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人間と社会、歴史

2016年12月17日 (土)

「中世の貧民」 説教師と廻国芸人 塩見鮮一郎、貧民シリーズ

 文春新書における、塩見鮮一郎氏の「貧民シリーズ」は4冊出され、3冊はすでに「こういちの人間学」ブログに書きました。しかし「中世の貧民」は、なんとなく、まとめづらくブログに書きませんでした。今回ようやく完結します。890円 +税
 書    名    出版年月   こういちの人間学ブログ
中世の貧民     2012年11月   2016年12月
江戸の貧民     2014年8月    2014年9月
貧民の帝都     2008年9月    2014年5月
戦後の貧民     2015年9月    2015年9月
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帯封に
 すさまじい貧困と差別 説教節からあぶりだされる室町期庶民の実態
帯封の裏に、
 蔓延する疾病と頻発する一揆
 遊女と奴隷を確保する人身売買
 生活のため放浪する賤民
 合戦にともなう略奪と暴行
 店を張れず、物を売り歩く行商人
 障害者を使った「人間カカシ」
 ホームレスや病者が流れ着く「こじき町」
 説教節の名作『小栗判官』を題材に、餓鬼として甦り、土車で引かれる主人公の熊野への旅を改めて検証するとともに、貴族や高僧といった上流階級ではなく、庶民の目線から見た、貧困、病、そして恋の道行き等の実態を描く。
目  次
まえがきー説教節の愉楽
1章 六根片端の男
  つちぐるまの吸引力
  中世の小田原宿
  貴種の来歴
  復讐と鎮魂の系譜
  奇想世界『をぐり』の成立
2章 魅惑の倒錯
  美人の特権神話
  獣姦を特別視しない文化
  道行の幻視
  散所・陰陽師村・声聞師村
  拷問と苦役の果て
・    
3章 中世の恋
  盲目杖に咎はなし
  乙姫はつよし、小萩もけなげ
  無謀な求婚
  なぜ人食い馬なのか
  受難の放浪劇
  人商人と中世奴隷制
4章 よみがえりの夢
  鏡の里の女たち
  逢うも別れもの関
  清水坂の雑踏
  四天王寺の摩多羅神
  熊野からお急ぎあれ
  復讐譚で物語誕生
  不具者と不治の普遍
あとがきー説教師の変遷
話のあらすじ
 二条の大納言(藤原兼家)が息子を「常陸小栗」と名付けた。放蕩無頼で、72人を離縁した。をぐりは蛇の化身と情を交わす。父親から勘当される
小栗城主は敗残の将として埋葬、しかし、閻魔大王が黄泉の国から帰す。
 しかし、蘇生したが、餓鬼すがたである。あばら骨が出て、腹は膨らみ、足はゴボウのように細い。らい病で、感覚器官がすべてだめな片端に(六根片端)。一遍の時宗の遊行上人が男の髪をそって坊主にして『餓鬼阿弥陀仏ー餓鬼阿弥』と名付けた。『この者を一引き引いたら千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と札を付ける。
 土車に乗り、首から札が下がっている。「をぐり判官」、閻魔大王の直筆で、「熊野本宮の湯峰に入れてたまわれや、」と。ひとびとは『えいさらえい』と引き立てる。-箱根越えから東海道へと進み、熊野を目指す。
 説教語り(師)は、立ったまま語る。取り巻く観衆はしゃがみ込み話を聞く。竹で作ったすりササラでさっささらさらと拍子をとる。褐色の裃を着た説教師はござの上にはだしで立つ。大きな傘をひろげる。庶民はわずかな銭を握りしめ話を聞く。当時の数少ない娯楽の一つである。説教師は語りながら、全国を回る。『伊勢のこじき』と言われるほど伊勢出身者が多かった。このような芸を売る人々は賤民と位置付けられていた。
 このような説教師は寅さんの世界につながるものです。
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今日につながる説教節は「かるかや」、「さんせう太夫」、「をぐり」、「しんとく丸」、「あいごの若」、で、五説経という。1915年森鴎外、翻案して「山椒大夫」がつくられる。
「さんせう太夫」は中央の権力が衰えた時代だからこそ存在で来たアウトローの長者。
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諸国を遊説する『念仏聖』、『盲御前』-盲目の女芸人,『琵琶法師』
一部の盲人は芸能で生活を立てた かれらは散所者といわれる
 散所は、寺社に付属して雑役に従事する人たちの土地。呪術師のいる散所は『陰陽師村」という。
 当時は多くの商人は店を張れず、納豆や豆腐、その他を売りに来る人々、行商人がほとんどであった。戦後でも、農家のおばさんが野菜などを売り歩き、担ぎ屋さんと呼ばれた。富山の薬の置き薬もあった。
芸能も渡り歩いて行う。芸能の代価ではなく喜捨として。乞食と同じようー物貰いとしての位置づけ。河原乞食とも。
 
さんせう太夫(アウトローの長者)ー安寿と厨子王 逃げ出そうとした罰として額に焼き鏝をいれる
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水田で鳥を追う『人間の案山子』の図
今の案山子は藁人形だがかっては本物の人間であった
不具者ー乞食。農村では案山子の役、手足の腱を切って人間案山子にすることもある
『鎌倉大草紙』ができたのは文明11年(1479年)のことである。これが『をぐり』に影響を与える。『をぐり』は徳川初期に記録された。正本は1675年。絵巻物、浄瑠璃に歌舞伎にといろいろに演じられて現在でも演じられている。
 常陸の国に常在した小栗家は、伊勢神宮の御厨の管理を任されていた。
茨城県の筑西市に常在
 鎌倉公方、堀越公方、関東管領などの争いー戦国時代に
 武蔵と相模の郡代・横山氏の姫 照手姫は、をぐりと会い恋に落ちる 怒った父親は照手姫を海で殺すようにという。横山氏の兄弟が助ける 横浜市六浦に漂着 漁夫の大夫に助けられるが 姥が2貫文で売る 転々と売られ、13貫文になる 彼らは役立つ間は最低限の食事などが与えられるが役に立たなくなると捨てられた。零落する
「をぐり」を横山氏のたくらみで、「鬼鹿毛』という人食い馬に食い殺させようとする。
「をぐり」は「鬼鹿毛」をてなづけける。鬼鹿毛はいろいろな芸をする。
横山氏はをぐり主従を毒殺、「をぐり」を土葬し、10人の家来を火葬にする。
「をぐり」だけが餓鬼姿で再生。
「人商人」(人身売買と中世奴隷制)売買された奴隷は賤民よりひどい暮らし。
『さんせう太夫』この題名は柳田国男により、もとの題「つし王」
だまして人買い船に連れ去られる。母とうばは北へ、ずし王と安寿の船は西へ。母は蝦夷へ売られる、二人は京都府宮津の『さんせう太夫』に売られる。さんせい太夫には5人の息子、三郎は情け知らず。2人にやきごて。姉は塩汲み、弟は柴刈り。蝦夷の母親は足手の腱を切り『鳥を追う仕事』-人間案山子に
 賤民は移動の自由があるが、買われた隷属民は全く自由がない。物や家畜と同じ。
◎付記
 人さらい、人買いは大きな産業とも言えたぐらい横行した
ポルトガル人が日本人を海外に売り飛ばす。豊臣秀吉の人身売買禁止令が出るまで続いた。
九州の諸大名は、火薬などを手に入れるため日本人婦女子をポルトガル人に売り飛ばし、その数は50万人に及んだ。
 江戸幕府も禁止したが、年貢上納のため娘を売るのは許可。そのあとも、人身売買は非合法の形で続き、人身売買禁止の法律が制定されたのは、1870年子供を中国に売ることを禁止。1911年工場法まで女性の人身売買的労働があった。第2次世界大戦終了後、売春に関する人身売買の禁止。不徹底。1956年の売春防止法それでも、現在まで続く。
・・
 照手姫の最終到着地は青墓宿。遊女で有名。照手姫は遊女屋に売られる。常陸小萩と名をつける。しかし遊女になるのをことわり、かわりに16人分の水汲みの過酷労働をさせられる。それを助ける千手観音。3年の月日が過ぎる。
 遊女屋のところで土車がぴたりと止まる。再会しているが気づかない。土車の餓鬼の札を見る。この土車を引いて夫の供養をしよう。休みをもらうように頼む。君(遊女)の長は3日のところ5日に。
 照手姫は供養のためと思い、5日の休みをもらい、狂女のふりをして、をぐりと知らず縄を引く。期限が来ての二人の別れ。
逢坂の関、大津の関蝉丸神社には旅人がひきもきらない。
琵琶法師の守護者 蝉丸神社 諸芸道の聖地
京都清水坂の非人 1000人も集まっていた。
1割から2割がらいしゃであった。らいしゃは物乞いに出る。らい者の監督、犬神人
犬神人は頭をそり、柿色の衣をつけ、白い覆面をしている。
喪送の権利を独占
「六道の辻」の先は鳥辺野の葬送地 清水寺の近く
貧困者の死体は埋葬もされない
大阪、四天王寺の参道は貧民の解放区
難路の大辺路を行く 熊野街道は小栗街道ともいわれる
「をぐり」は熊野の湯峰温泉へたどりつく、病は快癒
父兼家を訪ねる
美濃の国司となる
常陸小萩=照手姫との再会
横山氏の三郎と人買いに売った老婆への復讐
復讐へと続く
◎『貧民シリーズ』のなかでも中世の貧民はすさまじい。貧民は死んでも埋葬もされず、打ち捨てられた。確かに現代の日本はその時代に比べればましである。
 しかし、12月19日の毎日新聞の1面トップは、「最低賃金未満5%超」今年度、東京大阪の中小という記事であった。ルールを無視した低賃金労働が蔓延していると。最低賃金が生活保護の基準となっている。その基準以下の賃金がまかり通っているということだ。
 低賃金のもととなる非正規労働者の割合は増えている。
 一方,安部首相は外国に派手にお金をばらまいています。この前ロシアのプーチン大統領が来日しました。経済協力で日本から60件、3000億円の経済協力のお金を出す約束をしています。パーティーには日ロの経済人900人が参加したそうです。そのお金には日本の大企業がくっついて潤っています。しかし、領土問題でいい返答を得て、その勢いで解散総選挙という目論見は外れました。それなのに、マスコミを支配し、高支持率を得ているのが実態なのである。
 小栗判官の場所は茨城県筑西市、栃木県に接し平坦で、農業が盛ん。近年人口は減りつつある。現在人口は10万人。小栗判官祭りが行われている。
 

2016年7月 9日 (土)

白人中心主義の歴史観批判。岸田秀氏の史的唯幻論とバナールの『ブラックアテナ』

はじめに
 前に書いたブログで、岸田 秀氏の書かれた本『史的唯幻論で読む世界史』を読み終えたのと、7月5日に、エジプト文明について何か参考になるかと思い、池袋の「古代オリエント博物館」にも行ってきましたので、自分なりの見解を書いてみることにしました。
 前に書いた「近況、1史的唯幻論で読む世界史」にこの文章を書くきっかけを岩城正夫先生から、いただきました。岩城氏と岸田秀氏は年齢も同じくらい同じ和光大学の教授をされていて親しくされたおられたということです。
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 原本は2004年から連載された『大航海』(2004年~2006)に大幅に加筆修正し2007年に新書館から『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』として出版され、2016年1月に講談社学術文庫に名前を変え収録されたものです。
 その『史的唯幻論で読む世界史』(定価980円税別)には、帯封に「嘘だらけのヨーロッパ製世界史を撃つ!」、「古代ギリシャは黒人の文明であり栄光のアーリア人は存在しなかったー」とあります。また裏表紙には、「ヨーロッパが語る白人中心主義の歴史観が彼らの誇りを支え、今なお世界を覆っている欺瞞と危うさを鮮やかに剔抉、その思想がいかにして成立・発展したかを大胆に描き出す。史的唯幻論が、白人によって作りあげられ「幻想の世界史」であるかを鋭く告発する。という言葉が本書の狙いをよく表しています。
 岩城先生からいただいたお葉書には先日お送りした筆者が人間学研究所でお話した内容の、『どこまで人間と見るか』のレジメに対してのお礼の言葉とぜひ論評してほしい本があります、ということで『史的唯幻論で読む世界史』を紹介していただきました。岩城先生のお葉書には「この本は、初めあまりに大胆すぎると思い疑問に思ったのですが、今は考え直して真剣に取り上げるべきだと思うようになりました。しかし全面的には肯定しきれない部分があり結論を出しかねています。それで筆者に目をとおして感想をお聞かせく ださいとのことでした。
 筆者の『どこまで人間と見るか』において、ヨーロッパ人が、南米のインディオやオーストラリアのアボリジニをはじめ「人間」と見ないで、平気で殺してきたこと、その後も様々な人種差別を現在までも繰り返してきたことを書きましたので、丁度岸田氏の説との共通性を見られたのだと思いました。
◎「どこまで人間と見るか」その2 2016年5月19日人間学研究所合同例会資料から
 インディアンやインディオに対して
 1492年、コロンブスのアメリカ大陸と「インディアン」の「発見」
 1521年 スペイン人、コルテスアステカ王国を滅ぼす
 1533年 スペイン人、ピサロ、インカ帝国を滅ぼす
 1537年 ローマ法王がアメリカインディアン(インディオも)アダムとイヴの子孫だと認めた
       -それまでは、人間ではないから、殺してもいいことになる
  1700年 アメリカ北東部のインディアンは混血していないことにした
 1783年 イギリス、インディアンの土地を勝手に合衆国に割譲
 1890年 アメリカインディアン、ウンデッドニ―で虐殺
       その後も差別と抑圧は続く
 アボリジニ対して
 1788年 イギリス人、オーストラリア原住民を「発見」その当時の人口50万人
 1828年 イギリス兵士に、アボリジニをスポーツの対象として、自由に捕獲、殺害する権
      利を与える 人口は90%減少
 1876年 タスマニア原住民絶滅 (有袋類は保護するのに)
 1931年 混血のアボリジニを親から離す政策
 2008年 労働党政府が謝罪しかし保守党は認めず
 インドのカースト制度、ダリット(カースト外)1億人
 日本、朝鮮における、非人、白丁
 アフリカのピグミーに対しての食人行為-人間と見ない
 白人による執拗な人種差別や優生学
 
 『史的唯幻論で読む世界史』を読み、またインターネットで資料を読みある程度、自分の 考えがまとまったので書いてみようと思いました。岸田秀氏の説はいろいろな面で納得できるところが多いのですが、部分的に、これは間違いではないか、というところがあります。具体的にこれから書いていきたいと思います。
なお、本の要約を書きましたが、◎の部分はブログ筆者の感想です。
1、差別が人種を生んだ
  差別が先で人種が後である。
ご存知のように人類は家畜である。人類は自己家畜化の結果、家畜になったのである。人類が、人類自身の何らかの理由によって、人為的に特殊化された結果、成立したのが人種である。
 人類自身が人類発生以来一切の人種的偏見を持っていなければ、あらゆる人種が自由に混交し同じようになっていたであろう。
 「一神教vs多神教」(2002年、2013年朝日文庫)という本を三浦(雅士)さんとともに出版した。そこでの歴史仮説。高野信夫氏の「人種の起源―黒人―白人―黄色人」(三一書房)に基づく。最初に発生した人類はアフリカの黒人種であった。そして白子、アルビノ説、が提唱されました。そしてこの説以外に黒人から白人が発生した理由を説明できない、としています。白人は奴隷であった、モーゼの出エジプトでエジプトから追い払われる。
 4重の被差別がアメリカを攻撃的にした。
 アメリカ人は1、エジプトで差別されパレスチナへ、2、ユダヤ人はローマ人に差別され、3、キリスト教徒はユダヤ人から差別され、4、キリスト教徒から差別されたピューリタンによって作られた国である。4重の被差別のどん詰まりの国アメリカ。そうでないと先住民に対する残虐さは説明がつかないと。岸田氏の歴史仮説はアフリカの黒人に追っ払われた白人のヨーロッパ人とエジプトの黒人に追っ払われた白人のユダヤ人という2つの前提に立っており、この2つの前提を出発点としている。p13
 マーチン・バナールの「黒いアテナ」1987と「黒いアテナ―批判にこたえる」2001 
 岸田氏はエジプトが黒人の文明ではないかと思っていたが、バナールのギリシャ文明も黒人の文明である、という説に驚いた。バナールの説に基づく2冊の本とその批判の書について。岸田氏の仮説は差別が先で、人種が後である。人類に人種が発生したのは、人類が人種にこだわっていたからで、人種が存在するのはこだわっているからである。
 白人種は人為的にしか成立しえない。白人種は不自然な人種差別の結果人為的に製造された。白色人種の黒人に寒冷地に追っ払われた恨みと、それに対する復讐、失地回復の要求を動機としているのではないか。
 ◎この説に関していえば異論があります。自己家畜化論は人間学研究所の名誉所長小原秀雄氏が主張し、総合人間学会でも一世を風靡した考え方です。ただ筆者は自己家畜化論に関していえば、一定の評価すべきものはありますが、人間の本質を明らかにすべきものとまではいかないような気がします。これについては改めて書くことにします。
 筆者が人間学研究所の例会でお話した、『ネアンデルタール人について』で、どうして、現生人類が白い肌と青い目の色を獲得したかをお話しました。ペーボはネアンデルタール人の全ゲノムを解析しました。そして現生人類はアフリカを出て中東からヨーロッパに進出した時にネアンデルタール人と交雑し、日光が弱い地域に適応するように遺伝子を2%ほど獲得し白い肌や青い目などになったということを明らかにしました。その証拠が遺伝子が現生人類のヨーロッパやアジアの人類には取り込まれ、アフリカの人々にないことが明らかになりました。人種は地域特性によって生じたもので、差別が人種を生んだという仮説まではは成り立たないように感じます。
2016年7月13日 追記
 岩城先生からお手紙をいただきました。岸田秀氏の本の岩城先生の疑問点も、同じようなことだったようです。いただいたお手紙の内容をご紹介します。
「私(岩城先生)が何より1番疑問に思ったのは白人が「白子」の子孫だという点でした。岸田さんの本を見たとき、何も白人たちを「白子」の子孫にしなくても、寒い地方に行けばだんだん色が白くなるのではないか、例えばサルの肌の色(南方のサルたちの皮膚は結構黒いのが多いのにニホンザルなどは肌の色はピンク色というか)は生息する緯度によって違うのではないか、白ウサギの肌もピンク色だし、シロクマの肌の色も白っぽいようだし、哺乳動物の肌の色も生息する地域によって、つまり寒い地域では色が薄いのではないかなどと思い、動物学専門のブログ筆者に聞いてみるのが1番かと思った次第です。ブログには白人の遺伝子のことまで論じておられて白人の起源について解明されていることがよく理解できました。ありがとうございます。
 お手紙に同封された、故鶴見俊輔さんが書かれたことのについて、新聞記事のコピーをいただきました。岩城先生とその息子さんである有名な漫画家、岩明均氏のことが日本がアメリカの植民地化した思想、学問状況の中で、親子二代にわたってユニークな取り組みをされているという内容です。これは違うブログでご紹介します。
「こういちの人間学ブログ」2015,8,14
「ネアンデルタール人について、図像の変化、赤い髪、白い肌、イメージ大きく変わる」
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国立科学博物館のネアンデルルタール人の復元図、最初の想像図と大きく変化しています
 興味深いのはネアンデルタール人の遺伝子が、現生人類に取り込まれて、白い肌や青い目、毛深い性質などがアフリカ人以外に取り込まれている、ということが明らかになるにつれ、ネアンデルタール人の想像図が大きく変わって、現生人、特に北ヨーロッパ人に近い形に変わってきているのは面白いことです。同じ頭蓋骨からの復元でもこんなにかわるものかとおかしくなります。
 マーチン・バナールは『歴史における科学』を書いた,ジョン・デズモンド・バナールの息子さんです。『歴史における科学は』4巻(原著1954~、邦訳1966~)筆者が学生のころ、感激しながら読んだ懐かしい思い出があります。著名な物理学者ですが、平和運動に取り組み『歴史における科学』のような歴史書を書きました。平和運動に取り組み欧米の独善的な態度に対しての批判的態度などは、親子して、歴史の専門家ではないのに、とか非科学的だとかいろいろあげつらって批判攻撃する学者や批評家が多い。日本ではトンデモ本扱いする人たちもいる。
 
2、古代エジプト人は黒人だったのか
 史的唯幻論の前提となっている2つの仮説、一つは出エジプトの白人奴隷の話と、もう一つはマーチン・バナール氏の仮説である。
古代ギリシャ文明についての3つのモデルがある
1、古代モデル、紀元前1500年ごろエジプト人、フェニキア人がギリシャに侵入し植民した。
2、アーリアモデル ギリシャの文明は北方から来たアーリア人が独自に開いた。
3、修正古代モデル、バナールの説、エジプト、フェニキアが植民したのはBC2000から1500年ごろだが、その前にBC4000年3000頃に北方から白人系の人種が侵入してきたことは認める。その後も続々とギリシャに入ってきたことを認める。昔のギリシャ、ローマ、ヨーロッパ人はエジプト文明から多大な影響を受けたことを認めた。しかしヨーロッパ人の人種差別的優越感が強くなり古代モデルは否定された。
古代エジプト人は黒人だったのか
 7000年来、エジプト人はバナールによればアフリカ人、南西アジア人、地中海人などで構成されてきており、ナイル川上流の南に行くほどより黒い二グロイドの人たちがいた。古王朝、中王朝はアフリカ的要素が強い、ヘロドトスは「黒い肌と縮れ髪」と記述している。しかし黒人といってもいろいろな変異がある。いずれにしても、ヨーロッパ文明の始まりは非白人の文明であったという。
◎池袋の古代オリエント博物館の古代エジプトの男性の画像は、赤銅色の肌と縮れてへばりついた髪をした像であった。
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「古代オリエント博物館発行の「なるほど!古代エジプト」より
 エジプト新王国時代前1500-1400年ころ、褐色の肌、細かい巻き毛の髪など黒人の特徴が出ています。古、中王朝にはより肌が黒い、黒人のファラオがいたらしい。
◎黒人といっても大きな変異があり、赤道西アフリカ周辺は真っ黒な肌と頑強な体で短距離走に向いていて、東アフリカでは、ケニアやエチオピアの人々のようにほっそりとして褐色の肌、長距離走に向いたからだの人が多い。エジプトでもナイル川上流には、ヌビア人が多く住み、一時期古代エジプトのファラオを多く出したりもしている。
3,、「黒いアテナ再考」を読む
 バナールはかってギリシャは古代エジプトの植民地であったし、ギリシャ文明はエジプト文明およびフェニキア文明の亜流であったとするバナールの説はヨーロッパの学会、思想界に大きな反響と反発を巻き起こした。それに対しての批判。
 『黒いアテナ再考』、レフコヴィッツ、ロジャース編 1996年
バナール説に対する批判や反論を20ほど集めたもの。
ジョン・ベインズの批判-バナールはヨーロッパ中心主義に陥っている?
キャサリン、バードの批判-バナールは人種差別的誤解を深める?
フランク・スノーデンの批判―バナールのアフリカ中心主義は行き過ぎか
ベルミュールの批判―バナールの主張は根拠薄弱か
などである。各章に詳しく批判とばなーるの反批判が載せられる。
◎ヌビア人について
エジプト南のアスワンからスーダンにかけて多く住む人々、もともとはエジプトとヌビア人は同じ祖先からはじまった。
 エジプト25王朝BC747-656、3人のブラックファラオ、ヌビア人の王朝があった。
 現在でも100万人ほどが住んでいる
4、唯幻史観と「黒いアテナ」
 戦中、戦後の日本をどう見るかに関して、皇国史観、東京裁判史観、(ソ連式)左翼史観などがある。3つの歴史観はともに手前みそ史観、あるいは自己中心主義の歴史観と言えよう。それに対して、経済、政治、、軍事、社会こそ幻想の産物ではないか。人間はどうしてそのようなことをする必要があるのかいくら考えてもわからないことばかりしてきているではないか、と考え、それを岸田氏は唯幻史観あるいは史的唯幻論と称した。
 ユダヤ民族はローマに対して2度の大きな反乱を起こすが、多大な犠牲者を出して失敗
(一神教は中近東地方に生じた一種の風土病のようなもの)
差別された白人、セム族がユダヤ人となった。ユダヤ教からキリスト教が生じた。
 イエスは神の国における救いを説く、愛を説いて内面を重視。ローマ皇帝に税金を払ってもいいしローマの神々に頭を下げてもいい。イエスについていれば、ユダヤ人はローマ人の要求に外面的には従いながら、内面は敬虔な信者であることができるようになった。
 ユダヤ教は天国とか死後の世界認めぬ。救いは現実の世界のものでなければならぬ。
ローマ帝国で普及したキリスト教は、イエスというよりパウロが作り、キリスト教をローマ帝国に広める。その後キリスト教はローマ帝国の国教となった。キリスト教が普及したのはローマ帝国が権力をもってキリスト教をヨーロッパ人に押し付けたからである。キリスト教への反発のスケープゴートとしてのユダヤ教徒はローマ帝国とキリスト教徒の二重の差別を受ける。キリスト教徒は先祖伝来の信仰を裏切ってローマに迎合し、うまく立ち回り、いつの間にかローマを乗っ取った卑劣極まりない連中であるという見方もできなくはないであろう。
◎しかし第2次世界大戦以後、ユダヤ教信者およびイスラエルは、英米を中心とする国際的な資本の動きの中で、きわめて強い力をもち、一方においてはロスチャイルドなどがアメリカ経済の実権を握り、政治まで動かしている。現在ではイスラエルがアラブ諸国民を抑圧している。欧米の大資本により苦しめられている庶民、その大資本をつかんであるユダヤ系資本、そしてイスラエルにより追い出されたパレスチナ住民、これらが、ユダヤ民族に対しての憎しみのもとになっている。
5、ギリシャを作ったのはエジプトか
 バナールは、古代ギリシャ語の語彙の4分の一がセム語に由来し、5分の一から4分の一がエジプト語に語源があると考えて間違いなく、ギリシャの神々の名だけでなく、多くの地名もエジプトやカナンから来ていると主張しているが、コールマンが反駁する。
 再び「黒いアテナ再考のバナール批判」にもどる。
 バルターは「黒いアテナ」はヨーロッパ人の文化的傲慢さをたしなめることにある。
バナールを一部持ち上げるが、バナールを批判する。それに対しての『黒いアテナは反駁する』(2001年)でバナールが反論する。
ジョンコールマンの批判-バナールは独断と偏見で近代ヨーロッパの古典学を丸ごと論難したがっている。
バナールは歴史観の証拠立ての弱さがあるとーバルターの批判
これまでのヨーロッパ人のヨーロッパ文明起源神話ではギリシャ―ローマ―ヨーロッパ―アメリカの系列は語られているがギリシャの前のエジプトとフェニキアが忘れられている、というのがバナールの言いたいことであり、ローマの前のエジプトとイスラエルがないがしろにされておりローマとヨーロッパのあいだのアラブが無視されているというのがわたし(岸田氏)の言いたいところである。
◎ローマ文明が滅び、その成果はアラブ諸国がうけついだ。ヨーロッパ諸国は中世の暗黒時代を迎える。ルネッサンスではアラブに保管されていた文明が注目され、ヨーロッパに取り入れられた。
アラブの方が科学的に優れていた例としてリチャード王の十字軍の剣は、ごつくて重く叩き壊すようなものであったが、アラブ側サラディンの剣は上に置かれた薄いスカーフが切れるように切れ味が鋭かった。いろいろな医学的な知識もアラブで温存された。アラブ側の方がけがの治療が進んでいた。
代数や三角法の活用など優れた数学。アラビア数字の活用、アルカリ、アルコールなどの言葉はアラビア語に由来する。化学の発展、光の原理(反射で見えるなど)これらがルネッアンスのときに見直されるようになった。
6、ヨーロッパ文明は人類最高の文明!?
 ジェンキンスの批判「黒いアテナ再考」中の「バナール と19世紀」における批判
現代の豊かなヨーロッパは非ヨーロッパ民族の搾取のうえに成り立っている。にもかかわらずジェンキンズのようなことをヌケヌケと言うヨーロッパ人がなぜ存在するのであろうか。
 バナールがジェンキンスと違うところは、ヨーロッパ人の文化的傲慢をたしなめるとかの自分の目的に明確に表明し、そのためにバイアスがかかっている可能性を素直に容認したうえで「19世紀の思想的潮流のほとんどは人種差別主義や様々な種類の悪意に支配されていた」ことをも指摘し、自分と相手との論争のは、具体的、客観的資料によるとし、それが不十分な時は説得力に頼らざるを得ないとしているところである。
古代モデル追放の理由
 ヨーロッパ文明の源泉はエジプトではなくギリシャであるとした外部的影響。
1、キリスト教的反動、2、進歩思想、3、人種差別主義、4、ローマン主義的ヘレニズム
 それぞれについてのジェンキンスのバナール批判
 手を変え品を替え、いろいろなことにかこつけて、飽きもせず懲りもせず、ヨーロッパ人が他の人種より優れていると、同じことを執拗に繰り返し、言い続けるから、ヨーロッパ人にはそういわざるを得ないよほど強くて深い動機があるに違いなく、その動機についてはすでに論じたことである。
◎岸田秀氏によれば、ヨーロッパ人がずっと差別を受けてきたこと、の反動として,自分たちの優秀さをことさらに強調していたということ。
7、屈辱の連鎖としての歴史
史的唯幻論の仮説p141
 史的唯物論のように経済的要因とかで歴史が決定されるとするのではなく、民族や国家を最強の動機は屈辱の回復である。差別された屈辱に反発して、屈辱を克服するためにべつの誰かを差別し、今度はその新たに差別された屈辱に反発し、さらに別のものを差別するという、差別と屈辱、それへの反発の連鎖が歴史を形成するという仮説である。
最初の被差別民族としてのヨーロッパ民族
歴史的にヨーロッパ民族は、非ヨーロッパ民族にさんざん差別され攻撃され虐殺され続け、また逆に非ヨーロッパ民族を差別し、攻撃し、差別し続けた民族である。
 ヨーロッパ民族ほどの攻撃性を持っておらず、無警戒、不用心だった非ヨーロッパ諸民族はいとも簡単に征服され植民地化され、搾取された。
ヨーロッパ民族のアジア到達と日本の反応
 日露戦争は白人の侵略を押し返したアジア人の最初の偉業だった。
しかし戦争に負け、残念ながら、日本は名目的には独立しているが事実上アメリカの占領下にある。
 アジア解放史観とアジア侵略史観。中国はかっての大日本帝国の役割を演じ始めているのではないかという疑わせるに十分である。
アメリカと中国
 アメリカの対アジア政策は日本と中国を仲たがいさせておくことを主眼としている。
大日本帝国の成立と靖国神社
 遠い昔に発する欧米諸国のアジア侵略の衝撃が近代にいたってついに日本に及び、その衝撃にに対する反応として大日本帝国が成立し、靖国神社は大日本帝国を支えた様々な機構の1つであった。
 アジアへの欧米の進出が進歩する人類の歴史の必然的1段階であり、欧米、特にアメリカのアジア支配が全面的に正しいならば、それに反発して、大日本帝国をきづいて反撃した日本は全面的に誤ったことになる。
 しかし、私から見れば一般的に言って欧米諸国のアジア侵略はアジアにとってはなはだ迷惑なことであった。
 日本は正義の観念に取りつかれてその狭隘な観念にそぐわないとして本来ならば、味方につけるべき他のアジア人を敵に回し日本人だけでアジアを開放できると誇大妄想におちいったのである。
自らを正義の味方とうぬぼれてアメリカの策にはまり、味方として不可欠な中国を敵に回したからであった。
◎経済的要因で歴史の根本が変革されていくという、史的唯物論は有効である。しかしながら、以前の硬直したスターリンや毛沢東などの歴史観はいろいろな過ちがあり、実際の政治で多くの人が弾圧され苦しんだ。
 3年かん3回沖縄に行ってみましたが、事実上アメリカの占領状態にあることがよくわかります。また東京周辺でもたくさんの米軍基地があります。日本の自衛隊も事実上アメリカ軍の指揮下にあることがよくわかります。
8、ヨーロッパ製世界史の欺瞞
Mリベラニ「産湯と赤ちゃん」、CMロジャース「多文化主義とヨーロッパ文明の基礎」の批判
バナールはアフリカ、アジア中心主義に偏りすぎている、との批判
人種差別主義の陰謀
アーリア・モデルの成立
岸田 秀氏の考え
 バナール理論が、アーリアモデルを決定的に打ち崩したので、バナールの批判者たちは、もはやアーリアモデルを弁護することはできないと諦めたものの、バナール理論の欠陥や弱点をいろいろ持ち出して反撃しているわけである。
 バナールは修正古代理論において、アーリア人の役割を認めているが、アーリア人というのは1つの神話であり、日本の天孫降臨と同じく、1種のファミリーロマンではないかと、、要するにアーリア人というのは架空の存在ではないかと考えているからである。(アーリア人というのは、インド=ヨーロッパ語族)
 ルネッサンスというのは再生であるが、ルネッサンスというのは詐称である。ギリシャ=ローマ文化の再生という意味だが、ヨーロッパ人の祖先はヨーロッパの森で未開野蛮な生活を送っていた。。近代ヨーロッパ人は他民族、それもアラブ人を仲介して輸入したのであった。(近代ヨーロッパ人といっても特にゲルマン人やノルマン人などの北ヨーロッパの人々-ブログ筆者)
 問題はヨーロッパは欺瞞と隠ぺいに訴えてまで、文化的傲慢を維持することを必要としたのかということである。
9.唯幻史観と科学的歴史
バナールの反論『黒いアテナは反駁する』(2001年発行、大冊の書)による、ベインズらに対する反論
バナールは問題はキリスト教文化以外を認めないヨーロッパ中心主義、人種差別主義にあるという。
エジプト人は黒人か
新大陸においてキリスト教徒でないものは人間ではないと差別したように、近代ヨーロッパ人は非ヨーロッパ人を理性を欠いているとみなして差別したのであった。p180
黒人は文明を創造したことはないなどと常々言われてきた。
アメリカやヨーロッパでは32人の曽祖父母に1人でも黒人がいれば黒人とするとされた来た。19世紀や20世紀のイギリスもしくはアメリカに古代エジプト人が現れれば「白人」とみなされることはほとんどないであろう。
10、日本兵と唯幻史観
 ヴェルミュールの批判(「世界がひっくり返った」)に対してのバナールの反論
 史的唯幻論も公正無私な普遍的な立場に立つ思想でなく、わたしの個人的経験を動機としている。
 死んだ日本兵のイメージが~大挙してわたしのなかに押し寄せてきてそこに住みついてしまったので、私は、、彼らがなぜ死んだのかの理由をなんとか説明し理解しないでは、この世の中でどうにも落ち着けないのであった。考える過程で自ずから形成されたのが史的唯幻論である。私は史的唯幻論を普遍的理論だと思っていないがヨーロッパ中心論者はそう思っているらしいという点である。
 ヨーロッパ中心主義はヨーロッパ人には都合がいいが、ヨーロッパ人以外にはこれまで甚大な被害をもたらしたし今も及ぼしているし、人類全体にとっても地球にとっても好ましくないので、見捨てておくわけにはいかないであろう。
 未開の人々の生活を、実際に共に暮らしてみると、不合理なタブーにとらわれ、食うや食わずのみじめな生活をしていると、思われていたのが、間違いだとわかった。のんびり、ゆったり豊かな生活をしことがわかった。
(白人支配者が入り込んで、搾取が始まり、みじめな暮らしが始まる)
 ヨーロッパ製大航海は難民、出稼ぎ人の海外荒らしであった。
11、人種差別主義と反ユダヤ主義
 M,ロジャースに対するバナールの反論
 よくあるパターン。バナールの説を全く認めないわからずやではないが、全面降伏するような骨なしでもない。
 バナールによれば、「黒いアテナ再考」の執筆者と同じく、またもやロジャースはバナール理論を攻撃するために彼の主張を誇張し単純化して攻撃しやすい形にゆがめているとのことである。
 言語の問題に関してもギリシャ語は基本的にはインド・ヨーロッパ語であって、ただ2つのアフリカ=アジア語、すなわち古代エジプト語と西セム語から大々的に語彙を借りているいると言っているだけだ、とバナールはいう。
 大英博物館の重要な展示品のほとんどは他民族、他国から詐取または強奪してきた盗品である。
 ロジャースはバナールがバナール理論を作ったのはユダヤ人だからであるという。
 バナールが古代エジプト人がアフリカ人であることを強調するのは、エジプト人をアジア人またはヨーロッパ人と誤解している向きがあるからである。エジプト人と東アフリカ人や北アフリカ人との間に生理学的なつながりがあるということである。
 古代エジプトがエーゲ海など周辺の諸民族に「宗主権」をもっていた。かれらは貢物をささげに来た。
12、白人とアーリア人
 岸田氏が白人にこだわっているのは白人に対する劣等感があることを示している。
 岸田氏の個人的な事情も絡んでいるかもしれない。子ども時代捕虜収容所で見た卑屈でだらしない捕虜たちを見て白人は劣等人種と思った。それが敗戦で真っ逆さまにひっくり返った。
何人かでアメリカの陸軍将校の家で英会話を教えてもらった。彼はオンリーさんと暮らしていた。日本女性が慰安婦としてアメリカ兵に仕えているのを身近に見たことは、何か屈辱感のようなものをわたしに感じさせ、それがトラウマになっているのではないか。
 白人にこだわるのは、偏見と劣等感との葛藤を何とかしたいというのも1つの理由かもしれない。
 白人とは何か 白人と非白人の境界は、時代、場所、人によってかなり変動するらしい。そもそも、人種差別に基づいて白人と非白人と区別され始めたのは近世ヨーロッパ人が他国、他民族を植民地化し始めてからのことであって、植民地主義を正当化するために白人という概念が形成されたのではないかと思われる。同じ対等な人間である虐待したり搾取したりするのは気が引けるが、劣等人種なら別に構わないという意味で、人種差別主義は植民地主義を支え、補完するため、良心を麻痺させるために必要だったのだろう。
 日本人が自分たちを黄色人種と思っているが、実際に肌が黄色いわけではない。
 白人の概念が変動してきた。インドでは貧乏な白人は生物学的には白人でも、白人ではない。白人とは人種差別主義の産物なのである。
アーリア人種
 最も過激な人種差別主義はやはりナチスドイツのアーリア人種至上主義であろう
 アーリア神話は日本に伝えられいまだに事実と信じられている
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◎図版は「詳説世界史図録」2014年3月、教科書副読本 山川出版社
アーリア人BC1500年ころパンジャーブ地方侵入、BC1000年ころガンジス流域に侵入とある
 日本の教科書 2003年山川出版社のもの「詳説世界史」
インド・ヨーロッパ語族、アーリア人は存在したか
 アーリア人の発祥の地がバラバラで二転三転するのも不信を募らせる。インド人は100年も前から「アーリアン学説虚構説」、を唱えているそうだ。
 アーリア人は存在したのか」津田元一郎「アーリアンとは何か」西欧の植民地支配とかかわっている
 イギリスの常套的な方法。植民地を分割して統治する。北部の人たちを同じ白人のアーリア民族とし、南部の黒い肌のドラヴィダ系住民と対立させるため。
 ドイツとアーリア神話-アーリア神話はキリスト教の支配を打倒しようとするゲルマン民族がよりどころのした神話ではなかったかと考えられる。
 ドイツは純粋なアーリア人なので金髪・碧眼であるが、インドに侵入したアーリア人はドラヴィダ人と混血して少し黒い肌、黒い髪となったというように表現する。
 アメリカでは白人の範囲はもっと込み入っていて、初めは、イギリス系だけが明確に白人とされていた。アイルランドはイギリスの植民地、アメリカに来たのは食い詰めた下層階級。イギリス系に差別され黒人と大して変わらぬみじめな状況に置かれたが、黒人とは違うことを強調し、黒人差別を強め白人にのしあがあった。はじめ、ポーランド、イタリヤ、スペイン人は白人かどうかあいまいであったが黒人アジア人と差別する必要から白人に組み入れられた。イギリス系だけが白人であった名残りはWASP幻想としていまだに残っている。南米からのヒスパニックは本人は白人と思っているがアメリカではなかなか認められない。
ヨーロッパの歴史とアーリア神話、ヒトラーとアーリア神話
 アーリア神話はゲルマン民族の誇りを守るためにはうってつけの神話であった。ゲルマン民族中心主義。清らかなアーリア文明とけがれて不潔なヘブライ文明がある。第1次大戦に負けたドイツ、アーリア文明の危機。ヒトラーの登場。アーリア民族、ゲルマン民族至上主義。ユダヤ民族を絶滅させる。ホロコースト。ロマ人なども。
アーリア神話と出エジプト
 インド・ヨーロッパ語の発見 アーリア人の表記、アーリア神話の利用
 アーリアンが西北インドからインドに侵入し、原住民を駆逐し、古代の輝かしいインド文化を創造したというアーリアン学説は、インドに対して、格別な文化工作的な意味を持っていた。インド人の祖先アーリアんもイギリスと同様に、インドに植民地的侵入をしたのであり、イギリスも同じことをしただけである。イギリス人と上層インド人はもともと同一種族であるということにより、上級階層をイギリス側に引き寄せる~
 イギリスの植民地支配は単に軍事力だけでなく、思想戦略が情報操作をするのがいかに巧妙であったかがわかるであろう。
 両言語が同系であるとしても、サンスクリット語をしゃべっていた連中とギリシャ語をしゃべっていた連中とは同じ人種だということになるのであろうか。
 ネアンデルタール人が存在したことを示す考古学的な証拠はたくさんあるが、アーリア人が存在したことを示す考古学的証拠はどこにもない。
 いずれにせよ、アーリア神話は話がうまくできすぎている。私の説も推測に過ぎないが、アーリア神話も私の説もともに、文献的証拠はもちろん、考古学的な証拠もないという点では同じなのである。アーリア神話と私の説ではどちらが説得力があるであろうか。
あとがき
 戦争に負けて、日本兵の崩れた死体の写真などを見て、憂鬱になり寝込んだりした。
いろいろ資料を読み、なぜこの戦争が起こったのかを考え、日本史、アメリカ史、世界史へと移っていった。
 東京裁判史観-アメリカ帝国主義―ヨーロッパ中心主義。ヨーロッパ文明とは何かに行きつく。
 ヨーロッパ文明が最高の文明で、アメリカの世界支配が当然。そのような世界史とは何か。欧米人から教わったコマーシャルである。欧米製世界史には嘘が多いのではないか。
 本書はコマーシャルはコマーシャルに過ぎないという単純な事実を炒っているに過ぎない。ただ日本の高校世界史教科書の編集者に、欧米文明を宣伝する欧米人のコマーシャルを頼まれもしないのに無料で広報してあげることはないのではないかということは言っておきたい。
◎このあとがきに岸田 秀氏の言いたいことは凝縮されている。この本は、人類の起源に関しての誤った記述などはあるにしても、基本的に正しいことを言っていると思います。特に日本がアメリカのある種の属国で、日本政府もその意のままに操られているということ、そして日本国民も考え方の基本もアメリカの意のままに操られているのを見るにつけ、そう思います。この岸田氏の本をトンデモ本扱いして入り人もいますが、虚心坦懐に今の日本の、そして世界の現状を見直してみる必要があると思います。
 能力不足と、時間不足で十分に読めなかったものですが、現時点で一応ブログを書いてみました。まだまだとても不十分です。これから、徐々にに、よりしっかりと追加して書いてみたいと思います。
 最後に、大変興味深い本を、ご紹介していただいた、岩城正夫先生に心より御礼申し上げます。
資料
2016,5,8「こういちの人間学ブログ」
 人間学研5月例会「どこまで人間と見るか、その2」
2015,10,15「こういちの人間学ブログ」
 「ネアンデルタール人と私たち人類」
2015,9,16「こういちの人間学ブログ」
 ネアンデルタール人と私たち人類・リンク集」
2015,8,14「こういちの人間学ブログ」
 ネアンデルタール人について図像の変化,赤い髪、白い肌イメージ大きく変わる
 

2016年5月29日 (日)

「耕地の子どもの暮らしと遊び」高橋喜代治氏の本と、「人間学ニュースの記事

 立教大学の特任教授で、人間学研究所員である高橋喜代治氏に、2016年4月の人間学研究所の合同例会でお話していただきました。そのことは、すでに、このブログで、お伝えしておりました。改めて高橋喜代治氏より、「耕地の子どもの暮らしと遊び」~旧倉尾村長沢耕地の記憶、発行、ブイツーソリューション、本体価格1000円+税、が送られてきました。本とともに毎日新聞の「火論」の記事と手紙も添えられていました。どうもありがとうございます。大変素晴らしい本の内容なので、このブログで皆さんにご紹介します。またおもしろそうだなと思いましたら、ぜひ直接お買い求めください。

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本の表紙です。大判の立派な本につくられています。

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昭和30年ごろの長沢耕地の地図大きな地図の左半分です。絵の上の方に高橋喜蔵さんの家があります。筆者高橋喜代治さんの家です。記事とともにたくさんのすてきな図版が載せられており、それも素晴らしいものです。

目  次

はじめに  

 昭和24年に長沢耕地で農家の二男として生を受けた。耕地とは農業を営む集落のこと・だ。この本を出すことを思い立ったのは、耕地で生を受けた私の経験をとおして、1人の人間の育ちと育んでくれた人々の面影を残しておきたかったからである。

(項目すべてを書きませんでした一部だけ書きました)

第1章 遊び P7

 遊び道具はほとんどが手作りである

 1、うまのり

 2、ぶっつけ(メンコのこと)

 3、三角自転車乗り

 4、釘ぶっとうし、(くぎ打ち)ビー玉

 5、ぺっことしゃ(蛙)と麦わら (新潟では蛙のことをゲル、オタマジャクシをゲルマンコと いった)

  6,かぞがらのチャンバラごっこ

 7、手作り車と坂道レース

 8、川遊び

 9、篠でっぽう(しのだけで作る水鉄砲)

 10、相撲

 11、たがまわし

 12、石弓と小鳥(パチンコ)

 13、河原野球

 14、竹スキー

 15、山遊びと木挽き峠、茅の坂峠

 16、青大将からペッとこしゃ(かえる)を助けた

第2章 事件・冒険 P41

 心を揺さぶった出来事

 1、サイばあさんと青大将とヤスさん

   2,鷹を捕った話

 3、牛のお産と母のお産

 4,1円札でリンゴを買いに

 5、「アチイ」と祖父のまじない

 6、村で初めてのテレビ

 7、亀蔵さんの「テッサク」

 8、犬のシロのこと

第3章 手伝い P57

 子どもの労働も重要な働き手としてあてにされた

 1、ウサギの飼育

 2、タバコ買いと行燈

 3、牛の世話、サイロ詰め、牛洗い、乳缶運び

 4、薪しょい、ぼや拾い

 5、ふろ沸かしと杉っぱ拾い

 6、水車当番と母の連れ

 7、茶摘み、紙漉き、味噌、豆腐

 8、オカイコあげ

 9、こんにゃくの消毒

 10、モロコシもぎ

第4章 食い物と遊び p79

 ひもじい思いはしたことはなかったが食い物は限られた

 1、ニシン沢とサワガニ捕り

 2、イシンタ(谷底)と魚捕り・洞窟探検

3、のぞきガラスと魚捕り

 4、蔵の下のスズメの卵

 5、百合の根ほり

 6、とっかんまめ屋(爆弾あられといった)

 7、どどめ(甘い桑の実)つかありとどどめ色

 8、まめごな(大豆を炒った黄粉)・こうせん(大麦を炒って引いてkなにしたもの)とぴーぴっぽ(葉っぱ)

第5章 行事 P97

 行事とはハレの日であり、うまいものが食えることだった

 1、お正月と子どもの仕事

 2,1月1日の登校とミカン

 3、正月と吉田の伯父さんとお年玉、自前の凧

 4、虫の口焼き(害虫の名を言い唾を吐きかけまたイワシの頭を火でやく)

 5、とおかんや(わらでっぽうで地面を叩く)

 6、運動会と「おひまち」

 7、お盆と盆流し

 8、つつっこ(米と小豆をほう葉で包みゆでるたべもの)

第6章 余禄 P113

 1、あかぎれと青っぱな

 2、満天の星と怖かった便所

 3、囲炉裏端と昔話

 4、病気、ケガと塚越の新井病院

 5、屋号と鍛冶屋の清君のこと

 6、よおめし(夕食)と夜のひと時

 7、大橋のおばさんと反物やさんのこと

 8、長沢のバス停と乗り合いバス

 9、上郷公民館と村芝居

 10、村社の祭り

 11、耕地のあいさつと口上

 12、皆野の「矢尾」の出店

 13、耕地の有線電話

 14、山菜取りなど

耕地考―あとがきに変えて  P141

 耕地は小さな宇宙である。長沢耕地にバス路線が開通したのが昭和29年のことである。

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17ページ、釘ぶっとうし、本当の5寸釘は少なかった。

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21ページ「チャンバラ遊び」チャンバラの刀はかぞがらを使うことが多かった。

かぞがらは楮の皮をむいた後の白い棒である。

 

ちょうど「Humanology]のNo,76が届き、高橋さんの文章が掲載されていたので、紹介させていただきます。

「耕地という小さな宇宙から眺めてみて」

 -拙著「耕地の子どもの暮らしと遊び」のあとさき・うらおもて

1、はじめに

 この春に「耕地の子どもの暮らしと遊び」という、私の子ども時分の暮らしや遊びなどを体験的に綴った本を自費で出した。秩父の北西部に位置する私が育った長沢耕地は(長沢耕地)は鋭く切れ込んだ谷のわずかな平地に開かれた15戸の山岳集落だ。我家の標高は550Mくらいだ。私はそこで高校生まで暮らして、大学に行くために東京に出た。

 この本がかって毎日新聞の記者をされていた倉田眞さん(本研究所所員)の知るところとなって、毎日新聞の火曜日連載のコラム「火論」(4月12日朝刊、玉木研二記者)で紹介していただいた。また4月22日(木)の人間学研究所の例会でもこの本をもとに報告させていただいた。

 私がこの本を出したいと強く思ったのは、失われていく耕地のなりわいや風景を遊びや仕事などなどの子どもの目をとおしてのこしたかったからである、。そして考えたかったからである。私はこの数年、このままでは私が育った長沢耕地は世の記憶から消えてしまうのではないかという焦燥感にかられてきた。おそらくそれは、家や畑や山林が消えるだけではなく、祭りも伝統も様様な技も一緒に消滅することになる。

 長沢耕地の私の体験にこだわって書いたから世間一般には通用しないことも多いと思うが、リアルさは出せたと思う。玉木さんはそれを「小宇宙から見る昭和戦後の一断面になったようだ」と評してくれた。

2、今、私の耕地はどうなっているか。

 耕地とは、山間に拓かれたひとまとまりの集落のことである。平成28年の今、私の長沢耕地はどうなっているか。私の子ども時分の昭和30年代と比べながら、エピソードふうに二つだけ述べて説明としたい。

(1)一人暮らしの老女Tさんのこと

 本ができてすぐに私は長沢耕地に戻って耕地の人々に本を一冊づつ配って歩いた。Tさんという87歳のひとり暮らしのおばあさんの家にも届けた。「コンニチワー」と玄関の戸を開けて2坪ほどの土間に入った。耕地ではどの家も玄関にカギはないので、昔からそうやってズカズカ入っていくのが普通である。中は真っ暗なので留守かとも思ったが、奥の方でテレビの青白い光が微かにチラチラしていたので「Tさん、お久しぶりですキヨジです。分かりますか」と大声で呼んだ。するとTさんが、4つんばいになってノロノロと暗闇から這い出してきて「ニシ(我家の屋号)のキヨチャンかえ。しばらくでがんす。」とすぐに私を認めた。

私が「こんな真っ暗の中でどうしたんですか。」と言うと、「一人だし、電気デーが持ってえねえから、つけねえでいたんだよー」と云い、続けて次々に今の不遇な身の上を話し出した。大工だった長男が病気で働けなくなりお金を入れてくれなくなったこと、二男が勤めていた会社が潰れてしまい消息不明になっていること、たった1人の娘は嫁ぎ先のことに忙殺されてめったに来てくれないこと、そして今は治療中の足腰の薬代にも困っている自分のこと・・・。Tさんの3人の子どもは私より少し年下だが、耕地中を駆け巡って遊んだ仲間で、中学を卒業し町で職に就いていた。私はふと、二男を産んだその翌日に近くの沢から飲み水を入れたバケツを天秤棒で担いでいた若い日の元気なTさんを想い出した。私が小学3年生の頃だ。

 私は愚問を発してしまったことを悔やんだが、10分ほどT さんの深刻でとりとめのない話を聞いて、本を渡し、そこを辞した。

 私が育ったころの長沢耕地は15家族100人が暮らしていた。子どもも30人ほどいて、いつも村中に甲高い歓声が響いていた。それはたぶん小林一茶の「雪とけて村いっぱいのこどもかな」の句と同じ世界だろうと思う。どこの家も祖父母・父母・こども三世代の家族構成で、一人暮らしの老人などいなかった。粗末なものを食い、これといった娯楽もなく、朝早くから働き、夜は8時頃には眠ってしまう日常。嫁舅の確執がどこに家にもあって、隠したつもりだろうが子どもの私の耳にも近所の嫁舅の互いの罵りが漏れ聞こえてきた。だが老人たちは家族に見守られ畳の上で死に、野辺送りされた。

 今、耕地の住民は、8軒15人である。独り暮らしはTさんを入れて4人である。多少の事情は異なるが、4人は似たような境遇になっている。耕地の人たちは否応なくそうなってしまうのである。

 火事になっても消す人がいない。天王様の祭りも幟を立てる人がいないから消えてしまった。行事や念仏講、種々の寄り合いもとっくに失せた。誰も「この耕地はおしまいだ」と思い、時代の流れ、運命だと諦めひっそりと暮らしている。

(2)耕地に獣が住みついた

 1オ年ほど前の春、未だ母が生きていた頃、帰京の折に吊るし柿にする蜂谷柿(渋柿)の苗を植えようとしたら。「キヨチャン、家の周りに柿を植えるのはよしてくんな。熊が出ておっかなくてしょうがないんだから・・・」

私は直ぐにあきらめた。確か前年の秋に、耕地の中にあった栗の木が熊にやられて、耕地が大騒ぎになったと母から聞いていた。

 今耕地は家々の庭先まで山林が忍び寄り、山と区別できなくなりつつある。我が家の裏のうっそうとした竹林はかっては麦畑で、金色の穂が波のように風になびいていた.土留め(桑の実)を探して歩いた桑畑も今は桑の木の林と化している。人手の入らなくなった山の杉林は荒れ放題で保水力が弱まり、大雨のたびに崩れていく。川は往時の半分にもならず、場所によっては枯れて水無し川になって白い川肌をさらしている。

かっては山の奥にいた獣たちは耕地の中に巣穴を作り、耕地中を闊歩する。イノシシが沢の石をひっくり返してサワガニを食い、ミミズや草の根を探して墓石までひっくり返す。生垣の若芽をシカがきれいに食ってしまう。タヌキが空き家になった家に入り込んで棲家とし、縁の下に糞の山を築いている。

新見南吉の名作『ごんぎつね』のごんの巣穴は村の山の森の中にある。ゴンはそこから村中に出てきてはいたずらばかりして村人から嫌われ、悲劇的な結末をむかえることになる。つまり、本来は山に居るべき獣が、人里に出てきてしまったのである。棲み分けのタブーを親から教わらなかったがために犯してしまったごんとうひとりぼっちの小ギツネの悲劇の物語である。耕地の奥山に棲んでいたキツネが、ごんのように、たまには出てきて裏山のサツマイモを掘り起こしたこともある。奥山でケンケンという犬が風邪を引いたようなキツネの鳴き声を聞いたこともある。だが、獣たちが耕地中を闊歩する今では、『ごんぎつね』のような奥山と里山と人里が背景となる物語は生まれようがない。

 集落の周りの畑を耕すこともなくなった。鍬も鋤などの農具も用なしになり朽ち果てるのを待っている。キツネやタヌキ、そして天狗も山奥に住んでいないから、そしてたまに夜遊びのために隣の村まで峠越えする人もいないから、化かしたり肝試しに村人の前に現れたりできない。柳田国男の『遠野物語』のような共同幻想の世界はもうおこりようもない。

3、読者からの感想を読んで

 本を読んだ感想の手紙がいくつか届いたので、二つ紹介する。

一つは86歳の埼玉県北の女性Sさんからで、「牛のお産と母のお産」(p47)の話について4枚もの鉛筆書きの丁寧な感想を寄せてくれた。

 我家では牛を1頭飼っていて子牛を産ませ、その後搾乳をしていた。母牛に種付けをしたりするときには必ず獣医を呼んで大騒ぎして産ませた。臍の緒は、鎌を囲炉裏の火で焼いて消毒し切ったという。

Sさんは80年近くも自分の胸のうち仕舞っておいたおいた母へのすまなさ、その時の心細さを次のように綴ってよこした。

 「特に心を打たれたことがあります。私が9歳の時、昭和13年1月13日、忘れもしません。『牛のお産と母のお産』を読んで同じようなことがあるんだなーと、びっくりしました。私の弟が生まれるとき、私がお湯をわかし、母が一人でお産をして臍の緒を切って、私がタライに湯を入れ母が湯加減を見ては初湯をつかわせたのです。そのことは誰にも話さず母と二人で話したことはあっても他人に話したことはなかったです。近くに産婆さんがいたけど我家の事情で頼めないことは子供ながらにわかっていました。このことは恥ずかしいし情けないと、いまだに母のことを想い出すと心がいたみます。」

 手紙を読んで、私はあったこともないSさんと何だか旧知の仲であるかのような錯覚におちいった。

もう一つは「サイばあさんと青大将とヤスさん」(p42)を読んだ、サイばあさんの曽孫の若い女性Mさんからの感想(謝辞)である。私が本に書いたサイばあさんにまつわる話とはおよそ次のようなものである。

 私が小学校に上がる前だった。ある夏の昼、耕地の往還をくねくねと横切る2メートルもありそうな青大将に私は出くわした。私は興奮して、一緒にいた友達と棒でたたき殺そうとした。その時、サイばあさんが目をつり上げて怒り甲高い上ずった声で「それはヤスだ。よせ。ヤス早く逃げろ」と怒鳴って道端に追いやってしまった。私は呆気にとられて見ているだけだった。

 後で知ったのだが、ヤスとはサイばあさんの二男の安衛さんという人で、戦争末期の昭和19年、ニューギニアで戦死した。享年21歳。もちろん遺骨などはない。この日はもしかしたら、ヤスさんの命日だったのかもしれない。

 Mさんはこの話を読んで初めて曾祖母にあたるサイばあさんのこのような事実を知った。そして「読んで涙がとまりませんでした。ほんとにありがとございました。」と書いてよこした。

 私はMさんとは全く面識はないが、ずいぶんと身近に感じた。 

4、結び

 私は懐古趣味でこの本を書いたつもりはない。もしそう感じられる人がいたら、それは私の力不足によるものだ。日本のどこにでもある深刻な限界集落の現実と消滅の意味が理解されていないように思う。このままでは伝統も技も永遠に失うことになることになるのではないか。日本の懐が浅くなって、のっぺりしたものになってしまうのではないか。そういう思いを書いたつもりだ。

 数年前に、私が担任した生徒たちの同窓会(中卒後30年経過している)があって、私も招かれて出席した。宴も中盤になってあちこちにいくつかのグループができた。私の周りにも数人が集まってきて、懐かしい話がとりとめなく続いていた。酔いも手伝って、消えゆく田舎のことを本にしたいと漏らしたところ、出版社に勤めていたK子(中1と中の時に私が担任した)が「センセー、それ私にやらせてください。安くしとくからー」と勢いよく名乗り出た。

 そんなわけで、K女史のおかげで本が成った。墨絵のイラストも全部彼女が担当してくれた。そういえば彼女は絵も得意で美術の成績がとても良かった。

◎発行所 ブイツーソリューション

 名古屋市昭和区長戸町4-40

 電話:052-799-7391

追記

 ブログ筆者は昭和18年生まれだが早生まれなので、級友は昭和17年の人が多かった。新宿という都会で生まれ育ったが、戦後まもなくは原っぱが多かった。特に戸山が原には弾除けの人口の山、三角山があり、自然が多くのこされていた。三角山では山の上の方と下の方、二手に分かれ、土塊を相手にぶつけるという遊びでした。戦後まもなくは戦前に作られた射撃場があり、鉄筋コンクリートのカマボコ状の射撃場ではいつも機関銃などを撃つ音がしていました。その後山は壊され、バタヤ部落になりました。それも壊され、今はいろいろな建物に変わっています。

 私たちもいろいろな野外の遊びをしました。この本にある遊びと、この本にない遊びがありました。馬乗り、釘差し、ビー玉、メンコ、チャンバラ(セイタカアワダチソウの枯れ枝と、うちは桶屋で木の木っ端があり刀が作れた。材木を乾燥させるために井桁に組んだところを基地にして遊びました。戦後まもなくでこの本にはない、「すいらいかんちょ」という遊びをしました。敵味方に分かれ、艦長、駆逐(艦)、水雷(艇)と役割が分かれます。艦長は駆逐艦に勝ち駆逐艦は水雷艇に勝ち、水雷艇は艦長に勝ちます。艦長は一人で水雷に捕まると負けです。水雷が一番数が多いのです。あとベーゴマもはやりました。Sケンというのもよくやりました。ほかにいろいろな集団的な遊びがあり、夢中で遊んだものです。

 手伝いはいろいろありましたが、中学生のころ木曾から早朝に大きなトラックで風呂の材料が届きます。檜の材は大きな長い板です。それを2人がかりで、特殊な道具でもって干場に運びます。それはかなり力がいるものでした。サワラの木は適当な大きさに束ねたものです。

2016年1月12日 (火)

戦争伝える『最若手』が手記、戸山高1年後輩が自費出版 本が届きました

 2016年1月11日(月)の毎日新聞朝刊24面に、「戦争伝える『最若手』が手記」、戸山高1962年卒同期生有志が自費出版という記事が載っていました。
 ブログ筆者は1961年戸山高校卒業ですから、1年先輩になります。
 終戦直前の1943年~44年に生まれ、都立戸山高校を62年3月に卒業した同期生の有志がブックレット「私たちの”戦争体験”、終戦直前に生まれた世代から」を自費出版した。「若い世代の戦争の悲劇を伝えたい」と企画。困難を乗り越えた記憶をつづり、平和への強い祈りを込めた。

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 本を手にする編集責任者の狐崎晶雄さん(右)と、編集委員の一人、井伊直允さん

  集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更の議論が高まっていた2014年5月,有志の一人、狐崎晶雄さん(71)が、同窓会誌に「私たちの記憶を残す必要がある」と寄稿したのがきっかけ、「私たちは戦中、戦後の記憶がある、最も若い世代。1,2年史他の人ではもう書けない」と狐崎さん。共鳴した同期生が次々とメールを寄せ、15年7月の同期会で「本にまとめよう」との提案が同意を得た。同期生は400人以上おり、35人が執筆した。多くは疎開を経験した。

 疎開先の水戸市で父の死を知り小学校では、残された母や兄と別れて水戸の母方の祖父母に引き取られたOBはこう書いた。

 当時の小学校では、クラスには必ず何人か父親を亡くした子がいました。母親の再婚で複雑な環境にいる子も多かったように思います。

 空襲で新宿区の家を失ったOBは、戦後、3歳の時に叔母が抽選で当てたバラックを一かが譲りうけた。当時を振り返り、

 壁は薄い板、屋根は屋根にコールタールを縫って風通しは滅法よく、台風の時は屋根が飛んでしまって、去ったあとに月を眺めて寝たことを思い出す。

 旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島から引揚げた人も多い。平壌付近から脱出したOBは、

 私は部隊で最年少の生存者になっていた。子供を失った母親たちの咎めるようなまなざしと「次はこの子だ」というささやきが怖かった。

 別のOGは現地で憲兵隊長を務め、収容所に13年間いた後に帰国した父の具体的な戦争犯罪を、2010年はじめて知った際の衝撃をつづった。

同書の編集委員会は600部を印刷。製作費40万円は同期生仲間の寄付でまかなった。関係者らが購入して残りは約60部。増刷や電子書籍化を検討している。600円。書店には流通していない。問い合わせは、桐書房(03・5940・0682)かメール(sensoutaiken@yahoo.co.jp )へ。

 筆者は早速申し込みしました。メールしましたら狐崎さんよりの返事のメールが来ました。金額は600円+250円計850円 発送は月末から翌月はじめごろになるかもということでした。

◎ なお狐崎晶雄氏は、元日本原子力研究所所員、元青山学院大教員など、いろいろな本も出しており、核融合についての権威です。

 本が届きましたら、またここで、ご紹介します。

1月17日 追記 早くも本が届きました。全部で35人の思い出が書かれています。

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 編集者の井伊直允さん  「土下座する元上官」

 東戸山小学校の校長先生が、入学式のお祝いの言葉で、「君たちのお兄さんやお姉さんに”日本のために戦場で死になさい”と教育してきました。今後、私は君たちを二度と戦場ににいかせない為に身命を賭していくつもりです。

 憲法9条は、こうした先輩たちの血涙流れる反省の上に立って国民に受け入れられたのです。当時、保守革新を問わず「戦争の放棄」は国民何百万の血で贖われた決意として世界に表明されたのです。自分は戦場にも行かず一滴の血を流すつもりもない「戦争フェチ」の幹事長や膨大な薄汚い利益を財界に齎(もたら)す見返りに,自らの政権を支持してほしいお坊ちゃん首相などのために変えられてはなりません。

 編集者の狐崎晶夫 「ひとさらい」

 筆者(狐崎氏)の母親が結核で入院しているとき、通りかかった(ひとさらいの)おじさんが、病院に行って母親に会わせてくれるというので、筆者は自転車に乗ってしまった。筆者の兄さんは片目が不自由だったので売れないから残そうとした。兄がいっちゃダメと大泣きしながら捕まえていてくれた。しかし、連れていかれてしまった。そこへ運よく自転車の父が返ってきて、追いかけていって連れ戻してもらった。あと10秒遅れていたら今の筆者はなかっただろう。どうして殴り掛からなかったのか聞かれ、父は「あの人もかわいそうな人だった。戦争で狂わされてしまったのだから」という答えでした。戦争になると前線の兵士以外の町の人々をも狂気にしてしまうのです。兄の目も水不足、燃料不足で産院の湯も入れ替えできずに汚れた湯から細菌が目に入り失明したのです。

 戦争を招いたのは、政治に無関心で善良な市民だったという分析もあります。

◎このブックレットに書かれている内容は、この井伊さんの言葉に尽きると思います。

 35人の方それぞれに戦前の自分の両親や叔父叔母たちがいかに戦争で苦労し、また死んで行ったかを語っています。又戦後には自分たちも戦争の影響で悲惨な暮らしをしまた見聞してきたことを伝えています。筆者は彼らとほぼ同世代なので、強く共感します。それとともに、なんとか戦争法案を通そうとする安倍内閣に対しての憤りを強く感じるものです。

 

 

2015年11月30日 (月)

焼け跡の「戦後の貧民」,70年前の日本人たち 塩見シリーズ完結。”駅の子”の放送

 2015年9月20日、塩見鮮一郎氏の『戦後の貧民』が文春新書(800円+税、文芸春秋)として出版され、「貧民シリーズ」が完結しました。筆者のブログでも 『江戸の貧民』、『貧民の帝都』を紹介しました。『中世の貧民』はまだ紹介しておりません。
 昭和20年夏、敗戦。焼け跡から立ち上がる日本人は逞しかった。復興マーケット、闇市、赤線、…7歳で終戦を迎えた著者だから語りえた、あの時代の日本と日本人!
 この本のカバー裏にかかれている言葉です。昭和18年2月に生まれたブログ著者は、戦前の様子また戦争直後の状況を知りません。しかし戦後の混乱期は、自分自身で見聞しています。
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この写真は檻に入れられた浮浪児たちです。
まえがき
 有史以来、庶民がもっとも貧困に喘いだのは、このときである。
 そう遠いむかしではない。
 すぐそばのことだ。数千万の人が絶望的な飢えと病気にさいなまれ、路上にうち伏して夜をすごした。水を求め、まだ熱くくすぶっている焼け跡をさまよった。読者の近親や知人に、その時間と空間を生きた人をまだ見付けることができるかもしれない。
 7歳のわたしは死がすぐそばにうずくまる赤土の焼け跡にたたずむだけであった。
 無残な破壊の意味を問う余裕はなかった。
 少年のわたしが見た「リアルな残虐の世界」を、二十一世紀の「豊穣の幻影の社会」にうまく伝えることができるのだろうか。蚤に食われ、虱にたかられ、皮膚病にくるしんだ現実こそが大事であった。何日も風呂に入れない。病院は燃えて医師はどこかへ逃げている。赤痢やチフスなどの伝染病が蔓延する。
 下痢がやまない子がいた。
 わたしもそのひとりだ。
 悪趣味にならないように注意しながら、史上最悪の日々の片鱗を書きとどめたい。
序の章 占領
第1章大移動の始まり
兵士の帰還
闇市の成立
バタヤ部落とアリの街
第2章米兵慰安婦と売春
GHQと特殊慰安施設協会
夜のパンパン
東京の赤線と青線
戦争未亡人
親なきこと混血児
第3章さまざまな傷痕
伝染病の蔓延
見捨てられた皇軍兵士
原爆被災地の地獄
厳寒のシベリア 
戦後の部落
 今世紀になって出現した「ヘイトスピーチ(憎悪表現)に意表をつかれた思いがした。政治的な背景があるのだろうが、「韓国へ帰れ」とか「朝鮮人は死ね」などという言葉が白日の街頭で聞かれるようになった。新宿区新大久保の路上にあらわれた黒い集団は、日の丸や旭日旗を掲げて怒号した。わたしは耳をふさぎ、目をこすった。信じられない。在日朝鮮人がさまざまな特権を与えられていると妄想したのか、わざと誤伝しているのか、いずれにしても貧しい精神だ。かなしいのは、かれらもまた社会から相応の評価を与えられないまま堪えがたい日々にいることだ。かしこいメフィストが憤懣のはけ口の弁をあけて、閉塞感からの解放をすすめた。社会の常識に挑戦しろ、言いたいことをいえ。裏返った旧左翼みたいだ。奈良県の水平社博物館の前の広場にやってきて、拡声器を使って街宣をする。
「ド穢多どもはですねえ、慰安婦イコール性奴隷だと、こういったことを言ってるんですよ。文句あったら出て来いよ、穢多ども。〜」199
ほんの一部だけあげておきました。他は表題だけをあげておきます。詳しい本の内容はおいおいに書いていきます。
あとがき
「闇市にゴミは出なかった」
このフレーズは物資がいかに欠乏していたかを如実に物語っている。
 日本軍がアジアの国々に支配を広げて略奪した歴史をもっとはっきり学校で言うべきだ。戦力を誇示し、武器で農民をおどして満州国を作り抵抗する農民を「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす「という三光作戦で残虐を極めた。そのことを、ちゃんと教えなければおかしい。
 戦後に生まれた子は何も知らされていないから、70年も過ぎたのに、中国や韓国が『反日の言辞』を述べるのが得心できない.不当にいちゃもんを付けられたように錯誤している。相手が無理難題を執念深く言いふらすので、ひとりいら立ち「厭中嫌韓」の感情に閉じ込められた。わたしが少年のころ「大東亜戦争」がなにかを教えられないまま「軍国少年」になった姿と、今反韓を唱えている若者は似ている。
◎この本を書いた塩見鮮一郎氏が、『貧民シリーズ』を書いたエネルギーは戦後間もない時期の、「有史以来、庶民がもっとも貧困にあえいだのは、この時である」
◎戦後から現在に至る、新大久保での、、筆者が実際に見聞した状況については、前に書いた下記のブログに書きましたので、そちらをご覧ください。
「貧民の帝都」隠蔽された東京―新大久保にあったスラム」
1、簡易宿泊所
今も、山手線の線路際などに少し残る、以前は街中にたくさんあった。一部屋を3段ぐらいに仕切ってベッドがある。この前火事になって問題になったが3畳ぐらいを2つに変形した形に仕切った部屋が出てきた。
2、バタヤ部落
 新大久保にあったものは撤去された。公営住宅やマンションなっている。廃品回収や、日雇い労務者。
3、今もいるホームレス
 戸山公園や新宿中央公園などにビニールシートで作ったテントがたくさんあった。今は追い出されている。アルミ缶の回収などで生計をたてている。自動販売機を回り、お釣りの取り忘れ、販売機の奥に入ったコインを回収する。
4、乞食
 新大久保のガード下など。ひどく腰の曲がったおばあさんの乞食がいたが、強制的にどちらかの施設に収容された。
◎一見、身ぎれいな格好をしていても、最下層ぎりぎりの生活をしているワーキングプアの人々が増えている。正規労働者が減り、非正規労働者が増加している。
 2014年の師走の総選挙で政権与党は雇用が100万人増えたと喧伝していたが、そのうち正社員はどれくらいかというと、実は減っていた。
2012年7月から9が月の正規労働者は3327万人だったが、2014年7月~9月期は3305万人で22万人の減。逆に同期間の非正規労働者は1829万人から1952万人へ123万人の増。差し引きで101万人増加したというだけだ。
 「今日からワーキングプアになった」から。
    -底辺労働にあえぐ34人の姿       
          増田明利、平成27年11月刊、彩図社
増田明利の本シリーズ
 今日、ホームレスになった
    ー15人のサラリーマン転落人生
 今日、ホームレスになった
    -平成格差社会論
 今日から日雇い労務者になった
    -日給6000円の仕事の現場
 今日。会社が倒産した
    -16人の企業倒産ドキュタリー
    彩図社
◎戦後70年たっているが、貧困の状態は変わらない。仕事が厳しく、精神的に病んでいる人も多い。一部の富裕層はますます富栄え、格差は増大している。 
 最近新大久保では最下層で汚い身なりをしたホームレスが、目に触れにくくなって居るがどこかに追い払われただけです。新大久保でも部屋を細かく区切った部屋などが作られ、火災の発生などで死者が出て問題になったりしている。現在は様々なかたちの非正規社員が増えている。(「今日からワーキングプアになった」など。)中年でもどんどん非正規者社員となっていることにより、やって生活している人が増えている。これでは結婚など不可能であり、人口など増えようがない。
塩見鮮一郎氏の著作とそれに関するブログ
「貧民の帝都」隠蔽された東京-新大久保にあったスラム
 『貧民の帝都」 塩見鮮一郎、2008年9月20日、文春新書
「部落差別の根源、穢多と非人とは、-『江戸の貧民』から
 『江戸の貧民』 塩見鮮一郎、2014年8月20日、
 『中世の貧民』説教師と廻国芸人
           塩見鮮一郎 2012年11月20日、文春新書
NHKのおはよう日本で、2015年8月15日(土)同じような内容がテレビでも最近放送されました。
「”駅の子”の経験を 子どもたちへ」
 終戦の日で、戦争孤児の問題を扱っています。
 太平戦争末期、空襲などによって親を亡くした「戦争孤児」、全国で12万人以上板とされています。戦後、孤児の中には駅で暮らす子どもたちがいて、”駅の子”と呼ばれることもありました。
苦しかった戦争孤児の体験を、若い世代に伝えてほしいという動き。
奥出広治さん(76)戦争孤児、京都駅での暮らしを生徒たちに話す
「今、日本が戦争に巻き込まれるとか巻き込まれないとか言う話が出ているので、今の若者に、戦争とはどういうものであるか知ってもらいたい」
「例えば1日に1回だけサツマイモ、生のまま、それを駅のトイレで洗って丸かじり」
「一番つらかったのは、僕の父が僕のそばで死んだこと」
「死んだといってもまだ完全には死んでいなかった。虫の息だったが死んだとみなされて、職員が担架に乗せて乗せて連れていく」「人間の死体を山のように積んでいる」「そこにポイとほかされて、その時が一番つらかった」『結局、戦争をしたら絶対いいことは残らない僕らみたいな惨めなもの〈を生みだす〉僕は戦争の体験は無いけれど、戦争の被害者」
「孤児になったのは6歳の時、駅で物乞いや靴磨きをしながら、飢えをしのいだ」
「駅には同じような子がたくさんいました」
「その後民間の施設に保護され、駅の暮らしからは解放されたが、寂しさは消えず、両親の面影を求めて何度も施設を抜け出した」
 立命館宇治中学校の本庄豊さんが教室で奥出さんの話を子どもたちへ
◎筆者は幸い家族もそろっていたので、新大久保周辺がすべて戦災で丸焼けとなり、そこでバラックを建てて住んだが、駅に住む浮浪者に比べればはるかに恵まれていた。しかし、新大久保の周辺でのバタヤ部落、簡易宿泊所、などのきびしい生活の状況は良く知っていた。その貧困の厳しさは、現在もつづいている。前に書いた「貧民の」帝都に関するブログに書きました。

2014年12月28日 (日)

ピケティ氏の「21世紀の資本」について,マルクスの「資本論」と対比

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「21世紀の資本」先にいろいろな解説を読んでいて、後で、本の実物が来ました。

表紙の帯封には  r>g  資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続不可能な格差を生み出す

また「本書の唯一の目的は、過去からいくつか将来に対する慎ましい鍵を引き出すことだ」と書かれている。

裏表紙はこの本のポイントが「本文」より書かれている。

また裏表紙の帯封には、この本を絶賛する言葉が書き連ねられている。これは後の文章をご覧ください。

世界的なベストセラーに 

 2014年12月22日の日本経済新聞の1面の「展望2015」というシリーズで2番目はトマ・ピケティ(Thomasu Piketty)氏の「21世紀の資本」という本についてです。原題は”LE CAPITL au XX1e siecle”で英文では”Capital in the21st Century(21世紀の資本-論)です。2013年フランスで公刊され,2014年に英語版に翻訳され、Amazon.comの売り上げ総合1位になるなどベストセラーとなり、各国語で翻訳されました。みすず書房の「21世紀の資本」の案内では重版中です。在庫僅少です、となっています。Amazonでは来年入荷ということで、楽天で購入しました。

マルクスの資本論との対比

 翻訳ではマルクスの「資本論」(Das Kapital)と誤解されるので、「21世紀の資本」と違う名前にしたのでしょう。インターネットでは書名を「21世紀の資本論」としているものがたくさんあります。日本ではみすず書房で翻訳販売されています。価格は5500円(税込5940円)で翻訳は山形浩生、守岡 桜、森本正史各氏の3人です。日本語版で本文608ページで、総ページが728ページという分厚い専門書にかかわらず、経済、ビジネス書で1位になっています。2014年12月8日に第1刷が出て、12月22日には第4刷となっています。

 マルクスを研究している学者のデビッド・ハーヴェイ は評価するところもあるが総じて批判的だ。ピケティの「不均衡を救済するための提案は、夢を見ているとまでは言わないにせよ、考えが甘い。それにピケティは21世紀の資本家のための経営モデルというものを少しも作りだしていない。だから我々はまだ、マルクスまたはその現代版が必要なのだ。ハーヴェイはまた、ピケティがマルクスの「資本論」を読みもしないで退けていることを、批判している。ーーWikipediaによる。

 マルクスの「資本論」の重要なところは、剰余価値説です。資本家の獲得する利益は労働者の生み出す剰余価値であり、資本家は搾取階級であるとする。労働者は貧困化し、必然的に階級闘争が起こり、資本主義は必然的に崩壊する、という考え方です。

◎ちなみに筆者はマルクスの「資本論」は今から50年ほど前に「マルクス、エンゲルス人間論」をまとめるために、岩波版や大月書店版を購入しました。全部を詳しく読んだわけではありませんでしたが、人間論に関するところは詳しく読み抜き書きしました。ちなみに、最初に読んだ「資本論」は岩波文庫の1947年版で、12分冊、向坂逸郎氏の訳のものでした。そのほかに大判の5分冊のものもあります。1966年12月にまとめはじめ、レポート用紙19枚分でした。マルクス、エンゲルスの著作の中でも少ない枚数で、読んだとは言えない状態です。

 「なぜ今、カールマルクスの『資本論』に立ち返る必要があるのか?」という佐藤優氏の文章がある。佐藤氏は元外務省の主任分析官という役人だった人物で、自分はマルクス主義者ではない、といっているが、マルクスが「資本論」で展開した資本主義分析は基本的には正しいと一貫して考えている。埼玉大名誉教授の鎌倉孝夫氏との共著「今生きる資本論」(2014年7月刊、新潮社)や、「初めてのマルクス」や「私のマルクス」などの著作がある。

 「21世紀の資本(論)」という題名は、カールマルクスの「資本論」を思い起こさせます。、実際、ビジネスウイーク誌での特集の書きだしは、「一匹の妖怪が、ヨーロッパとアメリカを徘徊している。富裕層という妖怪が」という、マルクスの「共産党宣言」を意識した記述で始っており、ピケティを批判する人の中には、彼を共産主義者だという声もあります。しかしピケティは「資本論」を読んでおらず、資本主義を否定していないということである。(Wikipediaによる。斎藤精一郎2014年5月20日付、ピケティ「21世紀の資本論はなぜ論争をよんでいるのか」http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20140519/397924/日経BP社

 斎藤氏によれば、「ピケティは膨大な税務統計を集めて、それを加工分析し200年というスケールで具体的な数値を大量に用いて不平等の実態を明らかにしました。そこが観念的なマルクスとは、大きな違いです。ピケティ自身、インタビューの中で、『マルクスとは全く違う。彼の資本論は難解きわまりなく、私はまじめに読んだことがない。まったく彼の影響を受けていない』とはっきりのべています。」ということだそうです。

◎ 「はじめに」というところの項目で、「マルクス―無限蓄積の原理」、「マルクスからクズネッツへ、または終末論からおとぎ話へ」ということが書いてあるのでマルクスの考え方はよく理解しているはずです。

 マルクスが観念的であるという批評は果たしてそうなのでしょうか。私にはそう思えませんが。観念論的な経済学から唯物論の経済学へというのがマルクスの狙いではなかったでしょうか。(◎部分は筆者の感想です。)

 一時の日本の税制は、社会主義ともいえるものでした。所得税の最高税率は70%で、相続税は高く3代続くと資産家も財産がなくなるといわれました。社会主義の国々が多いときには、それに対抗する意味でも、社会主義的な政策を実行しました。しかし社会主義の国は急速に衰え、富裕層の政治への圧力は強く、それを支える新自由主義の考え方も強く、次第に所得税や相続税は低下し、企業への課税は低下していきました。特に配当所得に対しての極めて低い税率は富裕層の所得を急速に増やしました。自民党の安倍政権の政策は大企業と富裕者に対してあからさまです。

トマ・ピケティ氏について、本の売れ行き

 ピケティ氏はパリ経済学校とフランス社会科学高等研究院の教授です。1971年生まれで、年齢は43歳、この本はフランスでも2013年8月に発行されたばかりです。そしてたちまち世界中で翻訳され、2014年にアメリカで、日本では2014年12月8日に発行されました。日本語版で608ページ(本文)という著作で、専門書であるにもかかわらず(総ページ数では728ページ。フランス語版ではなんと950ページ以上、英語版では活字を小さくしても700ページ近くになりました)、書店で平積みされて売られるほどのブームとなっています。

日経新聞、「展望2015」に取り上げられる

 日経新聞1面の「展望2015」のシリーズの2番目はトマ・ピケティ氏です。パリ支局の竹内氏のインタビューに答えるという形を取っています。大きな見出しは「グローバル化に透明性を」となっています。

★所得格差拡大に批判的ですが、経済成長には、一定の格差は避けられない面もあります、という問いついて

 確かに成長の持続にはインセンチティブが必要で格差もうまれる。過去200年の成長と富の格差を見ると、資本の収益は一国の成長率を上回る。労働収益より資産からの収入が伸びる状況だ。数年なら許容できるが、数十年続くと格差の拡大が社会基盤を揺るがす。

 日本に顕著だが、(成長力の落ちた先進国では)若者の賃金の伸びが低い。第二次大戦後のベビーブーム世代に比べ資産を蓄積するのが非常に難しい。こうした歴史的状況において、中間層の労働収入への課税を少し減らし、高所得者に対する資産課税を拡大するのは合理的な考えだと思う。左翼か右翼かという問題でなく、歴史の進展に対応した税制のあり方の問題だ。

 グローバル化そのものはいいことだ。経済が開放され一段の成長をもたらした。格差拡大を放置する最大のリスクは、グローバル化が自身のためにならないと感じ、極端な国家主義に向かってしまうことだ。欧州では極右勢力などが支持を伸ばしている。

 ★資産への課税強化で国際協調すべきだとの提案しているが非現実的だとの指摘もあります。という質問に対し。

、五年前にスイスの秘密主義が崩れると考えた人はどれ程いただろう。しかし米政府がスイスの銀行に迫った結果、従来の慣習は、打破され、透明性が高まった。これは第一歩だ。たとえば、自由貿易協定を進めると同時に国境を超えたお金のやり取りに関する情報も自動的に交換するようなが作られるのではないか。タックスヘイブン(租税回避地)に対しても対応がいる。国際協力が難しいと何もしない言い訳にすべきではない。

 新興国にとっても二つの意味がある。新興国は(金融の流れが不透明の現状のまま)資本流出が起きれば失うもののほうが大きい。中国はロシアのような一部の特権階級にだけ富が集中するような国にならないよう細心の注意が必要だ。~グローバル化の拡大は歓迎するが透明性を高めるべきだ。 

◎すでに中国でも一部の特権階級だけに集中しているように思える。

★先進国で格差が進んでいるが新興国が成長力を高め格差が縮小しているのではないか。という問いに対して。  

 アジアやアフリカでは高成長が当面続くだろうが長続きしない。1700年以降、世界の成長率は年平均1,6%で、人口は0,8%だ。成長率が低く見えるかもしれないが、生活水準を向上させるには十分だった。

★日本の現状について、どう考えますか、という問いに対して。

 財政面で歴史の教訓を言えば、1945年の仏独はGDP比200%の公的債務を抱えていたが50年には大幅に減った。もちろん債務が減ったわけではなく、物価上昇が原因だ。安倍政権と日銀が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい。物価上昇なしに債務を減らすのは難しい。2~4%程度の物価上昇を恐れるべきではない。4月の消費税はいい決断といえず、景気後退につながった。

日経新聞、「春秋」に取り上げられる

 12月24日の日経新聞の「春秋」でも取り上げられています。それには、ディケンズの名作「クリスマス・キャロル」に登場する強欲な老人が幽霊からイブの夜から次々にいろいろなものを見せられる。それで,改心する物語である。以後170年余がたったが、資本主義と格差をめぐる問題は現代人を悩ませて議論が尽きない。「21世紀の資本」が世界的なブームになっているのもその焦慮の現れかもしれない。                                       格差のメカニズムに迫り、富裕層への国際累進税を唱えるこの本は批判も含めて話題の的だ。5500円もの翻訳本が書店に平積みという光景はまれだろう、と書かれています。

著作を絶賛する声

 裏表紙の帯封には賞賛の言葉が書かれている

 ノーベル経済学賞のポール・クルーグマン(プリンストン大学教授)は、「素晴らしい、不均衡についての考え方を一新するもの、本年で、いや、この10年間で最も重要な経済書」と評価している。又、エマニュエル・トッド(フランス国立人口統計学研究所)は、「地球的規模の経済的、社会的変化を扱った画期的な著作だ、と述べています。やはり、ノーベル経済学賞を受けた、j、スティグリッチ(コロンビア大学教授)は、「時宜にかなった重要書だ」、とし「格差は資本主義固有の問題だという見方は本書の表面的な評価にすぎないとして、それに加えて本書について格差が拡大したことについての制度的な分析。」いう点から評価を加えている。ダニ・ロドリック(プリンストン高等研究所教授)は、「彼の解決策に賛成するにせよ、しないにせよ、資本主義を資本主義から救おうという人たちにとって正真正銘の課題だ。」ローレンス・サマーズ(ハーバード大学教授)「この事実の確立は、政治的議論を変化させる。ノーベル賞級の貢献だ。」ビル・ゲイツは「彼の研究がスマートな人たちを富と所得格差の研究に惹きつけることを望む」ロバート・シラー(イェール大学教授)「情報の豊かさがすばらしい。」など、多くの人々の絶賛をあびています。

オピニオン、「21世紀の資本論」ピケティ氏は急進的なのか

P.M.GOBRY氏の記事(パリを拠点とする作家で起業家)

 その反面、右派の反論攻撃も多くなっている。アメリカ、エンタープライズ研究所のジェームズ・ベトクーカスは、ピケティの考えを「ソフトマルクス主義」と呼んだ、タイトルであからさまにマルクスの資本論に触れているのにやきもきしている。ピケティ氏の考え方は米国では政治的には左寄りと受け取られているのに対して、フランスでは保守派として受け止められることもある。

 ピケティ氏は労働者階級の出身で、エリートの道を進んだ。そのエリート主義の産物であり、このモデルはフランスの戦後の復活を支えたが、今では破綻している。おそらくピケティ氏はエリートの道を進みながら、周りの人々の両親や祖父母が自分の家族よりもはるかに恵まれていたことに気づかずにはいられなかったろう。だからこそ、彼は、自身の左翼的な文化背景から学んだことと経済学のモデルや実証的な研究結果の中に発見したものを結びつける道に進んだ。

 ピケティ氏には、正しい点もあれば誤っている点もある。だが彼の世界観は急進的とは言えない。富の偏在という問題にこのまま手を付けなければ社会秩序が損なわれるかもしれないと懸念する右派の人間にも受け入れられるものだ。ピケティ氏の革命的といわれるアイデアをめぐって米国では不満が噴出したが、ピケティ氏の功績の中でいつまでも残るのはその保守的な洞察かもしれない。

本の概要について-みすず書房

 「1970年代以来、所得格差は富裕国で大幅に増大した。特にこれは米国に顕著だった。米国では2000年代における所得の集中は、1910年代の水準に戻ってしまった。-それどころか少し上回るほどになっている。」

 「資本主義の特徴は、格差社会が起きることである。」

 「私の理論における格差拡大の主要な力は、市場の不完全性とは何ら関係がない。。その正反対だ。資本主義が完全になればなるほど、資本収益率(r)が、経済成長力(g )を上回る可能性も高まる。rとは、利潤、配当金、利息、貸出金などであり、そしてgとは給与所得によって求められる。それによって富の集中が起こり、それだけ富は資本家に蓄積される。その富は相続により子に分配され、労働者に分配されない。そして、富が公平に分配されないために、社会や経済が不安定になる。」

 「格差の問題を経済分析の核心に戻して、19世紀に提起された問題を考え始める時期はとうにきているのだ。この格差を是正するために、富裕税を、それも世界的に導入すること(干渉主義)が必要である。」

 みすず書房の「21世紀の資本」というところを開いてみると本の内容が13ページにわたって書かれています。項目だけを書いてみることにします。

はじめに (一部公開されている)                                        

データなき論争?                                                  マルサス、ヤング、フランス革命                                           リカード―希少性の原理                                マルクス―無限蓄積の原理                                       マルクスからクズネッツへ、                                                                   -または終末論からおとぎ話へ                                    クズネッツ曲線―冷戦さなかの良い報せ                                   分配の問題を経済分析の核心に戻す                                   本書で使ったデータの出所                                        本研究の主要な成果                                     格差収斂の力、格差拡大の力                                  格差拡大の根本的な力ーr>g                                        本研究の地理的、歴史的範囲                                        理論的、概念的な枠組み                                         本書の概要

                                                  第Ⅰ部 所得と資本                                         第1章 所得と産出                                            第2章 経済成長―幻想と現実                                         

第Ⅱ部 資本・所得比率の動学                                   第3章 資本の変化                                             第4章 古いヨーロッパから新世界へ                                     第5章 長期的に見た資本・所得比率                                       第6章 21世紀における資本と労働の分配 

第Ⅲ部 格差の構造                                                第7章 格差と集中                                               第8章 二つの世界                                                第9章 労働所得の格差                                            第10章 資本所有の格差                                                         第11章 長期的に見た能力と相続                                              第12章 21世紀における世界的な富の格差

第Ⅳ部 21世紀の資本規制                                       第13章 21世紀の社会国家                                          第14章 累進所得税再考                                           第15章 世界的な資本税                                            第16章 公的債務の問題

おわりに

◎ 何しろ、分厚い大著なので、そんなに簡単には読めません。ただ表面を見ただけのものです。これから、じっくりと読んでみます。それとともにマルクスの「資本論」にも再チャレンジしてみようと思います。

追記 毎日新聞社説にも

 2014年1月3日の毎日新聞の社説に、「戦後70年ピケティ現象 希望求め議論はじめよう」という、社説が6段で書かれていた。普段は2項目で3段づつなのだが。

 各地の図書館でこの本が、長い貸し出し待ちになっているそうである。1刷を100人以上で末図書館もある。「資本主義の疲労ともいうべき現状」『格差が広がり続け富も貧困も世襲されていく、と分析した。

 スイスで昨年1月に開かれたダボス会議の主要議題は「所得格差の是正」、「貧困の解消」だった。世界の政治・経済のリーダーが問題にし始めた。

 日本では問題がとりあげられても、社会を巻き込むうねりや問題提起に名っていない。現在の経済政策は「持てるものに向けたせいさく政策こそがすべての問題を解決する」といった考え方にもとずいている。

 しかし日本でもこの本の読者のすそ野が広がっている。「つもりつもった不満を栄養として、全体主義や排外主義が大きく育っていくのではないか」『格差が増大する傾向とイスラム国の関係はないのか」

 ピケティ氏は格差を解消するため、国際協調による、「富裕税」の創設を唱えている。専門家は「非現実的だ」とそっけない。だが結論は何ら出ていない。まさに論争はこれから始まる。本を読んでいなくても論争に加わろう。

 「ピケティ現象」を希望を見出すための論争の幕開けとしたい。

◎この本に、学問的に見ていろいろ問題はあるでしょうが、ちょうど格差の広がりに真剣に問題意識をもっている人にとって、時期を得た書物になったということでしょう。

 『「階級」の日本近代史』という本がある。坂野潤治氏の本で講談社選書メチエ、2014年11月1500円。本の主題が表紙に書かれている。政治的平等と社会的不平等、軍国主義の台頭の最大の理由は、社会的不平等だった。

ナチスの台頭もそうだった。日本も格差が進むと、より恐ろしい事態になりかけない。

参考

 「台湾に第4の原人、ピケティ氏来日~」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2015/01/4-20ec.html

追記 2015年2月2日

「クローズアップ現代」で、ピケティ氏、話をする

 2月2日(月)NHKの「クローズアップ現代」で、ピケティ氏は話をしました。

 後半だけを見ましたので、一部だけしか、かいていません。

 最近、日本の相続税は引き上げられた。相続税は資産に関しての課税である。日本はアメリカほどの所得の差はないが、相続資産の差はアメリカより大きい。格差はすべて正当化できるわけではない。極端な格差は不平等であり、民主主義にとって障害になる。

 ピケティ氏は22歳で格差についての論文を書き、その後一貫して追求してきた。今ある格差は正当であるかどうかを、経済のことなどわからないといわないで、チェックする必要がある。若者が普通に働いても家も変えないような状況はおかしい。少子化で若者が少なくなっているのも問題である。所得の少ない人に対しての減税が必要である。若者対策が必要である。お金を大量に持つ人は、いろいろ理由を言って、格差を正当化する。

 ピケティ氏の本の最後の文章は、「あらゆる社会学者、あらゆるジャーナリストや、評論家、労働組合や、各種傾向の政治に参加する活動家たち、そしてとくに市民たちは、お金や、その計測、それを取り巻く事業とソの歴史に、真剣な興味を抱くべきだと思うのだ。お金を大量に持つ人々は、必ず自分の利益をしっかり守ろうとする。数字との、取り組みを拒絶したところで、それが最も恵まれない人の利益にかなうことなど、まずありえないのだ。」

以上です。

2014年9月25日 (木)

『貧民の帝都』隠蔽された東京―新大久保にあった、スラム

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上の写真は、橋の下をねぐらとする孤児たち。維新当時で珍しい。

 塩見鮮一郎氏の日本の貧民をえがいた書物『江戸の貧民』をブログで紹介しました。2014年8月に出版されたのですが、その前に2008年の9月に『貧民の帝都』で明治期から現代の状況までを、そして、2012年11月に『中世の貧民』で鎌倉時代以後の貧民の暮らしを書きました。いずれも文春新書として発行されました。はじめに読んだ『江戸の貧民』が大変興味深く参考になりましたので、続けてほかの本も購入しました。

 『貧民の帝都」の帯封にこの本の言いたいことが要約されています。「隠蔽された東京」-地獄の4大スラム、出現!東京はスラムの都だった          日本を近代国家に!                                        首都に溢れる生活困窮者を救え!                                   時代の大波に振り落される人々の群れ                                   奇案,姦計が入り乱れる救済策,                                        東京の隠しておきたかった「過去」

 幕末から明治への移行期の惨状

1章 混乱と衰微の首都

江戸幕府が倒れた後、百万人の江戸は半分になり、都市機能は完全に破壊された。江戸から離れたのが支配層と富裕層であったのはその後の都市の性格に大きな影響を及ぼすことになる。

維新後、帝都に出現した未曾有の貧民に対処したのが、東京養育院であった。1872年(明治5年)に創設され首都の窮民や病者,障害者や孤児や老人の救済を試み、1997年に(平成9年)に125年の幕をおろした。ときには『乞食病院」とか、「ひと殺し院」とか≪帝都の恥隠し≫と侮蔑され「時には日本の「福祉の柱」として評価されるこの施設はなんであったのか。

明治はじめの混乱

天皇が江戸城に入った前年10月からよく8月まで

 捨て子 160人、縊死人22人、行き倒れ死人291人 

東京府日誌

冨民(地主、地借)196670人 貧民(床借り)201760 極貧民103470 極極貧民1800  合計して人口は50万3700人 江戸時代の半分

 江戸時代にあった仏教的な「ほどこしの文化」は完全に否定され、甘やかすと駄目になるから、困っていても助けるな、軒下で雨宿りさせてもならない。「働かざる者食うべからず』という、今日に続くイデオロギーが、府知事の言葉として社会的に認知される。p69

2章 近窮民を救え

 維新後の町会所

 失政続きの新政府

 江戸時代の貧民対策 7分金積み立のお金を、一部放出したが、それ以上に軍事費に費消した。

 露国皇太子来朝

 貧民の一時収容

 浅草溜時代

3章 さまよう養育園

上野護国院時代

 明治22年に市制がしかれ、東京府は東京市になった、東京市養育院ができ渋沢栄一が実質の運営者に任された。

 渋沢栄一のたたかい

とうきょう養育園の惨憺たるには、栄一は見て回ったあとで、栄一は身震いした。p184

4章 帝都の最底辺

 地獄の4大スラム

被差別部落、乞食の掃き溜めだめのような町、人肉市場と化した吉原や須崎の遊郭、江戸時代より貧しくなってしまった。いったん地方に戻った人がどうしようもなく東京に舞い戻る。

四谷鮫ヶ橋

 信濃町駅 貧民窟

上野万年町

 上野駅周辺

芝新網町

 浜松町駅周辺

新宿南町

 新宿駅南口周辺

その後いろいろなところにできる

 スラムの賀川豊彦

5章 近現代の暗黒行政

戦後、後退する困窮者行政

 泉下の渋沢栄一は、~ 渋谷の宮下公園や多摩川鉄橋下、都庁の西に広がる中央公園、、、などに一人住む身寄りのない老人を見てどれほど心を痛めるだろうか。高速道路を屋根にして、一般道路の分離帯にブルーのテントを張っているものもいる。~だれも援助の手を差し伸べない。なぜなら、自己の責任でその状態を選んでしまったからだといい、当の野宿者もそう思っている。p236

自己責任ということ,人々の関心が薄れてしまった。

 福祉を行政に任せてしまうシステムが発達したためか、市民の多くは多くの市民は貧民の存在に無関心で、心もまた冷酷になっている。北朝鮮やアフリカの飢餓の悲惨さはニュースになるし、自然災害の時は義援金がすぐ集まる。身近の貧民にだけ、見ぬふりをして済ましている。そして、ボランティアのひと達だけが何とかしようと努力する。これが今の日本の現実だ。p250。

 行政のしていることは彼らの救済をはかることではなく都市の「環境浄化」としての排除にあると、『現代棄民考』で今川勲はいい、玉姫公園にはりめぐされたフェンスや、銀座地下街の水を使えなくした水飲み場の写真を載せて居る。

 生活困窮者に対して無策でしかない行政も、いじめの精神は旺盛なようだ。執行者の頭にあるのは汚い街を見せたくないという見栄だけということになる。p236-237

◎ここでは本の中のわずかしか書いていない。

 

新大久保ではどうだったのか

これらの状況はブログ筆者自身が直接見聞したものです。

1 新大久保駅周辺に簡易宿泊所が多数あった

     いわゆるドヤ、山手線沿いにたくさんあった。

  今も少し残る一部屋に6人ほど住む、3段ベッド

  前は駅周辺だけでは無かった

    外国人旅行者向けに改造したところも

 2、昔あったバタヤ部落

  山手線の内側 線路際に百人町3,4丁目

  大規模なところ100軒ほど,コンパネなどの板と

  トタンで2畳程の広さ、バラックが密集していた

  電車からよく見えた。ここに知り合いがいて、

  何度かたづねたことがある。

  東京オリンピックの前に都営住宅に建て替え

  一部の人は都営住宅に入った

  いま建てて居る高層ビル(スカイレジデンス)

  周辺にあった。

  50年前、オリンピック開催、山手線から見えるので

    取り壊し しかし周辺に労務者の集まるところが

     以前ここに労政事務所があった。

  山手線の外側に朝、日雇い労務者と手配師が集まる

  食べ物を売っていたり賑わいが、あぶれるものが出る

    新大久保と新宿駅の間にあったもの線路際の

  規模の小さいスラムは 二階建ての区営住宅にかわる

 3、今もいるホームレスなど

  戸山公園、ビニールシートの家?i一時撤去された、いまはどうか

  乞食は取り締まりの対象

  空き缶集め、相場に左右される

  自動販売機の周辺の硬貨集めなど 取り忘れ、販売機の下に落ちて居る 

  時に新大久保のガード下にいわゆる乞食が出現

  いやだというのにどこかに収容され追い払われた 腰のまがった老婆

  前から大久保にいるホームレスの男性40から50くらいの男性

  少し精神状態おかしい 服は少しよくなった

4、現在も同じ状況 形式が変わるが

  貧困の状態は今も変わらない。

  あたらしいシェアハウス 3畳の部屋を上下に仕切る

  先日新大久保で火事が、問題になる 倉庫として申請

  インターネットカフェで寝泊まり 暖かいときは路上で

  外国人が部屋を何人でも使う 3か月交代

 

2014年9月19日 (金)

部落差別の根源、穢多と非人とは「江戸の貧民」から,追加『江戸の賤民」

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 『江戸の貧民』という本は塩見鮮一郎氏が『中世の貧民』,『貧民の帝都』に続いて書かれた、「貧民シリーズ」の第3弾となる、文春新書の本です。2014年8月20日に発行され価格は800円+税となっています。

帯封に「身分外」に生きた実力者たち 

 弾左衛門、車善七、乞胸(ごうむね)虚無僧、香具師・・・

 彼らの足跡を求めて、上野、浅草、吉原をあるく

 著者は学者ではなく、小説家なので、大変わかりやすく面白く書いています。

  まず、この本の50ページに穢多(えた)とか、非人といった人たちについて、大事な考え方が書いてあります。

 穢(けがれ)と清めについて、ここで触れたのは、今なお部落を血筋のように思っている人がいるからだ.ながいこと解放運動をやっている人でもそういうことを言う。女性や黒人への差別は身体そのものをしるしとしているのだが、部落差別はそうではない。穢れという日本の社会の底を地下水のように流れている意識でもって蔑視が形成された。

 天皇でもだれでも穢れる。だから、御所に穢れが侵入することを、あれ程におそれたのである。また逆に、誰でも一定期間、喪に服していれば清浄にもどる。「賤民」とされた人たちは「穢れの空間」に閉じ込められているから差別されているので、肉体や遺伝子に何かが書きこまれているわけではない。かって部落の空間が「穢」とみなされたのは、そこで牛馬皮革や小動物の死体に日々接しているからで、穢れの時期が継続していると考えてであった。

それが、血統のように錯視されたのは、江戸期の攘夷思想と明治維新後のナショナリズムの悪意が合体した結果である。アジア蔑視の延長線上に部落を置いて、あたかも民族問題のように論じる人がおおくいたからだ。自分たちは「天孫民族」だと威張り、部落民を「異民族」の子孫だとでっち上げた。そんなことを戦前の学者はまじめに論じていたのである。

 浅草弾左衛門は穢多(えた)や非人の頭である。江戸幕府は783坪の屋敷を与え、大名並みの待遇を与えた.幕府による弾左衛門への手厚い保護は、武士と穢多身分の親近性を教えてくれる。邪険な扱いをした子に対して、ひそかにわびているふうである。穢多の役の一つは、奉行所にかかわる仕事である。処刑の手伝いや、伝馬町牢屋敷の掃除、浮浪者の取り締まりなどである十手をもって「御用,御用』と賊を追い詰めたりもする。同心などと一緒に犯人を連行する.市中引き回しの時の列に加わる。斬罪や火あぶり、はりつけにも立ち会う。もう一つ大きな仕事に皮革生産の管理があった。

弾左衛門―手代(重役)-平のもの

        在方小頭  -  場主―平のもの

                 在方猿飼

        猿飼頭(新町在住)-猿飼

        非人頭(4人)-小屋頭-平の者

                  乞胸頭ー平のもの

参考   弾佐衛門は、長吏頭とも呼ばれた。各地に長吏小頭(在方小頭)をおく

     江戸の非人には、抱非人と野非人とがあった。野非人は、「無宿」と

     呼ばれた。抱非人は、非人小屋頭という、親方に抱えられ、各地の非

     人小屋に定住していた。

           猿は馬を守るという考え方があり、猿回しと組み合わせた。  

 ○穢多はいわば、町奉行や牢屋奉行などに

    よりコントロールされている公務員のようなものである。

     非人は社会から、はじき出された、おちこぼれである。

         銭形平次などの岡っ引きは穢多なのでしょうか?。岡っ引きや目明しでも、

    いろいろあるのでしょうか。どの資料でも

    岡っ引き、目明しは穢多(長吏)か非人がなったようですが。博徒の親分が二足のわ

    らじで、目明しになるようですが。

1645年に浅草山谷周辺に鳥越から,穢多村が引っ越してきた。鎖国が完成したころである。これを新町とよんだ。城下に限りなく近いが、間に川がある。

 処刑の実行隊を武士身分から切り離した。自分たちのそとに穢れたものを作り出すことで、武士は穢れてないという詐術を行った。穢多というか非人というか、まだ未分化の身分は、武士階級の誕生に少しおくれて制度化される。紀元1000年あたりでいいのではないか。p、48

 皮革は死んだ牛馬から作られたが、海外貿易がさかんであった中世や戦国時代にはアジアから輸入された。三代将軍家光が、オランダなど一部の国以外との貿易を禁じてから異変が生じた。どの藩も皮革は品薄になった。

 今まで,死んだ牛馬を手厚く葬っていたのが、これからはすべてを提出させて、無駄なく皮革に精製する。穢意識にとらわれた農民が自分で解体しないなら、穢多身分に依頼する。p、63-64

 鎖国の仕上げ後あらゆる農村に穢多村がつくられた。

牛馬の解体とゆたかな部落

 穢多が行う牛馬の解体 それによる皮の生産 割の良い仕事で、解体した後は女、(子供みんなして、鍋を囲んだ。

 部落民のほうが栄養がよく、人口が増加している。農民のほうは、生まれたばかりの子の

  口に濡れた紙を置いて「間引き」しているというのに。

   こういう歴史も、農民に反感を抱かせ憎悪をつのらせる理由になった。(権力の手先となり刑場の役などを行ったのも反感を呼んだ)

車 善吉

  非人の頭 浅草が本拠地 一番勢力が強く、子分は天保14年には、4000人もいた。他に非人頭は3人いた。非人のほうは、社会からはじき出された落ちこぼれである。非人のおもな生業は「物乞い」だった。街角の清掃、「門付」などの「清め」にかかわる芸能、警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した。

   広義の非人とは、犬神人、墓守、河原もの、放免、乞胸、猿飼、八瀬童子等々の生業からくる総称である。

  ○映画のとらさんが、車寅次郎だが関連があるのだろうか。

乞胸(ごうむね)

   浪人の中でも特に賤民化したもの 1651年はじめ長嶋礒右衛門が乞胸頭となる 1768年 山本仁太夫が頭となる 12種の色々な芸能をおこなう 身分は町民扱い 仕事中は非人の頭である車善吉の支配を受ける。乞胸は月48文を払えばだれでもなれた。

願人坊主

  侍身分から落ちたもの、正式な僧侶になれなかったものが、願人坊主となった。全国を回りながら加持祈祷をし、お札を売り歩く。勧進、勧進という。

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  半裸で一人踊りながら、木魚を鳴らし、手をあげ、足をとんとんと踏んでいる。読経のまねをしてとんでもないお経をあげて居る。真冬になると,縄の鉢巻、腰にしめ縄の裸体で、手に扇をもって踊る。「すたすた坊主」も現れる。

   ○五木の子守唄の、「おどま、勧進、勧進」というのは乞食と同じようなものか。

虚無僧

   膨大な量に達した浪人対策として、みとめられた。深い笠と尺八を持つ。

  いつでも仕官して抜け出せるように髪を伸ばしている。

香具師(やし)

   縁日などでの、露天商 見せものなど、薬の販売もおこなう

   寅さんはこの仕事をしている

ともかく、江戸時代が終わってからすでに150年近くが経過している。それなのに、いまだに部落問題が存在するのが、おかしいと思います。

追加資料 

『江戸の賤民』

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 石井良助 明石書店 旧1988,新、2012,12月 1800円

猿飼 猿飼かしら長太夫・門太夫の支配をうける

   エタと非人の中間

茶筅(ちゃせん) 中国地方に多い 茶筅を作り販売する

   百姓並みだが、一とう低い位

(しゅく) 大和地区が有名 百姓並み 社会的には下りものと

   エタ頭の支配、三味線鼓弓等を引き小唄、小芝居をする

乞 胸 賤民の中でも、一種特別なものでその身分と家業とがはっきり区分され、身分は町

  方に属し 家業は乞胸頭仁太夫ー車善七の支配をうける

   町方支配 道路その他で物貰いをする 神社境内などで見世物などもおこなう

  家業をやめれば、賤を脱する。

  願人坊主 市中を徘徊して軽口を言い、謎を唱え、他人に代わって祈願の修行などをし

   て米銭などをもらう乞食坊主。

  乞胸の鑑札料は仁太夫に払うが老衰者、幼者、手足不自由なものは免除した。

エタ(穢多)と非人

エタと非人では。エタのほうが身分は高い

  死牛馬の皮剥ぎは、エタの命で非人が行った。エタは処刑に必要な人数を提供する義

  務があった。戦時には軍隊となる。

非人は斬髪し、布木綿の他の着用は許されなかった。着物は膝まで

エタは皮細工と灯心販売の特権 田畑を持てる

エタは脇差十手をさせるが、非人はさせない

エタは軍事的用途に、地方の警備は非人(番非人)が行う

賤民解放令 明治4年8月28日

 この時の戸籍表によれば全人口3478万余人

 エタは45万6000余人、非人は8万2000人

「部落史入門」

 塩見鮮一郎  河出文庫 2016年1月20日 760円+税

 明治維新後、なぜ被差別部落だけが、近代の思想に抗して残ったのかー。被差別部落の誕生から歴史を解明した、的確な入門書は意外に少ない。

「江戸の大道芸人」 都市下層民の世界 

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 芸能と被差別民 非人・乞胸・願人・猿飼・・・知られざる背愛とは?

 

2014年7月26日 (土)

中国の期限切れ肉問題 儲かれば何でもする 人間学例会で説明も 

 7月は後残り少ないのですが、ブログの更新が大変少なくなっております。6月は前に書いたブログに加筆したものも加え、16も更新したのに7月は今書いているものも含めたった5つです。なんとなく気力にかけて居ます。

マック、中国製鶏肉中止  26日土毎日新聞 1面トップ記事

 タイ製に 品切れの恐れ

 日本マグドナルドは、25日中国の食品会社「上海福喜食品)が期限切れ鶏肉を使用していた問題を受け、中国製の鶏肉を使った「チキンマックナゲット」など8種類の商品すべての販売を中止した。

 鶏肉は中国産38%で、2013年に1万6925トンを調達していた。残りの62%がタイ産で今後はすべてタイ産に切り替えるが。多くの店舗で鶏肉を使った商品の品切れが発生する能性がある。(7月26日毎日新聞朝刊)

 古い肉の混入、保証期間Oの書き換え、検査対策ー、中国メディアは日常的におこなわれていた不正工作を暴露し、取引先の一部商品などを中国国内で販売停止した。映像には床に落ちた肉をそのまま使ったり、品質保持期限を過ぎていたりした肉を使っていたという。作業員は死にはしないと平気で言っていたそうである。

 同社はアメリカ食肉大OSIグループの傘下にあり、同グループの傘下の工場は上海以外にも5か所にある。この問題は上海の衛星テレビ局が2か月に及ぶ潜入取材を経て20日に報道した。同局の記者が袋の表示を見ると多くが品質保持期間をすぎていた。その18トンの肉を機械に運び込んで加熱加工し商品に仕上げていた。中国では国内の食品に対し信用がなく、外資系だからと、はじめ信用されていた。

また作業員たちは「混ぜるには割合がある、古い肉は5%を超えると食感が変わるから」などといっていたという。

 日本では、日本マクドナルドとファミリーマートが同社から鶏肉を調達していた。

 日本でも以前北海道の精肉業者が同じようなことをして逮捕されました。

毎日新聞「余録」

イグノーベル賞に、落ちた食品を5秒以内に食べれば大丈夫という説を否定した研究結果を発表した人に与えられたという。5秒でもダメなものは、ダメなのである。

 さてこれらを見ると昨年、実用的人間学研究会の例会で「食の危機と多国籍企業)というテーマで、2013年10月17日にお話ししたのが思い出されます。それは6月14日に「モンサント、世界が食べられなくなる日、~」というブログで書いた続編になります。10月17日の例会ではいくつかの映画の紹介の中で、アメリカで作られているチキンナゲットの材料がちょうどピンク色をした鎌首をあげた蛇のように映されているのが印象的でした。鳥のいろいろな本来食用としない部分まですりつぶして、それにピンク色の着色をして、それがナゲットの材料になるのです。マグドナルドは、いまはそれを使っていないというのですがいかにも気味の悪い代物です。今は使っていないということは前は使っていたということです。これ以外に遺伝子組み換え作物の危険性について、映像を見ながら説明しました。

そして狭いところで大量に鳥を飼い、抗生物質漬けにし、あまりに不自然に太らせるために、鶏の足が動くと折れてしまうそうです。また多くの鶏が死んでしまいそれが踏みつけられ、恐るべき状態でした。

だいたい今までナゲットをあまり食べませんでしたがそれ以後ナゲットは絶対食べないようにしています。、

2014年6月10日 (火)

桂宮さまご逝去と歴代の女性の天皇 追記

 2014年6月8日桂宮宣仁さまが逝去されました。御年66歳です

桂宮宣仁さまは三笠宮崇仁さまの第3子です。三笠宮さまは1923年2月11日生まれで現在98歳まだご健在です。しかしこれで3人の男の息子さんは先に亡くなられたことになります。すでに亡くなられたのは髭の宮様として有名な三笠宮寛仁さまと弟の高円宮憲任さまです。高円宮さまの家では先日次女の典子さまが出雲大社の千家国麿さんと婚約を発表したばかりです。

 桂宮さまは40歳をきに1988年に親王家をつくられてわずか4か月で急性硬膜下血腫でたおれられました。長い間意識不明でしたが回復しました。その後何年もリハビリを重ねて公務に復帰されました。しかし後遺症がのこり、テレビや新聞の画像でみましたが、右側の麻痺による車いす生活で、腕が脳関係の病気に特徴的な硬直と眼瞼下垂がおきていました。今私も脳内出血で車いす生活をしているので関心があり、ブログを書くことにしました。

 この硬膜下血腫は外傷によるものが多く、私の父も家の中で転倒しはじめ意識がありましたが、。救急車で病院に運んだ時にはもう手遅れでした。動脈瘤があり血液をサラサラにしなければならず、そのための薬を飲んでいて、血が止まりにくかったようです。年齢は92歳でした。その時特に異常はありませんでしたから事故がなければもっと長生きできたでしょう。

母親ももう95歳になりますが、だいぶ前に脳出血で施設に入り現在,胃瘻で命を長らえている状態です。すでにほとんど何もわからなくなっています。

女性の天皇も認めるべきである

 天皇家に関して日本の皇室典範では男系の皇族が継げるとなっています。桂宮様がなくなったことで現在皇位継承順位になっている方は98歳の三笠宮を含め5名だけになってしまいました。現在では皇太子殿下のところの敬宮愛子様には、天皇になる資格がなく、秋篠宮文仁様の子供の悠仁さまが継承順位3番目となっています。その前には女性にも天皇になれるように変えようという動きもありましたが消えて仕舞いました。日本でも女性の天皇がたくさんいたのですが、旧態依然として男系の男性が継ぐことになっています。

 ヨーロッパには昔から女性も王になる権利を持ち、イギリスでは今もエリザベス女王であり、初代エリザベス女王、ビクトリア女王に見るように女王の時のほうが繁栄するといわれるくらいです。

 ちなみに女性で天皇になったのは8人10代で、以下の通りです。

第33代推古天皇 592即位 飛鳥時代

第35代皇極天皇 第37代斉明天皇 重祚

第41代 持統天皇 飛鳥時代

第43代元明天皇 飛鳥~ 奈良時代

第44代元正天皇 奈良時代

第46代孝謙天皇 第48代称徳天皇 重祚

             749即位 奈良時代

第109代明正天皇 1629即位 江戸時代

第117代後桜町天皇1762即位 江戸時代

江戸時代まで天皇が男性でなければならないということはなかったのです。

もうそろそろ考え直したほうがいいのではと思います。

追記

 6月24日の毎日新聞夕刊に皇學館大元学長の田中 卓氏が 、「愛子さまを皇太子に」、そして女性の皇族を認めるべきだといっている。

 安倍内閣ではそのままになっているが、皇室典範を変えるべきだという。天照大神も卑弥呼も女性だった。近世では江戸時代初期の後光明天皇から大正天皇まで14代にわたって側室からうまれた。側室制度がない今男性・男系にこだわるのは無理がある。愛子様にはご自身がいらっしゃるのに悠仁様が「跡継ぎ」といわれることについてどのような気持ちでご覧なるでしょうか。また悠仁さまに嫁がれる方のプレッシャーはいかほどのものか。一般国民には想像しがたいストレスがあるにちがいない。そして女性の宮家を認め、愛子様を皇太子にすべきであるといっている。

 

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