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大久保の街紹介

2024年12月 6日 (金)

2001,2008,2017年の大久保エスニックの街と、韓国広場周辺の韓国レストランの減少を見る  追記更新版 2024年末。 

◎2024年12月ごろ  追記して更新します。
2017年以降の状況の追記 「人間学研究所年誌2021」
エッセイ「新コロナウイルス蔓延とその2年間のご報告』佐竹幸一 p32からp35
 2020年2月10日 「こういちの人間学ブログ」新型コロナウイルスの蔓延 まん延は政治次第」
 新型コロナの始まりは2019年11月22日、中国武漢の発病と言われます。
日本では2020年1月16日、国内初感染の報告がありました。
 2月5日 ダイヤモンド・プリンセス号 10人の感染 
 4月7日 緊急事態宣言 アベノマスク配布
 2023年5月3日 政府決定 新コロナに対する政策の見直し インフルエンザと同じ第5類に
 2024年4月 公費援助終了 
 新型コロナウイルスが蔓延しているときは。新大久保の街も一時衰退していましたが、感染が下火になってからは、また、にぎやかになってきました。変わってインフルエンザは流行へ
 又一時韓国のお店が少なくなり、ベトナム・ネパールのお店が増えたこともあります。今は再び、韓国のお店が増えています。表通りは店は新規開店が難しく,裏通りにお店ができてきました。新大久保駅近くの大久保に面した地価は急激に上昇しています。
 2024年での百人町東町会地区(新大久保駅山手線内側の百人町地区)でのお店の変化は、盛好堂書店が閉店となりました。
今では古くからの日本のお店は、熱帯魚販売の円満屋さんぐらいになってしまいました。
ブログ筆者のお店も、以前は円満やさんのお隣の東京ガスライフバル百人町でした。今では韓国の化粧品のお店です。
 詳しくは、以前の「こういちの人間学ブログ」でご覧ください。ここは追記します。
2001年(平成13年)と、2008年(平成20年)と2017(平成29年)においての、エスニックの街、韓国グッズ・レストランの変化を見て、大久保地域の街の変化を見てみたいと思います。

 

 「こういちの人間学ブログ」においては、2009年8月にブログを書き始めてから、カテゴリー「大久保の街」という名称で86ほどの記事を書いてきました。詳しくはカテゴリー「大久保の街」で検索してみてください。その概略の流れと元になる資料をご紹介します。

 

「マツコの知らない世界」の2018年11月放送では、大久保の町を紹介し、2011年(ピーク)、2014年(衰退)、2018年(第3次ブーム)としていました。

 

2001年ごろ

 

 2001年は多国籍の街ということで注目し始められた年です。このころは韓国料理の店が次第に増えてきましたが、韓国料理以外の店もあり、大久保=エスニック・多国籍の店と言われました。このころは新大久保駅周辺でも日本の店のほうが多かったのです。

 

 共住懇で作った「おいしい”まち”ガイド」の2001では、最初にエスニックということで、韓国料理だけでいろいろなエスニック料理店や物販店が3ページ半で80店ほど紹介されています。その中で韓国料理店は40店ほど、そのうち2017年現在も残っている店は半分に達しません。いかに入れ替わりが激しいかを示しています。

 

 2001年当時は、しかしそれ以上に、大久保通りだけで、4ページ半と多くの日本の店も紹介されています。

 

◎それ以前の新大久保は日本人経営の商店がずらっと並んでいました。

 

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中に同封されている地図・エスニックマップ

 

 

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2001年当時の 新大久保駅から明治通りにかけての大久保通りと職安通りのエスニック料理、グッズ店。

 

 

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新大久保駅から大久保駅にかけての百人町1丁目と2丁目地区。このころには大久保通りとお滝橋通りの交差点には三和銀行がありホテル海洋もありました。新大久保駅のすぐ近くにハラルフードの店ができてきました。

 

 

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2001年の新大久保駅から百人町地区のところまで。このころは日本の店も多かったのです。この地図に書いてあり、35店中、2017年にも残っている店は、サカエカメラ、内藤シューズ、山本米店、パリミキ、盛好堂書店、だけです。

 

2008年ごろ

 

 2008年には筆者が独自に大久保地域のエスニック料理店を全部自転車で回り地図上に記入していきました。このころには韓国料理店は一番多く、特に職安通りに集中していました韓国料理店高麗の裏の道には8店も軒を連ねすぐ近くの路地にも6店も韓国料理店ができました。。このころには新大久保駅の周辺の店はまだ日本人が経営する店は多かったのです。それで職安通りのほうに多くの店が集中しました。また新大久保駅の近くにはハラルフッドの店が多くなりはじめました。

 

 筆者のところも、東京ガスの委託店から、1,2,4階を韓国の店に貸すことになりました。新大久保駅から3分ほどで、いわゆるイケメン通りの手前の場所なので、テナントはすぐ決まりました。5階は自宅で、3階は株サタケの事務所と人間学研究所の事務所に残しました。

 

 

2008年8月1日に筆者が作った手書きの大久保エスニックの地図(大久保方面)

 

上部が大久保通りで、下部が職安通り.右が明治通り。

 

自転車ですべての道を回り調査しました。結果は人間学研究所の例会でも発表しました。

 

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地図の左半分。百人町地区。新大久保駅と大久保駅に挟まれた地域

 

2011年には長く文房具店をやっていた柳やさんが、土地とビルを韓国系のところに売りました。周りに日本人が減り文房具の売り上げが激減してきたそうです。

 

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手前の茶色のビルが、プラザ1、真ん中の白いビルが2、奥谷や低いビルがです。プラザ3には大画面のテレビがあります。

 

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このビルはプラザ2 元114銀行のビルでした。

 

2012年12月にはしばらく空いていた三つのビル(K-プラザ1、2,3)が韓国系のビルとなりました。初めは3つのビルを取り壊して1つの大きなビルにする計画でした。ビルの一つは元114銀行の持ちビルで、1,2階が銀行でその上は社宅でした。

 

 
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 2008年ごろは、この当時もっとも韓国の店でにぎやかだったころです。韓国系の店は大久保通りよりも職安通りのほうがにぎやかだった。韓国系スーパーマーケットの韓国広場(歌舞伎町)とその前面に密集してつくられた韓国レストラン。ここには高麗博物館が作られました。

 

 大久保通りから職安通りに抜ける、いわゆるイケメン通りのテナント料が高騰し脇道なのに坪4~5万円近くの店まで現れました。

 

 このころには脇道にも人があふれ、大久保通りから2件横道に入った第2サタケビルも行列ができる盛況でした。1階から3階は韓国グッズ店で、地下は宮(クン)というバーでした。

 

2013年から2014年ごろ、反韓デモで客数が激減

 

 2013年ごろから 2014年にかけては反韓デモが大久保通りに何回も通り、それに対してレイシストしばきたいが応酬し街は騒然となった。これにより客数は激減し、韓国の店のバブルが崩壊し、大久保通りの新大久保からイケメン通りの先の店や職安通りの店は撤退する店が多くなりました。今まではお客さんが多く、どんな店も流行っていたのが味とサービスの良い店だけが残りました。

 

 筆者のところでも第二佐竹ビルのテナントが、地下1階のバーも、1、2、3階のグッズ店も撤退しました。現在は地価のバーは入れ替わり、1階はソウルレコード、2,3階はコンゴのお店でしたがこれもやめました。

 

2013年末には百人町1丁目に第三サタケビルが完成、1階はカフェ、と中国のお店、2階は韓ホドンチキンが入り人気が高まりました。3階は日本人の事務所といろいろです。

 

 2014年10月には職安通りにできたかなり大きな複合店、Kプラスが閉店し、韓国系の店から中国人、台湾人などに向けた免税店に変わりました。

 

 テナント代が下がり、韓国系の店だけでなく、ベトナム、ネパールのお店が増えてきました。2016年にはネパールのレストランが25店も出来ましたが、さすがに急に店を増やしすぎ、やめる店が出始めました。ベトナムの店は順調に増えています。

 

2017年ごろ、多国籍化もあり客足回復

 

 大久保通りの日本人経営の店がなくなり、代わりにエスニック・韓国の店が増えてきました。

 

 職安通りの韓国広場の前で韓国レストラン高麗の横道に以前は8店の韓国レストランがありました。今はなんと2店になりました。大久保通りのイケメン面通り周辺からイケメン通りは混みますが、職安通りの人どうりは急速に減少しました。

 

 大久保通りでの嫌韓デモが禁止されてから、大久保への客足は急速に回復してきました。従来は韓国の店のお客は中高年の女性が多かったのですが、最近は圧倒的に若い女性が増えています。

 

 2016年には竹見ビルがビルを売却し、カプセルホテル、9アワーズができました。

 

 はやりの食べ物が、はじめは豚肉の脂身を焼いたサムギョプサル、それがチキンの店が多くなり、今はダッカルビが大人気です。どこかで初めて人気が出るとみんな始めます。

 

 前にも書きましたが、大久保の街は再び韓流の街から、多国籍の街に戻ってきました。多国籍の街のほうが私は歓迎します。大久保通りの人通りはだいぶ回復しました。

 

 新大久保駅は改装中ですがオリンピック前には完成します。駅前の混雑が早く解消してほしいものです。

 

職安通りの韓国広場周辺の韓国レストランの店のさびれ方

 

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職安どうりのスーパー、韓国広場。こちらは歌舞伎町でこの店の周辺に韓国レストランがたくさんできました。

 

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 上の地図で韓国のレストランが密集していたところ。左下にスーパー韓国広場。

 

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ほとんどやめている中で、今も残るデハミング。
2018年11月14日追記「マツコの知らない世界」でこの店が、紹介されました。ブログを書くために、デハミングで検索したら、ほかにあまり出ていないで、このブログが出ていました。

 

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今も残る宋家カムジャタン。宋家カムジャタンは他の場所に何店かできています。隣はデハミング。

 

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韓国レストランの代わりに入った串カツ屋さん。左の店は韓国のチキンの店。

 

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評判の良かった韓国レストラン、オザッキョの後はホテルになっていました。建物が汚れ、さびれた感じです。

 

 
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職安通りからみたにぎやかな韓国レストランの店がたくさんあった道の入り口。2階は韓国レストラン高麗でしたが、改装中でまた営業するかは不明です。1階は韓国風?中華レストラン新宿飯店。

 

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高麗の隣のビルには高麗博物館と文化センターアリランがあります。1階はコンビニに。

 

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以前はここはK-plusという韓国スーパーなどの複合店でした。それが客数の減少から倒産し今は免税店となっています。

 

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「こういちの人間学ブログ」 2014年10月8日

 

「韓流百貨店K-plus 閉店 最大の要因は貧富の差拡大と円安」
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店の前には、中国系の観光客でしょうか、たくさんあつまっています。

 

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この通りにもたくさん韓国レストランがありましたが今では1階は中国免税店。2階の水宝館など数店です。

 

 
「大久保コリアタウンの変化―大幅に変化 2017 新宿新聞の元日号から」

 

 

 

2024年11月 9日 (土)

江戸から明治大正昭和平成令和に至る、歴史地図で見る、大久保、百人町の歴史、追記版

◎2024年11月に更新しました。
参考資料「大久保の由来 大窪 旧東大久保の低地の状況を見る~」下記
参考資料:わが家のファミリーストーリー、父を中心として。戦後から現在まで  下記
参考資料 「新宿の民俗 昔の大久保、百人町~」2018年7月24日
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/
 
 江戸時代から、明治、大正、昭和、平成、令和時代と変遷してきた、大久保、百人町と筆者の家の歴史をからめて、変遷を地図上でたどってみたい

(2019年4月1日 元号が5月より令和と変えられます)

 

追記
2016年10月に書いたブログですが、2019年4月に記事を追記して更新し直しました。
2019年4月の人間学研の例会でここに書いたお話を中心に筆者がお話します。また、4月1日、ツイッターにも文章をあげました。
2019年4月12日に追記して更新しました。
2024年11月に更新しました、

 

写真などのため鮮明に出ないのが申し訳ありません。
また、明治の末ごろにこの地に移り住んだ、筆者の先祖の足跡もたどって見たい。
大久保の地はこの一帯が大きな窪地であったことに由来しています。大久保通りに向けて土地が傾斜しています。昭和になっても大雨が降るとよく新大久保駅あたりが水浸しになることがありました。大久保の地は大きく分けて、百人町、西大久保、東大久保に分けられます。
大久保の地は,現在の百人町、大久保(旧西大久保),新宿6,7丁目(旧東大久保)、余丁町、西新宿7丁目の地域のかなり広い地区を言っていました。
元の東大久保の地は特に低く(現在は新宿6、7丁目)は花園神社裏から蟹川が流れ、東大久保の地を通り、そこには砂利の採集場があり砂利場といわれました。今も目立つ低地です。そしてその川は戸山の尾張藩の下屋敷そして神田川まで続いていました。
追 記 
いわゆる「御府内」とされる大江戸の市域は、はじめ「四谷の大木戸までが江戸のうち」とよばれ、大久保の地は大江戸の外でした。しかし、次第に江戸の町は広がり、1818年(文政元年)に、評定所は地図上に朱引きして境界を定めました。それによると西限は代々木村、角筈村、戸塚村,上落合村でした。現在の新宿区の一部は「御府内」になります。
 大久保村、柏木村、内藤新田、千駄ヶ谷村までは、町奉行支配の区域でした。また、諏訪村、戸塚村、鳴子宿、角筈村、下落合、上落合村までは,寺社の募金活動の許された,準「御府内」ということになりました。
   江戸の町(下)1982年、草思社 より
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戸山との関係
戸山は現在1、2、3丁目がありますが、大久保とは深いつながりがあります。明治時代に元の尾張藩の地を陸軍戸山学校とし、その後大久保、百人町の北側の地を陸軍で買い入れ、演習場やさまざまな陸軍の施設もつくられました。演習場周辺は戸山が原と呼ばれました。戸山の地名と大久保、百人町の名は重複しているのです。戸山高校は地名が戸山ですが、戸山小学校や西戸山小学校は百人町の地になります。以前あった戸山中学は大久保の地名でした。
◎「こういちの人間学ブログ」 2019年4月7日
「大久保の由来 大窪 旧東大久保の低地~」詳しく写真も載っています。ぜひご覧ください。
 
江戸時代末期の西大久保村の絵図(下)

 

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右側に全龍寺があり、近くに長光寺がある。

 

ここは百人町の百人組鉄砲隊の大繩地。伊賀出身の同心100人組。他に与力、25騎 、組頭(旗本)1人がいて、江戸城の警備などを行う。寛永時代は鉄砲撃ち場もつくられた。家族,中間などの使用人をいれてもせいぜい20人程度でしょう。すると2500人程度ということになります。
江戸城警備の鉄砲隊は4組ありましたが、他の3組の名前は現在につながっていないのです。
◎2019年3月の同じ広さの新宿区百人町の人口は、世帯数11129世帯。人口17206人です。
大久保通りは仲通りといい、他に現在の職安通り、諏訪通りの3本の道があった。右側の大久保に全龍寺があり職安通りを超えて境内があったようです。長光寺は鉄砲隊の菩提寺。全龍寺は大久保、長光寺は百人町になります。

 

鉄砲同心の土地は戦略上、間口が狭く奥が細長い形をして、今もその形が残っています。

 

100人の同心はそれぞれ1200坪ぐらいの土地を拝領し、与力は2000坪くらいの土地を拝領していました。今の百人町1丁目から4丁目までのかなり広い地に百数十軒で住んでいたことになります

 

同心の人々は、鉄砲の火薬を作るのに木炭が必要で、つつじで作る木炭が火縄銃によいということでつつじを植えました。ここのつつじは有名となり見物客がたくさん来ました。またつつじは同心の人たちの内職ともなりました。ここはつつじの名所となり見物客が押し寄せました。
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江戸名所図会より「大久保の映山紅」

 

 明治期になる町内の有志が明治16年につつじを1万株を植えました。ここのつつじは、日比谷公園や舘林や箱根に移植されました。今大久保百人町の地にもつつじがたくさん植えられています。
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上図からつながったところ、上の左側に川があり田んぼがあります、この辺りも低地だったでしょう。右端は尾張様戸山屋敷がある。
上は現在の諏訪通、真ん中は大久保通り、下は現在の職安通りです。

道路に沿って家がありあとは畑地です。

 

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「江戸、明治、東京重ね地図」より(上、下)

 

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上の地図の江戸時代の拡大図。紫色をしたところが百人町同心大繩地。つつじのしるしが付いています。草色が西大久保村。内藤家の家来が鉄砲隊100人組で江戸城の警備をしました。普段は大手三ノ門を警備した。百人同心は火薬の原料として、つつじの木炭を利用し、内職としてつつじを栽培し、江戸の名物となる。明治になるとつつじは箱根や館林に移された。同心のほかに騎馬の与力(確か20人)がいた。
同心たちの土地は間口が狭く奥が長い形で、そのまま現在に移っている。

 

皆中神社は鉄砲同心の守り神だった。百人町1丁目に住む、前東町会長の朝倉さんは鉄砲同心の子孫の方です。
地図では長光寺の隣に朝倉菊吉の名があり、千百四十坪となっています。与力は二千坪以上です。
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大久保元百人町大繩組屋敷絵図面

右上は尾張家の屋敷。中に人工の箱根山(高さ44,6m)が作られた。箱根山は山手線の内側では一番高いところです。

 

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明治時代の豊多摩郡大久保村。(上)
明治18年に新宿駅が開業し、ついで22年中央線の前身である甲武線が開通。

 

大久保は、はじめはまだ緑地が多く野菜の栽培される農地が多かった。。尾張家の跡地は明治7年に陸軍戸山学校になった。周辺は射撃場や練兵場となりました。周辺には陸軍の施設が多く、多くの高級軍人が大久保の地に住んでいました。また華族のお屋敷があり、文人なども多数住んでいました。
中央線大久保駅はありますが。まだ山手線の新大久保駅はできていません。山手線の電車の線路に沿ってつつじ 園がありました。

佐竹の祖先は長岡藩の桶を中心とした仕事をする御用商人とかで、名字帯刀を許され、大きな蔵がいくつもあったようです。しかし戊辰戦争で幕府初代側についたことで長岡藩は消滅し、商いも不調となり没落したようです。曽祖父の伝蔵の父親は傳右衛門といいます。祖父の庄次郎はこいつがいけないんだと位牌に鉋をかけてしまったそうです。

筆者の曽祖父の伝蔵は先に来ていた椅子職人をしていた息子の庄次郎を頼って新潟の長岡から転居し、1907年(明治40年頃)に百人町で桶屋を始めました。新潟からワガヤ―わがやー、といいながらタガなおしをしながら、東京まで歩いてきたそうです。そして大久保の地で桶屋を始めました。曾祖母は3番目の奥さんだそうで、夫婦ともばくち好きで息子の給与をばくちにつぎこむ始末で、祖父は大阪に逃げました。そこで祖母と結婚しました。伯父と父親は大阪で生まれました。
曽祖父が病気になり大阪にいた祖父母一家が1920年(大正9年)に、百人町に来ました。
このころのお店は百人町2丁目で淀橋教会の前あたりでした。このころから井戸掘りも始めました。

明治12年の地図 下図

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百人町と西大久保を含めて西大久保村といっていました。道路沿いだけが住宅地で、周辺は畑でした。(一部低地だけ水田)

 

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地図の続きです。東大久保村で 元の尾張藩の下屋敷は陸軍戸山学校に。
明治12年(1879年)の東京実測図(上)
道の両側に民家があり、それ以外はほとんど畑や雑木林でした。
西大久保村の中に百人町がありました。青梅街道と甲州街道の分岐点の宿場として新宿が発展しました。このころは角筈村です。

 

 下の地図は上の地図の続きです。上のほうに陸軍戸山学校。その下は東大久保村です。今では新宿6,7丁目になってしまいました。旧柏木地区は西新宿になり、百人町、大久保も中新宿にとかいう案もありましたが、百人町、大久保のままになりました。

 

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大日本職業別明細図。大正14年(1925年)大久保市街図。(上)
1914年(大正3年)には山手線に新しい駅、新大久保駅が作られる。

 

上のほうに戸山小学校がみえる。新大久保駅のすぐ近くには大久保シネマという映画館がありました。はじめのころはトーキーになる前でスクリーンの前に3人くらいの楽師さんがいたそうです。百人町と大久保の境に交番がありました。
1923年(大正12年)には関東大震災がありました。大正5年生まれの父は当時小学生だったそうです。このころはまだ大久保駅の近くに住んでいました。当時小学生制時代の父が言うには昼食とんかつは大好きなとんかつで、食べようとしたら大地震で、揺れが収まって家に戻ったら埃まみれで食べられないのがすごく残念だったそうです新大久保辺りは地盤が固く家が倒壊しなかったそうです。家の前が古川男爵の別邸で竹藪があり、余震に備えてしばらくいたそうです。今はそこは淀橋教会になっています。
関東大震災以後、下町から転居するものが多くなり、街は発展していきました。

 

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 大久保駅と新大久保駅の間の商店街。左上の大久保駅に近いほうに「桶商佐竹」の名前が見えます。筆者の下の息子が祖母(息子から見ると曾祖母)から聞いて学校の文集に乗せたものですとと、山手線はこのころは駅は高架ではなく地面と同じ高さでした。木の屋根がちょこっとついて、電球が1つか2つだけでした。電車も2両編成でちょうど、ちんちん電車のような気がします。その山手線にタヌキがひかれたこともあります。当時,戸山が原にはタヌキなどの野生動物がたくさんいたことでしょう。

 

昔の通りの名前は大久保通りではなくつつじ園通りという名前でした。新大久保駅周辺には広いツツジ園がありました。
店のないところは畑や空き地が多かったのです。

 

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「戸山小学校創立75周年記念、記憶を辿ったわが町大久保」昭和10年前後 上図
父親の青年時代の地図。このころには佐竹のうちは新しくできた新大久保駅近くに移転しました。大久保通りの南側右端、下側に佐竹の名があります。数字が書いてあるのは戸山小学校何期卒業かを書いてあります。父の実は19期卒業です。
この地図をみると高級軍人の住まいがたくさんあったことがわかります。

 

大久保小学校出身の加賀乙彦は、大久保には「山の手に下町が混ざっていた」、「知識階級の子弟もいるけれど、廃品回収業の家の息子もいる。」「原っぱもある、住宅街もある、貧民窟もある、それから町工場もある」、といっている。

 

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上の地図より広く見た絵図。上の赤いところが戸山小学校
このころはお屋敷がたくさんあり、今の大久保駅近くの教会のところ百人町には古川男爵別邸、東大久保に前田利為侯爵、ほかに安藤子爵、室町伯爵、曽我子爵、北大路男爵、松井男爵、南部男爵など、ほかに政治家、高級軍人、学者、芸術家、俳優、文化人など多くの人が住んでいました。大久保小学校の近くに小泉八雲の屋敷があり、今は記念公園が作られています。他に西条八十、国木田独歩、島崎藤村、下村湖人、岩野泡鳴などがいて、大久保文士村と呼ばれました。戸山小学校のそばには国沢新兵衛という満鉄の副総裁の大きな屋敷がありました。
現在の百人町2丁目の北西部には、外人屋敷があり、また近くに、著名な音楽家などが住んでいました。そのあたりに新興キネマの撮影所がありました。
岡田啓介(海軍大将)、平沼騏一郎,阿部信行らの総理大臣や東条英機大将(総理大臣にも),及川大将、植村中将、原田少将などの軍人も多く住んでいました。
岡田啓介首相(海軍大将)は1936年(昭和11年)に起きた二二六事件で、あやうく命が助かりましたが、高橋是清蔵相は殺されました。岡田啓介の自宅は大久保にあり、井戸や風呂関係でお得意さんだったとの父の話でした。岡田首相は東条内閣打倒に動きました。

 

その前あたり百人町3丁目の、戸山が原に陸軍科学研究所や、陸軍技術本部がありました。戦後この辺りに都立衛生研究所があり、また国立科学博物館の分館があり、それが筑波移転してからは、2019年4月から桜美林大学になります。
その東側戸山町に陸軍第一病院がありました。昔旧館が残っているとき、病院に行ったとき、すごく病院の壁が厚く、普通の倍はありました。少しぐらいの爆撃に耐えらえるように作ってあります。その後2回建て替えられ、今は国立第一病院から、国立国際医療研究センターとなっています。

 

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大正5年ごろから11年にかけての新大久保周辺。
横綱太刀山の自宅があった。筆者の父親が太刀山の井戸を掘ったと言っていました。いろいろな有名人が住んでいましたが、みんな井戸掘りではお得意さんでした。(下図)
大久保は水が豊富で浅い井戸で水がよく出ました。
こういちの人間学ブログ、
2018年7月24日
新宿区の民俗」昔の大久保、百人町。井戸掘り、桶屋をしていたわが家について」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/post-c761.html

すみません。つながりません。

2016年10月
「わが家のファミリーストーリー 父を中心として、戦争中まで」
つながります
2016年10月
「大正・昭和・平成を生きた父の死」
すみません。つながりません。上記の記事からはつながります。このブログ冒頭の記事に出ています。

戸山小学校周辺

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ここは百人町の右端。この先は大久保です。

戸山小学校周辺は畑や雑木林が多かった。裏は戸山が原でした。

 

この図の大久保通りの右端に交番があります。ここまでが百人町、その先は大久保になります。大久保通りから戸山小学校に行く道の角は盛好堂書店で今もあります。筆者の小学校時代の同級生がお店をやっています。このころはわが家は大久保駅よりでした。

 

戦後の大久保・百人町

 

戦後の大久保・百人町は昭和18年生まれの筆者が、直接 見分しています。
戦後しばらくの大久保地域は、元の陸軍の射撃場は駐留軍の射撃場に変わりました。
かまぼこ型の射撃場から小銃や機関銃などの音が聞こえ、時に外に銃弾が出たりします。
弾丸除けのための人工の山は三角山と呼ばれ、射撃場撤退の後は。子どもたちの格好の遊び場でした。三角山の後は、いわゆるバタヤ部落となりました。ずっと後でそこは都営住宅になりました。

 

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昭和62年(1968年)の百人町東町会の地図 上下
大久保通りの北側は百人町2丁目(上)
真ん中あたりにロッテ、右上に戸山小学校。
右下が大久保通り、下図につながります。

 

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昭和62年当時の百人町東町会の地図(上)

大久保通りの南側は百人町1丁目
左下に新大久保駅左は大久保通り

 

このころはぎっしり日本人の商店がつらなっていました。下図

 

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2000年の商店街。上の新大久保駅と大久保駅の間が百人町明るい会商店街。上図
下図の新大久保駅から山手線内側が新大久保商店街。このころには韓国のお店はほとんどありません。
2007年の新大久保商店街マップではまだ日本人経営の店が多くありました。

 

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2016年現在の、もう商売をやめてしまっているところは色塗りしています。塗りつぶしていないところ(日本人経営の店)はほとんど残っていません。

2019年の新大久保商店街振興組合員は、わずか24店でそのうち5件は韓国人経営の店です。

新大久保駅から百人町の地区は、残った店は、パリミキ、盛好堂書店、円満屋(観賞魚)、内藤シューズ、サカエカメラしかありません。
横道入り山本米店。新大久保駅に近い大久保地区に 平松青果店、風月堂は大久保で残っています。

2024年11月現在のお店は、メガネのパリ、ミキ、円満やさん、平松青果だけになってしまいました。

 

大久保・百人町の歴史(株式会社サタケの歴史も含めて)

 

弘仁(810-820)年代

小野 篁が諏訪神社(高田馬場で職安通り、大久保に面す)に大国主命をまつり再建した。大久保地区も氏子の地域

鎧神社(北新宿)や鬼王神社(前は西大久保1丁目、今は歌舞伎町2丁目) 平将門に縁の神社

鎌倉時代  

都立戸山公園のあたりは、鎌倉時代侍所初代別当和田義盛の領地で、和田戸山と呼ばれていた。また

源頼朝が源氏の勢ぞろいを行ったところと伝えられる。東大久保から新宿の花園神社にかけて、昔は入り江の低地で

大きな窪地になっていた。それで「おおくぼー大久保」と呼ばれるようになった。

安土・桃山時代

天正18年(1590年) 小田原城が落城し、江戸が徳川の領地となる

天正19年 東大久保村と西大久保村に分かれる

慶長7年(1602年)  鉄砲組百人組が土地を拝領、大久保村西部が百人町となる

鉄砲隊のまもりがみとして、諏訪神社の末社として神社が作られ、その後、皆当たる―神社として,皆中神社となった。

江戸時代

1603年 徳川幕府始まる

戸山の地は尾張徳川家の下屋敷へ

大久保の地は、下級武士や農民、町人の雑居地、川があり、水田もあった。

百人町は伊賀組鉄砲同心100人組などの屋敷となる。その内職としてのつつじの栽培で有名となる

明治時代

明治7年  戸山と周辺が陸軍省用地になる。陸軍戸山学校ができる

、以後、大久保、百人町には、陸海軍の将官30名が住む。

1888年(明治21年)

新潟県長岡にて佐竹庄次郎生まれる

1889年(明治22年)5月1日  

南豊島郡大久保百人町・東大久保村・西大久保村が合併し大久保村が発足 

1895年(明治28年)5月5日  

大久保駅開業(甲武鉄道  現在の総武線、中央線)

1896年(明治29年)4月1日 

南豊島郡が豊多摩郡に変更

1898年(明治31年 )

陸軍省が民有地を購入し軍用地とする。戸山が原周辺。様々な陸軍の施設が作られる。

演習場や射撃場などもつくられる

 

1907年(明治40年)ころ 

佐竹庄次郎 東京の大久保へ それを頼り佐竹の曽祖父伝蔵、新潟県長岡市より大久保百人町に転居、

大久保駅近くで、桶屋を開業する(現在は百人町2丁目)当時の地図に「桶商 佐竹」の名がみえる

昭和時代、店は大久保通りでしたが、自宅は小滝橋通りに3階建ての家があった(百人町1丁目)。富士山がよく見えたとのこと。

(長岡でも桶屋をしていました。高祖父は傳右衛門 長岡市千手町3-832戸籍簿は戦災で焼失) 

 

その後祖父庄次郎は転居、大阪にて大阪府東成郡榎本村にて結婚 息子2人生まれる。長男 房次郎 次男 実

 

1912年(大正元年)12月1日  

大久保村が大久保町になる

このころの大久保 戸山とともに華族、実業家、政治家、高級軍人などの住まいがあった。島崎藤村、下村湖人、小泉八雲、戸川秋骨、岩野ほうめい、岡本綺堂、国木田独歩、西城八十などの文学者も多かった.大久保文士村と呼ばれた また幸徳秋水、北一輝 、なども             

百人町3・4丁目や大久保3丁目には陸軍の施設がたくさんあった。

 

1914年(大正3年)11月15日  

新大久保駅開業(山手線) 、新宿から万世橋に通じる市電の開通。宅地化進む。

12月に東京駅もできる

 

1916年(大正5年)

父、実が大阪府東成郡榎本村で生まれる。

 

1920年(大正9年) 

佐竹の曽祖父伝蔵が病気で倒れ、祖父庄次郎と祖母いさが大阪より伯父、房次郎や父、実をつれて、

大久保に転居する  

1923年(大正12年)

関東大震災。大久保は家屋の倒壊あっても火災発生なし。下町からの転居が増える。

この後人口が増え、井戸掘りも繁盛する。大久保の街は広大なお屋敷も、庶民の家

もあるというところところであった。陸軍の施設が多く高級軍人が多く住んでいた。

1925年(大正14年)

「大日本職業別明細図」に大久保駅の近くで、「桶商佐竹」の名がみえる。

1928年(昭和3年)  かまぼこ型の射撃場に変わる

1932年(昭和7年)10月1日  

大久保町は東京市に編入され、淀橋区になる。それまでは豊多摩郡。

四谷や牛込は前から区であった。

1940年(昭和16年)庄次郎長男、房次郎 酸欠事故で死亡

1943年(昭和18年)

佐竹幸一生まれる 新潟の母親の実家に疎開

佐竹実は戦地満州から、第2次招集で中国安徽省へ 累計7年も戦地へ

母方の、父の戦友であった伯父は戦死

戦  後

1945年(昭和20年)       

終戦 大久保百人町は焼け野原に 。最初に父は大久保でバラックを建てたと自慢。

射撃場は米軍が使用

中国人、韓国人が大久保の地に住みはじめる 帰化する 金さんから金原さんなど

1947年(昭和22年)

3月に淀橋、四谷、牛込、戸塚区など各区合併、新宿区となる

1949年(昭和24年)

旧陸軍用地戸山が原を団地とする 大久保4丁目も団地化

このころ佐竹の店、東京ガスのガス風呂販売委託店になる

のち東京ガスの委託店、東京ガス百人町サービス店になる

1950年(昭和25年)       

ロッテ新宿工場竣工 韓国人増え始める

1952年(昭和27年)3月25日  

西武鉄道、西武新宿駅出来る

1958年(昭和33年)射撃場が返還される

1963年(昭和38年)9月     

早稲田大学大久保キャンパス出来る

1966年(昭和41年)4月有限会社佐竹製作所設立

佐竹幸一 家業の有限会社佐竹製作所に入社 人間学研究会設立

1978年

西大久保1丁目が歌舞伎町2丁目となる(住宅地から繁華街へ)西大久保の地名はなくなり、大久保に。東大久保は新宿6,7丁目になる。

新大久保地域はラブホテルなどが多くなり、裏歌舞伎町と呼ばれるようになる。

1980年ごろから         

ニューカマーの韓国人増え始める 

1986年5月  

有限会社佐竹製作所から株式会社サタケへ  佐竹幸一 社長となる

1990年ごろから         

西戸山タワーホームズ(タワーマンション)出来る
このころから中国、フィリピン、タイなど周辺アジア国の人増える

1991年

第2サタケビル完成 人間学研究所準備室できる

1992年

共住懇でき、雑誌”おおくぼ”できる

2001年               

韓人会結成される
 日本人の店が減少、韓国系の店が増える 

「おいしい”まちガイド」発行される 韓国だけでなく多国籍の街のイメージ

2003年 「冬のソナタ」が放送され、大ブームに ヨン様ブームへ 

2004年 このころ第一次韓流ブームといわれる

2006年

1月、新宿区新聞 韓流まだまだ人気と 職安通り コリアタウン 飲食は150店が300店に

顧客は韓流マダム中心 店の入れ替わりが激しい

2007年 

毎日新聞、万能川柳で、「ヨン様に妻をとられて出前取る」このころ、空前の韓流ブームと

2008年

前に5つあった銀行、信用金庫など、新大久保に1店もなくなる

大久保通りの商店がほとんどなくなり、貸しビル業になる

佐竹「エスニックの街、大久保の今昔」を人間学研、二火会他で話をする 

佐竹 大久保の街全部を調べ、エスニック・マップを作る(最もにぎわったのはスーパー韓国広場のある職安通り)

東京ガスSTコミュネット株設立で業務移管。(株)サタケは貸しビル業で存続。

2009年7月より 

「こういちの人間学ブログ」始まる

第2サタケビル テナント 韓国の店に 

このころから、第2次韓流ブームでにぎわう 

2011年

フジテレビ韓流騒動 一方では地価上昇がおこる

2011年12月

「こういちの人間学ブログ」「韓国の店さらに増加,ヤナギヤさんやめる 12月の状態 2001年との比較」

2012年7月

代表的なお店、Kプラザビル1,2、3 がオープン、第2次韓流ブームのピークの頃

 ビル購入は)(株)光商(総合食品メーカー)

「少女時代」、「KARA]、「東方神機」など紅白にでる。ブームに

2012年10月

「こういちの人間学ブログ」日韓関係悪化 人通りの減少とやめる店が多くなる

2013年6月

佐竹ビル 韓国のお店がテナントに「美学空間」その後「リメイク」にかわる

2013年9月ごろ

嫌韓デモが盛んにおこなわれ、ヘイトスピーチ 韓国の店の売り上げ減少 地価も下がる

2014年6月

コリアタウン存亡の危機」 新宿新聞の記事 韓国の店減少とベトナム人、ネパール人増え、料理店もふえる

韓国スーパーKプラス 閉店 韓国系3,4割が閉店する

2015年

第2サタケビル2,3階ににコンゴのお店できる

2016年11月 

ネパール料理店が新大久保で25店になる。韓国の店後退 賃料下がる

「市場タッカルビ」で、人気回復のために、新商品「チーズ・タッカルビ」を作る

2017年

「Twis](韓国人、日本人、中国人のグループ)が紅白に出場 ブーム再燃のはしり

2018年~

一時減少していた韓国系の店が増える 第3次韓流ブーム 客層は10代から20代前半

中国人、韓国人のほかベトナム・ネパール人もさらに増え、多国籍の街へ

チーズタッカルビやハットグはやり、若者が道にあふれる

日韓関係は悪化 しかし若者は関係なく新大久保へ来る

(若者の貧困化により、円高も影響し、渋谷、原宿より安い新大久保へ)

2019年4月より

株式会社サタケ70期へ 創業117年へ

2019年5月より「令和」に改元

2020年

新大久保駅の新しいビル完成 

東京オリンピック

 

 

参考資料

 

大久保の歴史 山本恭子 新宿区広報

大久保(新宿区)ウイキペディア

「新宿区の昔と今」芳賀善次郎著

「新宿の散歩道」

「新修 新宿区町名誌」 新宿歴史博物館  1000円

「東京ふるさと文庫 2」

「新宿区の民俗」 新宿歴史博物館          H15年

「東京古地図散歩」(山手線)フォト・パブリッシング 2019年3月

「江戸の町」(下)巨大都市の発展 内藤昌 草思社 1982年

「新宿の1世紀 アーカイブス」2006年

参考

2007年 平成19年 新宿区に住む外国人 30337人

韓国人  13392人  中国人9258人  フランス人 1016人

ミャンマー  833人  フィリピン 833人   

 

2019年 平成31年4月1日の新宿区にすむ外国人   

全体 346425人 日本人  304268人 外国人 42157人

中国人  1363o 人

韓国人  10217

ネパール  3441

ベトナム  3344

ミャンマー 2110

◎ 観光ビザで働いている韓国人も多数

旧ジャニーズ所有の東京新グローブ座の大規模改修工事について 。隣りの国有地の遺跡調査始まる。2024年11月8日再オープンしました

11月9日〈土)グローブ座の前を通りがかったところ、女性の人たちの列ができていました。改めて調べたところ、グローブ座の改修が終わり11月8日から10日まで、グローブ座の改修が終わり公演が行われることになったようです。

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村上信吾と丸山隆平の「らふらふ」RaugHーLaugh 第3弾というのだそうです。因みに料金はS席9200円,A席8200円です。

新宿区百人町の3棟の高層マンションがあります。西戸山タワーホームズといい、1988年4月、中曽根行革の一環として3棟の高層マンションとグローブ座という劇場が作られました。グローブ座の住所は新宿区百人町3-1-2、設計は磯崎新氏で、シェイクスピア劇場に倣って円形に作られました。収容人員は703人の小さめの劇場です。はじめはシェイクスピアの演劇を中心に行ってきました。しかし次第に経営不振に陥りました。

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改装後のグローブ座

2024年6月11日、追記

 新宿区百人町の国有地、(百人町3丁目1番地)で「百人町3丁目地区令和6年埋蔵文化財発掘調査の知らせ」のチラシがお隣のマンション(西戸山タワーホームズ)に配られました。期間は令和7年3月31日までです。どのような遺物が見つかるか楽しみです。 

2024年5月5日 追記

 グローバルブ座の隣の国有地が買受できるような話が持ち掛けられているそうです。

 グローブ座の改修と同時に2棟の国有地の建物が、取り壊されました。はじめは、てっきり、グローブ座と一緒に取り壊され、大きな建物になるのかと思っていました。ところがグローブ座は取り壊されず、改修され(見たところはほとんど変化はありませんでした。)公務員宿舎は完全に取り壊され、更地になってしまいました。

 この国有地に関して、国有地を買受できるかのように話を持ち掛けているので、注意をするようにと国のお知らせがありました。

東京財官事務所管内で新宿区百人町3-420番52(住居表示では、新宿区百人町3-1-1)

 面積 1,006,83㎡ 

 新大久保駅にも近くマンションを建てるのに都合の良い土地です。

グローブ座(手前)と、奥の高層マンション、西戸山タワーホームズに隣接したところです。

歩道の上、盛り土したところです。

◎この土地が、文化財の発掘現場になりました。

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歩道からは兵が作られ見えなくなくなっています。わきからのぞくとこうなります。

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11月12日 本格的な掘削始まる。

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2024年2月 グローブ座の外壁はきれいになっていますが、外観の大幅な変化は見当たりません。

グローブ座ととなりの公務員宿舎をまとめて大きな建物にするのかという見込みは完全にはずれました。

 

2024年3月5日の状況

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グローブ座の隣の旧公務員宿舎のところは完全に建物が撤去されました。

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グローブ座のもう一つの側面の状況

 

 

 

 

お隣の公務員宿舎のの建物は完全に、壊されました。

 

直ぐ近く公務員宿舎の向かいの外語専門学校も壊しています。左側は山手線のガード。

 

 

グローブ座の興行は11月4日から、グローブ座以外の場所で行うようです。

 2023年8月から2024年9月にかけて、補修作業が行われます。同時にグローブ座に隣接した元の役所の宿舎で、長い間空いたままになっているところも、同時に取り壊しになります。両方の土地を含めた建物を作る◎のでしょうか。両方含めるとかなり広い面積となります。

追記:グローブ座は単なる改修工事のようです。

西戸山タワーホームズは S,C、N棟の25階建て3棟の高層マンションがあります。ブログ筆者も10年ほど前から住んでいます。

東側は山手線等の線路になっています。 1988年2月に完成。

◎追記 2023年11月号の西戸山タワーホームズの理事会レポート11月号が来ました。それによれば、シェイクスピアプラザの壁面の塗装工事の検討を行っていると書いてありました。ということは建て直すわけではないようですが、わかりません。

 

グローブ座 足場が組まれています。

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グローブ座入口

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タワーホームズのエリア・マップ

3棟のマンションと右端にグローブ座

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今はグローブ座の屋根しか見えません。

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大久保。百人町の地図。左上線路際の、現在地、赤い印が西戸山タワーホームズ

 

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工事の標識 、解体工事は前田工業

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◎下図はタワーホームズの隣の公務員宿舎の解体工事の表示。国有建物等解体工事。

上図は解体工事現場 向こうのビルは西戸山タワーホームズ、サウスタワー 

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看板の字

「令和5年度国有建物等解体撤去

 第1期工事」

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ここには3階建てと2階建ての建物があります。

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11月21日 解体がどんどん進む、元公務員宿舎

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これはグローブ座

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2024年10月17日 (木)

2024年10月 大久保まつりの様子を見る 好天に恵まれました。

2024年10月14日〈祭)の大久保まつりの写真を撮ってきました。晴天に恵まれました。

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パレードの時間割です。歩行者天国は11時ころより。

はじめは子ども中心で。交通少年団。

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歩行者天国 ルーテル教会のところ

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3番目は創価学会の音楽隊が恒例です。

ずっと以前、ブログ筆者の会社では全龍寺のところでトウモロコシ売りを創価学会の人も手伝ってくれて売っていました。

今は全龍寺は場所を閉めています。

駐車場を開けて各地の名産な品どの売り場に

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ジャズコンサート 厚生年金事務所にて

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厚生年金事務所の前で消防自動車など

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創価ルネサンスバンガートンジュニア

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百人町鉄砲隊 先頭

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韓国舞踊学院のグループ 韓国伝統舞踊 その先頭です。

韓国は2つのグループが行進。

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新大久保駅のガード下。ベトナムの人たちが出発を待っています。

出発が新大久保で写真を撮れませんでした。

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新大久保ガード下。

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日本舞踊のグループ ここは子どもたちの列です。

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大久保通りの大久保駅近くのスタート地点からサンバのグループ

サンバリベルターン 最後のグループです。

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華やかで一番目立ちました。

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◎韓国のグループは新大久保駅スタートだったので、写真は撮れませんでした。

2024年10月14日 (月)

本日、第41回大久保まつりが開催されます。その概略を紹介します。パレードは別に紹介します。

2024年10月14日(月)スポーツの日(祭日)は好天に恵まれました。本日は第41回大久保まつりが開催されます。午前11時~始まり、大久保通りの歩行者天国は11時半から、パレードは12時10分から始まり15時まで歩行者天国となります。主催は新大久保商店街振興組合です。協力団体は25団体にも及びます。

素晴らしい天気ですので、ぜひ行ってみてください。

このチラシは新聞の折り込みに入っていました。

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チラシの裏

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パレードの時間割です。

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パレードの模様は別の記事に書きます。

2024年10月 2日 (水)

テレビ東京の「出没!アド街ック天国」で、「新大久保の街ランキング20」が放送されました。長年、新大久保に住んでいるものが追加します。

 テレビ東京の2024年7月13日〈土)放送の「出没!アド街ック天国」で新大久保の街でのいろいろなランキングが20位まで放送されました。ブログ筆者は新大久保駅のそばの明治から続く、風呂製造卸店兼井戸掘り業の家で生まれ、戦後、東京ガスのサービス店となり、そこが東京ガスに吸収合併されたことを経験しています。その後ブログ筆者は脳出血の後遺症で、同じ百人町のマンションに転居し現在に至っております。「こういちの人間学ブログ」を2009年9月から書き始めてから,ちょうど15年が経過しております。テレビ東京の番組に幅広く20項目が紹介されておりましたので、この記事に追加して書いてみます。

 ◎テレビ東京では百人町でも山手線の内側だけを載せているようです。佐竹の追記では、山手線の外側の百人町地区も載せてしまいましいた。たとえばイスラム横丁など。以前2019年6月に放送された番組では百人町だけを放送していました。この番組では山手線の内側の新大久保商店街振興組合(百人町と大久保地域)のところを放送しています。

 

1位 韓国グルメ密集地帯(写真は百人町2丁目)

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2位 新大久保商店街振興組合

  大久保通り右側が百人町1丁目 左側が百人町2丁目

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20位  韓国プリ機(韓国プリントシール) プリクラ製造 

     韓国から逆輸入

19位  ソウルタウン ソウルタウンビルの 3階の110ドーナツなど

    百人町2-2-7 大久保通りよりメガネ店横入る 右側

    食べログ3,28  最近できたビルです。

18位  イケメン通り

             大久保1丁目にある、大久保通りから職安通りに

     向かう細い道。韓国のお店がずらりと並ぶ。

     買い物に来る女性で大混雑

   ◎1本手前の百人町と大久保の境の道路 西大久保公園通り

    と名づけました。ここにブログ筆者の第3佐竹ビルがあります。

17位  伊予路 手打ちうどんのお店

    大久保1-5-13 食べログ3,30

    大久保1丁目にある大久保通りに面したお店、ブログ筆者も

    以前はよく食べに行きました。おいしいお店です。

16位  中央市場のまくちゃん サムギョプサル まくちゃんセット

     24時間営業 ホルモン

     イケメン通り 大久保1-13-6

15位  韓国横丁  ミロフニ新大久保

     大久保2-19-1 セントラル大久保1,2F

     2021年オープン 中に10店舗

14位  大変な路地 百人町

     昔百人町には鉄砲100人組の屋敷があり江戸城警備

     にあたっていた。

     わざと細長い土地にして攻めにくいようにしました。

13位  韓国料理 くるむ 食べログ3,53

    大久保2丁目の韓国の野菜を食べるお店。女性に人気。

    大久保通りに面す。2階のお店の階段はいつも行列。

    大久保2ー32-2林ビル2階 2013年オープン

    以前は北京亭という中華料理店だった

12位  万年湯 外国人に人気

            2016年8月 リニューアル

    大久保1-15-17

11位  まもなく釜山駅 食べログ 3,34

     百人町2-3ー20 3階 6380-3676

     駅のホームのような作り

10位  ドン・キホーテ新宿店 イケメン通り

    イケメン通りと職安通りに面する 大久保1丁目

    ドン・キホーテのお店は大久保通りの新大久保駅近く

    にもある

9位  東京肉しゃぶ家 但馬牛 

    しゃぶしゃぶ 食べログ 4,00 1位

    大久保1-12-3 カーサ第2新宿 12席

8位  高橋楽器店 日本で初めての管楽器修理店

    1940年7月1日 オープン

    新大久保駅周辺には楽器のお店が多い

    クロサワ楽器など

7位  韓国スーパー チョンガーネ

    Kプラザ 2の1階 韓国食品スーパー

    百人町2-1-2 コスメの店も

   ◎元114銀行のビル 中にいろいろなお店が入って

    います。

6位  ホルモン焼き船 ホールちゃん

    お任せのみ 2から3万 1日4組 

    大久保2-13-12栗原ビル1階

5位  ルーテル教会

    大久保1丁目の大久保通りに面したところにある戦前

    からある教会

   ◎戦前からある教会 新大久保には韓国系の教会が大変多い

    また台湾の道教寺院も2つあります

4位  松屋

    大久保1丁目にある早くにできた韓国レストラン

    (韓国伝統料理)

    大久保1-1-17 光荘1階 

    食べログ 3,55

3位  小泉八雲記念公園

    小泉八雲の住居跡は大久保1丁目の大久保小学校のところ

    記念碑がある。近くに記念公園をつくった。

    他に文学記念碑がたくさん

2位  新大久保商店街振興組合

    大久保通りの山手線の内側で、明治通りまでの商店街

    商店主に外国人も多いユニークな商店街

    新大久保のガード下に商店街で絵を描く

1位  韓国グルメ密集地帯

    今では300店と日本1の韓国料理店がたくさんあります。

    ダデボ 釜山名物 ヌタウナギ ほとんど韓国人

    デーハミング 屋上で野菜栽培

補足 大久保、百人町で抜けていることを追加してみます。

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下記の追記したところは、これらは山手線の外側の地域でした。

◎百人町は江戸時代は百人組鉄砲隊の屋敷地でした。

元伊賀の人たちで本能寺の変の時には、徳川家康を守って逃げのびました。そして百人町の地の江戸に移住しました。同心、100人は1人千数百坪の土地を、与力20人は2千数百坪の土地を拝領しました。攻めにくいように1軒1軒の土地が細長くなっていました。広い土地を生かしてツツジの花を植え江戸時代にはツツジの名所となりました。

JRの線路により山手線の内側は百人町東町会、山手線と中央線の地域は百人町中央町会、中央線の外側は百人町西町会となっています。

新大久保駅から、明治通りまでの商店街は、昔商光会、今は新大久保商店街振興組合となっています。

〇 ベトナム、ネパール料理店が多いこと 

 まだ一時より減りましたがお店はまだ多いです。

〇 文化通り(山手線の外側)にイスラム横丁と呼ばれるところがあります。

 ハラール料理の材料が売られています。

〇 各種専門学校がたくさんあります。

〇 東京グローブ座があります。今改装中

2024年9月10日 (火)

1階が韓国化粧品店のリメイクの佐竹ビル3階に、BTSファンクラブARMYが経営するUri Cafeがオープンしました。

佐竹ビル5階にはすでに,株式会社サタケの経営する多目的スタジオAs&Asが開業しておりますが、このたび3階に韓国のBTSのファンたちの公式ファンクラブARMYの経営で、新しいカフェ、Uri Cafeがオープンしました。BTSは世界的な人気を持った7人組の男性のグループです。

 

佐竹ビルの3階を改造した、南側半分とその部屋につながる広いベランダをCafeにしています。営業時間は11時~17時まで。

ブログ筆者は車いすの為3階へ上がれませんので残念ながら直接は見られません。。

 

Cafeの入口です。

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室内の状況です。

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ベランダを屋外のCAFEにしました。これから涼しくなると素敵なところです。

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詳しくは、Uri Cafe で直接、検索してください。

 

韓流ブームについての新しい本が出版されました。

「韓流ブーム」 桑畑優香 八田靖史 まつもとたくお 吉野太一郎

 定価 1078円 税込み ハヤカワ新書 2024年6月25日

 

新大久保の韓流ブーム

 1994年 韓国広場 スーパー

 2002年 ワールドカップ 新大久保「大使館」

 2003年 冬のソナタ 第1次韓流ブーム

 2004年 東方神機

 2010年ころ 第2次ブーム

  KARA 少女時代

 2012年8月 李明博大統領 竹島上陸 韓流ブーム低下

  第2次ブームの終焉

 2015年にTWICEがデビュー 日韓台の人たちが韓国でデビュー 2017年

 日本でデビュー 韓流第3次ブーム

 2018年 防弾少年団からBTSに名前を変える。

    BTSのアルバム「LOVE  YOURSELF 轉 TEAR]がアメリカ

    の音楽雑誌『ビルボード』のアルバム・チャートで1位に輝いた

    ことでした。ファンクラブのARMYたちが一生懸命投票していた

    からだ。「韓流ブーム」から   

 2020年ころから新コロナ蔓延

   BTSのアルバムがアメリカビルボード誌で1位に

   -全て英語の歌詞 国連へメッセージ

  2023年12月までに7人全員が兵役に就くために

    活動中断中

    韓国の兵役について 男性のみ 女性は志願のみ

    19歳で検査 20歳から 陸軍18か月 海軍 20か月

    空軍 20か月

現在は第4次ブーム(2020~23年ころ)

  コロナ下でステイホームで韓国ドラマでブームに

  非韓国系グループも伸びる NiziU Joi INI

  パラサイトでアカデミー作品賞受賞

 BTSの後援会組織 ARMYが活躍

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2024年8月19日 (月)

エスニックの街、新大久保に唯一残っていた盛好堂書店さんが閉店しました。旧店主の道岡君とはブログ筆者と小学校同級です。

2024年7月28日、新大久保で唯一残っていた,本屋さん、盛好堂書店さんが閉店しました。この記事はすでに多くの記事が載せられています。このニュースをインターネットの記事で目にしてから、8月18日(日)に初めて行ってみました。

 

 このところ暑いのでブログ筆者が新大久保周辺に行くのが遅くなりました。盛好堂さんは新宿区百人町2-1-4で大久保通りを挟んで北側にあります。ブログ筆者の元の店舗・住居は百人町1-3ー17で大久保通りの南側にあります。百人町は江戸時代には鉄砲隊百人組に与えられた土地で江戸城の警護にあたっていました。百人町は3つの町会に分かれていて山手線の内側の百人町東町会、中央の中央町会、総武線の外側の西町会に分かれていました。盛好堂書店さんは大正期にお店を開きました。戸山小学校の入口です。ブログ筆者の祖先はブログ筆者の曽祖父が明治末期に総武線の大久保駅の近くで桶屋を始めたことが始まりです。戦後まもなく現在の新大久保駅近く,盛好堂さんの近くに転居しました。

 盛好堂書店は大久保通りから戸山小学校に入る道の入口にあります。戸山小学校では盛好堂書店の店主の道岡君とは1年から6年まで同じクラスでした。当時の70数年前の戸山小学校では安普請の木造校舎で教室が足らず2部授業でした。3年か4年の頃西戸山小学校ができて普通の授業になりましたが、それでも1クラス50名くらいでした。道岡君とは1年からずっと同じクラスでした。道岡君はいろいろな活動に熱心で、書店の組合の中心であり、町内会でも中心的に、合唱サークルでも熱心に取り組みました。途中で腎臓病となり透析をする生活となりましたが、それでも全くへこたれることもなく、小学校のクラス会でもずっと幹事役をしてくれました。

下の写真 盛好堂ビルその1階が盛好堂書店、今は閉店し看板が取り外されています。2階と地下1階は飲食店です。

この書店では韓国のいろいろな雑誌などが置いてあり有名でした。

先日お亡くなりになりましたが道岡君のお母さんはとても元気で長生きでした。

高田馬場の芳林堂書店も店の広さが半分になり、神田の書店、書泉に吸収されました。

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参考写真

今では百人町の東町会地区の大久保通りに残る唯一の昔ながらの日本人経営のお店となった、熱帯魚販売店の円満屋さん。

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そのとなりの〈下の写真)お店の佐竹ビル。ブログ筆者のビルです。1,2階コスメ店、リ・メイクなど、3階に新たに開店したのが、Uri Cafe 。

3階はヨガ教室、5階はレンタルスペース、スタジオ AS&SAです。

 

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2024年5月14日 (火)

大久保の文学碑を見る、小泉八雲 下村湖人 鈴木三重吉、島崎藤村の碑があります。 昔の大久保の様子も追加します。

大正から昭和にかけて、大久保、百人町の地は大久保文化村とも呼ばれ、多くの文学者などが 住んでいました。

社団法人新宿観光振興組合の出した、「新宿観光マップ」が各地域ごとに作られ、そのうちの「高田馬場、早稲田、大久保」の地図によれば、小泉八雲終焉の地、下村湖人終焉の地、鈴木三重吉終焉の地と島崎藤村の居住の場所が地図にのせられています。

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新宿区の大久保地区の地図

 左の線は山手線、そのややうえに赤い色で書いてある下村湖人の終焉の地

 地図の中央辺りに赤い色で小泉八雲の終焉の地

 その下にやはり赤い色で、鈴木三重吉の終焉の地

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1,下村湖人終焉の地の碑

   新宿区百人町2丁目  文化通りにあります。

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アゼリア コートというビルにあります。

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上のパネルを大きく写したところ

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下村湖人のパネル

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下村湖人の肖像

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2,小泉八雲の終焉の地の記念碑 

   大久保小学校の敷地の一部にあります

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小泉八雲の碑  小泉八雲の碑がある大久保小学校

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小泉八雲終焉の地の石碑

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小泉八雲終焉の地の石碑

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小泉八雲の家

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◎小泉八雲公園 石碑の近くにあります。

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小泉八雲公園 

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3,鈴木三重吉終焉の地

 昔はこの辺りは西大久保1丁目であった。途中で歌舞伎町2丁目と変わってしまった。

 区役所通りに面した、チェックメイトビルのかべに碑文のパネルがつけられています。

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鈴木三重吉終焉の地

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 鈴木三重吉は、1882年生まれ、1936年に肺がんのため歿す。53歳。日本の児童文学運動の父。

海城中学の教師となる。大久保の現在の地に住む。児童文学「赤い鳥」の発行をする。

4,島崎藤村の旧居跡、

◎はじめ、島崎藤村の碑が職安通りにあるはず が見当たりませんでした。

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5月15日 場所を確認して、再訪しました。

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職安通りに面したところです。地下鉄の出口に近いところです。

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「島崎藤村旧居跡」についての説明。

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新宿区歌舞伎町2丁目4番地。元は西大久保1丁目405です。地下鉄東新宿駅前です。

島崎藤村はこの地に明治38年5月から明治39年9月まで住みました。この地で名作『破戒』を出版します。

しかし生活が貧しく3人の娘を次々に病死させてしまい、1年少しで転居します。

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◎大久保、百人町について

1889年(明治22年)南豊島郡大久保村(百人町含む)

1912年(大正2年)淀橋区大久保町となる(百人町含む)

      百人町、西大久保、東大久保

1947年 新宿区ができる(牛込区、四谷区、淀橋区)

1978年 住居表示 

     東大久保1,2丁目が新宿6,7丁目になる

      新宿6、7丁目は1,2,3丁めのにぎやかさに比べあまり変わっていません。

     西大久保1丁目が歌舞伎町目2丁目になる

      歌舞伎町2丁目は以前は普通の住宅街でした。大久保中学校の旧友もたくさん住んでいました。

      現在はラブホテル、飲食店のビルがたくさんあり、様変わりしてしまいました。

◎大久保・百人町の地には

 華族や実業家が住み前田侯爵、安藤子爵、室町子爵、北大路男爵 古河男爵などが住んでいた。

 戸山小学校の前に満鉄の副総裁の大きな屋敷がありました。

 2、文化人 小泉八雲、西城八十、吉江孤雁、国木田独歩、水野葉舟、前田晃、前田夕暮、島崎藤村、下村湖人、岩野泡鳴 戸川秋骨 

 田岡嶺雲 岡本綺堂 若山牧水 内田魯庵 林芙美子 小栗風葉、邦枝完二 岸田國士 西條八十 服部嘉香 嵯峨の屋おむろ 竹越三叉 

 松居松葉 草野柴二 服部嘉香 金子薫園 らが住み 大久保文化〈士)村と呼ばれた

 3,政治家 軍人 岡田啓介、平沼騏一郎 阿部信行 歴代総理 東条英機などの多くの政治家、軍人 戦前はかなり爵位を持った人が多く

 住んでいました。近くに陸軍戸山学校、近衛連隊、幼年学校、陸軍科学研究所、射撃場などの軍事施設がたくさんあった。

  ◎加えて、歌人金子薫風 英文学者戸川秋 中国文学者奥野信太郎 ジャーナリストの幸徳修水 思想家の北一輝が住んでいた。

 大久保文士村と呼ばれた。

  化学者の柴田雄二 経済学者の大内兵衛 江藤淳 作曲家の柴田南雄 徳永康元 外国人音楽家も多く住んでいました。 以上はウイキペディアによる・

 

◎ブログ筆者の父親 佐竹実は 百人町の地で桶屋と井戸掘りをしていて、(佐竹井戸ポンプ店の看板があった。)近くに横綱 太刀山の家が

あり、井戸を掘った。又、岡田啓介首相の家の井戸も掘ったそうです。桶屋が井戸やを兼ねました。

新宿区の民俗 という本に記事が載っています。

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第6章 大久保と百人町-軍人の街から多民族の街へー

p155 井戸 ブログ筆者の父親がインタビューを受けた記事です。

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 職人の暮らし

p155 続き

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p156 井戸 続き

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p156全体

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p156 職人の暮らし

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 ブログ筆者の大正5年生まれの父親は関東大震災の時はまだ小学生でした。住んでいたのは同じ百人町も山手線と中央線のあいだの現在の淀橋教会の前あたりに住んでいました。淀橋教会の場所は、当時は古川男爵たの別邸でした。地震の時はちょうどお昼に大好きなとんかつが出ていてそれが地震の揺れでほこりがいっぱいかかり、食べられなくなってとても残念だったと言っていました。この大久保地区は地盤が固く、家は倒壊しませんでしたが、余震が怖く、古川男爵の屋敷の竹やぶに一時避難したそうです。

 関東大震災以後、下町から多くの人が転居してきて、大久保、百人町の地にも、たくさんの人が転居してきました。当時私の家は、桶屋と井戸掘りをやっていましたが、井戸掘りの方が本業でした。上の本には当時の井戸掘りの仕事の様子がくわしくかかれています。

 

 

2024年5月 9日 (木)

2024年5月5日(日)のお昼ごろの新大久保のコリア街他を電動車いすで走ってみました。すごい混み方です。レストラン・ガゼボも。

2024年5月5日、昨日から続く素晴らしい晴天で、新大久保周辺を午後1時ごろから電動車いすで走ってみました。

新大久保周辺のにぎやかなところは、新大久保駅のガードをくぐっていわゆる新大久保駅の駅前通り、大久保通りから、細い道いわゆるイケメン通りまでのところが特ににぎやかなところで、その突き当りは職安通りです。イケメン通りの1本手前の新大久保よりの道、西大久保公園通りもにぎやかなところです。下図参照。

 また、新大久保駅前から信号を渡って山手線に沿った道〈文化通りも)ネパール料理店、ベトナム料理店などがあり、イスラム横丁と呼ばれます。にぎやかの通りです。

 新大久保駅と大久保駅の間の大久保通りにはいろいろなお店が混在しているところです。新大久保駅のそばには,皆中神社があります。

 百人町、大久保地域の1,2丁目地区は、日本人より外国人の方が多く住んでいます。

 この地域には韓国系の教会がたくさんあります。又、台湾系のお寺も2つあります。詳しくはこういちの人間学ブログでご覧ください。

ここでの写真はバラバラなのは申し訳ありません。

電車の線路は真ん中に山手線などで新大久保駅、左側に総武線の大久保駅。百人町の街に二つの駅があります。

 百人町とは、昔、百人の鉄砲同心が住んでいたところです。

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写真の順番がばらバラで申し訳ありません。

新大久保駅です。すごく込みます。

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ここはイケメン通りを出た、職安通りの歩道からです。昔はこの辺りがコリア街の中心でした。

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イケメン通りの占いのお店。イケメン通りだけで4,5軒あります。若い女性は占いが好きなんですね。ブログ筆者も人相手相でカルチャーセンターの講師をしたことがあります。占いという方法を使ったカウンセリングですね。

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イケメン通りの隣の西大久保公園に面した、西大久保公園通りの第3佐竹ビルのお店。

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上のお店のすぐ近くにある西大久保公園。テーブルと椅子が置いてあり、無料で自由に休めます。

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大久保エスニック街の中心。百人町2丁目。第1、第2プラザビル、隣に第3プラザビル。第2プラザビルは昔114銀行でした。

この辺りが一番込むところです。

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新大久保駅のロータリー付近、手前の道は、大久保通り、右の道は高田馬場から新宿まで続く、つつじ通りです。

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大久保通りから見た、左のビルが新大久保駅。隣りはパチンコ店。ここは百人町1丁目です。このビルの間はエスニック料理店、大きな楽器店などがあります。

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ここがイケメン通り入口です。細い道です。

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イケメン通りです。入り口近く、細い道に韓国のお店がぎっしり。通る人は若い女性が7,8割ほどです。

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真ん中あたり。

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イケメン通り出口近く。左側にドン、キホーテ。

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大久保通りから見て、この道のひだり側が百人町2丁目でビルは第3プラザビル、右側が大久保2丁目です。

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大久保1丁目、イケメン通りの入口近くです。右が韓国スーパー、ソウル市場。

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書店、

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下の写真 つつじ通り。高層ビルは歌舞伎町タワー。

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大久保通りの交差点から新大久保駅のガードを見る。

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新大久保駅の近く。大久保通りの北側、込んでいます。

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道路の北側、昔からある盛好堂書店。

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大久保通り、右のビルは第2プラザ、1回にある小さいお店で食べ物を売っています。こういう店が近くに何店もあり、注文する人、車道と歩道の境のガードレールによっかかった食べる人。道路を行きかう人で、動きが取れません。この辺り一番込むところです。

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前にのせた写真をもう一度。この辺りが一番込むところです。

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新大久保駅のガード 新大久保駅で降りてガードをくぐります。すると大久保通りとつつじ通り

高田馬場から、歌舞伎町までの新しい道の交差点です。

 

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文化通りのイスラム横丁周辺。右が新宿八百屋。左が燃えてしまったハラールのお店。

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文化通りにあるイスラム横丁そばのがロアホテル。その1階がよく人間学懇親会で使うレストラン、ガゼボです。

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ガゼボ入口。くるまいすで入れます。

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文化通りをさらに行くと交差点があります。そこに国の管理地の空き地、グローブ座、西戸山タワーホームズがあります。百人町3丁目

文化通り。

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文化通りをさらに行くと交差点があります。そこに国の管理地の空き地、グローブ座、西戸山タワーホームズがあります。百人町3丁目。

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