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人間と社会、歴史

2025年2月23日 (日)

異業種交流会、二火会に講師として、人間学研の本『人間って何ですか』の出版の話をしました、

 2025年2月18日に、久しぶりには異業種交流会、二火会の講師としてお話をしました。二火会とは、ずっと以前、三和銀行があったときに異業者交流会として銀行が事務局となって作られた会です。四谷の銀行の支店の会議室で例会が開かれました。しかし銀行が合併し、銀行として無駄な経費を払わないことになり,多くの会が解散する中で、わが会は独立した会として存続しました。そして私も一時は事務局の役目をしたこともありましたが、今から10数年前に脳出血をおこしてからは例会に参加できなくなり、自宅マンションの会議室のところで講師となり例会を開いてくれるときだけ参加しました。連絡は事務局の石橋さんから電話が来ましたが、メールはずっと届いていませんでした。私〈佐竹)からのメールは届くのです。仕方なくメールは妻のところへ送ってもらいました。そしてあれこれメールを使っているうちに、メールだけでなくインターネットすべてがつながらなくなってしまいました。

 それで息子に救援を頼みました。19日にはNIFTYのサービスに連絡して調べてもらいましたがつながらず。翌20日に再度、息子に来てもらい電話してもらいました。そして原因がわかりメールがつながりました。NIFTYは親切に対応してくれました。2月20日は私の82歳の誕生日でした。息子の奥さんも誕生祝の花とお菓子を持ってきてくれました。

 二火会については2015年5月15日に書いた、私のこのブログ、「二火会に久しぶりに講師として参加~新大久保の銀行の減少」が今日現在(2025年2月28日)にアクセス数、第6位に入っています。ここではかなり詳しく書いてありますので、興味ある方はぜひご覧ください。

◎その後2025年3月には2015年の記事が、アクセス数累計2位となっています。

 今回の二火会例会は自宅のマンションの集会室で、午後4時~6時まで、懇親会は新大久保駅近くの「ガゼボ」で行われました。講演会参加者は9名でした。話のテーマは「人間学研と本の出版について 『人間』って何ですか」でした。

話の内容は 以下、お話の資料

人間学研と本の出版について 『人間』って何ですか 

Ⅰ、人間学研究所等の歴史 No1  p1

 Ⅰ、人間学研究会など

 2、人間学研究所から総合人間学研究会そして総合人間学会

   参考 「晩年のカント」より  p2

       小林氏の人間学 柴田義松氏の教育的人間学

 3、人間学研究所から人間学懇話会へ

Ⅱ「こういちに人間学ブログ」

   2009年からブログ始める Nifty の「ココログ」

   アクセス累計約203万 記事1288 テーマ22

   2025年1から2月 アクセス数の多い記事について

Ⅲ「人間って何ですか」の出版の経過  p3

 1,ノートの記録 

    2022年5月20日から ノートNo1 

    本の出版を佐竹提案する

   ~   本の泉社から エクスナレッジヘ

  ノート No4~5

   ~   学文社で校正開始から工作舎へ

  ノート No6~7 工作舎社長による校正について

  ノートNo8  2024年1月20日 『人間』って何ですか 発行

  ノートNo9~10 2024年2月から ノート名『人間』って何ですか

  ノートNo11 2024年11月から 人間学懇話会ノートへ

 2,本の内容 1章から7章までの内容 簡単に紹介 4pから5p

 1章 人間学 人間学研究所と実用的人間学研究会

 2章 人間とは何か

 3章 人体と健康法

 4章 非科学的な思考批判

 5章 歴史と社会について

 6章 佐竹の個人史 新宿と大久保、百人町

 7章 顏の人間学について

 

◎ 本は4冊無料で新たに配布しました。すでに4冊は配布済みです。 

 始めは、1時間ちょっとでお話を終え、皆で討議を行うつもりでしたが

 私の話が長くなり、討議する時間が少なくなりました。

 9名参加で、私の知らない人は1名のみあとは前から知っている人でした。。

◎ 二火会の会長さんは、池森政治氏、ファンケルの創業者の弟さんです。お兄さんが社長で技術部門を池森政治さんがやっておられました。以前、流山や横浜のファンケルの工場見学に行かせてもらいました。

 ファンケルは2024年にキリンの100%子会社になりました。池森政治さんは長い間流山商工会議所会頭でした、10億円流山市に寄付したそうです。池森さんは長年の商工会議所への貢献と、流山市への寄付により、紺綬褒章と旭日双光章を差付けられました。資料によれば2020年のファンケルの株を110,2億円持っていると資料に出ていました。それをキリンに売られたのですから、10億は軽いものですね。

◎ 二次会は近くの多国籍レストラン「ガゼボ」で行われました。1名は帰られました。懇親会のみ参加予定の方は欠席でした。

 

2021年10月31日 (日)

『週刊東洋経済』9月25日号の「話題の本」に、里見脩氏の本の紹介が載りました。(『言論統制というビジネス』)10月31日NHKラジオでも。

2021年10月31日(日)追記

NHK第1放送の番組で「著者からの手紙」として歴史ノンフィクション「言論統制というビジネス」という本について、ご紹介するラジオ放送があり、著者の里見 脩氏がインタビューを受けるお話が、10月31日、午前7時42分から10分間ありました。

お話の内容は、今までブログでご紹介した内容です。事前に人間学研究所のメンバーにも副所長の森岡修一氏から事前にメールが届いていましたからお聞きになった方も多いでしょう。お話の内容は録音してあります。

この件につきましては、31日にメール網で、人間学研究所と実用的人間学の皆さんに、ご報告いたしました。

 

『週刊東洋経済』9月25日号に、先日「こういちの人間学ブログ」でご紹介した本、『言論統制というビジネス』「話題の本 著者に聞く」欄で紹介されています。ここで全文をご紹介しますのでぜひお読みください。また興味がございましたら、ぜひ直接お読みください。

 

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東洋経済新報社  定価730円 

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新潮選書『言論統制というビジネス』新聞社史から消された戦争

1705円 287ページ

「話題の本」著者に聞く

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p82-p83

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さとみ・しゅう 1948年生まれ。東京大学大学院学際情報学博士課程単位習得満期退学。博士(社会情報学)時事通信社記者、四天王寺大学教授、大妻女子大教授などを経て現職。著書に『新聞統合』、「ニュース・エージェンシー」「姿なき敵」など。

◎さすがに出版社です。きれいに写真が撮れています。

p82

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p83

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◎とりあえず、コメントなしで全文ご紹介だけにしました。

 

『こういちの人間学ブログ』の記事

里美脩氏から『言論統制というビジネス』という本が送られてきました。一部掲載いたしました。ぜひ本をお読みください。

2021年8月30日 カテゴリー『政治、社会の現状』

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2021/08/post-79f920.html

2021年8月17日 (火)

最近の記事いろいろ、毎日新聞余禄、「日本の敗戦と日本のコロナ対策の失敗の共通性。 文春の衆院選予測  そのほかいろいろ

この数日間の新聞記事等を思いつくままに記録してみました。

毎日新聞 「余禄」

1921年8月15日(日)は終戦の日です。今日の毎日新聞の『余禄』には、日本人の「ひとりよがり」の世界認識が日本の敗戦をもたらし、今度の日本の対新コロナ対策の失敗とを下記のように対比しています。

「今度の戦争に敗れた1つの理由は主観的な観念性に走って、科学を媒介とした、客観性、世界性から遊離したことにあった」終戦から5日後の小紙に高坂正孝・京都大人文科学研究所の長文の談話が掲載された。

 カント研究で知られた哲学者の高坂は、日本人が抱いていた、自信、自尊心について「外に目をふさいで己を高しというような趣はなかったか」と疑問を示し、「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識に敗因を求めた。

 ワクチン敗戦、コロナ敗戦といった言葉も使われる。有効なワクチンを開発できず、科学技術の遅れを露呈した。当初は有効に見えたクラスター対策中心の「日本モデル」もデルタ株の流行で水泡に帰し感染拡大が止まらない。

 文部科学省の研究所によると、影響力の大きな自然科学分野の学術論文の数で日本が過去最低の世界10位に後退した。中国が初めて米国を抜き世界1位になったことに今の国際情勢が表れている。

 76回目の終戦記念日。米中に追いつき追い越せという時代ではあるまい。ひとりよがりに陥らず、日本が置かれた現状を客観的に見つめなおすことが過去の失敗を今に生かす出発点ではないか。

 

週刊文春 衆院選全選挙区予測

週刊文春の8月12,19日夏の特大号には、開会式に「衝撃計画」天皇陛下が参加のOXクイズー開・閉会式全深層 がトップでした。そして衆院選289全選挙区予測が12ページ載っていました。

「自民過半数割れ、立憲伸び悩み、維新3倍増」と文春は予測しています。

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週刊文春党派別獲得議席予測

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自由民主党     現有議席 276   予測 230

公明党             29       30

ーーーーーーー

立憲民主党          109      125

日本共産党           12       18

日本維新の会          10       32

国民民主党            7       15

社会民主党            1        2

NHk党             1        0

令和新選組            0        5

無所属与党            7        4

無所属野党            9        4

計               461      465

 

8月29日付 「サンデー毎日」新聞広告

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8月16日付 世界の新コロナ感染者数

 インドでの感染者数がアメリカに迫ってきました。

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毎日新聞8月17日記事」

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国内の新コロナウイルスの感染者

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◎こんな中でいよいよ8月24日からパラリンピックもスタートします。いったいどうなるのか・

 

毎日新聞2021年8月18日 朝刊 1面トップ

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8月18日付 「週刊文春」の宣伝

  「菅9・6首相解任」がトップに コロナ爆発徹底解明

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週刊新潮の記事

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2020年4月 6日 (月)

関 啓子さんと「関さんの森」に関する本が紹介されました。関さんと人間学研究所のかかわりについて。

2020年4月6日(月)の「しんぶん赤旗」の3面、「ひと」欄で関 啓子さん〔72)「が、「自然を守り市民の力で道路計画を変更」として紹介されました。

4月9日追記しました。

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記事を紹介すると

千葉県松戸市の北側に広がる2,1ヘクタールの森林、通称「関さんの森」では巨木「百年桜」が咲きほこります。この森で起こった奇跡。

「23年に及ぶ『里山守れ』の市民運動で都市計画道路の路線を変更させ、自然と歴史的景観が守られたのです」

この森は地域の子どもたちの環境教育、市民の憩いの場として活用されてきました。敷地内の蔵・門は江戸時代から関家が大事に保管してきた自然と一体の「歴史的景観」です。「未来に残したい公共性ある空間。行政(お上)の一方的なやり方に引き下がれなかった」

降ってわいた道路計画で、2008年の強制収用の時には物々しい作業服の市職員、業者の冷酷な行動を、地権者・関さんと平服の市民120人が迎えうちました。それから、学習・シンポジウムを重ね、対案をもって対市交渉を重ねた結果、新設市道は屋敷の外側を迂回することで合意、12年に開通。この粘り強い運動の経過などの記録を今年1月、『「関さんの森」の奇跡ー市民が育む里山が地球を救う』(新評論)として出版しました。

「ノンフィクションとして惜しさと怒りは抑えて、感謝と自然を守る全国の皆さんへのエールの文章にしました」。長く大学教員として研究・教育に携わり携わり、アムールトラに会いに行くのが趣味です。瞳は輝き素敵な笑顔がありました。

文 澤田勝雄 写真 中野茂樹 

関啓子氏

 一橋大学名誉教授 関の森文化研究所

 1948年生まれ 一橋大学教育学部卒業 大学院博士課程修了 

 一橋大学教授 一橋大学大学院教授  教育学

「クルースプカヤの思想史的研究―ソヴェト教育学と民衆の生活世界」新読書社

「人間形成の全体史」大月書店他

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関さんの森」の奇跡 市民が育む里山が地球を救う 関啓子 新評論 2640円 2020年1月30日発行

   行政主導の道路開発に「待った」をかけた市民の記録

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関さんの森マップ  千葉県松戸市幸谷108

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関さんの森にある100年桜

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関啓子氏は、人間学研究所と深いかかわりを持っておられます。

1、実用的人間学第62回例会 2014年3月20日(木)

 「千葉県松戸市の関さんのお庭と路側木」 講師 岩田好宏氏 参加者10名

2、教育人間学部会第107回例会 2014年9月26日(金)

 「福島から見たベラルーシ」 講師 関 啓子氏 参加者10名

3、教育人間学部会第111回例会 2015年2月27日(金)

 「ロシア東部生息のアムールトラについて」 講師 関 啓子氏 参加者11名

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ユーラシア ブックレット 2009年10月 600円+税

『人間学研究所年誌2015』 No13

依頼論文「アムールトラの保護と生物多様性」 関 啓子氏

   p1からp19

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p3 の画像

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4月9日追記 『「関さんの森」の奇跡』が8日に届きました。

帯封 「行政主導の道路開発に「待った」をかけた市民の記録

「街づくり」の意味を問い直すノンフィクション

カラーで見る里山の風景 8ページあります

その1ページ

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はじめに

第1部 里山論

第1章 里山とは何か

第2章 なぜ里山は壊れるのか

第3章 里山の価値

第2部 里山を育み、守る運動

第4章 「関さんの森を育む会」の誕生と活動

第5章 「関さんの森エコミュージアム」の誕生

第6章 市民力が自然を守る―環境保護の市民運動と学習

第7章 市民力が自然を救う

第3部 里山保全イノベーション

第8章 コモンズとトラスト

第9章 緑と楽しみ、人とつながり、今を楽しむ

エピローグ

 

 

裏表紙の、白枠が「関さんの森」、黄色枠が「特別緑地保全地区」

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2019年12月18日 (水)

戦争の人間学 エンゲルスの戦争論とアメリカ独立戦争、ヘンリー五世、石弓(弩)対長弓と関連  2019年12月追記編

★ このブログは2009年8月にかかれたものです。2019年12月、2020年4月に再度、一部書き加えてのせました

 

1)エンゲルスの戦争論

 

エンゲルスが、アメリカの百科事典に、戦争についての項目をたくさん書いているということはあまり知られていません。エンゲルスは1848年におきたドイツの帝政に反対する革命軍(ドイツ3月革命)で、軍事に明るいエンゲルスは元プロイセンの軍人ウイリヒ・アウグストの副官として、実際の戦場で戦っています。エンゲルスの指揮する軍はなかなか強かったようです。しかし革命軍はその後プロイセン軍に敗れます。マルクスの娘たちは、堂々としたエンゲルスを将軍と呼んだそうです。マルクス・エンゲルス全集にはエンゲルスが執筆した百科事典の多数の項目が載っていて、大変興味深いものです。 1857年7月から1860年11月

追記

「マルクス・エンゲルス全集」第14巻 1964年12月初版 監訳者 大内兵衛他 大月書店を参考にしています。

『ニュー・アメリカン・サイクロペディア』の諸論文・記事 マルクスとエンゲルスの名前になっているが実質的にエンゲルスが書いた。

5ページから341ページまで、67項目

 軍隊、副官、会戦、ボロジノ、焼夷弾、戦役、キャプテン、臼砲ケッチ砲、騎兵隊、築城、歩兵、海軍、…など。

ブリュッハーという記事には、プロイセンの元帥で、ナポレオンとの戦闘について19ページという地図とともに詳しい記事が載っています。

軍隊 Army 全集5ページから49ページまで

 国家が攻撃戦争または防御戦争の目的で維持する武装した人間の組織的集団のことである。~最初の軍隊はエジプトの軍隊である。~アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、、、マケドニア、ローマ・・

エンゲルスの書いた、アメリカの独立戦争

 

 エンゲルスはその百科事典でアメリカの独立戦争のことを書いています。はじめ、アメリカの独立軍が、イギリスの正規軍と同じ戦法をとっている間はとても勝てませんでした。皆さんも映画などでご覧になったと思いますが、横に列を作って、軍楽隊の演奏に沿って行進し、一斉射撃を行うという戦法です。撃たれた兵隊はばたばたと死んでいきますが、そのまま行進をしていきます。赤い軍服で装備が整ったイギリス軍に比べ、兵力も装備も劣るアメリカ軍は、同じ戦法をとっている間は、厳しい戦いを強いられました。

 ところが途中から、アメリカ軍では、開拓者などの民間人(民兵)も戦闘に参加して、戦法も変えていきました。ばらばらになって、木陰などから、狙うという戦法です。いわゆる散兵です。またゲリラ戦法などでイギリス軍を悩ませました。しかし、この散兵による戦いは、自覚した兵士が自分の役割を命令されなくともしっかり果たそうとするものでなくてはなりません。

 アメリカ軍は、イギリスによる搾取に強い怒りをもち、ひとりひとりが、自分の戦いとして真剣に、戦いました。命令がなくとも自覚的に戦います。ところが、イギリス軍にはそういう意識はかけていました。ですから、多くは貴族出身の将軍が撃たれて亡くなったりすると、バラバラになってしまいました。

 

 その状況を一番よく理解するには、メル・ギブソン主演のアメリカ映画パトリオット』(2000年上映)を見ると大変よくわかります。筆者もビデオを見ましたがメル・ギブソンは、民兵を組織し民兵による散兵によるゲリラ戦争でついにイギリス軍を打ち負かします。アメリカ軍の銃もバッファロー狩りのための猟銃として、銃身の中に螺旋をつけたライフル銃を使い、射撃距離、命中率、破壊力ともに優れ、旧式銃をつかうイギリス軍に比べ有利でした。これは戊辰戦争の時に最新型の銃を使う薩長軍に対して旧式銃しか持たない幕府軍が負けたのと同じようなことです。

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 このことは最近のベトナム戦争における、アメリカ軍と、ベトナム兵の場合にも言えました。あれほど、強力な近代兵器をもったアメリカ軍も次第に兵士は戦う意義を見失ってしまい、個々人が強い戦う意思をもった粘り強いベトナム軍に負けてしまいました。 地の利を生かしたゲリラ戦法も有効でした。

 

2)「ヘンリー五世」イギリスとフランスの兵隊の意識の差

 

 このような例は、いろいろありますが、イギリスとフランスの戦いを描いたシェイクスピアの「ヘンリー五世」という演劇、小説でもわかります。これは、有名な演劇で、いくつか、映画にもなりました。私は、ビデオで、ローレンスオリビエ主演のものと、ケネス・プラナーが監督と主演を兼ねたものを見ました。また舞台のものも見ました。皆さんはご覧になったでしょうか。

 

 イギリス王、ヘンリー5世に率いられたイギリス軍は1415年に1万人の兵力をもって、フランスのノルマンディーに侵攻した。しかしフランス中で連戦しているうちに、疲れ果て、1000人の騎兵と5000の弓兵と兵力もきわめてすくなくなってしまいました。フランス軍は新手で、数も10倍を超える兵力です。(この戦闘では3倍とか)イギリス軍の兵士は翌日の戦いを前にして、死が迫っていると思い意気消沈しています。そこでヘンリー五世は、野営している兵隊をお忍びで尋ねます。そして、「一般の庶民は、何事も心配なく眠ることができる。しかし王はいつも安らかに眠れない」といいます。 

 

 そして翌日の戦いを前にして、援軍が少しでもあればいいのにとの声を聞いた王は、兵の前で演説をし皆を励まします。

「援軍はなくてよいのだ、少ない我々だけが戦って勝利し栄誉を手に入れることができる。イギリスに帰った時、この戦いの日になると、今イギリスで安楽な生活をしている人たちに、ここで王とともにたたかって勝ったということを、国に帰った時にいつまでも誇りにできるのだ。だから兵士は少ないほどいい。まだ応援が必要と考えるかね」と問います。

 

 これはなかなか名調子の素晴らしいもので、ああ、危機の時このように上司たるもの、言えばいいのだなと思います。そして兵士は一気に奮い立ち気持を一つにして戦うことを誓います。そして翌日の戦いでは、イギリス軍は圧勝します。数に勝り、なめてかかったフランス軍は屈辱的な敗北をしました。この戦いはアジンコートの戦い(アジャンクールの戦い)といわれました。そして戦いの後、ヘンリー五世はフランスの王女を妃にして、その子はイギリス、フランス両方の国王となります。

 

(「ヘンリー五世」ついては、私のブログに改めて書いています 2010年4月13日)

 

3)兵士の構成と戦法の差による戦いの差 

  ヘンリー5世とアジャンクールの戦い イギリスの長弓とフランスの弩(石弓)

 

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 『戦場の歴史』2、中世編 (ジョン・マクドナルド 1986年 河出書房新社)より

上図

 少し暗い画面ですが、上がイギリス軍の長弓 下がフランス軍の石弓ー『弩』

下図

p72 アジャンクールの戦いでのイングランド兵

 下馬装甲騎兵と弓兵 弓兵には騎兵攻撃を防ぐ杭を持ち運ばせた 装甲騎兵は常に馬から降りて身分低い弓兵と戦う準備ができていた。

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フランスの弩(石弓)兵 弓をつがえるのに時間がかかるため大盾を持った盾持ちがいた。

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 イギリス軍は中堅的な自営農民が中心でした。兵士としても常に長弓の訓練をしていました。彼らは王室に対して、こころから忠誠を誓っていました。その弓の腕は素晴らしいものでした。256メートルも矢を飛ばし、何と一分間に10本の矢を射ることができたといいます

一方フランス軍は傭兵や、貴族の従者が中心でした。その武器は石弓(弩)です。これは、320メートルと射程は長く強力な武器ですが、一分間に一本の矢と発射速度が低いという難点がありました。

フランス貴族は反乱を恐れ、部下の兵士に長弓を持たせなかったともいわれます。ですから、フランス軍は戦いに勝っている間はいいのですが、負け始めたり、指揮官が倒されたりしたら、たちまちバラバラになってしまいました。このような例はたくさんあるのですが、あらためてお話ししていきます。

アジャンクールの戦い(1415年) 左図 赤がイギリス軍 青がフランス軍(戦場の歴史より)

アジャンクールはパリの北、カレーの南50キロにある。

戦闘は2つの森の間のあい路でぬかるみの中で戦った。イングランド軍(赤)は装甲下馬騎兵を中央に両翼に弓兵を配置した。

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1、兵力が劣るイングランド軍は下馬装甲騎兵に弓兵を配置した

2、側面のフランス騎兵がイングランド弓兵に突撃したがや矢と杭で撃退した。

3,敗走するフランス騎兵が自軍の下馬兵とぶつかり混乱した。

4、フランス軍本体は苦戦しながら相手軍に近づくが指揮官の多くが捕虜となる

5、側面に回り込んだフランス兵は行李車両を襲う

右図 

側面に回り込んだフランス兵はイングランドの行李車両を襲い、非武装のものを殺しヘンリーの宝物を奪った。

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p73 アジャンクールの戦いを描いた15世紀後期の写本。泥だらけの耕地と森が両方描かれている。

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p208 「長弓は凄まじい武器だった。長弓兵は最初に放った矢が刺さる前に3本目の矢を放つことができた。しっかりと立つために彼らはしばしばはだしで戦った。弓を引く力をと持つためには規則的な練習が必要だった。

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2019年7月19日 (金)

高橋喜代治氏の『耕地の子どもの暮らしと遊び』続編が発行されました。素晴らしい本です。ぜひお読みください。

人間学研究所の研究員である、高橋喜代治氏続『耕地の子どもの暮らしと遊び』~旧倉尾村長沢耕地の記憶~が発行されました。

高橋氏からはすでにメールで、本が出版されたので、人間学研究所の事務局のブログ筆者のところへ送付するとのご連絡が来ていました。

本の表紙

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著者  高橋喜代治  1949年生まれ

立教大学特任教授をへて現在は立教大学や成蹊大学で非常勤講師

2019年7月15日 初版第1刷

定価(本体1500円+税)

◎大きな本で、287ページ、図版も大変多い本なのに1500円+税とはずいぶんと安い価格の本です。

発行 ブイツー・ソリューション

  〒466-0848

  名古屋市昭和区長戸町4-40 052-799-7391

裏表紙

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目  次

第1章  遊び

第2章  手伝い

第3章 耕地の暮らし

第4章 学校

第5章 食い物の話

第6章 長沢耕地と寺平・父不見山

    -寺平耕地と父不見山の名づけを追って

第7章 耕地とつつっこ

    ーつつっこの元を求めて

第8章 耕地の秩父事件

 

「こういちの人間学ブログ」

『耕地の子どもの暮らしと遊び』高橋喜代治氏の本と『人間学ニュース」の記事NO76

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/05/post-3329.html

2016年に出版された本です。

カラーの写真や地図などが8ページ最初に書かれています。

1ページ 長沢耕地の暮らしと風景

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耕地の子どもたち(昭和30年ころ)右端が高橋氏の6歳ごろ

旧倉尾村とその周辺(部分)高橋氏は長沢耕地に住んでいました

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長沢耕地(昭和30年ころ)部分(昭和30年ころ)

 

観音堂内部他

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下図 このように墨で描かれた立派な絵がたくさん添えられています。この図はフキとふきのとう

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文章の中で、興味深いところだけを取り上げてみました。

第2章 手伝い  配給通帳で米買いに、

わが家で食べていた飯は、水車で挽いた麦(7割)と米(3割)のいわゆるワリメシ(割飯)だったから、我が家の米の消費量は、たいして多くはなかったはずだ。p60

◎今、朝のテレビで「おしん」を放送している。当時の東北ではお米は地主に半分出してしまうため、自分たちの食べている飯は大根飯であった。秩父の耕地では、稲作ができず、麦だけであった。戦後でもしばらくは7割が麦の飯であったということに驚きます。麦飯でも今はとろろ飯にして少し入っている程度は美味しいのですが。麦が7割のご飯は美味しくなかったでしょう。昔の麦の押し麦は特にぼそぼそしておいしくなかったです。

わが家のお米の通帳はまだ記念にとってあります。

第5章 食い物の話

粗末だったが腹いっぱい食った。割飯に残っている味噌汁を温めてぶっかけたり、ネギ味噌をのせて沸騰した夜間の湯をぶっかけたりしてくわしてくれた。粗末なものばかりだったが、みんな似たり寄ったりだったから、そんな粗末な食生活を不幸なことだなんておもうこともない。

今でも食いたくなる、ジャガイモの田楽いも。吊るし柿、キイチゴの実。~白い米の飯には飢えていた。~甘いものにも飢えていた。

◎高橋喜代治さんは1949年生まれ、1943年2月生まれのブログ筆者とは、6,7歳年下です。戦前の生まれの分、食べ物はきびしい状況であったが、たまたま家が桶屋をやっていて、住み込みで職人さんが5,6人いたから食べ物には困らなかった。でも家族も多く、祖父母、両親,おじさん、おばさん、そして妹、住み込みのお手伝いさんがいる大所帯でした。同じ大テーブルで食べましたから、早く食べて席を空けなければなりません。それで食べるのが早くなる習慣がついてしまいました。家長たるおじいさんだけは別格で、結婚したばかりの家内が高いカニ缶などを酒のつまみに買いに行かされてびっくりしたそうです。後は全員同じものを食べます。贅沢なものを食べるなど考えられません。ご飯だけは白米でした。

第7章 耕地とつつっこ

「つつっこ」とは上州と武州国境の、上武の地にある食べ物 米(もち米とうるち米)をほうや柏の葉で包んだもの

2016年から2017年の2年をかけて、各耕地を調べて調査して1欄表にされています。

第8章 耕地の秩父事件

私の生まれ育った長沢耕地が全6戸参加していることを知った。

明治17年(1884年)困民党員を核に数百人が武装ほう起した。それに対し明治政府は1千名の軍隊を差し向け弾圧した。処分者約4千名、死刑、,戦死など70余名を出した。当時の村民はは借金の返済が困難になっていた。高利貸しのあくどさ。

長沢耕地でも全員が参加。我が家の先祖高橋宅十も自首した。竹槍、過料1円50銭。とあります。

高橋氏の謹呈に文章に、「秩父事件についても、身近な問題として,耕地からの観点で書いてみました。~幼子と妻を家に残し、児玉で政府軍との交戦で、死亡した八谷耕地の東市重(ひがしいちじゅう・31歳)という農民もいました。いきばてのまま児玉の円通寺に葬られているとされています。市重のように、困窮にあえぐ村民を見るに見かね、命をかけて戦った人々に思いをはせることは倉尾の谷に生まれ育ったもののつとめかと思ったのです。」とありました。

 

264ページ「秩父事件の激戦地」金屋野圓通寺のの円通寺横の道 (山崎)延次郎はここで東京鎮台兵と猟銃でたたかった。

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2016年12月17日 (土)

「中世の貧民」 説教師と廻国芸人 塩見鮮一郎、貧民シリーズ

 文春新書における、塩見鮮一郎氏の「貧民シリーズ」は4冊出され、3冊はすでに「こういちの人間学」ブログに書きました。しかし「中世の貧民」は、なんとなく、まとめづらくブログに書きませんでした。今回ようやく完結します。890円 +税
 書    名    出版年月   こういちの人間学ブログ
中世の貧民     2012年11月   2016年12月
江戸の貧民     2014年8月    2014年9月
貧民の帝都     2008年9月    2014年5月
戦後の貧民     2015年9月    2015年9月
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帯封に
 すさまじい貧困と差別 説教節からあぶりだされる室町期庶民の実態
帯封の裏に、
 蔓延する疾病と頻発する一揆
 遊女と奴隷を確保する人身売買
 生活のため放浪する賤民
 合戦にともなう略奪と暴行
 店を張れず、物を売り歩く行商人
 障害者を使った「人間カカシ」
 ホームレスや病者が流れ着く「こじき町」
 説教節の名作『小栗判官』を題材に、餓鬼として甦り、土車で引かれる主人公の熊野への旅を改めて検証するとともに、貴族や高僧といった上流階級ではなく、庶民の目線から見た、貧困、病、そして恋の道行き等の実態を描く。
目  次
まえがきー説教節の愉楽
1章 六根片端の男
  つちぐるまの吸引力
  中世の小田原宿
  貴種の来歴
  復讐と鎮魂の系譜
  奇想世界『をぐり』の成立
2章 魅惑の倒錯
  美人の特権神話
  獣姦を特別視しない文化
  道行の幻視
  散所・陰陽師村・声聞師村
  拷問と苦役の果て
・    
3章 中世の恋
  盲目杖に咎はなし
  乙姫はつよし、小萩もけなげ
  無謀な求婚
  なぜ人食い馬なのか
  受難の放浪劇
  人商人と中世奴隷制
4章 よみがえりの夢
  鏡の里の女たち
  逢うも別れもの関
  清水坂の雑踏
  四天王寺の摩多羅神
  熊野からお急ぎあれ
  復讐譚で物語誕生
  不具者と不治の普遍
あとがきー説教師の変遷
話のあらすじ
 二条の大納言(藤原兼家)が息子を「常陸小栗」と名付けた。放蕩無頼で、72人を離縁した。をぐりは蛇の化身と情を交わす。父親から勘当される
小栗城主は敗残の将として埋葬、しかし、閻魔大王が黄泉の国から帰す。
 しかし、蘇生したが、餓鬼すがたである。あばら骨が出て、腹は膨らみ、足はゴボウのように細い。らい病で、感覚器官がすべてだめな片端に(六根片端)。一遍の時宗の遊行上人が男の髪をそって坊主にして『餓鬼阿弥陀仏ー餓鬼阿弥』と名付けた。『この者を一引き引いたら千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と札を付ける。
 土車に乗り、首から札が下がっている。「をぐり判官」、閻魔大王の直筆で、「熊野本宮の湯峰に入れてたまわれや、」と。ひとびとは『えいさらえい』と引き立てる。-箱根越えから東海道へと進み、熊野を目指す。
 説教語り(師)は、立ったまま語る。取り巻く観衆はしゃがみ込み話を聞く。竹で作ったすりササラでさっささらさらと拍子をとる。褐色の裃を着た説教師はござの上にはだしで立つ。大きな傘をひろげる。庶民はわずかな銭を握りしめ話を聞く。当時の数少ない娯楽の一つである。説教師は語りながら、全国を回る。『伊勢のこじき』と言われるほど伊勢出身者が多かった。このような芸を売る人々は賤民と位置付けられていた。
 このような説教師は寅さんの世界につながるものです。
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今日につながる説教節は「かるかや」、「さんせう太夫」、「をぐり」、「しんとく丸」、「あいごの若」、で、五説経という。1915年森鴎外、翻案して「山椒大夫」がつくられる。
「さんせう太夫」は中央の権力が衰えた時代だからこそ存在で来たアウトローの長者。
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諸国を遊説する『念仏聖』、『盲御前』-盲目の女芸人,『琵琶法師』
一部の盲人は芸能で生活を立てた かれらは散所者といわれる
 散所は、寺社に付属して雑役に従事する人たちの土地。呪術師のいる散所は『陰陽師村」という。
 当時は多くの商人は店を張れず、納豆や豆腐、その他を売りに来る人々、行商人がほとんどであった。戦後でも、農家のおばさんが野菜などを売り歩き、担ぎ屋さんと呼ばれた。富山の薬の置き薬もあった。
芸能も渡り歩いて行う。芸能の代価ではなく喜捨として。乞食と同じようー物貰いとしての位置づけ。河原乞食とも。
 
さんせう太夫(アウトローの長者)ー安寿と厨子王 逃げ出そうとした罰として額に焼き鏝をいれる
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水田で鳥を追う『人間の案山子』の図
今の案山子は藁人形だがかっては本物の人間であった
不具者ー乞食。農村では案山子の役、手足の腱を切って人間案山子にすることもある
『鎌倉大草紙』ができたのは文明11年(1479年)のことである。これが『をぐり』に影響を与える。『をぐり』は徳川初期に記録された。正本は1675年。絵巻物、浄瑠璃に歌舞伎にといろいろに演じられて現在でも演じられている。
 常陸の国に常在した小栗家は、伊勢神宮の御厨の管理を任されていた。
茨城県の筑西市に常在
 鎌倉公方、堀越公方、関東管領などの争いー戦国時代に
 武蔵と相模の郡代・横山氏の姫 照手姫は、をぐりと会い恋に落ちる 怒った父親は照手姫を海で殺すようにという。横山氏の兄弟が助ける 横浜市六浦に漂着 漁夫の大夫に助けられるが 姥が2貫文で売る 転々と売られ、13貫文になる 彼らは役立つ間は最低限の食事などが与えられるが役に立たなくなると捨てられた。零落する
「をぐり」を横山氏のたくらみで、「鬼鹿毛』という人食い馬に食い殺させようとする。
「をぐり」は「鬼鹿毛」をてなづけける。鬼鹿毛はいろいろな芸をする。
横山氏はをぐり主従を毒殺、「をぐり」を土葬し、10人の家来を火葬にする。
「をぐり」だけが餓鬼姿で再生。
「人商人」(人身売買と中世奴隷制)売買された奴隷は賤民よりひどい暮らし。
『さんせう太夫』この題名は柳田国男により、もとの題「つし王」
だまして人買い船に連れ去られる。母とうばは北へ、ずし王と安寿の船は西へ。母は蝦夷へ売られる、二人は京都府宮津の『さんせう太夫』に売られる。さんせい太夫には5人の息子、三郎は情け知らず。2人にやきごて。姉は塩汲み、弟は柴刈り。蝦夷の母親は足手の腱を切り『鳥を追う仕事』-人間案山子に
 賤民は移動の自由があるが、買われた隷属民は全く自由がない。物や家畜と同じ。
◎付記
 人さらい、人買いは大きな産業とも言えたぐらい横行した
ポルトガル人が日本人を海外に売り飛ばす。豊臣秀吉の人身売買禁止令が出るまで続いた。
九州の諸大名は、火薬などを手に入れるため日本人婦女子をポルトガル人に売り飛ばし、その数は50万人に及んだ。
 江戸幕府も禁止したが、年貢上納のため娘を売るのは許可。そのあとも、人身売買は非合法の形で続き、人身売買禁止の法律が制定されたのは、1870年子供を中国に売ることを禁止。1911年工場法まで女性の人身売買的労働があった。第2次世界大戦終了後、売春に関する人身売買の禁止。不徹底。1956年の売春防止法それでも、現在まで続く。
・・
 照手姫の最終到着地は青墓宿。遊女で有名。照手姫は遊女屋に売られる。常陸小萩と名をつける。しかし遊女になるのをことわり、かわりに16人分の水汲みの過酷労働をさせられる。それを助ける千手観音。3年の月日が過ぎる。
 遊女屋のところで土車がぴたりと止まる。再会しているが気づかない。土車の餓鬼の札を見る。この土車を引いて夫の供養をしよう。休みをもらうように頼む。君(遊女)の長は3日のところ5日に。
 照手姫は供養のためと思い、5日の休みをもらい、狂女のふりをして、をぐりと知らず縄を引く。期限が来ての二人の別れ。
逢坂の関、大津の関蝉丸神社には旅人がひきもきらない。
琵琶法師の守護者 蝉丸神社 諸芸道の聖地
京都清水坂の非人 1000人も集まっていた。
1割から2割がらいしゃであった。らいしゃは物乞いに出る。らい者の監督、犬神人
犬神人は頭をそり、柿色の衣をつけ、白い覆面をしている。
喪送の権利を独占
「六道の辻」の先は鳥辺野の葬送地 清水寺の近く
貧困者の死体は埋葬もされない
大阪、四天王寺の参道は貧民の解放区
難路の大辺路を行く 熊野街道は小栗街道ともいわれる
「をぐり」は熊野の湯峰温泉へたどりつく、病は快癒
父兼家を訪ねる
美濃の国司となる
常陸小萩=照手姫との再会
横山氏の三郎と人買いに売った老婆への復讐
復讐へと続く
◎『貧民シリーズ』のなかでも中世の貧民はすさまじい。貧民は死んでも埋葬もされず、打ち捨てられた。確かに現代の日本はその時代に比べればましである。
 しかし、12月19日の毎日新聞の1面トップは、「最低賃金未満5%超」今年度、東京大阪の中小という記事であった。ルールを無視した低賃金労働が蔓延していると。最低賃金が生活保護の基準となっている。その基準以下の賃金がまかり通っているということだ。
 低賃金のもととなる非正規労働者の割合は増えている。
 一方,安部首相は外国に派手にお金をばらまいています。この前ロシアのプーチン大統領が来日しました。経済協力で日本から60件、3000億円の経済協力のお金を出す約束をしています。パーティーには日ロの経済人900人が参加したそうです。そのお金には日本の大企業がくっついて潤っています。しかし、領土問題でいい返答を得て、その勢いで解散総選挙という目論見は外れました。それなのに、マスコミを支配し、高支持率を得ているのが実態なのである。
 小栗判官の場所は茨城県筑西市、栃木県に接し平坦で、農業が盛ん。近年人口は減りつつある。現在人口は10万人。小栗判官祭りが行われている。
 

2016年7月 9日 (土)

白人中心主義の歴史観批判。岸田秀氏の史的唯幻論とバナールの『ブラックアテナ』

はじめに
 前に書いたブログで、岸田 秀氏の書かれた本『史的唯幻論で読む世界史』を読み終えたのと、7月5日に、エジプト文明について何か参考になるかと思い、池袋の「古代オリエント博物館」にも行ってきましたので、自分なりの見解を書いてみることにしました。
 前に書いた「近況、1史的唯幻論で読む世界史」にこの文章を書くきっかけを岩城正夫先生から、いただきました。岩城氏と岸田秀氏は年齢も同じくらい同じ和光大学の教授をされていて親しくされたおられたということです。
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 原本は2004年から連載された『大航海』(2004年~2006)に大幅に加筆修正し2007年に新書館から『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』として出版され、2016年1月に講談社学術文庫に名前を変え収録されたものです。
 その『史的唯幻論で読む世界史』(定価980円税別)には、帯封に「嘘だらけのヨーロッパ製世界史を撃つ!」、「古代ギリシャは黒人の文明であり栄光のアーリア人は存在しなかったー」とあります。また裏表紙には、「ヨーロッパが語る白人中心主義の歴史観が彼らの誇りを支え、今なお世界を覆っている欺瞞と危うさを鮮やかに剔抉、その思想がいかにして成立・発展したかを大胆に描き出す。史的唯幻論が、白人によって作りあげられ「幻想の世界史」であるかを鋭く告発する。という言葉が本書の狙いをよく表しています。
 岩城先生からいただいたお葉書には先日お送りした筆者が人間学研究所でお話した内容の、『どこまで人間と見るか』のレジメに対してのお礼の言葉とぜひ論評してほしい本があります、ということで『史的唯幻論で読む世界史』を紹介していただきました。岩城先生のお葉書には「この本は、初めあまりに大胆すぎると思い疑問に思ったのですが、今は考え直して真剣に取り上げるべきだと思うようになりました。しかし全面的には肯定しきれない部分があり結論を出しかねています。それで筆者に目をとおして感想をお聞かせく ださいとのことでした。
 筆者の『どこまで人間と見るか』において、ヨーロッパ人が、南米のインディオやオーストラリアのアボリジニをはじめ「人間」と見ないで、平気で殺してきたこと、その後も様々な人種差別を現在までも繰り返してきたことを書きましたので、丁度岸田氏の説との共通性を見られたのだと思いました。
◎「どこまで人間と見るか」その2 2016年5月19日人間学研究所合同例会資料から
 インディアンやインディオに対して
 1492年、コロンブスのアメリカ大陸と「インディアン」の「発見」
 1521年 スペイン人、コルテスアステカ王国を滅ぼす
 1533年 スペイン人、ピサロ、インカ帝国を滅ぼす
 1537年 ローマ法王がアメリカインディアン(インディオも)アダムとイヴの子孫だと認めた
       -それまでは、人間ではないから、殺してもいいことになる
  1700年 アメリカ北東部のインディアンは混血していないことにした
 1783年 イギリス、インディアンの土地を勝手に合衆国に割譲
 1890年 アメリカインディアン、ウンデッドニ―で虐殺
       その後も差別と抑圧は続く
 アボリジニ対して
 1788年 イギリス人、オーストラリア原住民を「発見」その当時の人口50万人
 1828年 イギリス兵士に、アボリジニをスポーツの対象として、自由に捕獲、殺害する権
      利を与える 人口は90%減少
 1876年 タスマニア原住民絶滅 (有袋類は保護するのに)
 1931年 混血のアボリジニを親から離す政策
 2008年 労働党政府が謝罪しかし保守党は認めず
 インドのカースト制度、ダリット(カースト外)1億人
 日本、朝鮮における、非人、白丁
 アフリカのピグミーに対しての食人行為-人間と見ない
 白人による執拗な人種差別や優生学
 
 『史的唯幻論で読む世界史』を読み、またインターネットで資料を読みある程度、自分の 考えがまとまったので書いてみようと思いました。岸田秀氏の説はいろいろな面で納得できるところが多いのですが、部分的に、これは間違いではないか、というところがあります。具体的にこれから書いていきたいと思います。
なお、本の要約を書きましたが、◎の部分はブログ筆者の感想です。
1、差別が人種を生んだ
  差別が先で人種が後である。
ご存知のように人類は家畜である。人類は自己家畜化の結果、家畜になったのである。人類が、人類自身の何らかの理由によって、人為的に特殊化された結果、成立したのが人種である。
 人類自身が人類発生以来一切の人種的偏見を持っていなければ、あらゆる人種が自由に混交し同じようになっていたであろう。
 「一神教vs多神教」(2002年、2013年朝日文庫)という本を三浦(雅士)さんとともに出版した。そこでの歴史仮説。高野信夫氏の「人種の起源―黒人―白人―黄色人」(三一書房)に基づく。最初に発生した人類はアフリカの黒人種であった。そして白子、アルビノ説、が提唱されました。そしてこの説以外に黒人から白人が発生した理由を説明できない、としています。白人は奴隷であった、モーゼの出エジプトでエジプトから追い払われる。
 4重の被差別がアメリカを攻撃的にした。
 アメリカ人は1、エジプトで差別されパレスチナへ、2、ユダヤ人はローマ人に差別され、3、キリスト教徒はユダヤ人から差別され、4、キリスト教徒から差別されたピューリタンによって作られた国である。4重の被差別のどん詰まりの国アメリカ。そうでないと先住民に対する残虐さは説明がつかないと。岸田氏の歴史仮説はアフリカの黒人に追っ払われた白人のヨーロッパ人とエジプトの黒人に追っ払われた白人のユダヤ人という2つの前提に立っており、この2つの前提を出発点としている。p13
 マーチン・バナールの「黒いアテナ」1987と「黒いアテナ―批判にこたえる」2001 
 岸田氏はエジプトが黒人の文明ではないかと思っていたが、バナールのギリシャ文明も黒人の文明である、という説に驚いた。バナールの説に基づく2冊の本とその批判の書について。岸田氏の仮説は差別が先で、人種が後である。人類に人種が発生したのは、人類が人種にこだわっていたからで、人種が存在するのはこだわっているからである。
 白人種は人為的にしか成立しえない。白人種は不自然な人種差別の結果人為的に製造された。白色人種の黒人に寒冷地に追っ払われた恨みと、それに対する復讐、失地回復の要求を動機としているのではないか。
 ◎この説に関していえば異論があります。自己家畜化論は人間学研究所の名誉所長小原秀雄氏が主張し、総合人間学会でも一世を風靡した考え方です。ただ筆者は自己家畜化論に関していえば、一定の評価すべきものはありますが、人間の本質を明らかにすべきものとまではいかないような気がします。これについては改めて書くことにします。
 筆者が人間学研究所の例会でお話した、『ネアンデルタール人について』で、どうして、現生人類が白い肌と青い目の色を獲得したかをお話しました。ペーボはネアンデルタール人の全ゲノムを解析しました。そして現生人類はアフリカを出て中東からヨーロッパに進出した時にネアンデルタール人と交雑し、日光が弱い地域に適応するように遺伝子を2%ほど獲得し白い肌や青い目などになったということを明らかにしました。その証拠が遺伝子が現生人類のヨーロッパやアジアの人類には取り込まれ、アフリカの人々にないことが明らかになりました。人種は地域特性によって生じたもので、差別が人種を生んだという仮説まではは成り立たないように感じます。
2016年7月13日 追記
 岩城先生からお手紙をいただきました。岸田秀氏の本の岩城先生の疑問点も、同じようなことだったようです。いただいたお手紙の内容をご紹介します。
「私(岩城先生)が何より1番疑問に思ったのは白人が「白子」の子孫だという点でした。岸田さんの本を見たとき、何も白人たちを「白子」の子孫にしなくても、寒い地方に行けばだんだん色が白くなるのではないか、例えばサルの肌の色(南方のサルたちの皮膚は結構黒いのが多いのにニホンザルなどは肌の色はピンク色というか)は生息する緯度によって違うのではないか、白ウサギの肌もピンク色だし、シロクマの肌の色も白っぽいようだし、哺乳動物の肌の色も生息する地域によって、つまり寒い地域では色が薄いのではないかなどと思い、動物学専門のブログ筆者に聞いてみるのが1番かと思った次第です。ブログには白人の遺伝子のことまで論じておられて白人の起源について解明されていることがよく理解できました。ありがとうございます。
 お手紙に同封された、故鶴見俊輔さんが書かれたことのについて、新聞記事のコピーをいただきました。岩城先生とその息子さんである有名な漫画家、岩明均氏のことが日本がアメリカの植民地化した思想、学問状況の中で、親子二代にわたってユニークな取り組みをされているという内容です。これは違うブログでご紹介します。
「こういちの人間学ブログ」2015,8,14
「ネアンデルタール人について、図像の変化、赤い髪、白い肌、イメージ大きく変わる」
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国立科学博物館のネアンデルルタール人の復元図、最初の想像図と大きく変化しています
 興味深いのはネアンデルタール人の遺伝子が、現生人類に取り込まれて、白い肌や青い目、毛深い性質などがアフリカ人以外に取り込まれている、ということが明らかになるにつれ、ネアンデルタール人の想像図が大きく変わって、現生人、特に北ヨーロッパ人に近い形に変わってきているのは面白いことです。同じ頭蓋骨からの復元でもこんなにかわるものかとおかしくなります。
 マーチン・バナールは『歴史における科学』を書いた,ジョン・デズモンド・バナールの息子さんです。『歴史における科学は』4巻(原著1954~、邦訳1966~)筆者が学生のころ、感激しながら読んだ懐かしい思い出があります。著名な物理学者ですが、平和運動に取り組み『歴史における科学』のような歴史書を書きました。平和運動に取り組み欧米の独善的な態度に対しての批判的態度などは、親子して、歴史の専門家ではないのに、とか非科学的だとかいろいろあげつらって批判攻撃する学者や批評家が多い。日本ではトンデモ本扱いする人たちもいる。
 
2、古代エジプト人は黒人だったのか
 史的唯幻論の前提となっている2つの仮説、一つは出エジプトの白人奴隷の話と、もう一つはマーチン・バナール氏の仮説である。
古代ギリシャ文明についての3つのモデルがある
1、古代モデル、紀元前1500年ごろエジプト人、フェニキア人がギリシャに侵入し植民した。
2、アーリアモデル ギリシャの文明は北方から来たアーリア人が独自に開いた。
3、修正古代モデル、バナールの説、エジプト、フェニキアが植民したのはBC2000から1500年ごろだが、その前にBC4000年3000頃に北方から白人系の人種が侵入してきたことは認める。その後も続々とギリシャに入ってきたことを認める。昔のギリシャ、ローマ、ヨーロッパ人はエジプト文明から多大な影響を受けたことを認めた。しかしヨーロッパ人の人種差別的優越感が強くなり古代モデルは否定された。
古代エジプト人は黒人だったのか
 7000年来、エジプト人はバナールによればアフリカ人、南西アジア人、地中海人などで構成されてきており、ナイル川上流の南に行くほどより黒い二グロイドの人たちがいた。古王朝、中王朝はアフリカ的要素が強い、ヘロドトスは「黒い肌と縮れ髪」と記述している。しかし黒人といってもいろいろな変異がある。いずれにしても、ヨーロッパ文明の始まりは非白人の文明であったという。
◎池袋の古代オリエント博物館の古代エジプトの男性の画像は、赤銅色の肌と縮れてへばりついた髪をした像であった。
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「古代オリエント博物館発行の「なるほど!古代エジプト」より
 エジプト新王国時代前1500-1400年ころ、褐色の肌、細かい巻き毛の髪など黒人の特徴が出ています。古、中王朝にはより肌が黒い、黒人のファラオがいたらしい。
◎黒人といっても大きな変異があり、赤道西アフリカ周辺は真っ黒な肌と頑強な体で短距離走に向いていて、東アフリカでは、ケニアやエチオピアの人々のようにほっそりとして褐色の肌、長距離走に向いたからだの人が多い。エジプトでもナイル川上流には、ヌビア人が多く住み、一時期古代エジプトのファラオを多く出したりもしている。
3,、「黒いアテナ再考」を読む
 バナールはかってギリシャは古代エジプトの植民地であったし、ギリシャ文明はエジプト文明およびフェニキア文明の亜流であったとするバナールの説はヨーロッパの学会、思想界に大きな反響と反発を巻き起こした。それに対しての批判。
 『黒いアテナ再考』、レフコヴィッツ、ロジャース編 1996年
バナール説に対する批判や反論を20ほど集めたもの。
ジョン・ベインズの批判-バナールはヨーロッパ中心主義に陥っている?
キャサリン、バードの批判-バナールは人種差別的誤解を深める?
フランク・スノーデンの批判―バナールのアフリカ中心主義は行き過ぎか
ベルミュールの批判―バナールの主張は根拠薄弱か
などである。各章に詳しく批判とばなーるの反批判が載せられる。
◎ヌビア人について
エジプト南のアスワンからスーダンにかけて多く住む人々、もともとはエジプトとヌビア人は同じ祖先からはじまった。
 エジプト25王朝BC747-656、3人のブラックファラオ、ヌビア人の王朝があった。
 現在でも100万人ほどが住んでいる
4、唯幻史観と「黒いアテナ」
 戦中、戦後の日本をどう見るかに関して、皇国史観、東京裁判史観、(ソ連式)左翼史観などがある。3つの歴史観はともに手前みそ史観、あるいは自己中心主義の歴史観と言えよう。それに対して、経済、政治、、軍事、社会こそ幻想の産物ではないか。人間はどうしてそのようなことをする必要があるのかいくら考えてもわからないことばかりしてきているではないか、と考え、それを岸田氏は唯幻史観あるいは史的唯幻論と称した。
 ユダヤ民族はローマに対して2度の大きな反乱を起こすが、多大な犠牲者を出して失敗
(一神教は中近東地方に生じた一種の風土病のようなもの)
差別された白人、セム族がユダヤ人となった。ユダヤ教からキリスト教が生じた。
 イエスは神の国における救いを説く、愛を説いて内面を重視。ローマ皇帝に税金を払ってもいいしローマの神々に頭を下げてもいい。イエスについていれば、ユダヤ人はローマ人の要求に外面的には従いながら、内面は敬虔な信者であることができるようになった。
 ユダヤ教は天国とか死後の世界認めぬ。救いは現実の世界のものでなければならぬ。
ローマ帝国で普及したキリスト教は、イエスというよりパウロが作り、キリスト教をローマ帝国に広める。その後キリスト教はローマ帝国の国教となった。キリスト教が普及したのはローマ帝国が権力をもってキリスト教をヨーロッパ人に押し付けたからである。キリスト教への反発のスケープゴートとしてのユダヤ教徒はローマ帝国とキリスト教徒の二重の差別を受ける。キリスト教徒は先祖伝来の信仰を裏切ってローマに迎合し、うまく立ち回り、いつの間にかローマを乗っ取った卑劣極まりない連中であるという見方もできなくはないであろう。
◎しかし第2次世界大戦以後、ユダヤ教信者およびイスラエルは、英米を中心とする国際的な資本の動きの中で、きわめて強い力をもち、一方においてはロスチャイルドなどがアメリカ経済の実権を握り、政治まで動かしている。現在ではイスラエルがアラブ諸国民を抑圧している。欧米の大資本により苦しめられている庶民、その大資本をつかんであるユダヤ系資本、そしてイスラエルにより追い出されたパレスチナ住民、これらが、ユダヤ民族に対しての憎しみのもとになっている。
5、ギリシャを作ったのはエジプトか
 バナールは、古代ギリシャ語の語彙の4分の一がセム語に由来し、5分の一から4分の一がエジプト語に語源があると考えて間違いなく、ギリシャの神々の名だけでなく、多くの地名もエジプトやカナンから来ていると主張しているが、コールマンが反駁する。
 再び「黒いアテナ再考のバナール批判」にもどる。
 バルターは「黒いアテナ」はヨーロッパ人の文化的傲慢さをたしなめることにある。
バナールを一部持ち上げるが、バナールを批判する。それに対しての『黒いアテナは反駁する』(2001年)でバナールが反論する。
ジョンコールマンの批判-バナールは独断と偏見で近代ヨーロッパの古典学を丸ごと論難したがっている。
バナールは歴史観の証拠立ての弱さがあるとーバルターの批判
これまでのヨーロッパ人のヨーロッパ文明起源神話ではギリシャ―ローマ―ヨーロッパ―アメリカの系列は語られているがギリシャの前のエジプトとフェニキアが忘れられている、というのがバナールの言いたいことであり、ローマの前のエジプトとイスラエルがないがしろにされておりローマとヨーロッパのあいだのアラブが無視されているというのがわたし(岸田氏)の言いたいところである。
◎ローマ文明が滅び、その成果はアラブ諸国がうけついだ。ヨーロッパ諸国は中世の暗黒時代を迎える。ルネッサンスではアラブに保管されていた文明が注目され、ヨーロッパに取り入れられた。
アラブの方が科学的に優れていた例としてリチャード王の十字軍の剣は、ごつくて重く叩き壊すようなものであったが、アラブ側サラディンの剣は上に置かれた薄いスカーフが切れるように切れ味が鋭かった。いろいろな医学的な知識もアラブで温存された。アラブ側の方がけがの治療が進んでいた。
代数や三角法の活用など優れた数学。アラビア数字の活用、アルカリ、アルコールなどの言葉はアラビア語に由来する。化学の発展、光の原理(反射で見えるなど)これらがルネッアンスのときに見直されるようになった。
6、ヨーロッパ文明は人類最高の文明!?
 ジェンキンスの批判「黒いアテナ再考」中の「バナール と19世紀」における批判
現代の豊かなヨーロッパは非ヨーロッパ民族の搾取のうえに成り立っている。にもかかわらずジェンキンズのようなことをヌケヌケと言うヨーロッパ人がなぜ存在するのであろうか。
 バナールがジェンキンスと違うところは、ヨーロッパ人の文化的傲慢をたしなめるとかの自分の目的に明確に表明し、そのためにバイアスがかかっている可能性を素直に容認したうえで「19世紀の思想的潮流のほとんどは人種差別主義や様々な種類の悪意に支配されていた」ことをも指摘し、自分と相手との論争のは、具体的、客観的資料によるとし、それが不十分な時は説得力に頼らざるを得ないとしているところである。
古代モデル追放の理由
 ヨーロッパ文明の源泉はエジプトではなくギリシャであるとした外部的影響。
1、キリスト教的反動、2、進歩思想、3、人種差別主義、4、ローマン主義的ヘレニズム
 それぞれについてのジェンキンスのバナール批判
 手を変え品を替え、いろいろなことにかこつけて、飽きもせず懲りもせず、ヨーロッパ人が他の人種より優れていると、同じことを執拗に繰り返し、言い続けるから、ヨーロッパ人にはそういわざるを得ないよほど強くて深い動機があるに違いなく、その動機についてはすでに論じたことである。
◎岸田秀氏によれば、ヨーロッパ人がずっと差別を受けてきたこと、の反動として,自分たちの優秀さをことさらに強調していたということ。
7、屈辱の連鎖としての歴史
史的唯幻論の仮説p141
 史的唯物論のように経済的要因とかで歴史が決定されるとするのではなく、民族や国家を最強の動機は屈辱の回復である。差別された屈辱に反発して、屈辱を克服するためにべつの誰かを差別し、今度はその新たに差別された屈辱に反発し、さらに別のものを差別するという、差別と屈辱、それへの反発の連鎖が歴史を形成するという仮説である。
最初の被差別民族としてのヨーロッパ民族
歴史的にヨーロッパ民族は、非ヨーロッパ民族にさんざん差別され攻撃され虐殺され続け、また逆に非ヨーロッパ民族を差別し、攻撃し、差別し続けた民族である。
 ヨーロッパ民族ほどの攻撃性を持っておらず、無警戒、不用心だった非ヨーロッパ諸民族はいとも簡単に征服され植民地化され、搾取された。
ヨーロッパ民族のアジア到達と日本の反応
 日露戦争は白人の侵略を押し返したアジア人の最初の偉業だった。
しかし戦争に負け、残念ながら、日本は名目的には独立しているが事実上アメリカの占領下にある。
 アジア解放史観とアジア侵略史観。中国はかっての大日本帝国の役割を演じ始めているのではないかという疑わせるに十分である。
アメリカと中国
 アメリカの対アジア政策は日本と中国を仲たがいさせておくことを主眼としている。
大日本帝国の成立と靖国神社
 遠い昔に発する欧米諸国のアジア侵略の衝撃が近代にいたってついに日本に及び、その衝撃にに対する反応として大日本帝国が成立し、靖国神社は大日本帝国を支えた様々な機構の1つであった。
 アジアへの欧米の進出が進歩する人類の歴史の必然的1段階であり、欧米、特にアメリカのアジア支配が全面的に正しいならば、それに反発して、大日本帝国をきづいて反撃した日本は全面的に誤ったことになる。
 しかし、私から見れば一般的に言って欧米諸国のアジア侵略はアジアにとってはなはだ迷惑なことであった。
 日本は正義の観念に取りつかれてその狭隘な観念にそぐわないとして本来ならば、味方につけるべき他のアジア人を敵に回し日本人だけでアジアを開放できると誇大妄想におちいったのである。
自らを正義の味方とうぬぼれてアメリカの策にはまり、味方として不可欠な中国を敵に回したからであった。
◎経済的要因で歴史の根本が変革されていくという、史的唯物論は有効である。しかしながら、以前の硬直したスターリンや毛沢東などの歴史観はいろいろな過ちがあり、実際の政治で多くの人が弾圧され苦しんだ。
 3年かん3回沖縄に行ってみましたが、事実上アメリカの占領状態にあることがよくわかります。また東京周辺でもたくさんの米軍基地があります。日本の自衛隊も事実上アメリカ軍の指揮下にあることがよくわかります。
8、ヨーロッパ製世界史の欺瞞
Mリベラニ「産湯と赤ちゃん」、CMロジャース「多文化主義とヨーロッパ文明の基礎」の批判
バナールはアフリカ、アジア中心主義に偏りすぎている、との批判
人種差別主義の陰謀
アーリア・モデルの成立
岸田 秀氏の考え
 バナール理論が、アーリアモデルを決定的に打ち崩したので、バナールの批判者たちは、もはやアーリアモデルを弁護することはできないと諦めたものの、バナール理論の欠陥や弱点をいろいろ持ち出して反撃しているわけである。
 バナールは修正古代理論において、アーリア人の役割を認めているが、アーリア人というのは1つの神話であり、日本の天孫降臨と同じく、1種のファミリーロマンではないかと、、要するにアーリア人というのは架空の存在ではないかと考えているからである。(アーリア人というのは、インド=ヨーロッパ語族)
 ルネッサンスというのは再生であるが、ルネッサンスというのは詐称である。ギリシャ=ローマ文化の再生という意味だが、ヨーロッパ人の祖先はヨーロッパの森で未開野蛮な生活を送っていた。。近代ヨーロッパ人は他民族、それもアラブ人を仲介して輸入したのであった。(近代ヨーロッパ人といっても特にゲルマン人やノルマン人などの北ヨーロッパの人々-ブログ筆者)
 問題はヨーロッパは欺瞞と隠ぺいに訴えてまで、文化的傲慢を維持することを必要としたのかということである。
9.唯幻史観と科学的歴史
バナールの反論『黒いアテナは反駁する』(2001年発行、大冊の書)による、ベインズらに対する反論
バナールは問題はキリスト教文化以外を認めないヨーロッパ中心主義、人種差別主義にあるという。
エジプト人は黒人か
新大陸においてキリスト教徒でないものは人間ではないと差別したように、近代ヨーロッパ人は非ヨーロッパ人を理性を欠いているとみなして差別したのであった。p180
黒人は文明を創造したことはないなどと常々言われてきた。
アメリカやヨーロッパでは32人の曽祖父母に1人でも黒人がいれば黒人とするとされた来た。19世紀や20世紀のイギリスもしくはアメリカに古代エジプト人が現れれば「白人」とみなされることはほとんどないであろう。
10、日本兵と唯幻史観
 ヴェルミュールの批判(「世界がひっくり返った」)に対してのバナールの反論
 史的唯幻論も公正無私な普遍的な立場に立つ思想でなく、わたしの個人的経験を動機としている。
 死んだ日本兵のイメージが~大挙してわたしのなかに押し寄せてきてそこに住みついてしまったので、私は、、彼らがなぜ死んだのかの理由をなんとか説明し理解しないでは、この世の中でどうにも落ち着けないのであった。考える過程で自ずから形成されたのが史的唯幻論である。私は史的唯幻論を普遍的理論だと思っていないがヨーロッパ中心論者はそう思っているらしいという点である。
 ヨーロッパ中心主義はヨーロッパ人には都合がいいが、ヨーロッパ人以外にはこれまで甚大な被害をもたらしたし今も及ぼしているし、人類全体にとっても地球にとっても好ましくないので、見捨てておくわけにはいかないであろう。
 未開の人々の生活を、実際に共に暮らしてみると、不合理なタブーにとらわれ、食うや食わずのみじめな生活をしていると、思われていたのが、間違いだとわかった。のんびり、ゆったり豊かな生活をしことがわかった。
(白人支配者が入り込んで、搾取が始まり、みじめな暮らしが始まる)
 ヨーロッパ製大航海は難民、出稼ぎ人の海外荒らしであった。
11、人種差別主義と反ユダヤ主義
 M,ロジャースに対するバナールの反論
 よくあるパターン。バナールの説を全く認めないわからずやではないが、全面降伏するような骨なしでもない。
 バナールによれば、「黒いアテナ再考」の執筆者と同じく、またもやロジャースはバナール理論を攻撃するために彼の主張を誇張し単純化して攻撃しやすい形にゆがめているとのことである。
 言語の問題に関してもギリシャ語は基本的にはインド・ヨーロッパ語であって、ただ2つのアフリカ=アジア語、すなわち古代エジプト語と西セム語から大々的に語彙を借りているいると言っているだけだ、とバナールはいう。
 大英博物館の重要な展示品のほとんどは他民族、他国から詐取または強奪してきた盗品である。
 ロジャースはバナールがバナール理論を作ったのはユダヤ人だからであるという。
 バナールが古代エジプト人がアフリカ人であることを強調するのは、エジプト人をアジア人またはヨーロッパ人と誤解している向きがあるからである。エジプト人と東アフリカ人や北アフリカ人との間に生理学的なつながりがあるということである。
 古代エジプトがエーゲ海など周辺の諸民族に「宗主権」をもっていた。かれらは貢物をささげに来た。
12、白人とアーリア人
 岸田氏が白人にこだわっているのは白人に対する劣等感があることを示している。
 岸田氏の個人的な事情も絡んでいるかもしれない。子ども時代捕虜収容所で見た卑屈でだらしない捕虜たちを見て白人は劣等人種と思った。それが敗戦で真っ逆さまにひっくり返った。
何人かでアメリカの陸軍将校の家で英会話を教えてもらった。彼はオンリーさんと暮らしていた。日本女性が慰安婦としてアメリカ兵に仕えているのを身近に見たことは、何か屈辱感のようなものをわたしに感じさせ、それがトラウマになっているのではないか。
 白人にこだわるのは、偏見と劣等感との葛藤を何とかしたいというのも1つの理由かもしれない。
 白人とは何か 白人と非白人の境界は、時代、場所、人によってかなり変動するらしい。そもそも、人種差別に基づいて白人と非白人と区別され始めたのは近世ヨーロッパ人が他国、他民族を植民地化し始めてからのことであって、植民地主義を正当化するために白人という概念が形成されたのではないかと思われる。同じ対等な人間である虐待したり搾取したりするのは気が引けるが、劣等人種なら別に構わないという意味で、人種差別主義は植民地主義を支え、補完するため、良心を麻痺させるために必要だったのだろう。
 日本人が自分たちを黄色人種と思っているが、実際に肌が黄色いわけではない。
 白人の概念が変動してきた。インドでは貧乏な白人は生物学的には白人でも、白人ではない。白人とは人種差別主義の産物なのである。
アーリア人種
 最も過激な人種差別主義はやはりナチスドイツのアーリア人種至上主義であろう
 アーリア神話は日本に伝えられいまだに事実と信じられている
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◎図版は「詳説世界史図録」2014年3月、教科書副読本 山川出版社
アーリア人BC1500年ころパンジャーブ地方侵入、BC1000年ころガンジス流域に侵入とある
 日本の教科書 2003年山川出版社のもの「詳説世界史」
インド・ヨーロッパ語族、アーリア人は存在したか
 アーリア人の発祥の地がバラバラで二転三転するのも不信を募らせる。インド人は100年も前から「アーリアン学説虚構説」、を唱えているそうだ。
 アーリア人は存在したのか」津田元一郎「アーリアンとは何か」西欧の植民地支配とかかわっている
 イギリスの常套的な方法。植民地を分割して統治する。北部の人たちを同じ白人のアーリア民族とし、南部の黒い肌のドラヴィダ系住民と対立させるため。
 ドイツとアーリア神話-アーリア神話はキリスト教の支配を打倒しようとするゲルマン民族がよりどころのした神話ではなかったかと考えられる。
 ドイツは純粋なアーリア人なので金髪・碧眼であるが、インドに侵入したアーリア人はドラヴィダ人と混血して少し黒い肌、黒い髪となったというように表現する。
 アメリカでは白人の範囲はもっと込み入っていて、初めは、イギリス系だけが明確に白人とされていた。アイルランドはイギリスの植民地、アメリカに来たのは食い詰めた下層階級。イギリス系に差別され黒人と大して変わらぬみじめな状況に置かれたが、黒人とは違うことを強調し、黒人差別を強め白人にのしあがあった。はじめ、ポーランド、イタリヤ、スペイン人は白人かどうかあいまいであったが黒人アジア人と差別する必要から白人に組み入れられた。イギリス系だけが白人であった名残りはWASP幻想としていまだに残っている。南米からのヒスパニックは本人は白人と思っているがアメリカではなかなか認められない。
ヨーロッパの歴史とアーリア神話、ヒトラーとアーリア神話
 アーリア神話はゲルマン民族の誇りを守るためにはうってつけの神話であった。ゲルマン民族中心主義。清らかなアーリア文明とけがれて不潔なヘブライ文明がある。第1次大戦に負けたドイツ、アーリア文明の危機。ヒトラーの登場。アーリア民族、ゲルマン民族至上主義。ユダヤ民族を絶滅させる。ホロコースト。ロマ人なども。
アーリア神話と出エジプト
 インド・ヨーロッパ語の発見 アーリア人の表記、アーリア神話の利用
 アーリアンが西北インドからインドに侵入し、原住民を駆逐し、古代の輝かしいインド文化を創造したというアーリアン学説は、インドに対して、格別な文化工作的な意味を持っていた。インド人の祖先アーリアんもイギリスと同様に、インドに植民地的侵入をしたのであり、イギリスも同じことをしただけである。イギリス人と上層インド人はもともと同一種族であるということにより、上級階層をイギリス側に引き寄せる~
 イギリスの植民地支配は単に軍事力だけでなく、思想戦略が情報操作をするのがいかに巧妙であったかがわかるであろう。
 両言語が同系であるとしても、サンスクリット語をしゃべっていた連中とギリシャ語をしゃべっていた連中とは同じ人種だということになるのであろうか。
 ネアンデルタール人が存在したことを示す考古学的な証拠はたくさんあるが、アーリア人が存在したことを示す考古学的証拠はどこにもない。
 いずれにせよ、アーリア神話は話がうまくできすぎている。私の説も推測に過ぎないが、アーリア神話も私の説もともに、文献的証拠はもちろん、考古学的な証拠もないという点では同じなのである。アーリア神話と私の説ではどちらが説得力があるであろうか。
あとがき
 戦争に負けて、日本兵の崩れた死体の写真などを見て、憂鬱になり寝込んだりした。
いろいろ資料を読み、なぜこの戦争が起こったのかを考え、日本史、アメリカ史、世界史へと移っていった。
 東京裁判史観-アメリカ帝国主義―ヨーロッパ中心主義。ヨーロッパ文明とは何かに行きつく。
 ヨーロッパ文明が最高の文明で、アメリカの世界支配が当然。そのような世界史とは何か。欧米人から教わったコマーシャルである。欧米製世界史には嘘が多いのではないか。
 本書はコマーシャルはコマーシャルに過ぎないという単純な事実を炒っているに過ぎない。ただ日本の高校世界史教科書の編集者に、欧米文明を宣伝する欧米人のコマーシャルを頼まれもしないのに無料で広報してあげることはないのではないかということは言っておきたい。
◎このあとがきに岸田 秀氏の言いたいことは凝縮されている。この本は、人類の起源に関しての誤った記述などはあるにしても、基本的に正しいことを言っていると思います。特に日本がアメリカのある種の属国で、日本政府もその意のままに操られているということ、そして日本国民も考え方の基本もアメリカの意のままに操られているのを見るにつけ、そう思います。この岸田氏の本をトンデモ本扱いして入り人もいますが、虚心坦懐に今の日本の、そして世界の現状を見直してみる必要があると思います。
 能力不足と、時間不足で十分に読めなかったものですが、現時点で一応ブログを書いてみました。まだまだとても不十分です。これから、徐々にに、よりしっかりと追加して書いてみたいと思います。
 最後に、大変興味深い本を、ご紹介していただいた、岩城正夫先生に心より御礼申し上げます。
資料
2016,5,8「こういちの人間学ブログ」
 人間学研5月例会「どこまで人間と見るか、その2」
2015,10,15「こういちの人間学ブログ」
 「ネアンデルタール人と私たち人類」
2015,9,16「こういちの人間学ブログ」
 ネアンデルタール人と私たち人類・リンク集」
2015,8,14「こういちの人間学ブログ」
 ネアンデルタール人について図像の変化,赤い髪、白い肌イメージ大きく変わる
 

2016年5月29日 (日)

「耕地の子どもの暮らしと遊び」高橋喜代治氏の本と、「人間学ニュースの記事

 立教大学の特任教授で、人間学研究所員である高橋喜代治氏に、2016年4月の人間学研究所の合同例会でお話していただきました。そのことは、すでに、このブログで、お伝えしておりました。改めて高橋喜代治氏より「耕地の子どもの暮らしと遊び」~旧倉尾村長沢耕地の記憶、発行、ブイツーソリューション、本体価格1000円+税、が送られてきました。本とともに毎日新聞の「火論」の記事と手紙も添えられていました。どうもありがとうございます。大変素晴らしい本の内容なので、このブログで皆さんにご紹介します。またおもしろそうだなと思いましたら、ぜひ直接お買い求めください。

 

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本の表紙です。大判の立派な本につくられています。

 

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昭和30年ごろの長沢耕地の地図大きな地図の左半分です。絵の上の方に高橋喜蔵さんの家があります。筆者高橋喜代治さんの家です。記事とともにたくさんのすてきな図版が載せられており、それも素晴らしいものです。

 

目  次

 

はじめに  

 

 昭和24年に長沢耕地で農家の二男として生を受けた。耕地とは農業を営む集落のこと・だ。この本を出すことを思い立ったのは、耕地で生を受けた私の経験をとおして、1人の人間の育ちと育んでくれた人々の面影を残しておきたかったからである。

 

(項目すべてを書きませんでした一部だけ書きました)

 

第1章 遊び P7

 

 遊び道具はほとんどが手作りである

 

 1、うまのり

 

 2、ぶっつけ(メンコのこと)

 

 3、三角自転車乗り

 

 4、釘ぶっとうし、(くぎ打ち)ビー玉

 

 5、ぺっことしゃ(蛙)と麦わら (新潟では蛙のことをゲル、オタマジャクシをゲルマンコと いった)

 

  6,かぞがらのチャンバラごっこ

 

 7、手作り車と坂道レース

 

 8、川遊び

 

 9、篠でっぽう(しのだけで作る水鉄砲)

 

 10、相撲

 

 11、たがまわし

 

 12、石弓と小鳥(パチンコ)

 

 13、河原野球

 

 14、竹スキー

 

 15、山遊びと木挽き峠、茅の坂峠

 

 16、青大将からペッとこしゃ(かえる)を助けた

 

 

第2章 事件・冒険 P41

 

 心を揺さぶった出来事

 

 1、サイばあさんと青大将とヤスさん

 

   2,鷹を捕った話

 

 3、牛のお産と母のお産

 

 4,1円札でリンゴを買いに

 

 5、「アチイ」と祖父のまじない

 

 6、村で初めてのテレビ

 

 7、亀蔵さんの「テッサク」

 

 8、犬のシロのこと

 

第3章 手伝い P57

 

 子どもの労働も重要な働き手としてあてにされた

 

 1、ウサギの飼育

 

 2、タバコ買いと行燈

 

 3、牛の世話、サイロ詰め、牛洗い、乳缶運び

 

 4、薪しょい、ぼや拾い

 

 5、ふろ沸かしと杉っぱ拾い

 

 6、水車当番と母の連れ

 

 7、茶摘み、紙漉き、味噌、豆腐

 

 8、オカイコあげ

 

 9、こんにゃくの消毒

 

 10、モロコシもぎ

 

第4章 食い物と遊び p79

 

 ひもじい思いはしたことはなかったが食い物は限られた

 

 1、ニシン沢とサワガニ捕り

 

 2、イシンタ(谷底)と魚捕り・洞窟探検

 

3、のぞきガラスと魚捕り

 

 4、蔵の下のスズメの卵

 

 5、百合の根ほり

 

 6、とっかんまめ屋(爆弾あられといった)

 

 7、どどめ(甘い桑の実)つかありとどどめ色

 

 8、まめごな(大豆を炒った黄粉)・こうせん(大麦を炒って引いてkなにしたもの)とぴーぴっぽ(葉っぱ)

 

第5章 行事 P97

 

 行事とはハレの日であり、うまいものが食えることだった

 

 1、お正月と子どもの仕事

 

 2,1月1日の登校とミカン

 

 3、正月と吉田の伯父さんとお年玉、自前の凧

 

 4、虫の口焼き(害虫の名を言い唾を吐きかけまたイワシの頭を火でやく)

 

 5、とおかんや(わらでっぽうで地面を叩く)

 

 6、運動会と「おひまち」

 

 7、お盆と盆流し

 

 8、つつっこ(米と小豆をほう葉で包みゆでるたべもの)

 

第6章 余禄 P113

 

 1、あかぎれと青っぱな

 

 2、満天の星と怖かった便所

 

 3、囲炉裏端と昔話

 

 4、病気、ケガと塚越の新井病院

 

 5、屋号と鍛冶屋の清君のこと

 

 6、よおめし(夕食)と夜のひと時

 

 7、大橋のおばさんと反物やさんのこと

 

 8、長沢のバス停と乗り合いバス

 

 9、上郷公民館と村芝居

 

 10、村社の祭り

 

 11、耕地のあいさつと口上

 

 12、皆野の「矢尾」の出店

 

 13、耕地の有線電話

 

 14、山菜取りなど

 

耕地考―あとがきに変えて  P141

 

 耕地は小さな宇宙である。長沢耕地にバス路線が開通したのが昭和29年のことである。

 

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17ページ、釘ぶっとうし、本当の5寸釘は少なかった。

 

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21ページ「チャンバラ遊び」チャンバラの刀はかぞがらを使うことが多かった。

 

かぞがらは楮の皮をむいた後の白い棒である。

 

 

ちょうど「Humanology]のNo,76が届き、高橋さんの文章が掲載されていたので、紹介させていただきます。

 

「耕地という小さな宇宙から眺めてみて」

 

 -拙著「耕地の子どもの暮らしと遊び」のあとさき・うらおもて

 

1、はじめに

 

 この春に「耕地の子どもの暮らしと遊び」という、私の子ども時分の暮らしや遊びなどを体験的に綴った本を自費で出した。秩父の北西部に位置する私が育った長沢耕地は(長沢耕地)は鋭く切れ込んだ谷のわずかな平地に開かれた15戸の山岳集落だ。我家の標高は550Mくらいだ。私はそこで高校生まで暮らして、大学に行くために東京に出た。

 

 この本がかって毎日新聞の記者をされていた倉田眞さん(本研究所所員)の知るところとなって、毎日新聞の火曜日連載のコラム「火論」(4月12日朝刊、玉木研二記者)で紹介していただいた。また4月22日(木)の人間学研究所の例会でもこの本をもとに報告させていただいた。

 

 私がこの本を出したいと強く思ったのは、失われていく耕地のなりわいや風景を遊びや仕事などなどの子どもの目をとおしてのこしたかったからである、。そして考えたかったからである。私はこの数年、このままでは私が育った長沢耕地は世の記憶から消えてしまうのではないかという焦燥感にかられてきた。おそらくそれは、家や畑や山林が消えるだけではなく、祭りも伝統も様様な技も一緒に消滅することになる。

 

 長沢耕地の私の体験にこだわって書いたから世間一般には通用しないことも多いと思うが、リアルさは出せたと思う。玉木さんはそれを「小宇宙から見る昭和戦後の一断面になったようだ」と評してくれた。

 

2、今、私の耕地はどうなっているか。

 

 耕地とは、山間に拓かれたひとまとまりの集落のことである。平成28年の今、私の長沢耕地はどうなっているか。私の子ども時分の昭和30年代と比べながら、エピソードふうに二つだけ述べて説明としたい。

 

(1)一人暮らしの老女Tさんのこと

 

 本ができてすぐに私は長沢耕地に戻って耕地の人々に本を一冊づつ配って歩いた。Tさんという87歳のひとり暮らしのおばあさんの家にも届けた。「コンニチワー」と玄関の戸を開けて2坪ほどの土間に入った。耕地ではどの家も玄関にカギはないので、昔からそうやってズカズカ入っていくのが普通である。中は真っ暗なので留守かとも思ったが、奥の方でテレビの青白い光が微かにチラチラしていたので「Tさん、お久しぶりですキヨジです。分かりますか」と大声で呼んだ。するとTさんが、4つんばいになってノロノロと暗闇から這い出してきて「ニシ(我家の屋号)のキヨチャンかえ。しばらくでがんす。」とすぐに私を認めた。

 

私が「こんな真っ暗の中でどうしたんですか。」と言うと、「一人だし、電気デーが持ってえねえから、つけねえでいたんだよー」と云い、続けて次々に今の不遇な身の上を話し出した。大工だった長男が病気で働けなくなりお金を入れてくれなくなったこと、二男が勤めていた会社が潰れてしまい消息不明になっていること、たった1人の娘は嫁ぎ先のことに忙殺されてめったに来てくれないこと、そして今は治療中の足腰の薬代にも困っている自分のこと・・・。Tさんの3人の子どもは私より少し年下だが、耕地中を駆け巡って遊んだ仲間で、中学を卒業し町で職に就いていた。私はふと、二男を産んだその翌日に近くの沢から飲み水を入れたバケツを天秤棒で担いでいた若い日の元気なTさんを想い出した。私が小学3年生の頃だ。

 

 私は愚問を発してしまったことを悔やんだが、10分ほどT さんの深刻でとりとめのない話を聞いて、本を渡し、そこを辞した。

 

 私が育ったころの長沢耕地は15家族100人が暮らしていた。子どもも30人ほどいて、いつも村中に甲高い歓声が響いていた。それはたぶん小林一茶の「雪とけて村いっぱいのこどもかな」の句と同じ世界だろうと思う。どこの家も祖父母・父母・こども三世代の家族構成で、一人暮らしの老人などいなかった。粗末なものを食い、これといった娯楽もなく、朝早くから働き、夜は8時頃には眠ってしまう日常。嫁舅の確執がどこに家にもあって、隠したつもりだろうが子どもの私の耳にも近所の嫁舅の互いの罵りが漏れ聞こえてきた。だが老人たちは家族に見守られ畳の上で死に、野辺送りされた。

 

 今、耕地の住民は、8軒15人である。独り暮らしはTさんを入れて4人である。多少の事情は異なるが、4人は似たような境遇になっている。耕地の人たちは否応なくそうなってしまうのである。

 

 火事になっても消す人がいない。天王様の祭りも幟を立てる人がいないから消えてしまった。行事や念仏講、種々の寄り合いもとっくに失せた。誰も「この耕地はおしまいだ」と思い、時代の流れ、運命だと諦めひっそりと暮らしている。

 

(2)耕地に獣が住みついた

 

 1オ年ほど前の春、未だ母が生きていた頃、帰京の折に吊るし柿にする蜂谷柿(渋柿)の苗を植えようとしたら。「キヨチャン、家の周りに柿を植えるのはよしてくんな。熊が出ておっかなくてしょうがないんだから・・・」

 

私は直ぐにあきらめた。確か前年の秋に、耕地の中にあった栗の木が熊にやられて、耕地が大騒ぎになったと母から聞いていた。

 

 今耕地は家々の庭先まで山林が忍び寄り、山と区別できなくなりつつある。我が家の裏のうっそうとした竹林はかっては麦畑で、金色の穂が波のように風になびいていた.土留め(桑の実)を探して歩いた桑畑も今は桑の木の林と化している。人手の入らなくなった山の杉林は荒れ放題で保水力が弱まり、大雨のたびに崩れていく。川は往時の半分にもならず、場所によっては枯れて水無し川になって白い川肌をさらしている。

 

かっては山の奥にいた獣たちは耕地の中に巣穴を作り、耕地中を闊歩する。イノシシが沢の石をひっくり返してサワガニを食い、ミミズや草の根を探して墓石までひっくり返す。生垣の若芽をシカがきれいに食ってしまう。タヌキが空き家になった家に入り込んで棲家とし、縁の下に糞の山を築いている。

 

新見南吉の名作『ごんぎつね』のごんの巣穴は村の山の森の中にある。ゴンはそこから村中に出てきてはいたずらばかりして村人から嫌われ、悲劇的な結末をむかえることになる。つまり、本来は山に居るべき獣が、人里に出てきてしまったのである。棲み分けのタブーを親から教わらなかったがために犯してしまったごんとうひとりぼっちの小ギツネの悲劇の物語である。耕地の奥山に棲んでいたキツネが、ごんのように、たまには出てきて裏山のサツマイモを掘り起こしたこともある。奥山でケンケンという犬が風邪を引いたようなキツネの鳴き声を聞いたこともある。だが、獣たちが耕地中を闊歩する今では、『ごんぎつね』のような奥山と里山と人里が背景となる物語は生まれようがない。

 

 集落の周りの畑を耕すこともなくなった。鍬も鋤などの農具も用なしになり朽ち果てるのを待っている。キツネやタヌキ、そして天狗も山奥に住んでいないから、そしてたまに夜遊びのために隣の村まで峠越えする人もいないから、化かしたり肝試しに村人の前に現れたりできない。柳田国男の『遠野物語』のような共同幻想の世界はもうおこりようもない。

 

3、読者からの感想を読んで

 

 本を読んだ感想の手紙がいくつか届いたので、二つ紹介する。

 

一つは86歳の埼玉県北の女性Sさんからで、「牛のお産と母のお産」(p47)の話について4枚もの鉛筆書きの丁寧な感想を寄せてくれた。

 

 我家では牛を1頭飼っていて子牛を産ませ、その後搾乳をしていた。母牛に種付けをしたりするときには必ず獣医を呼んで大騒ぎして産ませた。臍の緒は、鎌を囲炉裏の火で焼いて消毒し切ったという。

 

Sさんは80年近くも自分の胸のうち仕舞っておいたおいた母へのすまなさ、その時の心細さを次のように綴ってよこした。

 

 「特に心を打たれたことがあります。私が9歳の時、昭和13年1月13日、忘れもしません。『牛のお産と母のお産』を読んで同じようなことがあるんだなーと、びっくりしました。私の弟が生まれるとき、私がお湯をわかし、母が一人でお産をして臍の緒を切って、私がタライに湯を入れ母が湯加減を見ては初湯をつかわせたのです。そのことは誰にも話さず母と二人で話したことはあっても他人に話したことはなかったです。近くに産婆さんがいたけど我家の事情で頼めないことは子供ながらにわかっていました。このことは恥ずかしいし情けないと、いまだに母のことを想い出すと心がいたみます。」

 

 手紙を読んで、私はあったこともないSさんと何だか旧知の仲であるかのような錯覚におちいった。

 

もう一つは「サイばあさんと青大将とヤスさん」(p42)を読んだ、サイばあさんの曽孫の若い女性Mさんからの感想(謝辞)である。私が本に書いたサイばあさんにまつわる話とはおよそ次のようなものである。

 

 私が小学校に上がる前だった。ある夏の昼、耕地の往還をくねくねと横切る2メートルもありそうな青大将に私は出くわした。私は興奮して、一緒にいた友達と棒でたたき殺そうとした。その時、サイばあさんが目をつり上げて怒り甲高い上ずった声で「それはヤスだ。よせ。ヤス早く逃げろ」と怒鳴って道端に追いやってしまった。私は呆気にとられて見ているだけだった。

 

 後で知ったのだが、ヤスとはサイばあさんの二男の安衛さんという人で、戦争末期の昭和19年、ニューギニアで戦死した。享年21歳。もちろん遺骨などはない。この日はもしかしたら、ヤスさんの命日だったのかもしれない。

 

 Mさんはこの話を読んで初めて曾祖母にあたるサイばあさんのこのような事実を知った。そして「読んで涙がとまりませんでした。ほんとにありがとございました。」と書いてよこした。

 

 私はMさんとは全く面識はないが、ずいぶんと身近に感じた。 

 

4、結び

 

 私は懐古趣味でこの本を書いたつもりはない。もしそう感じられる人がいたら、それは私の力不足によるものだ。日本のどこにでもある深刻な限界集落の現実と消滅の意味が理解されていないように思う。このままでは伝統も技も永遠に失うことになることになるのではないか。日本の懐が浅くなって、のっぺりしたものになってしまうのではないか。そういう思いを書いたつもりだ。

 

 数年前に、私が担任した生徒たちの同窓会(中卒後30年経過している)があって、私も招かれて出席した。宴も中盤になってあちこちにいくつかのグループができた。私の周りにも数人が集まってきて、懐かしい話がとりとめなく続いていた。酔いも手伝って、消えゆく田舎のことを本にしたいと漏らしたところ、出版社に勤めていたK子(中1と中の時に私が担任した)が「センセー、それ私にやらせてください。安くしとくからー」と勢いよく名乗り出た。

 

 そんなわけで、K女史のおかげで本が成った。墨絵のイラストも全部彼女が担当してくれた。そういえば彼女は絵も得意で美術の成績がとても良かった。

 

◎発行所 ブイツーソリューション

 

 名古屋市昭和区長戸町4-40

 

 電話:052-799-7391

 

追記

 

 ブログ筆者は昭和18年生まれだが早生まれなので、級友は昭和17年の人が多かった。新宿という都会で生まれ育ったが、戦後まもなくは原っぱが多かった。特に戸山が原には弾除けの人口の山、三角山があり、自然が多くのこされていた。三角山では山の上の方と下の方、二手に分かれ、土塊を相手にぶつけるという遊びでした。戦後まもなくは戦前に作られた射撃場があり、鉄筋コンクリートのカマボコ状の射撃場ではいつも機関銃などを撃つ音がしていました。その後山は壊され、バタヤ部落になりました。それも壊され、今はいろいろな建物に変わっています。

 

 私たちもいろいろな野外の遊びをしました。この本にある遊びと、この本にない遊びがありました。馬乗り、釘差し、ビー玉、メンコ、チャンバラ(セイタカアワダチソウの枯れ枝と、うちは桶屋で木の木っ端があり刀が作れた。材木を乾燥させるために井桁に組んだところを基地にして遊びました。戦後まもなくでこの本にはない、「すいらいかんちょ」という遊びをしました。敵味方に分かれ、艦長、駆逐(艦)、水雷(艇)と役割が分かれます。艦長は駆逐艦に勝ち駆逐艦は水雷艇に勝ち、水雷艇は艦長に勝ちます。艦長は一人で水雷に捕まると負けです。水雷が一番数が多いのです。あとベーゴマもはやりました。Sケンというのもよくやりました。ほかにいろいろな集団的な遊びがあり、夢中で遊んだものです。

 

 手伝いはいろいろありましたが、中学生のころ木曾から早朝に大きなトラックで風呂の材料が届きます。檜の材は大きな長い板です。それを2人がかりで、特殊な道具でもって干場に運びます。それはかなり力がいるものでした。サワラの木は適当な大きさに束ねたものです。

 

 

 

 

2016年1月12日 (火)

戦争伝える『最若手』が手記、戸山高1年後輩が自費出版 本が届きました

 2016年1月11日(月)の毎日新聞朝刊24面に、「戦争伝える『最若手』が手記」、戸山高1962年卒同期生有志が自費出版という記事が載っていました。
 ブログ筆者は1961年戸山高校卒業ですから、1年先輩になります。
 終戦直前の1943年~44年に生まれ、都立戸山高校を62年3月に卒業した同期生の有志がブックレット「私たちの”戦争体験”、終戦直前に生まれた世代から」を自費出版した。「若い世代の戦争の悲劇を伝えたい」と企画。困難を乗り越えた記憶をつづり、平和への強い祈りを込めた。

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 本を手にする編集責任者の狐崎晶雄さん(右)と、編集委員の一人、井伊直允さん

  集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更の議論が高まっていた2014年5月,有志の一人、狐崎晶雄さん(71)が、同窓会誌に「私たちの記憶を残す必要がある」と寄稿したのがきっかけ、「私たちは戦中、戦後の記憶がある、最も若い世代。1,2年史他の人ではもう書けない」と狐崎さん。共鳴した同期生が次々とメールを寄せ、15年7月の同期会で「本にまとめよう」との提案が同意を得た。同期生は400人以上おり、35人が執筆した。多くは疎開を経験した。

 疎開先の水戸市で父の死を知り小学校では、残された母や兄と別れて水戸の母方の祖父母に引き取られたOBはこう書いた。

 当時の小学校では、クラスには必ず何人か父親を亡くした子がいました。母親の再婚で複雑な環境にいる子も多かったように思います。

 空襲で新宿区の家を失ったOBは、戦後、3歳の時に叔母が抽選で当てたバラックを一かが譲りうけた。当時を振り返り、

 壁は薄い板、屋根は屋根にコールタールを縫って風通しは滅法よく、台風の時は屋根が飛んでしまって、去ったあとに月を眺めて寝たことを思い出す。

 旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島から引揚げた人も多い。平壌付近から脱出したOBは、

 私は部隊で最年少の生存者になっていた。子供を失った母親たちの咎めるようなまなざしと「次はこの子だ」というささやきが怖かった。

 別のOGは現地で憲兵隊長を務め、収容所に13年間いた後に帰国した父の具体的な戦争犯罪を、2010年はじめて知った際の衝撃をつづった。

同書の編集委員会は600部を印刷。製作費40万円は同期生仲間の寄付でまかなった。関係者らが購入して残りは約60部。増刷や電子書籍化を検討している。600円。書店には流通していない。問い合わせは、桐書房(03・5940・0682)かメール(sensoutaiken@yahoo.co.jp )へ。

 筆者は早速申し込みしました。メールしましたら狐崎さんよりの返事のメールが来ました。金額は600円+250円計850円 発送は月末から翌月はじめごろになるかもということでした。

◎ なお狐崎晶雄氏は、元日本原子力研究所所員、元青山学院大教員など、いろいろな本も出しており、核融合についての権威です。

 本が届きましたら、またここで、ご紹介します。

1月17日 追記 早くも本が届きました。全部で35人の思い出が書かれています。

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 編集者の井伊直允さん  「土下座する元上官」

 東戸山小学校の校長先生が、入学式のお祝いの言葉で、「君たちのお兄さんやお姉さんに”日本のために戦場で死になさい”と教育してきました。今後、私は君たちを二度と戦場ににいかせない為に身命を賭していくつもりです。

 憲法9条は、こうした先輩たちの血涙流れる反省の上に立って国民に受け入れられたのです。当時、保守革新を問わず「戦争の放棄」は国民何百万の血で贖われた決意として世界に表明されたのです。自分は戦場にも行かず一滴の血を流すつもりもない「戦争フェチ」の幹事長や膨大な薄汚い利益を財界に齎(もたら)す見返りに,自らの政権を支持してほしいお坊ちゃん首相などのために変えられてはなりません。

 編集者の狐崎晶夫 「ひとさらい」

 筆者(狐崎氏)の母親が結核で入院しているとき、通りかかった(ひとさらいの)おじさんが、病院に行って母親に会わせてくれるというので、筆者は自転車に乗ってしまった。筆者の兄さんは片目が不自由だったので売れないから残そうとした。兄がいっちゃダメと大泣きしながら捕まえていてくれた。しかし、連れていかれてしまった。そこへ運よく自転車の父が返ってきて、追いかけていって連れ戻してもらった。あと10秒遅れていたら今の筆者はなかっただろう。どうして殴り掛からなかったのか聞かれ、父は「あの人もかわいそうな人だった。戦争で狂わされてしまったのだから」という答えでした。戦争になると前線の兵士以外の町の人々をも狂気にしてしまうのです。兄の目も水不足、燃料不足で産院の湯も入れ替えできずに汚れた湯から細菌が目に入り失明したのです。

 戦争を招いたのは、政治に無関心で善良な市民だったという分析もあります。

◎このブックレットに書かれている内容は、この井伊さんの言葉に尽きると思います。

 35人の方それぞれに戦前の自分の両親や叔父叔母たちがいかに戦争で苦労し、また死んで行ったかを語っています。又戦後には自分たちも戦争の影響で悲惨な暮らしをしまた見聞してきたことを伝えています。筆者は彼らとほぼ同世代なので、強く共感します。それとともに、なんとか戦争法案を通そうとする安倍内閣に対しての憤りを強く感じるものです。

 

 

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