「エンゲルスのイギリスにおける労働者階級の状態」から
当時のイギリス社会
前回は、この本が生まれる当時のイギリス社会などの背景について書きました。ここでは具体的に、この本の中の、これはと思える部分をかきだしてみたいと思います。訳文は「マルクス、エンゲルス全集」大月書店版です。文章の内容は一部簡略化してあります。コメントは筆者による。
私は(労働者)諸君の生活状態を知るためにできる限りの誠実な注意をはらってきた。文献を集めるだけではなく、諸君の住宅をたずね生活条件や苦悩について語り合い、諸君の圧政者に対する闘争をこの目で見たいと思った。p225
私は諸君がただのイギリス人、単独の孤立した国民の一員以上であることを知った。私は諸君が人間であって、自分の利益と全人類の利益とが同じであることを心得ている、あの巨大で国際的な人類の家族の一員であることを知った。~この「単一不可分の」人類の家族の一員として、言葉のもっとも強い意味での人間として、このようなものとして、私および大陸の多くの人たちは、あらゆる方面における諸君の進歩を歓迎し、諸君が迅速に成功を収めることを希望する。 p226から227
コメント-ー「人間」というものを考えるとき、このような見地で考えることは大切なことではないでしょうか。
機械が採用されるまでは、原料を紡いだり織ったりする仕事は労働者の家の中で行われた。これらの織布工はその賃金で立派に生計を建てることができた。~彼らは壮健で立派な体格の持ち主で、聖書に耳を傾ける「尊敬すべき」善良な一家の主人たちであった。~しかし彼らはロマンチックで情緒に富んでいたが、人間に相応しくないこうした生活から抜け出ることはない。少数の貴族に奉仕するはたらく機械にすぎなかった。~ 産業革命はこのような状態を徹底的に推し進めたにすぎない。労働者を機械に変え、残された独立的な活動の最後ののこりかすまで奪い去ったが、まさにこうすることによって労働者に対してものを考え、人間的地位を要求する刺激を与えた。(p230~232)
ロンドン人が文明の驚異を実現するために、自分たちの人間性の最良の部分を犠牲にしなければならなかった。二三の少数者が自分の能力を完全に発展させ、(その代わり)何百もの力が無為に放置され抑圧された。すでに街路の雑踏が何か不快なもの、なんとなく人間性に逆らうものを持っている。~それらの人たちはみな同じ本性を持ち、幸福に成りたいと同じ関心を持っている人間ではないのか?~走りすぎる群衆は、~だれも他人に対しては目もくれようとしないのである。~個人の孤立、利己心が今日の社会の根本原理になっている。~強者が弱者をふみにじり、少数の強者すなわち資本家があらゆるものを強奪するために、多数の弱者、すなわち貧民には、ただ生きているだけの生活も残されないという結果になる。(p251)
コメントーこの原理は当然今の日本社会にもはたらいている
厳しい生活状況におかれているロンドンの三家族の例を挙げ、ロンドンのすべての金持ちよりはるかに有能で尊敬すべき有能な家族がこのような非人間的な状態におかれており、自分に罪はなくあらゆる努力をしているのに同じような運命に遭遇するかも知れないと思っている。P258
追加です
一人ひとりの労働者の日常の食物そのものは、もちろん労賃に応じてちがう。~割といい労賃のものはいい食物に、つまり毎日かかさず肉にありつき、夕食にはベーコンとチーズにありつく。次第にかせぎの少ない層に行くと、動物性の食物は、ジャガイモの中に刻み込まれたわずかばかりのベーコンになってしまう。もっと低い層に行くと、これもなくなってただチーズとパンとオートミールとジャガイモだけしかなく、最下層のアイルランド人のところまでいくと、ジャガイモだけが食物になっている。 P303
コメント-エンゲルスの時代からずいぶんたった日本でも同じような状態ではないでしょうか。生活保護ももらえずに餓死してしまう人がいるくらいですから。
プロレタリアは自分の必要とするものを、国家権力によって独占を保護されている、このブルジョアジーから手に入れるしかない。したがってプロレタリアは法律の上でも事実の上でもブルジョアジーの奴隷である。~そのうえ、ブルジョアジーはまるで労働者が、自由意思で行動し自由な共生されない同意によって成年に達した人間として、自分と契約を結んでいるかのような外観をも労働者に与えるのだ。(p306)
コメントーこれは現代の日本でも基本的に変わってはいない
労働者を生活できないような境遇におき、そのことによって犠牲者となることがわかっていても、その諸条件を存続させる行為はまさに、社会的殺人である。p326
多くの家庭では妻もその夫と同じように家の外で働く。そしてその結果は子供の完全な放任であり、子供は閉じ込められるか追い出される。このような子供がいく百人もあらゆる種類の事故によって生命を失うといっても少しも不思議でない(P340) -日本においても親の収入によるこどもの教育格差が、その後の子供たちの将来において大きな格差になって固定化してしまっている。
労働者は支配階級にたいして怒りを感じている間だけ人間なのである。自分たちを縛り付けている首かせを辛抱強くがまんし、首かせをしたまま生活を愉快にしようとし始めると労働者はたちまち動物になるのである。(p346)
企業は、強制労働一般にみられる人間を動物化する作用をさらにいく倍も強めた。(p351)
労働者は、日常生活においてはブルジョアジーよりもはるかに人道的である。乞食はたいてい労働者だけに呼びかけるものだ。労働者にとってどんな人間でも人間であるが、一方ブルジョアにとっては労働者は人間以下のものなのである。(p357)
万人の万人にたいする戦争といった状態のもとでは、小数のものが利益を独り占めし、そうして大多数の者から生存手段をうばう。機械が改良されるたびに労働者は生活の道をうしなう。そして改良が重要であればある程それだけ失業する階級の数も増加する。そのたびに一群の労働者のうえに、商業恐慌の作用がもたらされ、欠乏、貧困および犯罪が生み出される。(p336から367)
コメントー日本も全くその通りではないか。大企業は不景気だといって、簡単に社員を首切りし、また低賃金に押さえつける。そして下請けには最低限の支払いしかしない。その一方で、政府に献金し、働きかけて、さまざまな優遇策を手に入れる。その結果、社内留保は驚くべき数字に膨れ上がっている。(下記参照)
労働者の住宅が工場から半時間またはたっぷり一時間かかるほど遠いところにあっても工場主はちっとも気をかけない。-(日本ではこれではまだいいほうですね。日本では満員電車でもっと時間がかかります)イギリスのブルジョアにとっては自分が金さえ儲かれば自分の労働者が飢えようが飢えまいが全くどうでもいいのである。一切の生活関係が金もうけを物差しにしてはかられ、金を生まないことは馬鹿げたことであり、非実際的で観念的なものである。(p511)
コメント-日本の大企業は、不景気だとかいいながら、大量の利益を社内留保として抱え込みながら、(2012年1月追記 資本金10億円以上の大企業が保有する内部留保が2010年度で266兆円に達することが労働総研の調べでわかりました。前年度比9兆円増です。ところが民間企業の年間平均賃金は2000年に比べ2010年には50万円も減少しています。赤旗2012年1月17日)労働者の賃金を下げ続け、非正規化し、雇用を減らしています。さらには政府を使って、一方では消費税を上げさせ、法人税を下げさせようとしています。エンゲルスの指摘していることはもう古いのでしょうか。まさに指摘している通りではないでしょうか。マルクス、エンゲルスはもう古いというのは誤りです。
労働者にとっては自分の生活状態に全面的に反対するよりほかには自分の人間性を実証するための活動分野が何一つ残されていないとすれば、こうした反対をしている時にこそ最も愛すべきもっとも気高い、もっとも人間的なものとしてあらわれるに違いない。(p447)
ブルジョアは労働者を人間とは考えずに、いつも面と向かって「人手(hand)」と考えている。ブルジョアはカーライルが言うように、人間と人間との間に現金支払い 以外の関係を一切認めない。自分と自分の妻との間のつながりでさえも、百のうち99はただの「現金支払い」にすぎない(p511)
資本家が慈善という立場で行う新救貧法はプロレタリアは人間でなく、また人間として扱われるに値しないということが公然と宣告されている。~プロレタリアが人間ではなくまた人間として扱われるに値しないということが公然として宣言されている。イギリスのプロレタリアートの人権を奪還することは、イギリスのプロレタリアートに安心して任せておこう。(p528)
コメント -いかがでしょうか、エンゲルスが書いた状況と今の日本の状況があまり変わっていないと思わないでしょうか。そして昔より格差はさらに広がっています。
GDPが世界第二位(今年三位に落ちたようですが)にも関わらず、根本的な矛盾が変わっていないところが資本主義の本質的な矛盾を示すところです。
資本主義の世の中ではいかに人間が人間として扱われてこなかったか、また労働者の運動が人間の回復を求めることであることがよく分かると思います。
"Derjunge ENGELS" HORST ULLRICH BERLIN 1966
F Engeis im Elendsviertel von Manchester 1842
F・エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」を読んだ方がいらっしゃるでしょうか。おそらくあまり読まれていないのではないでしょうか。この本は、エンゲルスがまだ25歳で、一歳年上のK・マルクスとともに、弾圧を受けたドイツを離れて、イギリスに移住した年に書かれたものです。マルクスは、1842年にドイツのケルンで、急進的なブルジョアの機関紙『ライン新聞』の編集にかかわり、その後エンゲルスと知り合い、1844年には『独仏年誌』にマルクスとエンゲルスの論文が載せられました。しかし、ドイツ政府の弾圧にあい、エンゲルスは父の経営するエルメン・エンゲルス商会のイギリス支社に行くことになりマルクスもイギリスにわたりました。1845年にはマルクスとエンゲルスの共著で「ドイツ・イデオロギー」の草稿が作られました。このとき、マルクスはまだ26歳、エンゲルスは24歳の若さだったのです。そして、エンゲルスは、当時もっとも資本主義が進んだ国である、イギリスの労働者の状況を調べて、『イギリスにおける労働者階級の状態』をかいたのです。これは3月に英文で出版されました。エンゲルスは21カ月をかけて、当時のイギリスの状態を隅々まで調べたといっています。
この当時のイギリスでは、資本家階級のあくなき労働者搾取によって、あまりに非人道的なことが横行しさすがに、いろいろな法律を制定しなければならない状態でした。1842年には、「鉱山法」により、女性と10歳未満の子供の就業を禁止しました。でも11歳以上なら良いということです。1844年にはイギリスで「工場法」が成立し、女性と、13~18歳の子供は12時間以上はたらいてはいけないということになりました。1845年にはアイルランドで、ジャガイモの病気と小麦の不作で3年間で100万人もの人々が死亡しました。アイルランドは農業国にも関わらず、ほとんどの土地はイギリスの地主から土地を借りる小作になっていました。その結果、主食のジャガイモまでも食べられなくなってしまったのです。
私は『イギリスにおける労働者階級の状態』を1967年に、「マルクス、エンゲルス全集第2巻」(1960年発行、大月書店)で読みました。当時、「マルクス、エンゲルスの人間論」というものが出版されていないため、それをつくろうなどという大胆な試みの元、数人で取り組んだのです。そして、人間論として重要だと思われる部分を手書きでレポート用紙で15枚ぶん書き出しました。「イギリスにおける労働者階級の状態」は初めて本格的に労働者階級の状態を全体的にとらえた論文であり、極めて社会学的にも重要なものです。またこの本は『資本論』に比べ大変読みやすかったのです。『資本論』にも、労働者階級の状態について詳しく書かれており、「イギリスにおける労働者階級』に書かれている文章と、同じような内容がそのまま書かれているというのをいくつか見ております。
具体的な内容は、(その2)としてあらためて書くこととしますが、いかに、労働者階級が、資本家にとって、人間扱いされずに、単なる「人手」として扱われ、人間性を奪い取られているかをしめし、労働者階級が改めて、「人間」となるためには、団結して資本家と戦わなければならないと示しています。しかしこのような人間が人間として認められないような状態は、この書物が出されてから166年もたったこの日本でも依然として続いているということです。
● エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」
その2 人間とは に続く
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2011/03/post-5c80.html
はじめ、うまくつながりませんでしたが、今は接続できます。ぜひ、つづきをご覧ください。
その1、とその2がつながっています
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その3 「 F,エンゲルスについて」もぜひご覧ください。
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2009/11/post-900a.html
ヒューマニスト「エンゲルスの評伝」しかしマルクスに比べ誤解され評価の低いまま
2016年5月のブログ
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/05/post-afe1.html
マルクスはいいのだけれど、エンゲルスがだめとか、ゆがめたとか、エンゲルスを非難する人がいます。私は個人的に、エンゲルスに共感を持つというか、好きなんです。エンゲルスと私ではまさに月とすっぽんなのですが、自分に少しでも似ているところがあると好きになるのです。エンゲルスの伝記はずいぶん昔にいろいろ読みました。その中に『フリードリヒ・エンゲルス』若き日の思想と行動(1969、土屋保男、新日本新書)という本があります。中なか面白い本でした。
エンゲルスの生い立ちと経営者エンゲルスの才能
エンゲルスは、ドイツのバルメンの街一番の繊維工場の経営者の家に生まれました。大学に行きたかったのですが、父親によりエンゲルスは高校を中退させられ、ブレーメンの父の知人の店に見習いに出されました。3年近い修業を終えたエンゲルスはベルリンで砲兵として1年間軍隊に志願しました。そこでベルリン大学の聴講生となって勉強をし、唯物論や社会主義の考え方に傾いていきました。エンゲルスに大きな影響を与えたたのは、1841年に出たフォイエルバッハの『キリスト教の本質』という本でした。「神学の秘密は人間学」であるという唯物論の考え方はエンゲルスの考えを大きく変えました。しかし、フォイエルバッハの唯物論は自然についてのみで、社会についての唯物論的な見解になっていませんでした。 そしてケルンで「ライン新聞」の主筆となっていた、マルクスと出会いをするのです。1844年パリで再びあって話をした結果、そこで二人の考え方が全く同じであることを確認したのです。
エンゲルスはイギリスのマンテェスターの父の共同経営の工場で働き始めました。そして、その仕事は一時中断しながら1850年には再び戻って、エンゲルスは、いやいやながら経営者の仕事をしながら終生マルクスの家計の援助を行います。それは20年間、1869年まで続きました。エンゲルスは経営の才もあって1852年ころには尋ねた父親を十分満足させるほど繁盛させていました。
エンゲルスと筆者の経営者としての違い
エンゲルスがエルメン・エンゲルスという会社の経営者として立派に経営をしていながらさまざまな社会運動や本を書くことができたのはなぜだろうと思っていました。しかし伝記を見てわかりました。10時に仕事を始め4時には仕事が終了していたのです。私のように8時ころから、夕方6時過ぎまで、仕事で、そのあとも会議や、接待などが続くのとはだいぶ、違うことが分かりました。 私の場合は、研究者になりたかったのですが、親の家業をどうしてもつがざるを得ず、43年間商売の仕事をしました。昨年ようやく仕事から離れました。独学で人間学の勉強をしてきましたが、専門の研究者のようにはいかずさらに、人間全体について取り組んでいるために、なかなかものになりませんでした。ただ、人間学研究のたしになるように、会社の一室の提供、そして第2ビルの建設と、人間学研究所の建設ということで、人間学研究が長続きする一助にはなったのではないかと思います。
エンゲルスの活動、特に軍事的才能
1846年には、マルクスとエンゲルスで共同で「ドイツイデオロギー」の草稿が作られ、共産主義運動の実践活動を続けながら,『共産党宣言』も書かれました。1848年にはパリで2月革命がおこりました。マルクスとエンゲルスにもフランスからの追放令が出されました。その後転々としエンゲルスは革命義勇軍の副官にもなりました。エンゲルスは大変優れた指揮官で、エンゲルスの軍隊は大変強かったようです。後ほどアメリカの百科事典で、軍に関する部分を担当し、弁証法的唯物論的軍事論のはじめとなりました。マルクスの娘たちは、長身で長いひげ、姿勢のぴんとした、きびきびしたかっこ良いエンゲルスを「将軍」とあだ名してよんでいたようです。
ロンドンにうつる、著作と実践活動
1848年に、革命の敗北後、マルクスとエンゲルスはロンドンにうつります。そしてエンゲルスは前にのべたように商人の仕事を始めました。ロンドンにおける人々のありさまをエンゲルスは「イギリスにおける労働者階級の状態」に詳しく書き、マルクスの「資本論」の中でも同じように書かれていました。以後マルクスとエンゲルスは国際的な共産主義運動を指導するとともに、さまざまな本を書いていきます。そのもっとも重要なものがマルクスの『資本論』です。この著作が、大きく世界を変えたといっても過言ではありません。
エンゲルスは、自分は謙虚に常々、私は第2バイオリンを弾いてきたと言っていました。しかし生活の安定しないマルクスの経済的な支援のためにいやな会社の仕事をしたのです。マルクスが死んだあとは一人で共産主義運動を支えました。それに加えてエンゲルスは、マルクスがやっていない、自然科学、社会科学の部門で、大きく理論を発展させました。一つは未完の『自然の弁証法』です。その中に、「猿が人間になるにあたり、労働の果たした役割」という文章があります。人類の起源に関しての古典的論文です。又『家族、私有財産および国家の起源』は人間や社会の起源に対していまだにもっとも大切な文書です。また「反デューリング論」ではいろいろな科学的見解とともに超能力や神秘現象に対しての批判も書きました。これらはマルクスのやっていない部門です。私(ブログ筆者)も人間学を提唱していますが、大学では、生物学を専攻しており、そういった面でも、エンゲルスに好感が持てるのです。
マルクス・エンゲルスの告白帳
エンゲルスは47歳の時マルクスの娘たちが出した告白張に書いています。
あなたの好きな美徳ー快活さ、
あなたの主要な性質ー何事につけ一知半解なこと、
そうすることが好きなことー冗談を言ったり、言われたりすることなどです。
マルクスは同じような問いにあなたの
好きな美徳ー素朴、
そうすることが好きなことー本くい虫になること
好きな格言ー人間のことで私に無関係で思えるものは何一つない、
好きな標語ーすべてを疑え、と書いていますが、
(これは質問項目の1部です。2016年5月に書いたブログには全項目が書いてあります)
まじめなマルクスと人間性の違いがわかります。エンゲルスはお酒が好きで快活でよく冗談を飛ばす人でした。私はお酒が好きですが、まったく冗談などがうまく言えないところが、エンゲルスと違うところです。
「マルクス、エンゲルスの人間論」を昔まとめてみたのですが、分量的には、エンゲルスの比重が大変高くなっています。エンゲルスは決して第2バイオリンなどではなかったのです。
「こういちの人間学ブログ」2016年5月
「ヒューマニスト『エンゲルス』の評伝、しかし、マルクスに比べ誤解され評価が低いまま」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/05/post-afe1.html
◎昔、人間学研究会ができて間もないころ、中心メンバーで、筆者を中心として勉強会をやっていました。一つは、マルクス・エンゲルス人間論をまとめること。主要な本は何冊か購入して比べました。手書きで書き出し、コピーして、分野別にまとめるところまで行っていました。
そのメンバーで「告白帳」と同じような質問をしあってみたことがあります。懐かしい思い出です。
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『ドイツ イデオロギー』、分業について
「共産主義主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずに、どんな任意の部門においても、修行を積むことができる。社会が全般の生産を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気の向くままに、今日はこれをし明日はあれをし、朝には狩りをし午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家(哲学者など)になることはない。社会的活動のこのような定着化、われわれを抑える物的な強力へのわれわれ自身の生産物の固定化こそ、(この強力-強制する力?)もはや我々の手に追えず、われわれの期待を出しぬき、われわれの目算を水の泡にする)、今までの歴史的発展における主要契機の一つである」(岩波文庫版p44)
しかし、サンチョ(マックス、スティルナー)はおそらく知っているだろう。モーツアルト自身ではなく、ほかの人が大部分のモーツアルトのレーグヴィエム(鎮魂曲)を製作し、完成したのだし、またラファエロは彼のフレスコ壁画のうちのきわめて僅かのものを自分「しあげた」にすぎないことを。~ 各人がラファエロの代わりに労働するのではなく、自分の中にラファエロのような人をひそめている各人がつつがなく発達をとげるというのだ。~ ラファエロも、あらゆる他の芸術家と同じように、かれ以前になされていた芸術の技術的な進歩と、彼の地方における社会組織および分業と、そして最後に彼の地方が交通していたすべての国々における分業とによって条件づけられていた。ラファエロのような個人がその才能を発展させるかどうかは、まったく需要にかかっており、そしてこの需要はまた分業と、そこから出てきた人間の教養関係とにかかっている。
「天文学ではアラゴやハーシェル~のような人々が共同観察のための組織化を必要と考え、それ以来初めていくつかの成果を収めるにいたった。歴史記述では何かの業績を上げることは、唯一者にとっては絶対に不可能である。~ もっぱら、個々人のうちにだけ、芸術的な才能が集中していること、これに関連して広く大衆において、その才能が抑圧されているのは分業の結果である。~
いずれにしても、共産主義的な社会組織の場合には、純粋に分業から生まれる地方的、民族的な狭苦しさのもとに、芸術家が包摂されることや、この特定の芸術的なものに、個人が包摂されてしまうこと、したがって、彼がもっぱら画家、彫刻家などであること、またすでに、その名称も、彼の職業的発達の狭苦しさと、分業への彼の依存を十分に表すということもなくなってしまう。共産主義社会には画家などはいず、高々、絵をも好んで描く人々がいるにすぎない」(岩波文庫 p200~202)
ずいぶんと長々と引用したのですが、この文章には将来の社会に対して、そして人間の在り方に対して大変大きな問題を提起しています。私がまだ学生のころ、この文章を、その通りだと思って、先輩の先生に話したところ、マルクスエンゲルスもすべて正しくはない。現代はマルクスの時代と異なり分業を進めない限りどうしようもないはずだ。むしろ、現代社会はいろいろな制約があって、たとえば研究者は、研究に専念できなくなっている。むしろ、研究に専念して業績が上がるような社会にするべきだと、いっていました。そこでかなりの論争になってしまいました。 マルクス、エンゲルスは、人間の全面的発達ということを理想としています。今でも、時にさまざまな面で一流であるという、全面的に発達し、成果を上げている人がいます。でもそれはそのような条件があったということが言えます。もちろん条件さえあれば、すべてそうなるわけではありません。その人個人個人で違います。私も、若いころは絵が好きで油絵を描いていましたが、次第にそういう余裕がなくなってしまいました。現在では絵を描くどころか、失業し、住むところも、食べるものもない人があふれています。そういう人がなくなり、趣味でなにか、絵でも音楽でもスポーツでも、釣りでも何でもいいのですが、好きで打ち込める余裕ができる社会にまずすることが大事なように思えます。全面的な発達を、みんなができる社会はまだまだ先のようです。
共産主義社会なんて、今どきはやらないし、そんなことを考えること自体おかしいと感じられる方も多いと思いますが。未来の人間社会の在り方に対して、お読みになった方の感想を頂ければありがたいと思います。 追記 一部の恵まれた方は、さまざまな分野で天才的な、万能人ぶりを発揮します。もちろん、その人の努力も大きいのですが。やはりその人の恵まれた環境や条件というのも大きいです。生活に追われていては自分の能力を発揮するどころか食べるのに必死です。まずホームレスなどがいなくなるのが先決ですが。 理想社会は、絵も好きな人がいて、かなり上達をしてそれを、商品として売るためではなく自分や周りの人の楽しむためにあるというのが理想かもしれません。結構みんながいい絵を描けるようになるのです。スポ-ツも見るだけでなくみんなが自分で楽しめるようになることです。でも現実社会があまりにもマルクスやエンゲルスの時代からさらに分業が進んでいますから、今では到底考えられないことですが。
追記 2011年10月 はるか昔、私と小原秀雄先生と徹夜の論争をしたことがありました。この分業をめぐっての話でした。
ドイツ・イデオロギー まえがき
佐竹が学生時代に、人間学研究会での研究活動としてマルクス、エンゲルスの著作の中から、人間に関して述べたことをまとめる作業をしました。いろいろ、眼から鱗のように、そうだったのかと明快に世のなかの仕組みがわかってきました。その中で、人間とは何かを探求しようと人間学を志していた私にとって、「うーむそうか」と、思ったものがあります。それは「ドイツイデオロギー」の「まえがき」です。
「ドイツイデオロギー」は、マルクスとエンゲルスが1845年から46年に書いたもので、そのおおもとは1845年にマルクスが書いた「フォイエルバッハに関するテーゼ」からはじまっています。ドイツイデオロギーはかなりの大著ですが、当時は出版されませんでした。「フォイエルバッハに関するテーゼ」には、人間論にとって極めて重要なテーゼが示されています。
ひとつは、「フォイエルバッハは宗教的あり方を人間的あり方へ解消する。しかし人間性は一個の個人に内在するいかなる抽象物ではない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」ということ。
もう一つは最後の11テーゼの「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝心なのはそれをかえることである」という文章である。(大月国民文庫版による)
それにもとづいて書かれたのが、ドイツイデオロギー(フォイエルバッハ、B,バウワー、シュティルナーを代表とするドイツ哲学の批判)なのです。このドイツイデオロギーはマルクスエンゲルスの人間論のいわば宝庫ともいえる内容をたくさん含んでいます。この当時のドイツ哲学の系譜は、のちのM、シェーラーらの哲学的人間学にもつながっており、、そのまま現代の哲学的人間学への批判として通用します。
「ドイツイデオロギー」のまえがきを少し略して紹介します。
人間は自分たちが何であるのかとか何であろうとしているのかとかについて、自分たち自身に関して間違った観念をこれまでいつも自分たちの頭の中にこしらえてきた。神とかまともな人間らしい人間とか等々について自分たちの観念にのっとって彼らは彼らの関係を律してきた。彼らが生み出した怪物や産物に人間は屈服した。人間にのしかかって居る妄念や観念や教義から彼らを解放しよう。これらの妄想を批判し取り払い他の思想に取り換えれば、今ある現実は崩壊するであろう。 これらの、無邪気で子供らしい空想が近頃のヘーゲル新派哲学の核心をなしている。かれらは、自分たちの考えは世の中を覆す物騒さをもった狼だと思っている。この本(ドイツイデオロギー)は彼らを笑い物にして信用を落としてやろうととするのである。 それは人間が水におぼれるのは重さの観念のとりこになっているからにすぎないと考えた。そして、その観念を頭から追い払えば水におぼれる心配がない、と考えるのと同じである。
この考え方は、当時の私には強烈に響きました。私はぼんやりと、人間観を変えれば人間社会がよくなるのではなどと思っていたからです。
そして、私は、次第に人間学を研究するよりも、社会的実践により、現実社会を変える具体的活動をした方が良いと考えました。そして、一時期、人間学を批判し、科学的社会主義の人間論という立場に変わっていきました。そしてその後、あらためて、人間学の重要性(従来の哲学的人間学ではない人間学)を考えるようになり、人間学研究会を再開するようになったのです。
私は、従来の哲学的人間学ではなく「実用的人間学」を提唱しています。
ドイツイデオロギーの中で人間を考えるにあたり、重要な考え方が書かれているものはおいおいに説明していきます。
無宗教で生きるー実用的人間学的生き方 (2)
無宗教で生きる、自分自身で決めるためには、いろいろな困難や、問題に対して対処する、心構えが必要です。すなわち、ひとつの世界観、人生観を持って生きるということです。ひとつは、世界中でいまではあまりはやらないのですが、マルクス、レーニン主義の元、革命的人間として生きる道です。私自身が一時そのような考え方をもっていました。徹底した無神論であるマルクス、レーニン主義のもと、人民を解放するために、心も体もささげるという生き方です。しかし、ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の崩壊以後、一部を除き世界全体では以前に比べ小さな勢力になってしまいました。その原因について、私が思うにはマルクスや、エンゲルス、レーニン、さらには毛沢東などを教祖とし、マルクス主義の書物を経典とし、共産党の組織が教会となって、宗教化したからではないかと思います。そうすると、本来は民衆のためのものであったはずが、一部共産党の幹部の利益のためにと代わっていき、自由を奪い、人々を弾圧するようになりました。スターリンや毛沢東やポルポトの蛮行は、すっかり、マルクス主義のイメージを悪くしてしまいました。しかしながら、だからと言ってマルクスや、エンゲルスや、多くの唯物論の研究者すべてを否定するのは正しくありません。マルクスや、エンゲルスは世の中、社会の仕組み、歴史の仕組みを見事に、解き明かしました。その成果を全く、無視あるいは否定しては、現在の社会、歴史を正しく見ることはできません。
私は学生時代に、マルクス、エンゲルスの本から、人間に関して、書かれているものを抜き出して整理する作業を通して、その理論の正しさを知りました。弁証法的唯物論、史的唯物論は偉大な理論です。マルクスは、単なる理論だけでなく、科学的社会主義として人間の解放を実際にどのように行うかの実際の道筋を示しました。マルクスなどの考え方は、究極のヒューマニズムです。マルクスの資本論や、エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状況」は資本主義社会の中で搾取され苦しむ労働者の姿を書きました。そしてどうしたら、その人たちを解放できるのかを考えたのです。
マルクスやエンゲルスの理論が優れているからと言って、釈迦や、キリストや、孔子の話をもとに経典とし、それを唱えて、いろいろな解釈を加えて、「宗教化」したように、「マルクス主義」として宗教化してはいけません。私は、マルクスやエンゲルスを尊敬し学びます(特にエンゲルスを尊敬し、好きなのですが)。しかし私は、マルクス主義者として、限定されたくありません。当然のことに、マルクスなどの理論と比べて、社会は時代の変化によって変わっていきます。私は、特に、釈迦の「スッタニバータ」のような原始仏典にも興味がありますし、どこにとこだわることなく、すぐれたものを学んできました。
私が、依拠するものは、「科学的ヒューマニズム」です。これについてはすでに書きましたが。要は、「人間は神や超自然的なものが創った物ではなく、物質進化の過程で、自然に生まれてきたものだということ。そして人間こそが最も大切なものである」ということです。そしてどのような考え方でも、一人ひとりの、個人的生命を大切にしないような考え方に、断固反対するということです。そういう点でいえば私が今書いている小説「人相食む」の中で書いている、後漢初期の光武帝などの政治は、科学的ヒューマニズムに基づいた政治であったといえます。今こそいろいろな立場の違いを超えて、科学的ヒューマニズムの立場を自覚し、大同団結する必要があります。
「実用的人間学的に生きると」いうことは、ただ単に自分の個人的な幸せを求める生き方ではありません。世界全体、そしてみのまわり、そして、自分自身を、客観的、総合的に見る訓練をすることです。世界の、おおげさにいえば宇宙の中にいる自分の位置、その上で何かしら、社会の変革の流れに自分を、そわせていくことです。そして周りの人たちとのうまい人間関係を作りあげる努力も必要です。多くの喜びは人間関係から生まれます。それは大げさなことではなくささやかなことからでいいのです。そういう広い見地で学び、行動し、実践しながら、自分を高めていけるなら素晴らしいことだと思います。それを手だすけする道筋を示すのが実用的人間学ではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。
★ 2011年10月 字や文章の誤りを修正しました。かなりの間違いがあり、お恥ずかしい限りです。
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