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マルクス、エンゲルス人間論

2016年5月16日 (月)

ヒューマニスト「エンゲルス」の評伝、しかしマルクスにくらべ、誤解され評価の低いまま

『エンゲルス―マルクスに将軍と呼ばれた男トリストラム・ハント著、は、原著は”The Frock-Coated Communist"で2009年に出版されましたが、日本語に翻訳されたのは2016年3月25日です。ハントは1974年イギリス生まれの歴史家でケンブリッジ大学、シカゴ大学を卒業後、ロンドン大学のクイーン・メアリ―校の英国史学講師です。2010年より労働党の議員をつとめています。翻訳されたのが17年後と少し遅い出版です。発行は筑摩書房、価格3900円+税です。
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本の帯封に佐藤勝氏(作家・元外務省の主任分析官)の紹介が書かれています。その内容は下記のようです。
 新自由主義的な弱肉強食の嵐が日本社会を席巻しつつある状況で、エンゲルスのヒューマニズムから学ぶべきことがたくさんある
 マルクスの盟友であったエンゲルスに関する本格的な評伝。エンゲルスは大学で学ばなかったが、独学によって独自の思想を形成した天才だ。エンゲルスの思想、科学哲学、経済学、社会主義像などが、マルクスより後世の社会主義者に影響を与えた。しかし、レーニンやスターリンは、エンゲルスの思想の底流に流れるヒューマニズムを理解しなかった。エンゲルスは、ソ連社会で公式理論とされた偏狭で、非人間的な弁証法的唯物論の考案者ではなかったことが、本書を読むとよくわかる。新自由主義的な弱肉強食の嵐が日本社会を席巻しつつある状況で、エンゲルスのヒューマニズムから学ぶべきことがたくさんある。
本の内容の紹介
序文 忘れられた彫像
 1869年6月30日、マンチェスターの工場経営者フリードリッヒ・エンゲルスは、20年近く働いてきた、一族経営の企業内の仕事を手放した。チョールトンの質素な自宅に戻ると、迎えに出ていたのは、愛人のリジ―・バーンズと、泊りに来ていた旧友カールの娘、エリノア・マルクスだった。エリノアはのちに書いた~朝出かけるときに「これで最後だ!」と叫んだ彼の勝ち誇った声を私は決して忘れません。
 フリードリッヒ・エンゲルスは繊維産業の有力者で、キツネ狩りを趣味とし、マンチェスターの王立取引所の会員であり、同市のシラー協会の会長でもあった。彼は人生を楽しくするものをこよなく愛した。そうほうかつぜいたくな暮らしを送り、大酒のみであり、ロブスター、サラダ、シャトー・マルゴー・ワイン、ピルスナー・ビール、お金のかかる女性たち、だが、その一方で、40年にわたってカール・、マルクスに援助を続け、彼の子どもたちの面倒を見て、怒りをなだめ、歴史上最も世に知られた思想上の共同経営の片翼を担った。『共産党宣言』の共著者となり、マルクス主義と呼ばれることになるものの共同創始者となったのである。
 ~(いろいろな運動で)困難に直面するたびにエンゲルスをたづねます。「そして彼への訴えが徒労に終わることは1度もありませんでした」。常に戦略的に考え、しばしば目上にたてつき、軍人であるとともに知識人でもあったエンゲルスはまさに「将軍」だった。
 
 ロシアのエンゲルスの名を入れた都市、モスクワ郊外のエンゲリス市にはエンゲルスの銅像が残っている。でもドイツのエンゲルスの生まれたところ(ラインラントの町、ヴッパ―タール)でも、空き地のまま残され、小さな記念碑だけが残る。(解放後)マルクスの彫像はレーニン、スターリン、べリアの像とともに引き倒された。ところがエンゲルスはあまりにも無害なので銅像が引き倒されることもなかった。
 近年世界の政治経済の矛盾がひどくなる中で、再びマルクスが見直されてきた。ニューヨークタイムスはマルクス株が上昇、120年ぶりに帰ってきた、とかいた。ローマ教皇ベネディクト16世ですらマルクスの「偉大な分析能力」をたたえる気になった。イギリスの経済学者メグナド・デサイは、熱がこもるマルクスに関する論文の一部で、すでにこの現象を「マルクスの復讐」と名付けている。p11
 (筆者注、ピケティの「21世紀の資本」が世界的に注目される中、マルクスの「資本論」も注目された)
 それに対して、今まで、エンゲルスは、1989年以後に意識的に忘却されたことの一環で、エンゲルスは大衆の記憶からかき消された。一方、マルクス・レーニン主義の恐るべき行き過ぎの責任を押し付けられている。倫理的・人道主義的なマルクス、に対して機械的で科学的なエンゲルス、と対比された。エンゲルス株は下降していった。マルクス主義研究者のノーマン・レヴィンは「エンゲリズムが結果として直接スターリン時代の弁証法的唯物論を導いた。~スターリン時代、マルクス主義だと理解していたものは、実際には、エンゲリズムだったのだ」といった。
 エンゲルスはマルクス主義と呼ばれるものの共同者創始者となった。20世紀を通じて、この説得力のある哲学が、人類の3分の一をゆうに超える人々の上に影を落とすことになった。しかも、社会主義世界の指導者たちは、しばしば、その政策を説明するため、行き過ぎた行為を正当化するため、そして自分たちの体制を強化するために、マルクスではなくまずエンゲルスを頼った。解釈されては、誤解され、引用されては間違って伝えられるわけで、フリードリッヒ・エンゲルス―フロックコートを着たヴィクトリア朝時代の綿業主ーはグローバル共産主義の中心的な立役者の一人となったのである。p8
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「僕は今哲学と批判神学で非常に忙しい」探求心旺盛な知識人エンゲルス19歳の自画像
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山岳派オスヴァルト。ロマン主義の空想家エンゲルスの肖像写真1840年
 
本の内容 要約 目次から
序文 忘れられた彫像
第1章 シオンのジークフリート
 1820年2月、エンゲルスは実業家の長男として生まれた
 ロマン主義の洗礼 エンゲルスの父は福音派の保守主義
政治的熱情の萌芽
「ヴィッパ―タールだより発行工場主の19歳の跡継ぎによって書かれる
 資本主義が人間に課した人的損失を、見事なまでに容赦なく批判したものになった。
 1841年近衛砲兵隊に[志願]、約1年間、大学の聴講生に
第2章 竜の種
青年ヘーゲル派の影響、
フォイエルバッハのヘーゲル批判、1841年「キリスト教の本質」出版
 (一時熱烈に支持)、ただその唯物論は不完全だった。
マルクスとの出会い、マルクスは2歳年上。マルクスの父は改宗したユダヤ人
1844年、マルクスとエンゲルスは再び会い、考え方が完全に一致することを確認
 1844年マルクスとの共著「聖家族」、
「新ライン新聞」
第3章 黒と白のマンチェスター
(エンゲルスは父の経営する会社のあるマンチェスターへ)
 1845年、イギリスにわたる
 マンチェスターの地獄図絵とそれをもとにした
「イギリスにおける労働者階級の状態」1845年
  階級社会の未来展望,「国民経済学批判大綱」
第4章 少々の忍耐と若干の威嚇
 マルクスとエンゲルスのパリ、青年ヘーゲル派との決別
 愛人問題(エンゲルスの「愛人」または「妻」と表現されたメアリー・バーンズ
「ドイツイデオロギー」、新時代を切り開く変化の歴史的推進力が階級闘争
  であることを明らかにした
「共産主義者宣言1848年
第5章 限りなく豊作の48年
 1848年の革命の進展、フランス2月革命の波及、反動のパリ、
 実戦と敗走 エンゲルスは反乱軍側の司令官ヴィリヒの副官となる。総勢13000人の革命
 軍の4倍もあるプロイセン軍と戦う。積極的に戦い手柄を立てた、敗走とスイスに亡命
第6章 さまざまな灰色のマンチェスター
 マルクスの隠し子、フレディ・デムート、非公式に自分の子として認知したのはエンゲルス、養育も行った。
 マルクスの「資本論」の執筆支えるために、エンゲルスは己の経済的安定と哲学的研究
 、さらには自分の名声すら喜んでささげたのだ。戦後のマルクス、エンゲルスの困窮
 父との和解、再び会社の経営者に、1850年、再び経営者としての仕事に就く(エンゲルスはエンゲルス家の長男)、社交生活、マンチェスター社会の重鎮
 貴族や大資本家とキツネ狩り、エンゲルスは家業に精を出し、マルクスの経済的支援のために働く。しかし、エンゲルスの二重生活は病気からうつ状態そして衰弱へと追い込まれた。
第7章 悪徳商売の終わり
「ドイツイデオロギー1845-46 マルクスとエンゲルスによって書かれる
 大部分がエンゲルスによって書かれる。生前には出版されなかった
 1869年 仕事を辞める。エンゲルス49歳。
 軍事史の研究、アメリカの百科事典に軍事部門に多数項目執筆
「ザ・ニュー。アメリカン・サイクロペディア」1857-1860
 大月書店、マル、エン全集、第14巻
「ドイツ農民戦争」1850年
「資本論」刊行1867年第1部、2,3部はエンゲルスにより後で発行
   「告白」の内容―後述、
 1870年ロンドンに転居、マルクス、エンゲルスは近いところに住む
第8章 リージェンツ・パーク・ロードの大ラマ僧
(~ロードはエンゲルスの書斎、大ラマ僧はエンゲルスのこと)
 パリコンミューンとインターナショナル、
「反デューリング論」1878 百科事典的に幅広く(「生命とは蛋白体の存在様式である」)
「空想から科学へ」1880
 第2インターナショナル(1889-1914)重要な役割をはたす
 最強のライバル、バクーニン
 有能な証券投資家、エンゲルス夫人(リジー)の死
 盟友マルクスの死(1883年)
第9章 マルクスのブルドック
 科学革命の時代に 1870年代半ばH・スペンサーンの「社会進化論」の学派に疑念
「唯物論的科学」
「自然の弁証法」(未完、1927年に発刊)、唯物論的科学の3つの法則について、
 1、量から質への変換の法則、2、肯定と否定などは分離しがたく相互に浸透する、法
 則。3、否定の否定(対立物の統一の法則)
 の法則により、高い段階へ、
(◎「自然の弁証法」中における「サルからヒトへの移行において労働が果たした役割」
と いう文章は,進化生物学者グールドが19世紀のダーウィン主義思考の傍流の中でも、際立って印象的なものとみなしていた。
 ヒトの進化における三つの本質的な特徴―言語、大きな脳、直立姿勢に注目することで、エンゲルスはいかに「労働が人間をつくりだしたか」を証明しようとした。ヒトが木から下りて「ますます直立姿勢を取るようになった」とき、、手が自由になって道具が使えるようになったのだ。自然の支配は手の発達とともに、労働とともに始まり進歩を遂げるごとにヒトの視野を広げていった」労働の要求は。徐々に共同体を1つにまとめ、相互援助の制度を育み、言語をはじめとする知的な行為が生じうる環境をつくりだした。労働の物質的要求がまず生じ、言語はそのあとに続いたに過ぎなかった。道具によって狩猟用具を使うようになると、ヒトは「もっぱら採食から肉も同時に利用する」。肉食により脳に栄養が行き渡り、容量が増えた。p375-376
ーエンゲルスによるこの考え方は、人間学にとって極めて重要な文章である)
「資本論」第2部発刊、マルクスの悪筆を読めるのはエンゲルスだけ
  第3部発刊1894年
「家族私有財産国家の起源
 近代の家族は、そのあらゆる欠点―家父長制、偽善性、欲求不満、ごまかし―とともに私的所有の産物なのである。女性の世界史的敗北性差を生物学的に決定されたものではなく経済的に生み出されたものである
(◎これも、人間とは何かを知るにあたって極めて重要な資料である)
「フイエルバッハ論」1888出版、アメリカ旅行
第10章 ついに第一バイオリンに
 あふれ返る社会主義者
 国際労働者大会での歓迎、
 「将軍」の死 、1895年、遺産は相続税を引いても2万378ポンド。(今の400万ドル、4億円以上)エンゲルスの遺灰は海へ
エピローグ 再びエンゲりス市へ
 エンゲリスの栄光と転落、ヴォルガのドイツ系入植者の町
 マルクスとエンゲルスは常々ロシアでプロレタリア革命がおきる可能性については、慎重であり続けた。
 資本主義社会の矛盾が共産主義への変貌に必要条件だと信じていたプレハーノフは、マルクス主義に「弁証的唯物論」の称号を最初に与えた人物だった。そして、レーニンが主張する前衛に立つエリートが引き起こすトップダウン方式の社会主義革命を心底から嫌っていた。(共産主義の土台にツアーリの専制政治が復活する)
 レーニンはエンゲルスのマルクス主義は―修正もありうると謙虚を装いながら―教義へと変容したのである。レーニンにとって「マルクス主義」は「鋼鉄の塊」にも似た理論の完全な体系なのであった。p468
 スターリンは共産党の遂行するすべての政策は必然的にマルクス主義的な神聖さを持つものとしてイデオロギー面で認可されることになった。
スターリン主義者がどれだけ彼(エンゲルス)を父と仰ぐと主張したとしても、20世紀のソ連の共産主義には決して賛成しなかったであろう。
 彼はまた現在の状況も決して受け入れなかっただろう。今われわれが20世紀の、マルクスレーニン主義によって付着したもの、つまり社会主義の井戸を毒で汚染した「弁証法的逸脱」をはぎ取って、19世紀のヨーロッパの本来のエンゲルスに戻ればきわめて異なった、驚くほど現代にも通じる声が再び聞こえてくる。
 エンゲルスの時代のマンチェスターの労働者の悲惨さと、2000年の中国の労働者の状況は極めて似通っている、p477
 中国共産党がエンゲルスに認可されたことだとどれだけ主張したがろうと、その政策によって引き起こされた野放しの搾取は明らかに、決してエンゲルスが描いた理想社会の概念ではない。
◎エンゲルスの著作については、本書にないものまで記入しました。
訳者あとがき 東郷えりか
 「エンゲルスの伝記を訳している」と、告げると、私の知人、友人はみな一様にぽかんとした表情を浮かべた。「マルクス・エンゲルスの?」とためらいがちに尋ねてみてから「なんでまた?」と目で問いかける人もいた。エンゲルスはもはや、時代遅れか、忘れられた存在のようだ。「フロックコートを着たコミュニスト」という題に凝縮されている。エンゲルスは忌み嫌う実業家として人生の多くの年月を過ごしただけではなく、高位の貴族とともにキツネ狩りを楽しみ、死後には酒屋に彼専用のワインが142ダースも残されていたほどの大酒飲みという、およそ共産主義者らしからぬ人物だった。
 ロマン主義者で歴史上の偉大な軍人に惹かれ、志願兵として1年間入隊していたほか、1848年の革命では戦闘に加わり、軍事評論家の側面も持つ彼は、「将軍」というあだ名で呼ばれていた。
 マルクス、エンゲルスは前衛が先導するトップダウン方式の革命には懐疑的だった。
晩年のエンゲルスは民主主義の持つ可能性に期待し、「普通選挙が社会主義の武器庫の中の、立派な武器であるとみなすようになっていた」74歳まで生きたエンゲルスの見解は無視され、、レーニン、スターリン、毛沢東など、まるで異なる社会で育った人々によって彼らの都合のよいように作り替えられ、それが20世紀以降に生きる多くの人間にとっての共産主義となったのだ。
参考
エンゲルスの「告白」の内容  p300(以前のブログにも書きましたが)
最も好む美徳    陽気さ
    男性には   他人事に口出しをしない
    女性には   ものの置き場を間違えない
主な特徴       あらゆることを生半可に知っている
幸せとは       1848年物のシャトー・マルゴー
不幸とは       歯医者に行くこと
許せる悪徳     あらゆる種類の過剰
嫌いな悪徳とは   口先fだけの言葉
嫌悪するもの    とりすまして、気取った女性
最も嫌いな人物  「チャールズ・八ッドン」影響力のあったパブティスト派の牧師
好きなこと      からかったりからかわれること
好きなヒーロー   「なし」
好きなヒロイン   「いすぎて一人に絞れない」
好きな詩人     「狐物語」の悪賢い狐のルナール、シェイクスピア、アリオスト
好きな散文     「ゲーテ、レッシング、ドクター・サミュエルソン
好きな花       ブルーベル
好きな色       アニリン以外なら何でも
好きな料理      冷たい料理―サラダ、温かい料理―アイリッシュ・シチュウ―
好きな格言     特になし
モットー        気楽に
◎wikipediaで、エンゲルスをひくと
 ドイツの社会思想家、政治思想家、ジャーナリスト、実業家、共産主義者、軍事評論家、革命家、国際的な労働運動の指導者となっている。
 いかに、エンゲルスの活動が広い範囲に及んでいるかがわかります。
1820年、11月28日生まれ、1895年8月5日死去、74歳
 
 
◎「こういちの人間学ブログ」におけるエンゲルス
「こういちの人間学ブログ」において、「マルクス・エンゲルス人間論」というカテゴリーがあります。ブログを書き始めた2009年に、マルクス・エンゲルスと言いながら、実際にはエンゲルスの人間論について書きました。その後このカテゴリーは全然書かれないままでした。
「人間観変えても世の中変わらない?」2009.9、4
「共産主義社会に画家はいなくなる?」2009,9、12
「マルクス・エンゲルス人間論」その1、「イギリスにおける労働者階級の状態」2011,3,3
「マルクス・エンゲルス人間論」その2、「人間とは」2011,3,3
「マルクス・エンゲルス人間論」その3、「エンゲルスの伝記」2009,11,11
2009年のこのブログを書き始めたころのブログです。
接続できます
 学生時代、筆者はマルクス・エンゲルスの著作や伝記を読み、その素晴らしき考え方、行動に感銘を覚えました。エンゲルスと同じように家業をやりながら、活動や、研究をやろうとしました。エンゲルスに比べますと、月とスッポンですが人間学研究は自分が研究者として抜きんでるより、組織者、応援者として、裏方として支えていこうと思い、それは実現しております。そして、ささやかながら人間学研究所を作り、それは現在もつづいております。
学生時代から卒業してから数年、マルクス・エンゲルスの「人間」に関する文章を、「マルクス・エンゲルス人間論」としてまとめました。当時、マルクス・エンゲルス教育論とか個別のテーマでまとめたものは多かったのですが、「人間論」は現在に至っても出版されません。マルクス、エンゲルスには、人間がない,のではなく、多すぎてまとめられないことがわかりました。人間論に関しては、生命の起源についてや、進化の問題を論じた、「自然の弁証法」とくに「サルが人間になるにあたり労働の果たした役割」は重要です。神秘現象を批判的に論じたものもあります。また「家族、社会、および国家の起源」も重要です。人間論に関しても「ドイツイデオロギー」などに重要な説明があります。
 このエンゲルスの評伝は、まだ詳しく読んでいません。記事と関係なくエンゲルスの本の出版日が、書いてあります。また読んで感銘を受けたところを追記していきたいと思います。
参考書
「フリードリッヒ・エンゲルス、若き日の思想と行動」土屋保男、新日本新書、1964年
”Der Junge Engels" Urrich  1966
参考 エンゲリス市
 ヴォルガ川下流の、ロシア連邦サラトフ州の、1都市。2002年、人口19,4万人。エカチェリーナ2世の出身地がドイツだったので、ドイツ人を多数迎え入れた。1924年ソヴィエト連邦成立の時、サラトフ州内に、ヴォルガ・ドイツ自治ソヴィエト社会主義共和国ができる。エンゲルスの名にちなんでエンゲリス市と名称を変える。共和国の首都となる。
 スターリンの時、ここに住むドイツ人はシベリアなどに強制移住された。その後その命令は解消されたがドイツ人はもどらなかった。
参考 ヴッパ―タール市
 エンゲルスの生地。ドイツのデュッセルドルフの東36キロ。ドイツ産業革命の中心工業都市。ヴィッパ―川の上にかかる世界最古のモノレールがある。人口4,5万人。タールは谷。ネアンデルタール人のネアンデルタール谷は近くにある
 
 
 

2011年3月 3日 (木)

エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』 その2 人間とは

「エンゲルスのイギリスにおける労働者階級の状態」から

 

当時のイギリス社会

 

前回は、この本が生まれる当時のイギリス社会などの背景について書きました。ここでは具体的に、この本の中の、これはと思える部分をかきだしてみたいと思います。訳文は「マルクス、エンゲルス全集」大月書店版です。文章の内容は一部簡略化してあります。コメントは筆者による。

 

 私は(労働者)諸君の生活状態を知るためにできる限りの誠実な注意をはらってきた。文献を集めるだけではなく、諸君の住宅をたずね生活条件や苦悩について語り合い、諸君の圧政者に対する闘争をこの目で見たいと思った。p225

 

 私は諸君がただのイギリス人、単独の孤立した国民の一員以上であることを知った。私は諸君が人間であって、自分の利益と全人類の利益とが同じであることを心得ている、あの巨大で国際的な人類の家族の一員であることを知った。~この「単一不可分の」人類の家族の一員として、言葉のもっとも強い意味での人間として、このようなものとして、私および大陸の多くの人たちは、あらゆる方面における諸君の進歩を歓迎し、諸君が迅速に成功を収めることを希望する。 p226から227 

 

 コメント-ー「人間」というものを考えるとき、このような見地で考えることは大切なことではないでしょうか。

 

 機械が採用されるまでは、原料を紡いだり織ったりする仕事は労働者の家の中で行われた。これらの織布工はその賃金で立派に生計を建てることができた。~彼らは壮健で立派な体格の持ち主で、聖書に耳を傾ける「尊敬すべき」善良な一家の主人たちであった。~しかし彼らはロマンチックで情緒に富んでいたが、人間に相応しくないこうした生活から抜け出ることはない。少数の貴族に奉仕するはたらく機械にすぎなかった。~             産業革命はこのような状態を徹底的に推し進めたにすぎない。労働者を機械に変え、残された独立的な活動の最後ののこりかすまで奪い去ったが、まさにこうすることによって労働者に対してものを考え、人間的地位を要求する刺激を与えた。(p230~232)

 

 ロンドン人が文明の驚異を実現するために、自分たちの人間性の最良の部分を犠牲にしなければならなかった。二三の少数者が自分の能力を完全に発展させ、(その代わり)何百もの力が無為に放置され抑圧された。すでに街路の雑踏が何か不快なもの、なんとなく人間性に逆らうものを持っている。~それらの人たちはみな同じ本性を持ち、幸福に成りたいと同じ関心を持っている人間ではないのか?~走りすぎる群衆は、~だれも他人に対しては目もくれようとしないのである。~個人の孤立、利己心が今日の社会の根本原理になっている。~強者が弱者をふみにじり、少数の強者すなわち資本家があらゆるものを強奪するために、多数の弱者、すなわち貧民には、ただ生きているだけの生活も残されないという結果になる。(p251)

 

コメントーこの原理は当然今の日本社会にもはたらいている

 

 厳しい生活状況におかれているロンドンの三家族の例を挙げ、ロンドンのすべての金持ちよりはるかに有能で尊敬すべき有能な家族がこのような非人間的な状態におかれており、自分に罪はなくあらゆる努力をしているのに同じような運命に遭遇するかも知れないと思っている。P258

 

 追加です

 

 一人ひとりの労働者の日常の食物そのものは、もちろん労賃に応じてちがう。~割といい労賃のものはいい食物に、つまり毎日かかさず肉にありつき、夕食にはベーコンとチーズにありつく。次第にかせぎの少ない層に行くと、動物性の食物は、ジャガイモの中に刻み込まれたわずかばかりのベーコンになってしまう。もっと低い層に行くと、これもなくなってただチーズとパンとオートミールとジャガイモだけしかなく、最下層のアイルランド人のところまでいくと、ジャガイモだけが食物になっている。 P303

 

コメント-エンゲルスの時代からずいぶんたった日本でも同じような状態ではないでしょうか。生活保護ももらえずに餓死してしまう人がいるくらいですから。

 

 プロレタリアは自分の必要とするものを、国家権力によって独占を保護されている、このブルジョアジーから手に入れるしかない。したがってプロレタリアは法律の上でも事実の上でもブルジョアジーの奴隷である。~そのうえ、ブルジョアジーはまるで労働者が、自由意思で行動し自由な共生されない同意によって成年に達した人間として、自分と契約を結んでいるかのような外観をも労働者に与えるのだ。(p306)

 

コメントーこれは現代の日本でも基本的に変わってはいない

 

 労働者を生活できないような境遇におき、そのことによって犠牲者となることがわかっていても、その諸条件を存続させる行為はまさに、社会的殺人である。p326

 

 多くの家庭では妻もその夫と同じように家の外で働く。そしてその結果は子供の完全な放任であり、子供は閉じ込められるか追い出される。このような子供がいく百人もあらゆる種類の事故によって生命を失うといっても少しも不思議でない(P340)                -日本においても親の収入によるこどもの教育格差が、その後の子供たちの将来において大きな格差になって固定化してしまっている。

 

 労働者は支配階級にたいして怒りを感じている間だけ人間なのである。自分たちを縛り付けている首かせを辛抱強くがまんし、首かせをしたまま生活を愉快にしようとし始めると労働者はたちまち動物になるのである。(p346)

 

 企業は、強制労働一般にみられる人間を動物化する作用をさらにいく倍も強めた。(p351)

 

 労働者は、日常生活においてはブルジョアジーよりもはるかに人道的である。乞食はたいてい労働者だけに呼びかけるものだ。労働者にとってどんな人間でも人間であるが、一方ブルジョアにとっては労働者は人間以下のものなのである。(p357)

 

 万人の万人にたいする戦争といった状態のもとでは、小数のものが利益を独り占めし、そうして大多数の者から生存手段をうばう。機械が改良されるたびに労働者は生活の道をうしなう。そして改良が重要であればある程それだけ失業する階級の数も増加する。そのたびに一群の労働者のうえに、商業恐慌の作用がもたらされ、欠乏、貧困および犯罪が生み出される。(p336から367)

 

コメントー日本も全くその通りではないか。大企業は不景気だといって、簡単に社員を首切りし、また低賃金に押さえつける。そして下請けには最低限の支払いしかしない。その一方で、政府に献金し、働きかけて、さまざまな優遇策を手に入れる。その結果、社内留保は驚くべき数字に膨れ上がっている。(下記参照)

 

 労働者の住宅が工場から半時間またはたっぷり一時間かかるほど遠いところにあっても工場主はちっとも気をかけない。-(日本ではこれではまだいいほうですね。日本では満員電車でもっと時間がかかります)イギリスのブルジョアにとっては自分が金さえ儲かれば自分の労働者が飢えようが飢えまいが全くどうでもいいのである。一切の生活関係が金もうけを物差しにしてはかられ、金を生まないことは馬鹿げたことであり、非実際的で観念的なものである。(p511)

 

コメント-日本の大企業は、不景気だとかいいながら、大量の利益を社内留保として抱え込みながら、(2012年1月追記 資本金10億円以上の大企業が保有する内部留保が2010年度で266兆円に達することが労働総研の調べでわかりました。前年度比9兆円増です。ところが民間企業の年間平均賃金は2000年に比べ2010年には50万円も減少しています。赤旗2012年1月17日)労働者の賃金を下げ続け、非正規化し、雇用を減らしています。さらには政府を使って、一方では消費税を上げさせ、法人税を下げさせようとしています。エンゲルスの指摘していることはもう古いのでしょうか。まさに指摘している通りではないでしょうか。マルクス、エンゲルスはもう古いというのは誤りです。

 

 労働者にとっては自分の生活状態に全面的に反対するよりほかには自分の人間性を実証するための活動分野が何一つ残されていないとすれば、こうした反対をしている時にこそ最も愛すべきもっとも気高い、もっとも人間的なものとしてあらわれるに違いない。(p447)

 

 ブルジョアは労働者を人間とは考えずに、いつも面と向かって人手(hand)」と考えている。ブルジョアはカーライルが言うように、人間と人間との間に現金支払い 以外の関係を一切認めない。自分と自分の妻との間のつながりでさえも、百のうち99はただの「現金支払い」にすぎない(p511)

 

 資本家が慈善という立場で行う新救貧法はプロレタリアは人間でなく、また人間として扱われるに値しないということが公然と宣告されている。~プロレタリアが人間ではなくまた人間として扱われるに値しないということが公然として宣言されている。イギリスのプロレタリアートの人権を奪還することは、イギリスのプロレタリアートに安心して任せておこう。(p528)

 

コメント -いかがでしょうか、エンゲルスが書いた状況と今の日本の状況があまり変わっていないと思わないでしょうか。そして昔より格差はさらに広がっています

 

 GDPが世界第二位(今年三位に落ちたようですが)にも関わらず、根本的な矛盾が変わっていないところが資本主義の本質的な矛盾を示すところです。

 

 資本主義の世の中ではいかに人間が人間として扱われてこなかったか、また労働者の運動が人間の回復を求めることであることがよく分かると思います。 

 

 

 

 

エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」その1

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"Derjunge ENGELS" HORST ULLRICH BERLIN 1966

 F Engeis im Elendsviertel von Manchester 1842

F・エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」を読んだ方がいらっしゃるでしょうか。おそらくあまり読まれていないのではないでしょうか。この本は、エンゲルスがまだ25歳で、一歳年上のK・マルクスとともに、弾圧を受けたドイツを離れて、イギリスに移住した年に書かれたものです。マルクスは、1842年にドイツのケルンで、急進的なブルジョアの機関紙『ライン新聞』の編集にかかわり、その後エンゲルスと知り合い、1844年には『独仏年誌』にマルクスとエンゲルスの論文が載せられました。しかし、ドイツ政府の弾圧にあい、エンゲルスは父の経営するエルメン・エンゲルス商会のイギリス支社に行くことになりマルクスもイギリスにわたりました。1845年にはマルクスとエンゲルスの共著で「ドイツ・イデオロギー」の草稿が作られました。このとき、マルクスはまだ26歳、エンゲルスは24歳の若さだったのです。そして、エンゲルスは、当時もっとも資本主義が進んだ国である、イギリスの労働者の状況を調べて、『イギリスにおける労働者階級の状態』をかいたのです。これは3月に英文で出版されました。エンゲルスは21カ月をかけて、当時のイギリスの状態を隅々まで調べたといっています。

 この当時のイギリスでは、資本家階級のあくなき労働者搾取によって、あまりに非人道的なことが横行しさすがに、いろいろな法律を制定しなければならない状態でした。1842年には、「鉱山法」により、女性と10歳未満の子供の就業を禁止しました。でも11歳以上なら良いということです。1844年にはイギリスで「工場法」が成立し、女性と、13~18歳の子供は12時間以上はたらいてはいけないということになりました。1845年にはアイルランドで、ジャガイモの病気と小麦の不作で3年間で100万人もの人々が死亡しました。アイルランドは農業国にも関わらず、ほとんどの土地はイギリスの地主から土地を借りる小作になっていました。その結果、主食のジャガイモまでも食べられなくなってしまったのです。

 私は『イギリスにおける労働者階級の状態』を1967年に、「マルクス、エンゲルス全集第2巻」(1960年発行、大月書店)で読みました。当時、「マルクス、エンゲルスの人間論」というものが出版されていないため、それをつくろうなどという大胆な試みの元、数人で取り組んだのです。そして、人間論として重要だと思われる部分を手書きでレポート用紙で15枚ぶん書き出しました。「イギリスにおける労働者階級の状態」は初めて本格的に労働者階級の状態を全体的にとらえた論文であり、極めて社会学的にも重要なものです。またこの本は『資本論』に比べ大変読みやすかったのです。『資本論』にも、労働者階級の状態について詳しく書かれており、「イギリスにおける労働者階級』に書かれている文章と、同じような内容がそのまま書かれているというのをいくつか見ております。

 具体的な内容は、(その2)としてあらためて書くこととしますが、いかに、労働者階級が、資本家にとって、人間扱いされずに、単なる「人手」として扱われ、人間性を奪い取られているかをしめし、労働者階級が改めて「人間」となるためには、団結して資本家と戦わなければならないと示しています。しかしこのような人間が人間として認められないような状態は、この書物が出されてから166年もたったこの日本でも依然として続いているということです。

 エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」

その2 人間とは に続く

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はじめ、うまくつながりませんでしたが、今は接続できます。ぜひ、つづきをご覧ください。

その1、とその2がつながっています

その3 「 F,エンゲルスについて」もぜひご覧ください。

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ヒューマニスト「エンゲルスの評伝」しかしマルクスに比べ誤解され評価の低いまま

   2016年5月のブログ

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2009年11月11日 (水)

F エンゲルスについて マルクス・エンゲルス人間論 3、エンゲルスの伝記

 マルクスはいいのだけれど、エンゲルスがだめとか、ゆがめたとか、エンゲルスを非難する人がいます。私は個人的に、エンゲルスに共感を持つというか、好きなんです。エンゲルスと私ではまさに月とすっぽんなのですが、自分に少しでも似ているところがあると好きになるのです。エンゲルスの伝記はずいぶん昔にいろいろ読みました。その中に『フリードリヒ・エンゲルス』若き日の思想と行動(1969、土屋保男、新日本新書)という本があります。中なか面白い本でした。

エンゲルスの生い立ちと経営者エンゲルスの才能

 エンゲルスは、ドイツのバルメンの街一番の繊維工場の経営者の家に生まれました。大学に行きたかったのですが、父親によりエンゲルスは高校を中退させられ、ブレーメンの父の知人の店に見習いに出されました。3年近い修業を終えたエンゲルスはベルリンで砲兵として1年間軍隊に志願しました。そこでベルリン大学の聴講生となって勉強をし、唯物論や社会主義の考え方に傾いていきました。エンゲルスに大きな影響を与えたたのは、1841年に出たフォイエルバッハの『キリスト教の本質』という本でした。「神学の秘密は人間学」であるという唯物論の考え方はエンゲルスの考えを大きく変えました。しかし、フォイエルバッハの唯物論は自然についてのみで、社会についての唯物論的な見解になっていませんでした。  そしてケルンで「ライン新聞」の主筆となっていた、マルクスと出会いをするのです。1844年パリで再びあって話をした結果、そこで二人の考え方が全く同じであることを確認したのです。

 エンゲルスはイギリスのマンテェスターの父の共同経営の工場で働き始めました。そして、その仕事は一時中断しながら1850年には再び戻って、エンゲルスは、いやいやながら経営者の仕事をしながら終生マルクスの家計の援助を行います。それは20年間、1869年まで続きました。エンゲルスは経営の才もあって1852年ころには尋ねた父親を十分満足させるほど繁盛させていました。

エンゲルスと筆者の経営者としての違い

 エンゲルスがエルメン・エンゲルスという会社の経営者として立派に経営をしていながらさまざまな社会運動や本を書くことができたのはなぜだろうと思っていました。しかし伝記を見てわかりました。10時に仕事を始め4時には仕事が終了していたのです。私のように8時ころから、夕方6時過ぎまで、仕事で、そのあとも会議や、接待などが続くのとはだいぶ、違うことが分かりました。 私の場合は、研究者になりたかったのですが、親の家業をどうしてもつがざるを得ず、43年間商売の仕事をしました。昨年ようやく仕事から離れました。独学で人間学の勉強をしてきましたが、専門の研究者のようにはいかずさらに、人間全体について取り組んでいるために、なかなかものになりませんでした。ただ、人間学研究のたしになるように、会社の一室の提供、そして第2ビルの建設と、人間学研究所の建設ということで、人間学研究が長続きする一助にはなったのではないかと思います。

エンゲルスの活動、特に軍事的才能

 1846年には、マルクスとエンゲルスで共同で「ドイツイデオロギー」の草稿が作られ、共産主義運動の実践活動を続けながら,『共産党宣言』も書かれました。1848年にはパリで2月革命がおこりました。マルクスとエンゲルスにもフランスからの追放令が出されました。その後転々としエンゲルスは革命義勇軍の副官にもなりました。エンゲルスは大変優れた指揮官で、エンゲルスの軍隊は大変強かったようです。後ほどアメリカの百科事典で、軍に関する部分を担当し、弁証法的唯物論的軍事論のはじめとなりました。マルクスの娘たちは、長身で長いひげ、姿勢のぴんとした、きびきびしたかっこ良いエンゲルスを「将軍」とあだ名してよんでいたようです。

ロンドンにうつる、著作と実践活動

 1848年に、革命の敗北後、マルクスとエンゲルスはロンドンにうつります。そしてエンゲルスは前にのべたように商人の仕事を始めました。ロンドンにおける人々のありさまをエンゲルスは「イギリスにおける労働者階級の状態」に詳しく書き、マルクスの「資本論」の中でも同じように書かれていました。以後マルクスとエンゲルスは国際的な共産主義運動を指導するとともに、さまざまな本を書いていきます。そのもっとも重要なものがマルクスの『資本論』です。この著作が、大きく世界を変えたといっても過言ではありません。

  エンゲルスは、自分は謙虚に常々、私は第2バイオリンを弾いてきたと言っていました。しかし生活の安定しないマルクスの経済的な支援のためにいやな会社の仕事をしたのです。マルクスが死んだあとは一人で共産主義運動を支えました。それに加えてエンゲルスは、マルクスがやっていない、自然科学、社会科学の部門で、大きく理論を発展させました。一つは未完の『自然の弁証法』です。その中に、「猿が人間になるにあたり、労働の果たした役割」という文章があります。人類の起源に関しての古典的論文です。又『家族、私有財産および国家の起源』は人間や社会の起源に対していまだにもっとも大切な文書です。また「反デューリング論」ではいろいろな科学的見解とともに超能力や神秘現象に対しての批判も書きました。これらはマルクスのやっていない部門です。私(ブログ筆者)も人間学を提唱していますが、大学では、生物学を専攻しており、そういった面でも、エンゲルスに好感が持てるのです。

マルクス・エンゲルスの告白帳

 エンゲルスは47歳の時マルクスの娘たちが出した告白張に書いています。

あなたの好きな美徳ー快活さ、

あなたの主要な性質ー何事につけ一知半解なこと、

そうすることが好きなことー冗談を言ったり、言われたりすることなどです。

マルクスは同じような問いにあなたの

好きな美徳ー素朴、

そうすることが好きなことー本くい虫になること 

好きな格言ー人間のことで私に無関係で思えるものは何一つない、

好きな標語ーすべてを疑え、と書いていますが、

(これは質問項目の1部です。2016年5月に書いたブログには全項目が書いてあります)

まじめなマルクスと人間性の違いがわかります。エンゲルスはお酒が好きで快活でよく冗談を飛ばす人でした。私はお酒が好きですが、まったく冗談などがうまく言えないところが、エンゲルスと違うところです。

「マルクス、エンゲルスの人間論」を昔まとめてみたのですが、分量的には、エンゲルスの比重が大変高くなっています。エンゲルスは決して第2バイオリンなどではなかったのです。

「こういちの人間学ブログ」2016年5月

「ヒューマニスト『エンゲルス』の評伝、しかし、マルクスに比べ誤解され評価が低いまま」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/05/post-afe1.html

◎昔、人間学研究会ができて間もないころ、中心メンバーで、筆者を中心として勉強会をやっていました。一つは、マルクス・エンゲルス人間論をまとめること。主要な本は何冊か購入して比べました。手書きで書き出し、コピーして、分野別にまとめるところまで行っていました。

 そのメンバーで「告白帳」と同じような質問をしあってみたことがあります。懐かしい思い出です。

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2009年9月12日 (土)

共産主義社会では画家はいなくなる? マル、エン人間論(2)

『ドイツ イデオロギー』、分業について

 「共産主義主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずに、どんな任意の部門においても、修行を積むことができる。社会が全般の生産を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気の向くままに、今日はこれをし明日はあれをし、朝には狩りをし午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家(哲学者など)になることはない。社会的活動のこのような定着化、われわれを抑える物的な強力へのわれわれ自身の生産物の固定化こそ、(この強力-強制する力?)もはや我々の手に追えず、われわれの期待を出しぬき、われわれの目算を水の泡にする)、今までの歴史的発展における主要契機の一つである」(岩波文庫版p44)

 しかし、サンチョ(マックス、スティルナー)はおそらく知っているだろう。モーツアルト自身ではなく、ほかの人が大部分のモーツアルトのレーグヴィエム(鎮魂曲)を製作し、完成したのだし、またラファエロは彼のフレスコ壁画のうちのきわめて僅かのものを自分「しあげた」にすぎないことを。~  各人がラファエロの代わりに労働するのではなく、自分の中にラファエロのような人をひそめている各人がつつがなく発達をとげるというのだ。~    ラファエロも、あらゆる他の芸術家と同じように、かれ以前になされていた芸術の技術的な進歩と、彼の地方における社会組織および分業と、そして最後に彼の地方が交通していたすべての国々における分業とによって条件づけられていた。ラファエロのような個人がその才能を発展させるかどうかは、まったく需要にかかっており、そしてこの需要はまた分業と、そこから出てきた人間の教養関係とにかかっている。    

 「天文学ではアラゴやハーシェル~のような人々が共同観察のための組織化を必要と考え、それ以来初めていくつかの成果を収めるにいたった。歴史記述では何かの業績を上げることは、唯一者にとっては絶対に不可能である。~ もっぱら、個々人のうちにだけ、芸術的な才能が集中していること、これに関連して広く大衆において、その才能が抑圧されているのは分業の結果である。~

 いずれにしても、共産主義的な社会組織の場合には、純粋に分業から生まれる地方的、民族的な狭苦しさのもとに、芸術家が包摂されることや、この特定の芸術的なものに、個人が包摂されてしまうこと、したがって、彼がもっぱら画家、彫刻家などであること、またすでに、その名称も、彼の職業的発達の狭苦しさと、分業への彼の依存を十分に表すということもなくなってしまう。共産主義社会には画家などはいず、高々、絵をも好んで描く人々がいるにすぎない」(岩波文庫 p200~202)

 ずいぶんと長々と引用したのですが、この文章には将来の社会に対して、そして人間の在り方に対して大変大きな問題を提起しています。私がまだ学生のころ、この文章を、その通りだと思って、先輩の先生に話したところ、マルクスエンゲルスもすべて正しくはない。現代はマルクスの時代と異なり分業を進めない限りどうしようもないはずだ。むしろ、現代社会はいろいろな制約があって、たとえば研究者は、研究に専念できなくなっている。むしろ、研究に専念して業績が上がるような社会にするべきだと、いっていました。そこでかなりの論争になってしまいました。  マルクス、エンゲルスは、人間の全面的発達ということを理想としています。今でも、時にさまざまな面で一流であるという、全面的に発達し、成果を上げている人がいます。でもそれはそのような条件があったということが言えます。もちろん条件さえあれば、すべてそうなるわけではありません。その人個人個人で違います。私も、若いころは絵が好きで油絵を描いていましたが、次第にそういう余裕がなくなってしまいました。現在では絵を描くどころか、失業し、住むところも、食べるものもない人があふれています。そういう人がなくなり、趣味でなにか、絵でも音楽でもスポーツでも、釣りでも何でもいいのですが、好きで打ち込める余裕ができる社会にまずすることが大事なように思えます。全面的な発達を、みんなができる社会はまだまだ先のようです。

 共産主義社会なんて、今どきはやらないし、そんなことを考えること自体おかしいと感じられる方も多いと思いますが。未来の人間社会の在り方に対して、お読みになった方の感想を頂ければありがたいと思います。 追記 一部の恵まれた方は、さまざまな分野で天才的な、万能人ぶりを発揮します。もちろん、その人の努力も大きいのですが。やはりその人の恵まれた環境や条件というのも大きいです。生活に追われていては自分の能力を発揮するどころか食べるのに必死です。まずホームレスなどがいなくなるのが先決ですが。 理想社会は、絵も好きな人がいて、かなり上達をしてそれを、商品として売るためではなく自分や周りの人の楽しむためにあるというのが理想かもしれません。結構みんながいい絵を描けるようになるのです。スポ-ツも見るだけでなくみんなが自分で楽しめるようになることです。でも現実社会があまりにもマルクスやエンゲルスの時代からさらに分業が進んでいますから、今では到底考えられないことですが。

 追記 2011年10月 はるか昔、私と小原秀雄先生と徹夜の論争をしたことがありました。この分業をめぐっての話でした。

2009年9月 4日 (金)

人間観変えても世の中変わらないーマルクス、エンゲルス人間論1

ドイツ・イデオロギー まえがき

 佐竹が学生時代に、人間学研究会での研究活動としてマルクス、エンゲルスの著作の中から、人間に関して述べたことをまとめる作業をしました。いろいろ、眼から鱗のように、そうだったのかと明快に世のなかの仕組みがわかってきました。その中で、人間とは何かを探求しようと人間学を志していた私にとって、「うーむそうか」と、思ったものがあります。それは「ドイツイデオロギー」の「まえがき」です。

 「ドイツイデオロギー」は、マルクスとエンゲルスが1845年から46年に書いたもので、そのおおもとは1845年にマルクスが書いた「フォイエルバッハに関するテーゼ」からはじまっています。ドイツイデオロギーはかなりの大著ですが、当時は出版されませんでした。「フォイエルバッハに関するテーゼ」には、人間論にとって極めて重要なテーゼが示されています。

 ひとつは、「フォイエルバッハは宗教的あり方を人間的あり方へ解消する。しかし人間性は一個の個人に内在するいかなる抽象物ではない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」ということ。

 もう一つは最後の11テーゼの「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝心なのはそれをかえることである」という文章である。(大月国民文庫版による)

 それにもとづいて書かれたのが、ドイツイデオロギー(フォイエルバッハ、B,バウワー、シュティルナーを代表とするドイツ哲学の批判)なのです。このドイツイデオロギーはマルクスエンゲルスの人間論のいわば宝庫ともいえる内容をたくさん含んでいます。この当時のドイツ哲学の系譜は、のちのM、シェーラーらの哲学的人間学にもつながっており、、そのまま現代の哲学的人間学への批判として通用します。

 「ドイツイデオロギー」のまえがきを少し略して紹介します。

 人間は自分たちが何であるのかとか何であろうとしているのかとかについて、自分たち自身に関して間違った観念をこれまでいつも自分たちの頭の中にこしらえてきた。神とかまともな人間らしい人間とか等々について自分たちの観念にのっとって彼らは彼らの関係を律してきた。彼らが生み出した怪物や産物に人間は屈服した。人間にのしかかって居る妄念や観念や教義から彼らを解放しよう。これらの妄想を批判し取り払い他の思想に取り換えれば、今ある現実は崩壊するであろう。                          これらの、無邪気で子供らしい空想が近頃のヘーゲル新派哲学の核心をなしている。かれらは、自分たちの考えは世の中を覆す物騒さをもった狼だと思っている。この本(ドイツイデオロギー)は彼らを笑い物にして信用を落としてやろうととするのである。         それは人間が水におぼれるのは重さの観念のとりこになっているからにすぎないと考えた。そして、その観念を頭から追い払えば水におぼれる心配がない、と考えるのと同じである。

 この考え方は、当時の私には強烈に響きました。私はぼんやりと、人間観を変えれば人間社会がよくなるのではなどと思っていたからです。

 そして、私は、次第に人間学を研究するよりも、社会的実践により、現実社会を変える具体的活動をした方が良いと考えました。そして、一時期、人間学を批判し、科学的社会主義の人間論という立場に変わっていきました。そしてその後、あらためて、人間学の重要性(従来の哲学的人間学ではない人間学)を考えるようになり、人間学研究会を再開するようになったのです。

 私は、従来の哲学的人間学ではなく「実用的人間学」を提唱しています。

 ドイツイデオロギーの中で人間を考えるにあたり、重要な考え方が書かれているものはおいおいに説明していきます。

2009年8月16日 (日)

無宗教で生きる (2)マルクス主義と科学的ヒューマニズム

無宗教で生きるー実用的人間学的生き方 (2)

 

 無宗教で生きる、自分自身で決めるためには、いろいろな困難や、問題に対して対処する、心構えが必要です。すなわち、ひとつの世界観、人生観を持って生きるということです。ひとつは、世界中でいまではあまりはやらないのですが、マルクス、レーニン主義の元、革命的人間として生きる道です。私自身が一時そのような考え方をもっていました。徹底した無神論であるマルクス、レーニン主義のもと、人民を解放するために、心も体もささげるという生き方です。しかし、ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の崩壊以後、一部を除き世界全体では以前に比べ小さな勢力になってしまいました。その原因について、私が思うにはマルクスや、エンゲルス、レーニン、さらには毛沢東などを教祖とし、マルクス主義の書物を経典とし、共産党の組織が教会となって、宗教化したからではないかと思います。そうすると、本来は民衆のためのものであったはずが、一部共産党の幹部の利益のためにと代わっていき、自由を奪い、人々を弾圧するようになりました。スターリンや毛沢東やポルポトの蛮行は、すっかり、マルクス主義のイメージを悪くしてしまいました。しかしながら、だからと言ってマルクスや、エンゲルスや、多くの唯物論の研究者すべてを否定するのは正しくありません。マルクスや、エンゲルスは世の中、社会の仕組み、歴史の仕組みを見事に、解き明かしました。その成果を全く、無視あるいは否定しては、現在の社会、歴史を正しく見ることはできません。

 

 私は学生時代に、マルクス、エンゲルスの本から、人間に関して、書かれているものを抜き出して整理する作業を通して、その理論の正しさを知りました。弁証法的唯物論、史的唯物論は偉大な理論です。マルクスは、単なる理論だけでなく、科学的社会主義として人間の解放を実際にどのように行うかの実際の道筋を示しました。マルクスなどの考え方は、究極のヒューマニズムです。マルクスの資本論や、エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状況」は資本主義社会の中で搾取され苦しむ労働者の姿を書きました。そしてどうしたら、その人たちを解放できるのかを考えたのです。

 

 マルクスやエンゲルスの理論が優れているからと言って、釈迦や、キリストや、孔子の話をもとに経典とし、それを唱えて、いろいろな解釈を加えて、「宗教化」したように、「マルクス主義」として宗教化してはいけません。私は、マルクスやエンゲルスを尊敬し学びます(特にエンゲルスを尊敬し、好きなのですが)。しかし私は、マルクス主義者として、限定されたくありません。当然のことに、マルクスなどの理論と比べて、社会は時代の変化によって変わっていきます。私は、特に、釈迦の「スッタニバータ」のような原始仏典にも興味がありますし、どこにとこだわることなく、すぐれたものを学んできました。

 

 私が、依拠するものは、「科学的ヒューマニズム」です。これについてはすでに書きましたが。要は、「人間は神や超自然的なものが創った物ではなく、物質進化の過程で、自然に生まれてきたものだということ。そして人間こそが最も大切なものである」ということです。そしてどのような考え方でも、一人ひとりの、個人的生命を大切にしないような考え方に、断固反対するということです。そういう点でいえば私が今書いている小説「人相食む」の中で書いている、後漢初期の光武帝などの政治は、科学的ヒューマニズムに基づいた政治であったといえます。今こそいろいろな立場の違いを超えて、科学的ヒューマニズムの立場を自覚し、大同団結する必要があります。

 

 「実用的人間学的に生きると」いうことは、ただ単に自分の個人的な幸せを求める生き方ではありません。世界全体、そしてみのまわり、そして、自分自身を、客観的、総合的に見る訓練をすることです。世界の、おおげさにいえば宇宙の中にいる自分の位置、その上で何かしら、社会の変革の流れに自分を、そわせていくことです。そして周りの人たちとのうまい人間関係を作りあげる努力も必要です。多くの喜びは人間関係から生まれます。それは大げさなことではなくささやかなことからでいいのです。そういう広い見地で学び、行動し、実践しながら、自分を高めていけるなら素晴らしいことだと思います。それを手だすけする道筋を示すのが実用的人間学ではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。

 

★ 2011年10月 字や文章の誤りを修正しました。かなりの間違いがあり、お恥ずかしい限りです。

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