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経営人間学

2017年5月31日 (水)

経営人間学シリーズ(13) 100年以上生き残る会社 追記版 (株)サタケも110年に

 このブログは2010年6月に書かれたものですが、2017年6月1日に株式会社サタケの第67期株主総会を開催し、役員の大幅な変更を行うにあたり、株式会社サタケその前身の、有限会社佐竹製作所、さらに桶商佐竹の110年間の簡単な歴史を振り返り追記して更新しまた。

2010年6月8日、異業種交流会である、「二火会」の例会で、法政大学大学院教授の久保田章市氏のお話を伺いました。久保田氏は、旧三和銀行(東京三菱UFJ)で支店長からUFJ総研などを経て大学院に入り、現在教授になった方です。1000人以上の経営者と面談し、100年以上続く会社について調査して、2010年1月に『百年企業、生き残るヒント』(角川SSC新書)という本を出されました。

◎久保田氏は2013年、島根県の浜田市長になられました。後ろに追記

 二火会でのお話は、「長寿企業に学ぶ、生き残る経営」というテーマでお話されました。以後そのお話の要旨を紹介します。詳しくは、上記の著書をご覧ください。

日本の長寿企業の特徴

1、世界一の長寿企業大国ニッポン 

 世界最古の企業は1431年前に百済人として日本に来た三人の百済人の一人が作った企業です。その後も四天王寺の維持管理などを続けてきました。その会社は飛鳥時代に創業して現在に続く建設会社の「金剛組」です。世界最古の、ホテルは創業718年の石川県の温泉旅館「法師」です。これは最古のホテルとしてギネスブックにも載っています。日本には創業100年以上の企業が五万社あり、世界一です

2、欧州や中国でも企業は日本ほどの歴史はなく、特に韓国では100年続く企業はほとんどないそうです。創業200年以上の企業では、日本が3113社で一位、二位はドイツの1563社、三位はフランスで331社と急に減ってきます。韓国で長寿企業が少ないのは、日本と違い同族企業で、他人を経営者に迎えるということがまったくないからだそうです。

3、日本の長寿企業は、大半が江戸、明治時代に創業しています。またそのうち91%が法人企業となっています。企業規模は299人以下の中小企業が96%を占めています。

日本に長寿企業が多い理由

1、伝統的な「家」制度の存在 多くが家業からスタートするが、「家」を存続するために、血縁者以外の優秀な人材を取り入れてきたこと。

2、伝統の継承に努めるとともに、時代の流れに応じて革新していくことをうまく行い、バランスをとってやっていること。

3、多くは同族企業で、経営者の在位期間が長いこと。(平均25から30年)

4、明確な経営理念を持ち、守っている 家訓、社是などを守っている。

5、長期的な視点に立った経営をしている。 短期的な利益よりも長期的な事業の継承を優先 人材育成、研究開発、投資などを行う。

6、従業員を大切にしている、(これはきわめて大切)。

1990年代から状況が厳しくなっている

 1980年代後半から、円高、グローバル化、少子高齢化が進み、経営環境が厳しくなり、1990年からは、「低成長」と企業間の競争が激しくなり、1990年代から「創立30周年以上」の会社の倒産が目立ってきた。

 1970年までは日本は高度成長時代で、アメリカは逆に双子の赤字と言われる大変厳しい状況にありました。そこでアメリカを中心にジャパンバッシングが行われました。具体的には1985年の「プラザ合意」で、円高にさせられました。円は対ドル240円から160円に上がりました。1986年には前川レポートがだされ、日本は内需拡大せよ、ということでスーパーマーケットなどの規制緩和が行われ、農産物の自由化など、いわゆる「外圧」がかかりました。競争が激化して、倒産する企業が大幅に増えました

元気な中小企業の特徴は

1、1990年代以降の厳しい時代、積極的な経営革新に取り組み収益力を増している。

2、必要な人材の確保と育成に取り組み、社員を大切にしている。

3、1,2を行うしっかりした後継者がいる。特に中小企業は経営者次第であり、「経営革新」や「人材の確保・育成」は、経営者が自らリーダーシップを発揮して行う。

 そういう厳しい状況の中でも元気な長寿企業にはどのようなところがあるのか、具体的な会社10社について久保田氏から説明がありました。

100年企業(株)サタケ

 説明のあった10社のほかに、筆者が社長を務めてきた、株式会社サタケ、明治40年(1907年でした。初め書いた1910年は誤り)創業で、ちょうど今年で創業100年になりました。(2017年で110年)筆者は社員のみなさんに創業100年で100人の会社にしようと頑張ってきました。

 今から100(110年前―2017年)年ほど前に新潟の長岡市(千手町3丁目8番地)から筆者の曽祖父佐竹傳蔵が新大久保の地で桶屋と井戸掘りの店を始めました。千手町は長岡駅にも近いところでした。戦前はかなり手広く仕事をしていました。木曽からじかに材木を仕入れ、木風呂の製造販売をしていました。また井戸掘りの仕事をしていましたが、水道の普及とともに減少して行きました。

 初めに、東京に出てきたのは筆者の祖父庄次郎で、息子を頼って曽祖父傳蔵が東京に出てきました。母の話では江戸時代から桶屋で、名字帯刀を許される豪商で蔵がいくつもあったそうです。高祖父の傳右衛門のとき、戊辰戦争で幕府側についた長岡藩は取り潰され、藩に貸していたお金も無くなってしまいました。新宿区百人町の地で桶屋を始めました。祖父は初め一緒に生活しましたが、曾祖父夫妻はかなりのばくち打ちだったりして、祖父は大阪に逃げ出しました。ばくちはこりごりで、それ以後ばくちなどに手を出さないが我が家の家訓のようになっています。曾祖母ていは曾祖父の3番目の奥さんで祖父と血はつながっておりません。曾祖父は次々と妻を変え最後に役所でもうやめときなさいよと言われたそうです。大阪に逃げ出した祖父は祖母いさと結婚し長男房次郎と次男実(筆者の父親で大正6年5月15日生まれ)が大阪で生まれました。   

 百人町で桶屋をやっていた曾祖父傳蔵は大正9年に脳溢血で倒れ、それを看病し仕事をつづけるため、祖父の一家は東京へ戻ってきました。2年後傳蔵はなくなりました。祖母は曾祖母が非常に厳しい性格なうえ、祖母の味付けなどが関西風で、関東の味付けの曾祖母と違い苦労したそうです。海苔巻きを作れと言われ、太巻きを作ったら、こんな海苔巻きではだめだと捨てられたそうです。味噌汁の味も全然違ったそうです。昭和15年に曾祖母ていは死亡しました。祖父庄次郎は昭和44年4月に食道がんで死去しました。

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大正5年ごろの新大久保の地図。駅はできてまもなくで、当社はまだ大久保駅の近くに店がありました。

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昭和10年ころの地図。戸山小学校の卒業生が昔を思い出して作った。真ん中が新大久保駅。真ん中の通りは大久保通り、昔は仲通りと言っていたそうです。上の赤いところは戸山小学校。このころには新しくできた新大久保の駅の近くに店を移しました。 昔は小滝橋通りにも自宅があり、3階建ての家で、富士山がよく見えたそうです。

 大正時代の店名などが入った地図には桶商佐竹の名前があります。このころについて下の息子が小学生の時書いた文章があります。

「曾祖母から聞いた話」 この当時は新大久保駅と大久保駅の中間の現在百人町2丁目古くからあるお米屋さんの隣に店がありました。

(道を挟んで、その前は現在大久保教会があり、昔はそこは古川男爵の別邸で、関東大震災の時にはその竹林に逃げ込んだそうです。関東大震災の時父は小学生で、お昼のご飯が大好きなとんかつでそれが、地震で埃をかぶって食べられなかったと言っていました。でもこの辺りは地盤が固く家は倒壊しなかったそうです。大震災後多くの人が下町から転居してきたそうです。ブログ筆者が父から聞いた話)

 その頃は、自動車は通らず、大八車や荷車が通っていました。近くに陸軍の演習場があり、戦前は陸軍の兵隊さんが乗る馬の馬糞がだいぶ落ちていました。初め新大久保駅はありませんでした。大久保駅だけです。新しい駅ができてから新大久保駅に近いところに転居しました。昔の新大久保駅は高架線でなく、ホームにポツンと電気があるくらいで、山手線に狸がひかれたなんてこともあったみたいです。広大な戸山が原は陸軍の演習場や施設がありました。」

 昔の通りの名前は大久保通りではなくつつじ通りと言われていました(さらに昔は大久保仲通りと言われていました)通りにはいろいろな商店がありますが通りから離れると空き地と民家だけでした。新大久保駅ができてから、昭和10年ごろの、大久保を戸山小学校の卒業生が思い出して地図にしています。

 昭和15年に伯父の房次郎が井戸掘りで酸欠事故でなくなりました。父も危うく命を落とすところだったそうです。父親は兵隊として戦争に前後7年も行っていました。

 このころについてと父母については写真付きで別のブログに詳しく書きました。

「こういちの人間学 カテゴリー 日記、コラム、つぶやき」

「我が家のファミリーストーリー 父を中心として 戦争中まで」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/10/post-eb7d.html

「我が家のファミリーストーリー、父を中心として 戦後から」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/10/j-9214.html

 戦後はガス風呂次いで、ガス器具、そして東京ガスの代理店となりました。昭和25年ころに有限会社佐竹製作所となりました。戦後しばらくは復興期で住宅公団などに大量にガスぶろが売れました。東京ガスの手数料が占める割合が少ないほどでした。敷地の奥に(以前は80坪ほど)職人さんの泊る寮があり、5,6人が泊まり込んでいました。そのうち木風呂は少なくなりポリバスやホーロー、ステンレスの浴槽が中心となり、桶風呂の製造は終わりました。(2017年、平成29年3月に株サタケは第67期の決算を迎えます)

東京ガスの器具販売、委託業務の下請けの歴史は、どんどん収れんされ、ついには東京ガスに吸収されていく歴史です。初めサービスステーションという形でガス器具の販売、器具修理、ガス料金の受付、から始まりいろいろな業務をやるようになりました。東京電力と違いガス器具は東京ガスブランドのガス器具を売るのです。

 多くの東京ガスサービス店はガス風呂販売店からなり、はじめ新宿区はなんと8店もありました。いろいろ業務が広がり、ほとんどのサービス業務を委託し、お客さんの中には東京ガスの直営店と思う人もいました。初めは東京ガスとサービス店とは車の両輪と言って、利益が出たからと特別手数料をくれた良き時代もありました。

 しかし、株主の中にしめる外資の比率が高まるにつれ、下請けに払う手数料を下げていき配当をあげるような圧力がかかりました。アメリカ流の最新の経営学にもとずき、低い手収料でも大丈夫な店の身が残るようになりました。特に新宿区のように車1台の駐車場代が3万から4万ぐらいしたのでは大変です。当社は2億8000万で80坪の土地を駐車場と倉庫代に購入しました。事務所代も払うところなどは成り立たないのです。そして新宿区は3店豊島区は0となり、新宿区の店が豊島区全部を担当しました。 

 さて当社の話に戻ります。筆者も大学卒業後に入社以来、間もなく専務となりガス部門を担当しました、その後水道工事、電気工事を始め、建設業などに積極的に取り組んだり、人材育成を図り社員は資格を取り大幅に成長してきました。何しろガス器具の取り付け、ガス工事、水道工事、電気工事を全部同時にしてしまいますからとても効率がよく、お客様にも喜ばれました。他の店はガス工事以外は他の業者に頼んでいました。

 明確な年がはっきりしませんが2000年ころに有限会社から株式会社サタケに組織変更し筆者は社長に就任しました。父は会長となりました。

 社員数は80名、売り上げ14億ほどの会社です。売り上げは少ないのですが、ガスの委託業務の手数料は粗利100%なので全体の粗利率も60%以上でした。委託店の担当地域は新宿区の一部(百人町、大久保、北新宿、西新宿)と渋谷区の一部(代々木、千駄ヶ谷)で、需要家件数8万件ほどです。独自に行う建設業、空調設備業が売上高の4割近くをしめました。かなり大きな空調工事も自店施工できました。これは他店と違うところです。三越不動産や、東急リロケーションなど、良いお得意さんも獲得しました。当社の利点は、ガスだけではなく、電気も、水道も、空調工事も全部、自店施行できることでした。1級建築士がいて、2級建築士が3人、リフォームだけでなく新築も行いました。また一時新所沢で三和住設(株)という三菱電機の代理店とリフォームをやって、いきました。そこで電気のノウハウを獲得しました。不動産業の資格を持つ人も採用し不動産業も始めました。

 いろいろな資格を取るのが推奨され、一組の工事組で器具取り付け、電気、ガス、水道工事を全部行い、効率が大変よかったのです。賞罰の罰はほとんどなく、東京ガスやメーカーからもらうビール券などを貯めて換金しいろいろな賞を出しました。個人に賞を出さずグループに賞金を出しました。みんなで販売に取り組み、担当地域分のガス器具の売り上げは、全社100社の中のトップクラスでした。合併する前の5年ほどは会社は大変盛り上がりました。給与の水準も他店よりもずいぶんと高くなりました。

 合併した後、うちの会社出身の人は、同業者3社と東京ガスとの合弁会社でうちの社員は大いに能力を発揮しているようです。課長クラスはほとんどを占めるぐらいだそうです。しかし部長以上は他企業出身者です。しかし合併後給与をそろえるため給与が上がらず、困ったそうです。うちがやっていた建設業の仕事や電気器具の販売などは、あまりよくないということで抑えられました。東京ガスが電気の小売りもやるようになり、今では建設業や電気関係の仕事も大事だと言っています。

 筆者が65歳で社長を退き、息子に社長を譲り、私は会長となりました。しかし息子の佐竹謙治はたった半年で、東京ガスが3分の一、残りをライフバル3社がしめる合弁会社となりました。

 2016年、持ち株比率3分の一の東京ガスが各社の株の持ち分を買い取る話が出ています。結局、大企業が小企業を吸収してしまうのです。2017年3月31日をもって、東京ガスSTコミュネットは100%東京ガスの子会社になりました。

 私で4代目で、現在は息子が5代目の社長と成りました。しかし残念ながら、一昨年、東京ガス方針のもとで、地域別に東京ガスの資本が入った会社にまとめられてしまいました。その会社は400人以上の大会社になりましたが、残った持ち株会社である株式会社サタケは、会社は残りましたが、不動産とビル管理による家賃収入がほとんどの会社になってしまいました。

追記:

 2016年5月、株式会社サタケの66期株主総会を開きました。今では不動産収入と管理の仕事だけです。株式会社サタケは第2サタケビルと第3サタケビルの土地の3分の2、約2億5000万を所有しています。(株)サタケの収入は、ビルなど不動産管理収入と社有物件の家賃収入が主な収入となる会社となりました。

追記 

 2015年6月、ささやかな株主総会を開き、車いすで私も出席しました。昨年はまだ退院後だったので欠席しました。会社としては65期になります。

 参考までに、広島に本社がある精米機では日本一の企業である(株)サタケは、ちょうど同じ時期に佐竹製作所から、サタケに変わりました。広島大学に10億円の寄付をするような大きな会社です。

 2017年6月1日、(株)サタケは第67期株主総会を開きます。今までは、東京ガスSTコミュネットの役員と(株)佐竹の社長を兼業できましたが、2017年3月末をもって100%東京ガスの子会社となり、息子は(株)サタケの役員となれなくなりました。6月1日の株主総会で筆者は会長から社長に戻り、筆者の家内と息子の奥さんが取締役となりました。

追記

 久保田章市氏は島根県の西部にある、浜田市の出身です。浜田市にある、島根県立大講師や、市の政策アドバイザー、高校の理事などをしておられました。2013年に選挙により浜田市長になられました。久保田氏は穏やかな人柄で、良い市長さんになられると思います。人口は年々減り、57000人余りです。

 浜田市のふるさと納税というのを見ましたら何と100種類ぐらいもあり、1万円から50万まで,市の魚である、のど黒や、50万円となると芙容ポーク1頭分というのがあります。

 

2015年5月15日 (金)

二火会に久しぶりに 例会に講師として参加、新大久保の金融機関の減少

 このところ、ブログの更新が少なくなっております。5月半ばなのにこのブログで記事が3回目です。遅れた理由は、一つには、5月12日に、講師として参加した二火会の準備がありました。それだけでなく、気力が少し衰えていることもあります。リハビリも比較的順調に回復していたのが少し停滞気味になっているところです。理学療法士さんの指導のもと、理学療法士さんがいなくともうちの中で安心してつえで歩けるように練習開始しました。

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水彩画を長年描いている、家内の絵です。少し写真はピンボケです。私の寝ているベッドのところにはってあります。

 ①二火会について

 二火会は、旧三和銀行の異業種交流会としてスタートしました。私がそこに参加したのは20年くらい前でしたでしょうか。古くから以前は銀行では、取引のある会社の経営者を自分たちの陣営に取り込むためにも、銀行が中心として、異業者交流会を盛んに行っていました。一定の年会費を払い、月一回、銀行の一室で、いろいろな勉強会や、懇親会がありました。業者側で会長を選び役員を選び、銀行側で事務局長と女性事務員がつきました。

 筆者が参加したのは、第2火曜日に例会を開くということで二火会と名付けられました。そのような会が当時たくさん作られました。二火会会員は東京横浜だけでなく名古屋や、大阪や新潟の会員さんもおられます。

 よく、いろいろな講師に来てもらっての講演会があり、新宿の四谷の三和銀行の支店に行きました。またどちらかへ出かけての懇親会などがありました。

 その後、銀行も合併を重ね、三和銀行からついに2006年、三菱・東京・UFJ銀行になりました。それとともに銀行中心の異業種交流会は廃止になりました。それで多くの異業種交流会は廃止となりましたが、我々の会は,なかなか結束が固く、我々だけで運営する会となりました。ほかにもいくつか自主的に運営する会が残ったようです。

 現在、会費は値下げして年3万円ぐらいでしたか。病気で正規に会費を支払わないうちに、忘れてしまいました。今は特別に1万円にしてもらっています。定例会はひと月おきとして、会員は安い参加費で参加できます。他の方は実費です。あとの月は自由参加の日として、かかった実費を割り勘にします。

 講師は自分たちの知り合いの人に来てもらうか、会のメンバーが自分たちでなります。各企業の見学なども順番に行いました。家内の絵のグループのメンバーである元タンザニア大使のかたにも以前お話いただきました。また法政大学の教授である久保田昌一氏にも「100年以上続く会社」についておはなししていただき、準会員になってもらいました。久保田氏はその後島根県の浜田市長になっています。久保田氏の本で、紹介された、青木酒造の社長も会員です。青木貴史氏の話は、筆者のブログでも紹介しました。青木酒造さんは見学もさせてもらいました。

「経営人間学20 300年続く社員を大切にする青木酒造 若社長の試みをベテランが支える」2013年9月18日

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2013/09/20300-69c6

つながりました。月のところを09と0がついて居ませんでした

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2013/09

2013年9月全部出ます。参考までに。

この記事の関連として、次のブログも書きました。

「100年以上生き残る会社 株式会社サタケも100年に」2010年6月9日

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2010/06/post-7287.html

 また、二火会の幹事で、二火会創立当時からの会員さんで、また、実用的人間学にも入っていただき、役員になっていただくとともに、何回も講師としてお話をしていただいた江原正忠氏には大変お世話になっています。浦賀のマリーナに釣り船を持っておられ、何回か、会のメンバーと一緒に釣りに連れて行ってもらいました。江原氏の実用的人間学研究会でのお話については筆者のブログでもご紹介しました。江原氏は筆者と同い年です。建設会社の社長だった方です。お仕事の建築関係のおはなし、趣味の釣りと釣り船のおはなし、また、太極拳や居合抜きのお話していただくなど多方面に活躍され、人間学でも二火会でもお話してもらいました。

「実用的人間学例会 江原正忠氏の話」 2012年1月21日

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2012/01/post-d201.html

◎うまくつながらないようです。すみません。バックナンバーでそれぞれの月でお探しください。

 現在会員数は正会員は19名。そのほかに準会員として、講師などになってもらった後そのまま、例会の連絡をし、興味のある会には自由に参加してもらう方が13名おられます。筆者の紹介で講師になっていた抱いた方も3人、準会員になっています。そのほかに筆者の紹介で正会員も1名入会されております。事務局の石橋さんは、事務処理能力が大変高く,二火会に大きく貢献されています。二火会の会場は、筆者の住いのところにある、新大久保の人間学研究所の部屋で行うか、上野駅前にコンピューター関係の会社がある、田口和利氏の会議室を使わせてもらいました。しかし、1年半前に急に筆者が脳出血で入院し、新大久保の会場が使えなくなり皆さんに大変ご迷惑をかけました。

 お花見や、忘年会は外での集合となります。泊りがけの例会もあります。年度末の総会は、新潟の会員さんの会社である上越国際さんのホテルで行うか、名古屋、大阪方面で開催することが多かったのです。上越国際さんは前社長の岡山正徳氏と、現社長の峠重幸氏が参加されています。その会社の長束さんもおふたりの代わりに参加され、いろいろ世話になっています。又有志で色々外国旅行も計画されました。最近では有志でバリ島に行ってきたようです。

 現在の二火会の会長さんは、ファンケル技研の元社長、そして現在の相談役で、ファンケルの創業者のお兄さんとともに、技術的な面で大きく会社を支えた池森政治氏です。流山に工場があり、現在流山市の商工会議所の会頭をされています。流山の工場や横浜の会社などには見学もさせていただきました。何人にも入会を勧め、入会した方は会の重要メンバーとなっています。例会にはたいへんお忙しい中、積極的に参加され、現在の二火会の隆盛のもとを作られました。

 また、前にも書いたように事務局の石橋さんは、本当に事務処理能力が高く、会の発展に大きな貢献をされています。筆者が企画委員の時には、よく石橋さんと連絡を取り合いました。

 筆者は企画委員となっていましたので、講師を紹介したり、自分自身も講師となりました。同じ委員になっていただいた江原正忠氏はすでに書いたように実用的人間学にも入っていただき、いろいろなおはなしをお聞きしています。

◎日経新聞で大きく取り上げられた橋本治朗氏も二火会会員

 5月15日の日経新聞夕刊の第2面の大部分に「ランニング人口2000万人」「走りの伝道師次探る」とありました。

 このランニングブームを先導したのが、唯一のマラソンの雑誌「ランナーズ」を発行した「ランナーズホールディングス」の社長橋本治朗氏も二火会会員です。以前二火会の例会に元マラソンランナーの増田明美氏に来てもらったり、会社で作ったポスターが1位になり表彰されたときなどに、二火会でお話しされました。

 橋本氏は現在のマラソンブームの作りだした方です。

2、二火会で筆者がおはなしをする

 二火会は、一昨年の11月に、突然の病気から、1年半ばかり、出席できませんでした。だいぶ回復してきたようだということで、新しい住いの下にある集会室で、二火会の有志の会を開いていただくことになりました。

 お話は、人間学研究所で2回にわたってお話しした内容を、1回にまとめておはなしすることになりました。テーマは、「脳出血から1年半が経過しましたー「こういちの人間学」についても」というものです。皆さんとは、1年半ぶりの再会となりました。病気の状況については前回人間学研究所の例会でお話してから、半年が経過しておりますので、その変化を入れました。当日は9ページの資料を作りました。病気関係が5ページ、ブログ関係について4ページです。参加者は会長さんはじめ8名でした。江原氏とは、人間学の例会で顔を合わせていましたが。他の方は1年半ぶりです。午後6時から1時間ほど資料にもとづいて、お話しました。普通ですと、例会会場で2時間ほど、そのあと別の場所で懇親会があります。いままで、新大久保で例会を開いたときには、いとこの経営する、大久保駅の近くの「あうん」、ベトナム料理の「ソムオー」、韓国海鮮料理の「テジョンデ」、台湾料理の「帆」など、いろいろな店をご紹介しました。カラオケにいったこともあります。大久保はエスニック料理が多く、いろいろなお店に行きました。

 話は1時間ほどで終わりにして、後の1時間は懇親会となりました。事務局の石橋さんが、料理は手配してくれました。飲み物は、近くにあるマイバスケットで会員さんが買ってきてくれました。久しぶりなので、和やかに楽しいひと時を過ごすことができました。当日は台風の接近があり、早目に終了しました。配布した資料は、当日不参加の人にも、石橋さんが、メールで送ってくれました。

3、銀行の集中と、大久保道りからの撤退について

 前にも書きましたが、以前は新宿の大久保通りには、いろいろな銀行や信用金庫などがありました。新大久保駅のすぐ近くに第一勧銀、(今はパチンコや)大久保道りと小滝橋通りの交差点に三和銀行、その向かいに城北信用金庫、新大久保の駅近くに百十四銀行、ここはビルを作り社員寮ができて居ました。今は韓国のお店です。大久保通りから、明治道りに入ってすぐのところに三菱銀行、東京都民銀行あと大久保どうりに渋谷信用金庫(後で小滝橋どうりの北新宿に移転)、新大久保駅と大久保駅の中間に食品関係の信用組合などがありました。大久保どうりのと明治通りの角に名前を忘れましたが信用金庫がもう1軒ありました。他にまだあったかもしれません。(太字は大久保とうりに面したお店)

 ところが、現在の小滝橋道とうりと明治とおりのあいだの大久保どうりには、銀行や信用金庫は6軒あったうち今では一軒もありません。ですから、お金の出し入れは明治通りか小滝橋どうりか、新宿駅まで行かなければなりません。大変不便です。小滝橋通りの新宿駅近くに、東京三菱、UFJ銀行(北新宿)があります。お隣の高田馬場には銀行などが、そのまま残っており、新大久保、大久保駅周辺の銀行の衰退ぶりは明らかです。

2013年9月18日 (水)

経営人間学(20) 300年続く青木酒造 鶴瓶の家族に乾杯に出る

 2010年6月9日付の「こういちの人間学」ブログに、「経営人間学(13)100年以上生き残る会社 (株)サタケも100年に」を書きました。(文末参照)その後、筆者が所属する、異業者交流会である「二火会」の会員である、青木貴史氏(青木酒造社長)さんについて、書くつもりが、ずいぶんと遅くなってしまいました。この文章はやはり二火会の準会員である久保田章市氏(法政大学大学院教授)が書かれた、厚労省外部団体の広報誌[エルダー」に2012年10月に書かれた記事を参考とさせていただいております。久保田章市氏は『百年企業、生き残るヒント』角川SSC新書など長寿企業の研究をされている方です。

追記:久保田氏はその後島根県の浜田市の市長になられました。

二火会の総会後、青木酒造さんの見学

 2012年10月15日~16日にかけて、二火会の総会が、新潟県の魚沼市塩沢町の上越国際(株)さんの、ホテル・グリーンプラザ上越さんにおいて開催されました。上越国際(株)さんの峠社長さんも、二火会の会員さんで、だいたい一年おきに、こちらで総会を開催させていただいております。上越国際(株)さんは、一時外国資本の支配下にありましたが、めでたく株を買い取り、支配下を離れたとのことで、おめでとうございます。

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 翌日は、上越国際さんのバスで、二火会会員の青木酒造(株)さんの見学をさせていただきました。青木酒造さんのある街並みは、昔の魚沼市塩沢の昔の、三国街道の宿場町の街並みを復活させたすばらしいものでした。2011年には都市景観大賞を受賞しています。その入口あたりに青木酒造(株)さんはあります。、昔ながらのがっしりした木造建築の店舗には、由緒ある立派な看板がかかっています。(鶴齢というお酒の名前が入っています)店の中にも江戸時代の名工が作ったすばらしい彫り物がありました。当日は、塩沢の有名なお寺なども見せていただきました。

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 店の奥が工場となっております。この写真では右側の背の高いがっしりした体格の青木社長です。二火会のメンバーが説明を受けているところです。筆者は写真をとっているので写っていません。

青木酒造(株)さんについて 家訓は「和合」

 青木酒造(株)さんは1717年(享保2)年の創業で、それ以来もうすぐ300年になろうとする由緒ある酒造メーカーさんです。現在の青木社長は創業者から12代目になります。青木社長が25歳の時に11代目だった祖父がなくなり、後を継ぐために母親の郷里に戻ってきました。今でも年齢は40歳の若さです。慶応大学の卒業で、その人脈を生かして、東京のお店にもたくさん販路を広げました。以下、「エルダー」の記事を引用させていただきます。

 杜氏の新保英博さんは、東京生まれのなにも知らない坊ちゃんが帰ってきて大丈夫だろうかと心配したそうです。

 青木社長は「うちの家訓といいますか、社是は『和合』です。酒をつくる人、売ってくださる人、そして飲んでくださる方がいて初めて酒が完成するわけです。

 創業300年という歴史をになう39(今は40)才の若木社長は常に社是に立ち返り、和合の精神で、ものづくり、人づくり、ひいては地域文化の育成に真正面から取り組んでいる。社長の心意気を42人の従業員がしっかり受け止め、60歳以上のベテラン4人が屋台骨を支えています。

青木社長は「酒のことはよくわからない。今思えばその真っ白な状態が帰って良かったかもしれません。とにかく必死でした。市場は落ち込む一方ですから。今までと同じことをやっていてはだめだとと思いました。新保杜氏と相談してうちの特色を洗い出し原点に変えることから始めました。新潟の酒の特徴は淡麗辛口が多い中で、うちはコメのうまみを十分に引き出した「淡麗旨口」の酒をつくっていましたから、やはりこのうちの独特の味をおし出していこうということになりました。始めて飲んだ絞りたての酒が本当においしかったので、これを売り出せないかと思いました。・・とにかく少しでも作ってほしいと頼みタンク一本分作り生原酒として無ろ過で売り出しました。幸いこれが好評で今ではタンクの数が増えました。新潟県でいち早く売り出した梅酒も新しい試みでした。老舗だからこそ革新的でありたいと思っていますが、素人の言葉を真剣に聞いてくれて、一緒に新しいことに取り組もうという空気をつくってくれたのが新保杜氏であり、途中から入社した営業担当の遠藤勉企画室長(65歳)です。お二人がいたから今の自分があると思います」

 新保杜氏は最初は無理だろうと驚いたが、必要な設備をきちんと作ってくれたしこれは本気だなと思ったと。

 遠藤さんが入社して新潟市場がテコ入れされた。青木酒造は9割が地元で消費されていたが、新潟県内、東京まで視野に置く必要があった。ながい歴史の中で、一度もリストラということをしたことがないという社員を大切にする青木酒造にとって売り上げの伸長は大きな命題であった。(最近のブラック企業と正反対ですね)

 昨年の二火会の青木酒造さんの訪問では、フランスの品評会で賞をとったという話しも聞きました。積極的な販路拡大がうかがわれます。

 創業以来、毎年約2000石の酒を寒仕込みで醸し出し続けてきた青木酒造。周りの酒造メーカーがいくつも廃業する中で、発展し続けるのは、おいしいお酒をつくりだし続けたこと、老舗でも常に革新をすすめていくこと、和合の精神社是としてつぬいていること。社員を大切にすることでした。これらは100年以上続いている会社に共通していることです。

 作っているお酒の代表として「鶴齢」があります。その由来は江戸時代の文人鈴木牧之は越後の状況を書いた『北越雪譜』を発行し杜氏のベストセラーになりました。牧之の次男の弥八が青木家の養子になって七代目を継承したことを記念して、牧之は代表的な銘酒を「鶴齢」と名付けたそうです。前に紹介した塩沢の通りも牧之通りと名づけられています。

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鶴齢の純米吟醸酒です。720mlで2600円でした。

 二火会の総会後の宴会では、青木酒造さんの「鶴齢」と吟醸酒の[牧氏」がだされ、普段飲めないおいしいお酒をたくさん飲ませていただきました。

 なかなか手に入らないお酒ですが、新潟の魚沼市方面に行かれた時はぜひお求めください。もちろん青木酒造さんの店頭でも販売しています。ただすっと飲みやすいというだけでなく深みのあるそのすばらしい味をお試しください。

参考までに

 「こういちの人間学ブログ」 2010年6月9日

「経営人間学 100年以上生き残る会社」をご覧ください。

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2010/06/post-7287

追記:2016年10月24日(月)

「鶴瓶の家族に乾杯」HNK,午後7時半から8時45分の特別番組で、新潟県の南魚沼市での放送をやっていました。番組をちょうど見ていましたら、鶴瓶と古舘伊知郎とトーク対決ということでした。ちょうど番組を見ていましたら、青木酒造さんに古舘伊知郎が訪問しているのを見ました。ちょうど青木社長は出かけていましたが、奥さんとおばあさんが番組に出ていました。

 ずいぶん詳しく番組に出ていました。はじめ、あるうちを2人で訪問して、魚沼産のコシヒカリを食べたいとある家を訪問するのですが、その時に、地元の銘酒「鶴齢」を出します。そのお酒を辛口でおいしいと言います。

 今度は他のうちでは、同じ鶴齢を甘口でおいしいといいます。同じお酒でもいろいろに感じるものです。後で杜氏の方が話していましたが、お酒にはいろいろな要素があり、人によって感じ方が違うのでしょうという話が、語られました。

 その後、青木酒造さんに古舘氏が訪問します。

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お店の奥にある庭です。この立派な庭はブログ筆者も見せてもらいました。写真に写っているのは古舘氏です。

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真ん中は青木社長のおばあさん、90を超えていますが元気いっぱいです。4年前に筆者たちもお会いしましたが全く変わりません。青木社長はちょうど東京へ出張中でした。

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後で写した社長の青木貴史さんと奥さんです。

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後で写したおばあさんを中心にした家族全体の写真です。

2012年8月16日 (木)

経営人間学19 城南信用金庫 吉原毅氏の地域に貢献する仕事と反原発

毎日新聞の8月3日付の夕刊の「特集ワイド」として、城南信用金庫の理事長である、吉原毅氏の話が大きく出ていました。また同じ毎日新聞の8月13日の「風知草」でも山田孝男氏の、「信金理事長の直球」と言う記事がのっていました。

 私のブログでも、すでに、城南信用金庫が、極めて早い時期に、反原発、脱原発の意味から城南信用金庫で、東京電力からではなく、今年1月他の電気会社(PPS)であるエネットから、電気を購入するという話を書きました。すでに書いたように、私のビルも早くから東京ガスからではなくエネットから電気をかっています。このような流れが、東京電力離れを進め、今年の夏がかなり暑くなっても、東京電力管内で、原発が稼働しなくとも、電気はかなり余裕があるというということになりました。関西電力でも、原発が稼働しないと、電気が止まってしまうとさんざん脅かしていましたが、実は、原発稼働しなくとも大丈夫だったということがわかってきています。今後さらに自家発電の会社が増え、関西電力以外の電気会社の発電量が多くなればますます、原子力発電が要らなくなることでしょう。

 経営人間学として取り上げたのは、城南信用金庫の経営方針が優れているということです。城南信用金庫は、東京都内と神奈川県の一部に85店舗を持つ、信金業界では2位の大手です。その信用金庫の経営方針を決めたのが、故小原鉄五郎・元会長です。その経営方針とは。

1、「お金は麻薬、貸すも親切、貸さぬも親切」

 「金融機関は、顧客の採算性や将来性を考えて融資をしなければならない。顧客に過剰に融資するばかりでは、かえって顧客を不幸にする」、というものです。バブルのころ大銀行が、融資を増やしたいために、土地の購入や、ゴルフ会員権の購入を進め、バブルがはじけた後、多くの企業が倒産し、銀行も多額の不良債権を抱えました。

2、「信用金庫は地域を守って地域の人たちの幸せに貢献するための企業。金儲けが目的の銀行になり下がってはいけない」

 城南信用金庫は、バブル期にも土地や株式の値上がりを見込んだ投機性の高い事業への融資はせず、痛手を受けなかった。そして、信用金庫(協同組合)も株式会社化して銀行と合併すべきだという流れが強くなったとき、小原は先頭に立って食い止めた。そして、「地域無視、人間不在、効率一辺倒の超資本主義は国を過つ」と説いたといわれます。

 このような経営方針の延長線上に、吉原 毅理事長の脱原発への動きがあるのです。

「風知草」では、8月9日でのテレビ朝日の「報道ステーション」で、吉原理事長の、「経団連の加盟企業は自分で原発を買い取って運営できるのか」という話を紹介しています。

「そもそも、銀行が融資に応じるはずがない。最後は国民負担と見越して自分たちにできもしないこと(原発継続)を提言する。それで現実的とは話しがさかさま、無責任きわまりない」と歯に衣きせぬ名調子。「何事も目配り気配りででモノがいいにくい当節まれにに見る直球。それも小兵とはいえ金融機関トップの公式発言だから、インパクトは大きかった」と書かれています。しかし現在経団連始め、経済団体は将来の原子力発電の比率をとか15%ではなく25%以上にすべきと主張しているのですから、驚くべきものがあります。そこには国民を無視して自分たちの利益だけを考える大企業の論理があります。

 吉原理事長はいいます。「大事故などを起こしてきた企業の経営者は責任をとって辞任し、ゼロからスタートするのが当然です。だが東電は誰もはっきり責任をとっていない。そんな企業に融資するのは問題だ」東電の勝俣恒久前会長にいたっては、日本原子力発電の社外鳥姉妹役に天下りした。「東電を認めてしまったら私も『同じ考えだ』と思われる。東電と同類と思われたくありません。

 理事長は官邸前の反原発デモや代々木の集会にも参加した。しかし野田政権は関西電力大飯原発を再稼働させた。

「国会議員に原発問題を考え直してもらいたいと国民が声をあげているにも関わらず、政府に国会がただしたがっている。国政が全く信頼されていないという危機、民主主義の効きです。このままではこの国のゆくへはわからない」

 まだ城南信用金庫に続く、金融機関は出てこない。それでもなお、「脱原発」を企業が宣言した意義は大きいと信じたい。と特集ワイドの記事は締めくくっています。

 城南信用金庫とは残念ながら取引がないうえ、私の会社も小さくなってしまったので、何も応援できないのが残念ですが。経営の基本的な考え方として、極めて重要であると思いここにのせることにいたしました。

2012年1月24日 (火)

経営人間学シリーズ(18)二宮尊徳(金次郎)の人間学 その2

江戸時代には4つの飢饉がありました。寛永の飢饉では東日本の日本海側で冷害により飢饉になりました。また1732年の享保の飢饉は西日本が飢饉となり、1782年~1787年の天明の大飢饉はアイスランドのラチ火山の大噴火や浅間山の噴火などにより世界的な寒冷期の小氷期の時期でした。天保の大飢饉は1833年~1839年には東北地方が冷夏で作物が実らず飢死者が大変な数になりました。

 二宮金次郎が旗本領桜町での立て直しをしていた1832(天保3年)のとき、金次郎が夏になすを食べた時、秋ナスの味がして、あらためて周りを見たところ、極端な冷夏と飢饉が予想され、平均20%の免租を申請し、農民に寒さに強い稗を植えさせました。その結果、桜町領三ケ村は餓死をまぬかれ、近隣の村を助けるほどでした。

 1833年(天保4年)、金次郎47歳のときには青木村の堰を作り、水の流れを安定させました。茅葺の家を縄で吊るし川に落とすという思い切った方法で堰を作りました。金次郎は自分で進んで綱を切る危険な仕事をしました。

 1837年(天保8年)には、小田原藩が飢饉になりました。二宮金次郎は、領内に餓死者が出るのを見かねて、大久保公に交渉し、窮民の救済を願い、反対する家老や倉庫番を、命令に背くならまず家老から餓死しなさいとまで脅して、藩の蔵を開け、人々を救いました。餓死をまぬがれた人々は金次郎を神のように思ったことでしょう。金次郎の後ろ盾である大久保公はこの年に死去しました。またこの年は全国的な飢饉で関西では大潮平八郎の乱があった年です。

 1842年(天保13年)、金次郎は公儀御普請役格(幕府直接の役人)に召抱えられ御切米20俵2人扶持となりました。しかし重要な仕事を任せる割にはとても低い石高です。このとき金次郎56歳、老中水野越前守に命じられ、「利根川分水路工事」を頼まれましたが、越前守失脚もあり、完成しませんでした。

 1843年(天保14年)には、二宮金次郎とその弟子などにより小田原藩内に「小田原仕法組合」すなわち、「報徳社」を作りました。それは二宮尊徳の「仕法」の方法を全国に広めるものです。五常講を作り、民間にお金を貸しだしました。そのことにより高利貸しに借りなくとも低利で借り入れができるようになりました。これは世界初の信用組合といえます。

1844年には幕府の命により相馬藩の立て直しに取り掛かりました。そして1849年には回復し始めました。

1846年(弘化3年)には、大久保忠真公亡き後、二宮金次郎に反対する勢力が藩の実権を握り、小田原領内の報徳仕法が中止されました。

1853年(嘉永3年)、幕府より日光神領の立て直しを依頼されました。尊徳は68歳という高齢と病をおして日光の山の中の村々を回り、村々を改善して行きましたが、1855年(安政二年)日光今市の陣屋で病に倒れ死去しました。69歳でした。(1856年70歳というものも)

 1856年 高弟の富田高慶が『報徳記』を著わす。

 1989年(平成1年)大日本報徳社主催報徳社全国大会、毎年参加者1千名以上で定着。文部大臣祝辞恒例となる。

 二宮金次郎(尊徳)により、命を救われた人々の数は大変多く、また二宮金次郎の「仕法」の方法は多くの地域で、厳しい状況の地域を改善させました。そして多くの心服した弟子が二宮金次郎の方法と精神を全国に広めました。

 

 二宮金次郎の改革の方法には、経済生活の合理化をする経国斉民の思想に基づいていました。金次郎の考え方、方法は徹底的な調査による、現実把握を元とする科学的合理性に基づいていました

◎基本的な立場は、何よりも働く主体の農民が基本であり、大切にするということです。

 金次郎は、再建を受けるときには、徹底して、金次郎のやり方に文句を言わないことを徹底させませました。それがあいまいなら、うけなかったのです。

 まず、借金については貸主と交渉し、返済計画を明確にし、金利を安くし、長期の返済に変更することを交渉しました。貸主はこのままでは破産して元も取れないので、これを了承しました。

1、芋こじ会(芋をまとめて洗うように若者をぶつかりあわせながら成長させていく

   みんなの学習意欲、働く意欲、能力を高めた。

2、勤倹 (節約と倹約の徹底、まず依頼するところの徹底的な節減)

3、分度 (基礎的な収入と、支出をはっきりつかむ。そのうえでの計画を作成)

4、推譲 (余剰金を生み出す工夫とその積立と活用)

  その余剰金を使い、様々な用水の整備、新田の開発、様々な産業を興す(最初はいろいろな内職で余剰のお金を作らせた。お金は尊徳の私財や報徳会のお金を使った)

報徳会では、頼母子講のように、お金の融通を行った。

★ この二宮金次郎の「仕法」の方法は、危機に陥った、会社や地方や国の財政を立て直すのにそのまま利用できるのではないでしょうか。

1、まずトップが、改善をやると決意し、責任者に一任する

 そして全面的に信頼する 途中でぐらつかない トップが大事

2、まず現状の徹底的調査(回村)。収入と支出の現状をはっきりつかむ。

3、何年で財政難を克服するのかはっきりした長期計画を立てる

 その計画は断固やり通すこととする

4、無駄な支出を徹底的に省く。

5、人々の働く気持ちと意欲を伸ばす工夫をする

6、いろいろな創意工夫により、収入の増大を図り、新しい収入の道も探る

7、蓄積した利益を、うまく利用、還元する

 このような感じでしょうか。

 でも、財政危機だという日本の野田首相が、働く主体である、国民(農民)の立場ではなく、利益をかすめ取る大企業や官僚(武士階級)の立場に立ち、徹底的な公費節減や天下り防止など節約をしないで税金(消費税増税や保険料アップ=年貢米値上げ)などを行うということで、まったく二宮金次郎のやり方と全く正反対であることがおわかりだと思います。

 明治政府では、二宮金次郎の精神を世に広め、勤勉に働き国に忠誠を尽くすという方向にもって行きました。明治天皇も『報徳記』を読んだそうです。二宮金次郎の何よりも働く農民(国民)を大切にし、科学的合理的に物事を進めたという側面を無視して、ただ、真面目に勉強してよく働きなさいという側面だけを強調しました。そしてそれが「修身」の教科書に載せられ、薪をしょって書をよんでいるという、二宮金次郎の子供時代のみを強調するようになりました。

経営人間学シリーズ(17)二宮尊徳(金次郎)の人間学 その1 

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この絵馬は2004年(平成16年)1月に、相模の国の報徳二宮神社に初もうでに行ってきたときのものです。二宮金次郎(尊徳)は私の尊敬する人物で、この絵馬はいつも私の机のそばに飾ってあります。

 経営に役立つための人間学としての経営人間学にとって、二宮金次郎は極めて重要な人物です。二宮金次郎についてよく知らない人は、「ああ、昔薪をしょって本を読む銅像が各学校にあったけれども、戦後になって、修身が否定されてから、消え去ってしまった人物だな」と思われるかもしれません。

 しかし、二宮金次郎が行ったこと、またその考え方には現在でも学ぶことが多いのです。私は二宮金次郎の本を集めました。その数12冊、マンガから江戸時代に書かれた『報徳記』の訳(一円融合社)、堂門冬二の『小説二宮金次郎』(学陽書房)と『評伝二宮金次郎』(致知出版社)、『二宮尊徳のすべて』長澤源夫編(新人物往来社)、『二宮金次郎の人間学的研究』(下程勇吉)など様々です。

 内村鑑三は『代表的日本人』という英文の本を書いていますが、上杉鷹山や西郷隆盛などと並んでしょうかいされ、一部の西欧人にもよく知られていました。二宮尊徳は江戸時代に活躍した人物の多くが武士階級の出身であったのに、根っからの農民でした。それでも、多くの人に感銘を与え、農民出身でありながら、小田原、今市、真岡と三つの神社に祭られているのです。また、彼は、農民でありながら、金次郎が住んでいた小田原藩の藩主でのちの江戸幕府の老中主座となる大久保忠真をして、「もし、かれがもし戦国の世であれば、金次郎の旗の下で戦うとまで、言わしめる偉大な人物だったのです」金次郎は身長6尺(180センチ)25貫(94キロ)という当時としては極めて大きな身体で、上司の武士まで威圧するような迫力も十分だったようです。

 金次郎は1787年に相模の国に農民として生まれましたが、酒匂川の氾濫で家と土地を失い、14歳で父を、16歳で母を失い、一家離散し、隣の伯父の家で面倒を見てもらいました。そういう境遇にもかかわらず、学問をしようとします。叔父は百姓に学問はいらないといって、夜の灯りの菜種油を使わせません。そこで金次郎は、菜種の種5勺を河の土手にまき7升の油がとれました。また、他人が捨て落ちていた稲もみをまいて1俵の米を得ることができました。これは「およそ小を積んで大をいたす」(積小為大)という金次郎の考えの元になりました。また薪を集め背負うあいだも書を読み、それが銅像の元になっています。

 その努力の甲斐あって20歳で生家を回復しました。大きな地主となって行きましたが一方で、大久保家の家老の服部家に奉公に行きます。服部家の息子の学問する場所に共に生き学びました。そして当時多額の借金で困っていた1200石の服部家の財政立て直しを頼まれます。そこで、収入と支出をはっきりさせ、借金の返済方法も明確にし、服部家にも質素な生活をしてもらいます。使用人にも鍋釜の煤を取らせるなどして、まきを節約させ、その浮いたお金の一部を褒美に使用人にあげたりします。その結果借金はなくなり、300両のお金が残るまでになります。金次郎は褒美としてもらった100両を使用人に皆分けてしまいました。

 金次郎のすばらしい能力を家老の服部十郎兵衛は、小田原藩主の大久保忠真公に話します。大久保公は、分家の桜町領4000石の旗本宇津家の立て直しを金次郎に頼みます。桜町では、4000石の旗本としての体面でいろいろお金を使いますが、実収は2000石以下で、借金もできないほどになり、年貢の取り立ても厳しいため、村は荒れ果て領民は四散し、どうにもならない状況でした。

 金次郎は小田原藩の役人として桜町(栃木県)に住み込んで仕事を始めます。村の状態は荒れ果てていてとても悲惨な状態でした。そこで早速10年の間の生産力と出費の平均を割り出し、そして今後10年間での生産計画を立てました。これを彼は「仕法」と呼びました。まず、桜町の殿さまにはその実収にあった生活にし支出を抑えます。そして一軒一軒の農家を訪ね人物を調べます。はたらきものは表彰し、農具を貸し、肥料を与え、家や小屋の修理の費用を与える。怠けものはよく諭す。また農業用水などを整備しました。このような費用を作り出すために小田原の家などの財産をすべて売り払って家族そろって桜町に移住しました。そして農民の信頼を得て、村は立ち直っていきます。しかし、小田原藩から派遣されてきた豊田正作という主席の侍の妨害を受けます。百姓の気持ちもばらばらになりました。そこで、金次郎は急に姿を消して成田山に断食でこもります。驚いた百姓は金次郎を迎えに行き、豊田正作は罷免されます。

 その結果10年後には2000俵から3000俵に実収が増えました。農家の戸数も145件から190件に増えました。この成功が評判になり、烏山、下館、真岡、日光などの極めてひどい状態であった村の立て直しを頼まれます。

 *(2)に続きます

 

2011年8月 6日 (土)

経営人間学(16)『下町ロケット』を読みました。続編ともにテレビドラマに

 『下町ロケット』あらすじ

『下町ロケット』という第145回直木賞を受賞した小説を読みました。「週刊ポスト」に連載されていたものです。著者は池井戸潤氏(2010年11月出版、小学館)で、三菱銀行勤務のあと、小説を書き始めすでに賞も受けていた人です。この小説は8月から連続ドラマになるそうです。読んでいない方のためにあらすじを書きます。

 主人公は佃 航平といい、宇宙開発機構の研究員でしたが、打ち上げたロケットが失敗し、機構をやめて、父親が経営していた大田区の精密機械製造業に入ります。資本金3000万円の中小企業ですが主人公が社長になってから売り上げを3倍に増やし100億円弱、社員数は200人といった中小企業です。

 話の始まりは、京浜マシナリーという日本を代表する1部上場企業の機械メーカーが、突然下請けの佃製作所に、その製品を自社生産するので来月でやめてほしいといってきます。売り上げの1割の10億円分が突然なくなるのに、そのための機械や社員はそのまま残ってしまいます。代わりの注文もありません。大企業は平気でこういうことをやります。そしてたちまち資金繰りに困ります。3億円ほど不足するというのです。

 そこでメイン銀行の白水銀行に、その銀行から出向してきて経理部長になっている殿村を通して交渉させます。ところが、銀行は柳井という課長代理が融資は無理だと断ります。銀行はお金が要らないときに借りないかといい、お金が必要な時には、貸さないものです。わたしも親の仕事を継いで、中小企業の経営者を43年間やってきましたので、そういう辛い思いを何回もしてきました。資金繰りは、ベンチャー企業により1億5千万は調達できますが、不足しています。

 それに加えて、小型エンジン製造のライバル会社のナカシマ工業(一部上場)が、特許権の侵害だと損害賠償を求めてきます。その会社はいつもそういう方法で、小さなライバル会社をつぶし、あるいはのっとってきたのです。それは特許に詳しい神谷弁護士の力で、逆に特許侵害で訴え、損害賠償を逆に勝ち取ることになります。ナカシマ工業の担当者は新聞記者に、とくとくとこのようにのっとってきたということを話し、それが記事になり信用は失墜します。

 宇宙開発に取り組んでいる帝国グループの一つ帝国重工(三菱重工らしい)は人工衛星を上げるロケット開発に取り組んでいますが、その水素エンジンに必要なバルブシステムの特許を、佃製作所という中小企業が先に持っていることが分かります。はじめ、吹けば飛ぶような中小企業だからと特許の買い取りを持ちかけます。それを断られると、今度は年5億円で特許を借りうけようとします。佃製作所の社員からすれば、今までかなり開発費をつぎ込んだ、バルブシステムの特許を売るなり貸すなりして、収入が増え、自分たちの給与が上がることを望みます。

 しかし、佃社長はそれを、製品の納入にしたいといいます。帝国重工の宇宙開発グループ主任の富山は納入のための厳しいテストをして落そうとします。その横柄な態度に、佃製作所の社員もおこります。そして、経理部長の殿村もそういう態度なら、帝国重工の申し出を断ろうといいます。「そんな会社なら部品供給も無理、ましてウチの大事な特許を預けることなどできません」と。そして「会社が小さいからといって、舐めてんじゃねえ」という言葉が発せられます。これは日ごろ大企業からいじめられている中小企業がいってみたい言葉です。佃製作所には経理部長のほかに営業第一部長の津村、第二部長の唐木田、そして技術開発部長の山崎などがいて活躍します。しかし、顔が四角く髪を真ん中から分けていて殿様ばったみたいな顔だという殿村部長が、銀行の出向者という作者の立ち場からの思い入れがあったように思えます。

―佃品質、佃プライド

連続ドラマになり大評判

◎2015年12月に連続10回の連続ドラマになりました。前半はロケって編。後半は2015年10月に出版された本『下町ロケット2 ガウディ計画』です。TBS日曜劇場が毎週日曜日21時から放送され、20%越えもある視聴率で、最後の20日の最終回は何パーセントになるかと期待されています。

 12月20日には、TBSで超緊急特別ドラマ企画と銘打って、今までのドラマの感動シーンを夕方7時から2時間番組を組みます。そのあとに、約1時間20分の番組本番が続きます。最終回は、「裏切者は許さない日本プライドを持て!日本ロケットの夢・人工弁の夢を打ち上げろ!!」です。

 新聞のテレビ番組欄に2つの番組が黄色く印刷され、下にも「よる9時ついに最終回25分拡大/よる7時超緊急特別ドラマ企画」の宣伝が入りました。人気の高さとテレビ局の力の入れようがよくわかります。

その2つの番組の前に、2時から5時までの3時間「今夜激動のフィナーレ『下町のロケット』完結これで準備は完璧SPとして、「感動のダイジェスト」、ガウディ計画編のすべてがここにある!!100人に聞いた各シーンBEST10,最終回の見どころは?

 もう一度一部を見直してしまいました。全部で-6時間20分です

 最終回はどのくらいの視聴率になるのでしょうか。

私=筆者の場合

私の会社も会社存続のために、いろいろとがまんをし、元請け会社の横暴に何度も苦しめられた経験がありますので。うちの場合は佃製作所よりもさらに小さい社員数80人ほどの会社で、無理やり合併されてしまいましたが。それでも他の会社にないいろいろな工夫もし、社員も結束した、いい会社にすることができました。110806_162501

 帝国重工の中でも、実際に工場を見た財前部長がその品質の高さに驚きます。また浅木という若手社員も佃製作所に好意を持ちます。実際、大田区の町工場のようなところが手作業で、世界的なレベルの精密機械部品を作っているとテレビでもみています。そういう企業を大事にしないで大企業の思うがまま中小企業をにつぶす政策を政府がとってきています。ともかく危機一髪で製品検査も通り、ついにバルブは正規採用となります。皆は万歳を叫びあいます。「佃品質を帝国重工の連中に知らしめてやりました」「佃品質と我々佃プライドにー万歳!」

 そしてついに、佃製作所のバルブを積んだロケット「モノトーン」の成功を祝い、社内は歓喜が爆発し、だれかれとなく抱き合う。社長もこらえていた涙があふれ出し、「ありがとよ、みんな」と何度も繰り返していた。

 という内容です。おもしろそうだと思ったら、ぜひ直接お読みください。中小企業にいる人は少し胸のつかえが取れます。

 追記  

大企業の中でも、人により、中小企業の経営者や従業員に対しての態度にはいろいろな差があります。この小説でも、中小企業を頭から馬鹿にし、尊大な態度をとる、銀行員や帝国重工の富山主任のような人物と、中小企業といえど、しっかりした仕事をしていると、敬意をはらう、同じ帝国重工の財前部長や浅木という若手技術者です。

 私が会社の社長でいた時にも、私の会社内に組合があり、その組合は”赤い”社長の私が作らせたと勝手におもって、なんとかつぶそうとしてくる元請け会社社員と、いろいろな経営努力をして、同業他社より、はるかにいい営業実績をあげている私と私の会社を応援してくれる元請け社員がいました。このようなことははどこでもあることでしょう。私は私の会社をつぶさせないために何よりも売り上げ目標に対して達成率を良くしようと努力しました。そのため、営業成績の順位表を毎日うち出せるのですが、当社はいつも最上位でした。当社は新築でも可能な強力な建築リホーム部門を持っており、社員数が、80人と担当エリア(担当需要家数8万件)に比べて多かったのです。ちなみにお隣の店は同じ需要家件数で社員数は50人ほどでした。当社はに総売り上げ約14億円のうち、建築部門は4億円位ありました。三越不動産、JRビルテック、東急リロケーション、エイブルなど、いいお客さんがありました、それで合併させられる5年前ほどは売上達成率で、全社100店ほどの中でいつも1位を争ったのです。しかし、最終日のデータでこれで、全店で1番になったと思ったら、最終的に小さな店が1番に替わっていたり、従来の評価方法なら1番なのに、その時だけ評価方法を変えてあって2番にとか、どうも、全社1番になって表彰されるのを防いでいるように感じたこともありました。

 2013年8月31日追記

 このブログも2年ほどたっても、多く読んでいただいています。最近のアクセスの多さは現在放送中で大ヒットしている『半沢直樹』のせいだとも思っております。半沢直樹についてのブログも書きましたので興味がありましたら、ご覧ください。

 

 「半沢直樹の大ヒットと同時放送韓国ドラマ『馬医』の共通性」

 http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2013/08/post-4fob.html

2015年10月18日 追記

「下町のロケット、連続ドラマ始まる」

 「下町のロケット」が2015年10月18日からTBS日曜劇場で、テレビドラマになります。新聞でも大きく広告が出ています。主演は阿部 寛さんで、娘役に土屋太鳳です。10月から朝日新聞で「下町のロケット2」を連載開始だそうです。1と2を合わせて全10回の連続テレビドラマになるそうです。午後9時からで最初は2時間番組です。他に吉川晃司、倍賞美津子、杉良太郎、立川談春、春風亭昇太など多彩なメンバーで楽しみにして見てみます。

2015年11月16日(月) 追記

「下町のロケットが平均視聴率20,2%」

 昨日(11月15日)で前半の「下町のロケット」の放送が第5話で終了しました。視聴率はだんだん上がって20,2%だったそうです。瞬間的には26%になったそうです。来週からは後半の話「ガウディ計画」が始まります。

 このドラマはすべて見ました。阿部 寛さんがさすが、うまいなーと感心しました。又帝国重工の部長役となった吉川晃司の財前部長役は貫録があり、正しいものは正しいと毅然とした態度を貫き通しなかなかよかったです。

 「ガウディ計画」は今度は、人工心臓にまつわる話です。小泉孝太郎、世良公則、2人は憎まれ役です。今田耕司は地方大学の教授役です、などが出てくるそうです。本はもう売りだされていますが、来週のお出かけの時に買ってこようと思っています。

ガウディは心臓人工弁の名前です。

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「下町のロケット2 ガウディ計画」ロケットから人体へ

 2015年11月10日発売 1500円+税 小学館

 発売されてまもなく買ってきて、読んだのですが、毎週日曜日の9時に放送されるうちにもう、ガウディ計画の話になってしまいました。

佃製作所 大田区の上池台にある社員数200人ほどの会社

   実際の会社の看板だけ変えています

   社長 佃 航平 (阿部 寛) 

   経理部長 殿村直弘(立川談春)

   技術開発部長 山崎光彦(安田 謙)

       中里 淳、(データをもってサヤマ製作所に)

       立花洋介、加納アキ 

   営業第一部長 津野薫

   営業第2部長 唐木田篤

        江原春樹

帝国重工 財閥系大企業 国産ロケットの製作、イメージ-三菱重工

   社長 藤間秀樹〈杉良太郎)

   宇宙航空部本部長 水原重治

   宇宙航空開発G部長 財前道雄(吉川晃司)

   宇宙航空部調達部長 石坂宗典 財前のライバル、サヤマに肩入れ

株式会社サヤマ製作所 埼玉県狭山市の精密機器メーカー

         データ偽装疑惑で逮捕

   社長 椎名直之 NASA出身 (小泉孝太郎)

       開発部マネージャー 月島尚人

       横田 内部告発

      (中里) 佃製作所から引き抜かれる

日本クライン 大手医療機器メーカー

        人工心臓開発 佃からサヤマへ発注がえ

   製造部長 久坂寛之(平岳大)

   専門員  藤堂 保

 

アジア医科大学 心臓外科ではトップクラスとされる

   心臓血管外科部長 貴船恒広 (世良公則)

   主任研究員 真野賢作

   医師      巻田

北陸医科大学 福井県の私立大学

   医師 一村隼人(今田耕司)元貴船の部下

株式会社サクラダ 編み物の会社 親会社桜田経編

   社長 桜田 章

PMDA 衣料品や医療機器の審査機関

     露骨に中小企業を馬鹿にする滝川

  審査役 山野辺 敏

       滝川信二 サヤマ製作所に肩入れ

弁護士

 佃製作所を弁護

  神谷修一(恵 俊彰)

佃家家族  (小説には出てこない)

 佃母  (倍賞美智子)

 佃娘  (土屋太鳳)

 佃元妻

白水銀行

 根本節夫(東国原英生)

       (春風亭昇太)

週間ポルト

  咲間倫子( フリーのジャーナリスト

         佃社長に協力、情報提供)

・人工心臓 コアハート

・人工弁 ガウディ

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2015年12月13日放送の1場面 真ん中が佃社長

左手前が、一村隼人教授

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小泉孝太郎が憎まれ役で、いい味を出しています。

佃製作所は帝国重工からの支援と取引を停止されます。

貴船の言葉

「患者のためといいつつ、私が最優先してきたのは,いつの間にか自分のことばかりだったな、久坂君医者は医者だ。患者と向き合い患者と寄り添ってこそ医者だ。地位とか利益も関係なくなって見て思い出したよ。p360

 貴船の言葉はそのまま自分にも当てはまる。(久坂)

 2015年12月20日、今日でドラマは終了します。

 人気があるのは断然1位の佃航平です。財前部長と殿村部長もベストスリーです。

 憎まれ役1位は椎名社長です。

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 週刊誌の抜き刷り

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帝国重工の藤間社長

◎最終の視聴率がどのくらいになったのでしょうか

 最終回、10話の平均視聴率は22,3%だったそうです。

 

2011年5月25日 (水)

経営人間学(11) 人間のための企業

軍太鼓の太鼓に合わせて、真っ赤なきれいな軍服を来たイギリス軍が、撃たれても撃たれて倒れてもそれを踏み越えて、整然と行進していきます。それに対して、軍服はまちまちで、散兵となって射撃するアメリカ軍。アメリカ独立戦争の映画の1シーンです。(2000年の『パトリオット』です。メルギブソンが主役のベンジャミンを演じます。ゲリラ戦で戦います)ばらばらに散兵になっていたほうが弾丸があたりにくいのに、どうしてなのだろうかと思ったものです。イギリスでは身分制度がはげしく、将校になるものは上流階級で、一般の兵士は下層階級です。昔の軍隊は将校は比較的優秀でも、一般兵士はそういう形で統制を取らないとばらばらになってしまうのです。昔の戦争では洋の東西を問わず、総大将が死んでしまうと大軍が一気に崩壊してしまう例はたくさんあります。独立戦争でのイギリス軍もそうでした。優れた指導者がいてその下でありのようにいいなりになってうごく形は、指導者が健全で物事がうまくいっているときにのみ力を発揮します。

 しかし、兵士一人ひとりが戦う目的の意識と、自分の役割をつかんで戦っている軍隊は強いのです。ゲリラ戦はそういう兵士でないとできません。それぞれが、それぞれの自律的な意思で状況判断を正しく行い対処できるときは、状況(戦況)の激しい変化があろうとも大きな過ちは起きません。ベトナム兵はゲリラ兵となって圧倒的な兵器の量に勝るアメリカ軍を打ち負かしてしまいました。

 アメリカ独立軍は職業軍人だけでなくいろいろな一般人が参加しました。イギリス軍の鉄砲より優れた、アメリカ軍の猟師や一般人の持つライフル銃を持っていました。散兵として、自由に戦えるアメリカ軍は森に誘い込みイギリス兵をうち取りました。このことはエンゲルスが書いた百科事典(ニュー・アメリカン・サイクロペディア ーマル・エン全集14)での軍隊における項目で、大きな戦法のへんかとして述べられています。逆にナポレオンは、自律的に判断できぬ将軍のためにワーテルローで負けてしまいました。

 企業においても、優れた社長なり、経営陣がいても何事もその指示まちで、いいなりとなって、将棋の駒のようにはたらいている社員がほとんどという会社は状況の変化がなく指導部が健在の間はうまく機能します。しかし現代のように予想できぬ事態が次々に起きてくるような激変の時代にはうまく対応できなくなります。

 一時”人間のための企業”ということが言われた時代があります。世界中が好景気に沸き、人手不足の時代には、社員が大切、人間が大切といわれました。しかし世界中で不景気が続くようになると、社員が大切などといわなくなります。昔コンサルタントの船井幸雄が盛んに、「人間学」の本を書き、経営者の個人的な指導力と社員の重要性を説いていました。ところが不景気の中で途中から経営はアメリカ型のコンピューターを駆使したドライな経営が中心となってきました。船井総研でもそういう本が中心となってきました。人情的経営を廃したアメリカ流新自由主義にもとずいた経営学が席巻しました。東京ガスでも、下請けの店と、車の両輪といっていた温情主義的な経営は消え、アメリカ帰りのエリート層などが経営の中心を占め、ドライに下請けの店の手数料をどんどん減らし、店の数を減らしていきました。

 マズローが『人間性の心理学』を書き、人間の欲求の中で”自己実現の欲求”が最も高度な欲求であることを示し、それをドラッカーが『企業の人間的側面』を書いて、それを経営学に応用しました。また『マネジメント』(ダイヤモンド社、上田淳生訳)では「人こそ最大の資産といっています。これらは経営学では必ず学ばなければならないもので、最近経営だけでなくいろいろな所にその考え方が活用されてきています。しかしとかく計画を達成すること、目標に到達することが自己実現の欲求を満たすことであるなどと矮小化される傾向があります。

 わざわざ、”人間のための企業”などといわれるのは従来の企業がそうでなかったからです。人間は“人手”であり、使い捨てても構わないもの、会社の利益のためには、社会的に問題を起こしても構わないなどという考え方が主流になっています。新自由主義似もとづく小泉行革で、派遣業務などの幅を広げ、多くの社員が正社員から、パート、派遣社員に変わり、所得格差が広がり、貧困層が増大しさまざまな問題が生じています。所得300万以下の人が増えそのような人は中々結婚できず、結果として少子化が進んでいます。

 今そういう中で、社員の待遇を良くし、個人の提案を積極的に取り入れ、生き生きした会社が見直されています。私が社長としていた会社も、同業他社よりも給与や待遇が良く、各人の創意工夫も取り入れ、自主的な取り組みを重視してきました。給与水準も高かったため、会社としてはあまりもうかりませんでしたが、いろいろなインセンティブをつけたりして社員の積極性が売り上げなどを押し上げ、下請け百数十社の中で常に1,2を争う上位の成績を収めていました。社員はそれを誇りにも思っていました。社員の売る気は、本当に気持ち一つなのです。

しかし2009年9月の合併により、うちの高めの給与は抑えられ、お役所的な労務管理、融通の利かない営業方法などで、営業成績は極端に落ち込み、創意工夫を発揮できないために、結局合併以後利益がなく、持ち株会社になった当社にも何も配当がない状態が続いています。

追記:2012年1月配当なしは続いています。今年度はどうなのでしょうか。

 社員を大切にし、社員の創意工夫がいかされ、命令でなくて自主的にはたらく社員の会社が結局、いかなる状況の中でも生き抜きます。自分が会社の中で満足している社員は何よりも人に言われなくてもお客様を大切にします。

 私たちは小さい頃、いろいろな夢を持っていました。人間としての本当の喜びは、それぞれの個人の持っている可能性が全面的に発揮されることです。また全面的に発達した個人こそが、優れた社会職場を実現することができると思います。中なか現実には難しいのですが、企業は個人の能力を高め、人間的に成長させる社会的責任があるのではないでしょうか。そしてそういう自覚し成長した社員、一人一人の創造力によって厳しい状況を乗り越えることができるのではないでしょうか。

2011年3月 4日 (金)

経営人間学シリーズ(15)経営人間学について「ひつめぐ」さんの質問に答えます。経営人間学11

私が2011年1月16日付で書いた「こういちの人間学」ブログに、「人間学は専門の研究者でなければだめなのか ゼネラリストは不要か」というものがあります。それにたいして、「ひつめぐ」さんからコメントがあり、私の言う「実用的人間学」は「経営学ではないか、自分という資源を理解し、世界という環境を理解し、その中で何かをつかみ取るために、戦い、協力し、生きる術を学ぶというのはまさに経営学であると思います。」以上原文通りそれにたいして、「私は人間学という名のついた書物のなかでは、私が「経営人間学」となづけた本が一番多いということ、幅広い意味では人間個人、自分自身の経営学といってもいいかもしれません。」と答えました。

 「ひつめぐ」さんは、「人間経営学というジャンルがすでに存在するのですね。恋愛行動についても経営戦略が応用できると考えていました。そして「人間経営学」に興味があるので本屋で調べてみます」と言っていました。それに対して私は私が言ったのは「経営人間学」であって、「人間経営学」ではないこと。しかしそれも面白い言葉であり考え方なので使わせていただこうかと思うと書きました。

「ひつめぐ」さんは、「結局経営人間学というものが経営学や、また人間経営学というものとどう違うのか理解できないのですが、もう少し具体的に、例えばどのような経営人間学ではどのような疑問を解決しているかとか、そんな感じで教えていただけませんか?」(原文のまま)と今日付けのコメントで書いてこられました。短いコメントでは書ききれないので、あらためて、あらたなブログで書いてみることにしました。

 人間学とか、人間科学とか今では大学の講座にたくさんあって、市民権を持っています。2011年2月の人間学研究所の新教育人間学部会の例会で、私が、「人間学、人間科学の状況ー大学の講座にみる」というテーマで話をしました。その要旨は2月20日づけの私のブログ「人間学と人間科学の現状」その1、その2に書いたとおりです。現在大学で人間学部と名のついた学部を持つ大学は12校、京都大の総合人間学部などの名称を持つ大学は10校あります。そのほかに、人間学科、人間学専攻そして、人間科学部、科、専攻などを含めるとかなりの数の大学がそのような名所をつけています。また人間生活学などの人間~という名称を付けるものは近年極めておおくなっています。しかしその内容は極めてあいまいで、人間学と人間科学との境界もはっきりしていないと私は報告しました。またそれらの大学の中で、経営学系とされているのは札幌国際大学のスポーツ人間学部だけでした。

 私が「経営人間学」となずけているのは、あくまでも私流の人間学という書物を分類するに当たり、なづけた名称であって、一般的に学問として確立していません。元の名前は、山本七平氏の書いた、『経営人間学』-資本主義の精神の先駆者たち 昭和63年発行日本経済新聞社によるものです。ほかに同じ名前の書物はありません。あくまでも私の「人間学と名のつく書物の分類」における名称です。世間ではまだ通用しておりません。ちなみに、2010年12月末に、書名に日本における人間学と名のついた本(サブタイトルを含む)は964冊であり、私が経営人間学となずけている書物は、「歴史人間学」(これも私の分類法の一つ)において、日本系53冊、中国古典系が110冊の合計163冊。一般経営人間学(これもわたしの分類法)すなわち、経営、リーダーシップ、生き方、自己啓発、社会職場の現状などの書物が141冊です。経営人間学の書物は総合計304冊ということになります。他の書物の分類では総合人間学43冊、哲学的人間学178冊、科学的人間学272冊、その他の人間学167冊です。

追記 (この内容は定期的に変更されています。参考までに「こういちの人間学ブログ」2012年1月20日版「人間学」と名のつく書物一覧をご覧ください)

 それらの経営人間学の本は、「三国志の人間学」とか「徳川三代の人間学」とか、「リーダーシップの人間学」とか人間学という学問ではなく、いわば「人間論」あるいは「人間についてのエッセイ」とかいう感じのものです。私の提唱している「実用的人間学」は、それらのものも参考にはいたしますが、同じものではありません。現状では、「人間学」はそれぞれの人が自分の好きなようになづけているだけで、いわゆる、哲学や。物理学や、経営学などとは全く異なるものです。またひつめぐサンがおっしゃるようには、経営人間学も、人間経営学も実際の大学の講座などという形での学問としては存在しておりません。

 残念ながら、「ひつめぐ」さんの経営人間学が経営学や人間経営学とどう違うのかという問いには全く答えておりません。ともかく経営人間学も人間経営学も学問として成り立っていませんのでお答えは難しいのです。ただ「ひつめぐ」さんのおっしゃる、経営学の手法を、単に今までの私がなずけた『経営人間学』という枠を乗り越えて、いろいろ参考にしていくことは、人間がより良く生きるための知恵を求めるというわたしの「実用的人間学」に取り入れるということは大変、有効なことだと思います。私も少し改めて研究してみたいと思います。

2010年6月26日 (土)

経営人間学シリーズ(14)気持ち一つでこんなに変わる -サッカーW杯 日本の変貌

気持ち一つ、みんなが心をあわせるといかに大きな力が出るか

 今開催中のサッカー・ワールドカップで日本が、決勝トーナメントに進みました。本線の前の練習試合で4戦全敗し、岡田監督がやめたいともらすまでにひどい状態でした。このままでは3戦全敗ではないかと。ところが、本番の試合では、カメルーンと、デンマークに勝ったのです。同じ選手たちなのになぜこれほどまでに変わったのでしょうか。

 スポーツ紙によればチーム主将になった、川口能活選手が、選手だけのミーティングを開き、いろいろと選手が本音で不満をぶつけあい、勝つために頑張ろうと、気持が一つになったそうです。その結果が、第一試合で、田中マルクス闘莉王選手の提案で、国歌を肩を組んで歌うことになりました。その全体で頑張ろうという気持の高まりがFWの本田が得点した時、真っ先に控え選手のところに飛び込んでいったのでもわかります。その結果優勝候補のオランダ戦での善戦とデンマーク選での勝利につながりました。

 監督の方針も、はじめ攻め中心から守り中心に転換し、逆にデンマーク戦では積極的にゴールを狙わせたそうです。今まで日本のサッカーを見ているとゴール前で、横にパスをまわすだけで攻め込まず、もどかしい感じもしましたが今回はそうではありませんでした。気迫が違います。

 逆に、選手とチームがばらばらになり、一勝もできずに敗退したのが、フランスです。前大会は準優勝でした。しかし監督への暴言や、まとまっているのは練習をボイコットする時だったとまで言われるようでは、いくらいい選手がそろっていても勝てません。日本チームといい比較になります。イタリアも敗退してしまいました。

 今日の夜は韓国戦です。この大久保の地は、コリアタウンとまで言われるように、韓国系の人が多いところです。6月17日の韓国が勝利した日には、実用的人間学の例会のあとで、私が家主である第二サタケビルの地下のわんぱく大将というお店で懇親会を開くことになっていました。8時半に行った時はちょうど試合が始まるときで、通路にもぎっしり人が座り込み、奥に席を用意していただいたようですがとても無理で、他のお店に行きました。その後試合に勝った後、街では、大韓民国(デーハミング)や奇声の声が朝方まで続いていました。韓国も決勝トーナメントに進み、今日の夜はウルグアイ戦です。ぜひ勝ち進んでほしいです。土曜日の夜ということもあり勝てば前回よりさらに大騒ぎになるでしょう。

 デンマーク戦も私は全部をみませんでしたが、途中から早めに目を覚まして、見ました。日本人は韓国の人々みたいには熱狂しませんが、前回のように3時からではないので見る人も多くなり勝てば大騒ぎになるでしょう。日本韓国が決勝で対決なんていうのは無理でしょうが、チームの盛り上がった力でぜひ勝ち進んでもらいたいと思います。

 それにしても気持ち一つでまとまれば大きな力になるといういい例となりました。今までの歴代の戦争、戦闘でも、いかに心を一つにして一丸となって戦って、巨大な敵を打ち負かしてきたかという例がたくさんあります。その話は改めてお話しましょう。

 会社経営においても、経営者、社員一同心を一つにして、さまざまな問題に取り組めば大きな成果をうることができると思います。

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