経営人間学シリーズ(13) 100年以上生き残る会社 追記版 2023年創業116年(株)サタケも73年になります。
このブログは2010年6月に書かれたものですが、2017年6月1日に株式会社サタケの第67期株主総会を開催し、役員の大幅な変更を行うにあたり、株式会社サタケその前身の、有限会社佐竹製作所、さらに桶商佐竹の110年間の簡単な歴史を振り返り追記して更新しまた。
2019年3月(平成30年)で、会社は69期、2019年の4月からは70期の節目迎えます。佐竹幸一は会長から社長に戻りました。年号の変わる2019年に創業112年になります。(明治、大正、昭和、平成ー?)何になるのでのしょうか。
2020年4月(令和2年)で株式会社サタケは70期の決算を迎えます、7月26日の株主総会で息子が社長に返り咲き、筆者は会長になります。佐竹ビル5階は業務用に改装し株サタケの事務所もつくります。
◎2023年4月18日(令和5年)に書いています。2023年には会社は73期、創業116年です。佐竹ビルの5階で始めた、レンタルスペース、「アズサ」も順調です。ブログ筆者で株式会社サタケ会長の佐竹幸一は、佐竹傳蔵、佐竹庄次郎、佐竹 実 の後の4代目であり、現社長の佐竹謙治で5代目です。現在は不動産管理業とレンタルスペース業です。
◎2023年6月11日(日)株式会社サタケの株主総会が開かれます。私(佐竹幸一)の持ち分のうち最も収入の多い、佐竹ビルの所有権が株式会社サタケに移りました。それにより初めて株式会社サタケの利益が出て、株主に配当が出ます。
2010年6月8日、異業種交流会である、「二火会」の例会で、法政大学大学院教授の久保田章市氏のお話を伺いました。久保田氏は、旧三和銀行(東京三菱UFJ)で支店長からUFJ総研などを経て大学院に入り、現在教授になった方です。1000人以上の経営者と面談し、100年以上続く会社について調査して、2010年1月に『百年企業、生き残るヒント』(角川SSC新書)という本を出されました。
◎久保田氏は2013年、島根県の浜田市長になられました。後ろに追記
二火会でのお話は、「長寿企業に学ぶ、生き残る経営」というテーマでお話されました。以後そのお話の要旨を紹介します。詳しくは、上記の著書をご覧ください。
日本の長寿企業の特徴
1、世界一の長寿企業大国ニッポン
世界最古の企業は1431年前に百済人として日本に来た三人の百済人の一人が作った企業です。その後も四天王寺の維持管理などを続けてきました。その会社は飛鳥時代に創業して現在に続く建設会社の「金剛組」です。世界最古の、ホテルは創業718年の石川県の温泉旅館「法師」です。これは最古のホテルとしてギネスブックにも載っています。日本には創業100年以上の企業が五万社あり、世界一です。
2、欧州や中国でも企業は日本ほどの歴史はなく、特に韓国では100年続く企業はほとんどないそうです。創業200年以上の企業では、日本が3113社で一位、二位はドイツの1563社、三位はフランスで331社と急に減ってきます。韓国で長寿企業が少ないのは、日本と違い同族企業で、他人を経営者に迎えるということがまったくないからだそうです。
3、日本の長寿企業は、大半が江戸、明治時代に創業しています。またそのうち91%が法人企業となっています。企業規模は299人以下の中小企業が96%を占めています。
日本に長寿企業が多い理由
1、伝統的な「家」制度の存在 多くが家業からスタートするが、「家」を存続するために、血縁者以外の優秀な人材を取り入れてきたこと。
2、伝統の継承に努めるとともに、時代の流れに応じて革新していくことをうまく行い、バランスをとってやっていること。
3、多くは同族企業で、経営者の在位期間が長いこと。(平均25から30年)
4、明確な経営理念を持ち、守っている 家訓、社是などを守っている。
5、長期的な視点に立った経営をしている。 短期的な利益よりも長期的な事業の継承を優先 人材育成、研究開発、投資などを行う。
6、従業員を大切にしている、(これはきわめて大切)。
1990年代から状況が厳しくなっている
1980年代後半から、円高、グローバル化、少子高齢化が進み、経営環境が厳しくなり、1990年からは、「低成長」と企業間の競争が激しくなり、1990年代から「創立30周年以上」の会社の倒産が目立ってきた。
1970年までは日本は高度成長時代で、アメリカは逆に双子の赤字と言われる大変厳しい状況にありました。そこでアメリカを中心にジャパンバッシングが行われました。具体的には1985年の「プラザ合意」で、円高にさせられました。円は対ドル240円から160円に上がりました。1986年には前川レポートがだされ、日本は内需拡大せよ、ということでスーパーマーケットなどの規制緩和が行われ、農産物の自由化など、いわゆる「外圧」がかかりました。競争が激化して、倒産する企業が大幅に増えました
元気な中小企業の特徴は、
1、1990年代以降の厳しい時代、積極的な経営革新に取り組み収益力を増している。
2、必要な人材の確保と育成に取り組み、社員を大切にしている。
3、1,2を行うしっかりした後継者がいる。特に中小企業は経営者次第であり、「経営革新」や「人材の確保・育成」は、経営者が自らリーダーシップを発揮して行う。
そういう厳しい状況の中でも元気な長寿企業にはどのようなところがあるのか、具体的な会社10社について久保田氏から説明がありました。
100年企業(株)サタケ
説明のあった10社のほかに、筆者が社長を務めてきた、株式会社サタケも、明治40年(1907年でした。初め書いた1910年は誤り)創業で、ちょうど今年で創業100年になりました。(2012年で112年)筆者は社員のみなさんに創業100年で100人の会社にしようと頑張ってきました。
今から100(110年前―2017年)年ほど前に新潟の長岡市(千手町3丁目8番地)から筆者の曽祖父佐竹傳蔵が新大久保の地で桶屋と井戸掘りの店を始めました。千手町は長岡駅にも近いところでした。戦前はかなり手広く仕事をしていました。木曽からじかに材木を仕入れ、木風呂の製造販売をしていました。また井戸掘りの仕事をしていましたが、水道の普及とともに減少して行きました。
初めに、東京に出てきたのは筆者の祖父庄次郎で、息子を頼って曽祖父傳蔵が東京に出てきました。母の話では江戸時代から桶屋で、名字帯刀を許される豪商で蔵がいくつもあったそうです。高祖父の傳右衛門のとき、戊辰戦争で幕府側についた長岡藩は取り潰され、藩に貸していたお金も無くなってしまいました。新宿区百人町の地で桶屋を始めました。祖父は初め一緒に生活しましたが、曾祖父夫妻はかなりのばくち打ちだったりして、祖父は大阪に逃げ出しました。ばくちはこりごりで、それ以後ばくちなどに手を出さないが我が家の家訓のようになっています。曾祖母ていは曾祖父の3番目の奥さんで祖父と血はつながっておりません。曾祖父は次々と妻を変え最後に役所でもうやめときなさいよと言われたそうです。大阪に逃げ出した祖父は祖母いさと結婚し長男房次郎と次男実(筆者の父親で大正6年5月15日生まれ)が大阪で生まれました。
百人町で桶屋をやっていた曾祖父傳蔵は大正9年に脳溢血で倒れ、それを看病し仕事をつづけるため、祖父の一家は東京へ戻ってきました。2年後傳蔵はなくなりました。祖母は曾祖母が非常に厳しい性格なうえ、祖母の味付けなどが関西風で、関東の味付けの曾祖母と違い苦労したそうです。海苔巻きを作れと言われ、太巻きを作ったら、こんな海苔巻きではだめだと捨てられたそうです。味噌汁の味も全然違ったそうです。昭和15年に曾祖母ていは死亡しました。祖父庄次郎は昭和44年4月に食道がんで死去しました。
大正5年ごろの新大久保の地図。駅はできてまもなくで、当社はまだ大久保駅の近くに店がありました。
昭和10年ころの地図。戸山小学校の卒業生が昔を思い出して作った。真ん中が新大久保駅。真ん中の通りは大久保通り、昔は仲通りと言っていたそうです。上の赤いところは戸山小学校。このころには新しくできた新大久保の駅の近くに店を移しました。
昔は小滝橋通りにも自宅があり、3階建ての家で、富士山がよく見えたそうです。
大正時代の店名などが入った地図には桶商佐竹の名前があります。このころについて下の息子が小学生の時書いた文章があります。
「曾祖母から聞いた話」 この当時は新大久保駅と大久保駅の中間の現在百人町2丁目古くからあるお米屋さんの隣に店がありました。
(道を挟んで、その前は現在大久保教会があり、昔はそこは古川男爵の別邸で、関東大震災の時にはその竹林に逃げ込んだそうです。関東大震災の時父は小学生で、お昼のご飯が大好きなとんかつでそれが、地震で埃をかぶって食べられなかったと言っていました。でもこの辺りは地盤が固く家は倒壊しなかったそうです。大震災後多くの人が下町から転居してきたそうです。ブログ筆者が父から聞いた話)
その頃は、自動車は通らず、大八車や荷車が通っていました。近くに陸軍の演習場があり、戦前は陸軍の兵隊さんが乗る馬の馬糞がだいぶ落ちていました。初め新大久保駅はありませんでした。大久保駅だけです。新しい駅ができてから新大久保駅に近いところに転居しました。昔の新大久保駅は高架線でなく、ホームにポツンと電気があるくらいで、山手線に狸がひかれたなんてこともあったみたいです。広大な戸山が原は陸軍の演習場や施設がありました。」
昔の通りの名前は大久保通りではなくつつじ通りと言われていました(さらに昔は大久保仲通りと言われていました)通りにはいろいろな商店がありますが通りから離れると空き地と民家だけでした。新大久保駅ができてから、昭和10年ごろの、大久保を戸山小学校の卒業生が思い出して地図にしています。
昭和15年に伯父の房次郎が井戸掘りで酸欠事故でなくなりました。父も危うく命を落とすところだったそうです。父親は兵隊として戦争に前後7年も行っていました。
このころについてと父母については写真付きで別のブログに詳しく書きました。
「こういちの人間学 カテゴリー 日記、コラム、つぶやき」
「我が家のファミリーストーリー 父を中心として 戦争中まで」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/10/post-eb7d.html
「我が家のファミリーストーリー、父を中心として 戦後から」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/10/j-9214.html
戦後はガス風呂次いで、ガス器具、そして東京ガスの代理店となりました。昭和25年ころに有限会社佐竹製作所となりました。戦後しばらくは復興期で住宅公団などに大量にガスぶろが売れました。東京ガスの手数料が占める割合が少ないほどでした。敷地の奥に(以前は80坪ほど)職人さんの泊る寮があり、5,6人が泊まり込んでいました。そのうち木風呂は少なくなりポリバスやホーロー、ステンレスの浴槽が中心となり、桶風呂の製造は終わりました。(2017年、平成29年3月に株サタケは第67期の決算を迎えます)
東京ガスの器具販売、委託業務の下請けの歴史は、どんどん収れんされ、ついには東京ガスに吸収されていく歴史です。初めサービスステーションという形でガス器具の販売、器具修理、ガス料金の受付、から始まりいろいろな業務をやるようになりました。東京電力と違いガス器具は東京ガスブランドのガス器具を売るのです。
多くの東京ガスサービス店はガス風呂販売店からなり、はじめ新宿区はなんと8店もありました。いろいろ業務が広がり、ほとんどのサービス業務を委託し、お客さんの中には東京ガスの直営店と思う人もいました。初めは東京ガスとサービス店とは車の両輪と言って、利益が出たからと特別手数料をくれた良き時代もありました。
しかし、株主の中にしめる外資の比率が高まるにつれ、下請けに払う手数料を下げていき配当をあげるような圧力がかかりました。アメリカ流の最新の経営学にもとずき、低い手収料でも大丈夫な店の身が残るようになりました。特に新宿区のように車1台の駐車場代が3万から4万ぐらいしたのでは大変です。当社は2億8000万で80坪の土地を駐車場と倉庫代に購入しました。事務所代も払うところなどは成り立たないのです。そして新宿区は3店豊島区は0となり、新宿区の店が豊島区全部を担当しました。
さて当社の話に戻ります。筆者も大学卒業後に入社以来、間もなく専務となりガス部門を担当しました、その後水道工事、電気工事を始め、建設業などに積極的に取り組んだり、人材育成を図り社員は資格を取り大幅に成長してきました。何しろガス器具の取り付け、ガス工事、水道工事、電気工事を全部同時にしてしまいますからとても効率がよく、お客様にも喜ばれました。他の店はガス工事以外は他の業者に頼んでいました。
明確な年がはっきりしませんが2000年ころに有限会社から株式会社サタケに組織変更し筆者は社長に就任しました。父は会長となりました。
社員数は80名、売り上げ14億ほどの会社です。売り上げは少ないのですが、ガスの委託業務の手数料は粗利100%なので全体の粗利率も60%以上でした。委託店の担当地域は新宿区の一部(百人町、大久保、北新宿、西新宿)と渋谷区の一部(代々木、千駄ヶ谷)で、需要家件数8万件ほどです。独自に行う建設業、空調設備業が売上高の4割近くをしめました。かなり大きな空調工事も自店施工できました。これは他店と違うところです。三越不動産や、東急リロケーションなど、良いお得意さんも獲得しました。当社の利点は、ガスだけではなく、電気も、水道も、空調工事も全部、自店施行できることでした。1級建築士がいて、2級建築士が3人、リフォームだけでなく新築も行いました。また一時新所沢で三和住設(株)という三菱電機の代理店とリフォームをやって、いきました。そこで電気のノウハウを獲得しました。不動産業の資格を持つ人も採用し不動産業も始めました。
いろいろな資格を取るのが推奨され、一組の工事組で器具取り付け、電気、ガス、水道工事を全部行い、効率が大変よかったのです。賞罰の罰はほとんどなく、東京ガスやメーカーからもらうビール券などを貯めて換金しいろいろな賞を出しました。個人に賞を出さずグループに賞金を出しました。みんなで販売に取り組み、担当地域分のガス器具の売り上げは、全社100社の中のトップクラスでした。合併する前の5年ほどは会社は大変盛り上がりました。給与の水準も他店よりもずいぶんと高くなりました。
合併した後、うちの会社出身の人は、同業者3社と東京ガスとの合弁会社でうちの社員は大いに能力を発揮しているようです。課長クラスはほとんどを占めるぐらいだそうです。しかし部長以上は他企業出身者です。しかし合併後給与をそろえるため給与が上がらず、困ったそうです。うちがやっていた建設業の仕事や電気器具の販売などは、あまりよくないということで抑えられました。東京ガスが電気の小売りもやるようになり、今では建設業や電気関係の仕事も大事だと言っています。
筆者が65歳で社長を退き、息子に社長を譲り、私は会長となりました。しかし息子はたった半年で、東京ガスが3分の一、残りをライフバル3社がしめる合弁会社となりました。
2016年、持ち株比率3分の一の東京ガスが各社の株の持ち分を買い取る話が出ています。結局、大企業が小企業を吸収してしまうのです。2017年3月31日をもって、東京ガスSTコミュネットは100%東京ガスの子会社になりました。
私で4代目で、現在は息子が5代目の社長と成りました。しかし残念ながら、一昨年、東京ガス方針のもとで、地域別に東京ガスの資本が入った会社にまとめられてしまいました。その会社は400人以上の大会社になりましたが、残った持ち株会社である株式会社サタケは、会社は残りましたが、不動産とビル管理による家賃収入がほとんどの会社になってしまいました。
追記:
2016年5月、株式会社サタケの66期株主総会を開きました。今では不動産収入と管理の仕事だけです。株式会社サタケは第2サタケビルと第3サタケビルの土地の3分の2、約2億5000万を所有しています。(株)サタケの収入は、ビルなど不動産管理収入と社有物件の家賃収入が主な収入となる会社となりました。
追記
2015年6月、ささやかな株主総会を開き、車いすで私も出席しました。昨年はまだ退院後だったので欠席しました。会社としては65期になります。
参考までに、広島に本社がある精米機では日本一の企業である(株)サタケは、ちょうど同じ時期に佐竹製作所から、サタケに変わりました。広島大学に10億円の寄付をするような大きな会社です。
2017年6月1日、(株)サタケは第67期株主総会を開きます。今までは、東京ガスSTコミュネットの役員と(株)佐竹の社長を兼業できましたが、2017年3月末をもって100%東京ガスの子会社となり、息子は(株)サタケの役員となれなくなりました。6月1日の株主総会で筆者は会長から社長に戻り、筆者の家内と息子の奥さんが取締役となりました。
追記
久保田章市氏は島根県の西部にある、浜田市の出身です。浜田市にある、島根県立大講師や、市の政策アドバイザー、高校の理事などをしておられました。2013年に選挙により浜田市長になられました。久保田氏は穏やかな人柄で、良い市長さんになられると思います。人口は年々減り、57000人余りです。
浜田市のふるさと納税というのを見ましたら何と100種類ぐらいもあり、1万円から50万まで,市の魚である、のど黒や、50万円となると芙容ポーク1頭分というのがあります。
最近のコメント