」については誰が主張したかにかかわらず、真理は真理であり、誤りは誤りである。つまり、命題の真偽と、誰がその命題を主張したかは独立である。

 科学研究の世界では、経験豊富な研究者でも間違えることがあり、駆け出しの研究者でも真理(の一端)を見出すことはある。「真理は誰が述べても真理である」から、権威のある人の発言だから信用し、無名の人の発言だから軽んずるという姿勢は、科学的真理を探究するにあたっては、禁物である。~そうは言っても、「偉い先生」の意見に説得力があるように聴こえたり、十分な実績や自信のない駆け出し者が自分の意見を主張する際に多少のためらいが生じるのも仕方がないことであると。

 そこで、学生や若手研究者が委縮せずに自由に議論できる雰囲気が必要になる。それがその分野の健全性を示す。素粒子論の世界では、先生と呼ばせずに、すべて「さん」で呼ぶ習慣は、益川敏英氏のノーベル賞受賞をきに、世間に知られるようになった。数学の分野でも、自分の直接の指導教員以外は「さん」でいることが多い。また、「偉い先生」が最も素っ頓狂なことを言われるので、大変気楽に議論できる。特定の人物の主張だからと言って常に正しいとは限らないと考えることは、科学者にとっては(少なくとも建前としては)当然のことであり、「懐疑的に思考する」ためのごく初歩的な事柄でもある。

 では「価値的命題(主観的命題)」についてはどうか。価値的命題であっても、特定の人間集団の間では、おおむね、正しいとされることがある。たとえば「人を殺してはならない」とか「優越的な立場を利用して相手の意にそわないことを強要してはならない」という命題などである。しかし、「真理は誰が述べても真理である」であるということで、正しい命題を主張した時、そこにどれくらいの説得力があるかということがある。

 例 1、、テロ行為は許されるべきではない

 世界最大のテロ国家が、過去現在の行為に何の反省もなしに主張しても説得力に欠ける。しかも、自身に降りかかったテロ行為に軍事力で対応するに至っては一層始末が悪い。

 例 2、 核兵器のない世界を追求すべきである。

 核超大国の大統領が、質量ともに大量の核兵器を保有し「核のない世界」までは保有すると言って、核拡散の脅威をかたる偽善と限界はもう少し強調されるべきだ。

 例 3、政治資金の原資や流れは透明にされなければならない

 与野党ともに言われなければならないが、野党のときに威勢よく追及していたが与党になったとたんに、へ理屈で言い訳するのは、おかしいし。前与党も自信を身ぎれいにしてから現与党を追及すべきだ。

 例 4、「労働なき富」は社会的大罪である 

 現実に大罪がはびこるなか、一国の首相が施政方針演説で述べたが、自身が何億という金を母親から受け取り、その使途も明らかにしないようではその言葉はうつろに響く。これに野次を飛ばした議員も野次を飛ばす資格があるのか。

 要するに「行動が伴っていなければ、いくら正しい命題を主張しても説得力に欠けるか、まったく説得力を持たない」ということである。このような「言行不一致」は、前にあげたような簡単に見抜けるものばかりではない。ただし命題の陰に隠れた(より正確には、それを主張する人の)偽善や欺瞞(時には自己欺瞞)を見抜くことは、命題の真意を見抜くことと同じくらい重要だと思うし、決してそれは簡単なことではないとも感じている。

 私自身(増田氏)は「大きな権力や権限を持った人(集団)「自分よりも優越的地位にある人(集団)の主張ほど、そして利害が絡んだ状況であればあるほど、それが正しいかどうか、仮に正しいとして、そこに偽善や欺瞞、言行不一致は潜んでいないかと考えることを、一つの実用的な指針としている。正確には、なるべくそうするように心がけている。もちろん、「偉い人の発言は常に欺瞞的である」とするのは誤りであるけれどもこれまでの経験では割と役に立ってきた。

 こうした「言行不一致」を見抜くことと、見抜いたうえでどう行動するかは別である。欺瞞を告発することが事態の健全な進展になるのか、そこに冷や水を浴びせることになるのかは全体の状況や告発の仕方にもよるので、一概に論ずることはできない。しかしながら、そこを見抜けなければ、選択の余地は狭いままなのである。

 ほぼ全文の要旨を載せました。私たちは、今の政治情勢なので、大マスコミなどの世論誘導にあまりに安易に載せられているのではないでしょうか。世論調査などというのも、どこまで真実を判定しているのでしょうか。おかしな世の中にしないためにも、ここに述べられたように、いろいろな物事、いろいろな発言にその真意を見抜く態度が必要であると思います。

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