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「第五倫伝」 後漢初期の人間学

2023年9月24日 (日)

『第五倫伝-後漢初期の人間学』  全文を掲載しました。追記 『光武帝』、『光武大帝伝』が発売されました。   

 『第五倫伝-後漢初期の人間学』 王 伯人(佐竹幸一)

2023年9月24日 さらに更新してあげなおしました。

 2022年2月13日 さらに更新してあげなおしました。

 2020年4月3日に書名を変えて、あげ直しました。

「こういちの人間学ブログ」では、はじめ文章の容量が大きくて、全部をダウンロードできませんでした。それでカテゴリー「第五倫伝」の名前で、文章の一部を載せてきました。

たまたま、2020年4月1日に改めて試してみましたら、今回は全部の文章をダウンロードできました。今までかなりの労力を注いで書いたものですので、そのまま埋もれさせてしまうのは残念なので、無料の本というか形で興味のある方には読んでいただけたらと思います。つたない文章ですが読んでいただければ幸いです。4月1日に書いた書名を3日に書き直しました。

王 伯人のペンネームは、尊敬する,後漢の哲学者、王 充の名前に由来します。王 充のあだ名は王 仲任です。そしてこの小説の主人公、第五倫の字が伯魚なのに由来します。はじめ王充の字を伯魚と書いてしまいました。すみません。

これから追記していきます。

 

 ダウンロード のところをクリックすると、開きます。無料です。

『第五倫伝ー後漢初期の人間学』

 

ダウンロード - e7acace4ba94e580abe4bc9de38080e5be8ce6bca2e5889de69c9fe381aee4babae99693e5ad委a6.docx

 

『光武帝』「漢委奴国王」印を授けた漢王朝の復興者 という本が出されました。追記

 著者 小嶋茂稔 山川出版社 880円(税込み)2023年7月20日

  世界史リブレット 人13

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◎ この小説は後漢の建武2年(西暦26年)から、永初2年(西暦108年)の82年の間、正史に、「人相食む」という記述の無い時代を中心に書きました。題だけを見ると恐ろしい内容を書いているように見えますがそうではありません。さて、正史が書かれた時代は司馬遷の史記から清の清史までの正史、二十四史が書かれたましたが、その間2100年間に124回も「人相食む」の記述がありました。それは平均するとなんと17年間に1回も起きたことになるのです。しかし後漢初期の八十二年間という長い間、人が人を食べることがない時代があって、それがなぜなのかを書いてみたのです。その中には光武帝から明帝にいたる4代におよぶ皇帝の善政、そして第五倫や王充などの政治家や哲学者の活躍がありました。彼らの奮闘により実現された善政の姿を書いてみました。しかしこの時代は三国志の時代や前漢の「項羽と劉邦」の時代に比べ、地味であまり注目されてこなかったのです。この小説では書いているうちに内容がどんどん膨れ上がってしまいました。そのために登場人物があまりに多いため混乱されるかもしれません。この小説に筆者の人間学で学んだことをあまりにも多く書き込んでしまいました。そのために順に読まず、面白そうなところを抜いてそこだけ読んでいただいてもいいと思います。

 全文p360 A4判

◎ はじめは、後漢の唯物論哲学者,王充の小説を書こうとして、王充の生地である紹興のとなりの上虞を訪ね、王充の墓に行ったりもしました。王充やその時代について書かれた資料も少なく、後漢書もまだ和訳されたものはありませんでした。それで中国語を習い、中国版の後漢書を買い、、小説に必要なところについては自分で訳していきました。



 

 そのうちに王充よりも第五倫に関心が向き、第五倫中心に小説を書いていきました。「後漢書」も相次いで岩波書店版〔2001年9月、全10冊、)と汲古書院版「全譯 後漢書」(全19冊)2つの出版社で訳されたものが順次出版され始めました。早速必要なところを購入しました。次第に私の小説の内容も膨れ上がり量が多くなってきました。2004年、途中で、自費出版の試みもありました。文芸社と新風舎で見積もりをしてもらいましたが、自費出版の見積もり金額は数百万でした。途中から急に見積金額を下げてきた新風舎はすぐに倒産しました。結局自費出版の話は取りやめとなりました。

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◎このファイルは元の題の名前のままになっています。

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平成18年のものです。

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若いときの第五倫の肖像画

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高齢となった第五倫の肖像画

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目  次

はじめに

第1章   第五倫 家族を守る

第2章   第五倫、郡の役人

第3章   第五倫、塩商人となる 

第4章   長安市の市場の監督 不遇と大志

第5章   光武帝 劉秀

第6章   第五倫、下積み生活と家族

第7章   第五倫、光武帝と会う

第8章   会稽郡太守

第9章   謝夷吾と鄭弘と王充

第10章  牛祭り

第11章  第五倫危うし

第12章  明帝即位

第13章  第五倫 蜀郡太守となる

第14章  章帝即位

第15章  会稽政権と王充

第16章  竇憲と和帝

第17章  第五倫死す

第18章  章帝の死と和帝即位

あとがき

資料

追 記 称好軒梅庵さんの「光武大帝伝」が出版されました。

◎ 中国の新の時代から、後漢の初めの小説は、『三国志』の時代の本があまりに多いのに比べ、極めて少なかったのです。これは後漢書の邦訳がかなり遅かったせいでもあります。

Twitterの通知欄で、称好軒梅庵さんの名前でコメントとともに光武大帝伝」という本の紹介がなされていました。しかしすぐに本を購入しませんでしたが、昨日6月27日に本が届きました。なかなか面白い本です。改めてブログを書いて皆さんご紹介します。

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著者 称好軒 梅庵

宙(おおぞら)出版 2020年3月21日 1200円+税

2022年2月10日 (木)

昔『第五倫伝』という長編小説を書きました。無料で読めます。興味のある方は試してください。

『第五倫伝』はブログ筆者、佐竹幸一の書いた長編小説です。はじめ『王充」について書き、ついで『人相食む』という題にし、最後に『第五倫伝』という題にしました。

 第五倫は後漢初めのころ、初代光武帝、2代目明帝、3代目に章帝に仕え、最後は司空になり善政を支えました。あまりに長い小説になってしまい自費出版もできなくなってしまいました。ちなみに本文328ページ、参考資料などで最終367ページです。 

 興味のある方は、以前に書いた私のブログをお読みになり,全文に興味がありましたら、下記へどうぞ

 

◎2020年4月1日の「こういちの人間学ブログ」『第五倫伝-後漢初期の人間学」で全文がダウンロードして送れます。 

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2022/02/post-315d37.html

 

「こういちの人間学ブログ」

『後漢書』と私の小説『人相食む』に出てくる故事について

  2014年6月

光武帝の小説『草原の風』と『人相食む』(第五倫伝)私の小説

 後漢時代初期の面白さ

  2014年6月

 

 

2020年6月29日 (月)

称好軒梅庵さんの小説『光武大帝伝』面白い本です。追記 Skypeを入れたら、接続を妨害されます。

 

以前私の書いた小説、『第五倫伝-後漢初期の人間学』(旧、書名『人相食む』)を、「こういちの人間学ブログ」に2020年3月21日に公開した後で、称好軒梅庵さんの漫画『光武大帝伝』についての、Twitterの記事、「称好軒梅庵@「光武大帝伝」発売中!」のツイッターの記事が私のTwitterのところへ来ました。すこし時間が経ってしまいましたが、この本を購入しました。

この本の購入にはスムースに行かなかったことがあります。その原因と思われることが、Skypeの導入によるものと思われるトラブルもありそのことも書いておきます。

この本は、アルファポリス第2回歴史時代小説大賞で最終候補作になったとのことです。2019年には賞が決まっていますが、2020年は新コロナで中止となったようです。なかなか、中国の歴史小説というものは賞を取りにくいように感じます。宙(大空)出版のヒストリアノベルズシリーズに加えられて、今後続巻が出されるようです。

「光武大帝伝」1 劉秀,昆陽に百万の兵を破る 

  称好軒梅庵  画 布施龍太 2020年3月21日 宙(大空)出版   1200円+税 ヒストリアノベルズ

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目   次

序章  白河酒楼        13章 昆陽の戦い その3

1章  荘園          14章 昆陽の戦い その4

2章  赤眉の乱        15章 集う星々

3章  挙兵          16章 劉伯升

4章  器           17章 結婚

5章  陰麗華         18章 隗囂の挙兵

6章  小長安の戦い      19章 公孫述

7章  下江の兵        20章 劉玄 汝南に劉望を滅ぼす

8章  黄淳水の戦い      21章 鄧曄と于匡

9章  育陽の戦い       22章 王莽

10章 更始帝                          23章   2人の王匡         

11章 昆陽の戦い その1          24章  朱祜 

12章 昆陽の戦い その2 

 

◎本のもとになっている後漢書は2001年に岩波書店と汲古書院で後漢書の邦訳書が出るまで、皇帝に関する本紀の部分の訳書と重要な人物の訳書は出ていましたが全訳はなく、後漢書で活躍する人たちの小説は極めて少なかったのです。ブログ筆者の小説もだいぶ苦労しました。また、各皇帝についての記事、本紀とそれぞれの列伝は別々に書かれているために、それらを上手くまとめた話は難しいのです。ブログ筆者の「第五倫伝」も皇帝4代と第五倫、謝夷吾、王充はじめたくさんの登場人物を書き出すだけで大変でした。

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◎6月29日、この文章を僅か1行書いただけで、「接続されておりません」と、なって文章が消えてしまいます。ほとんど書きたいことが書けません。困ったものです。

  

◎新コロナ騒ぎもあり、いはやりのテレビ会議や映像でのお話をするために、孫にも手伝ってもらい、Skypeを導入しました。

ところが、それを導入した後に、いろいろとパソコンでの不具合が生じてきました。

インターネットで「光武大帝伝」を購入しようと、Amazonで電子書籍の形で注文しようとしました。すでにほかの本は電子書籍で購入していました。はじめは6月23日で申し込みしましたが、画面が途中で消え「このページを表示できません」というものに変わりました。ところが注文はしたことになっています。翌日の6月24日にもまた試してみましたが、また「このページを表示できません」となってしまいます。ところが請求は23日分も24日分も載っています。本はクラウドに保管されています、となっていますが、本はどこにも入っていません。この辺りのことを質問しようといろいろ見ていますが、どこに問い合わせればよいかが分かりません。結局普通の宅配便で25日で頼み、26日に届きました。電子書籍の23日、24日の分が請求されるのかどうかの問い合わせ先もわかりません。届いていない電子書籍の2冊分も請求されるのでしょうか。もし請求され引き落とされたらとても不愉快なことです。

◎カード利用代金に届いていない電子書籍の分が載っていました。2冊分で2640円です。もうamazonプライム会員を止めようと思いましたが、うまくやめられません。

26日の人間学研究所の懇親会でそのことを話しましたら、やはり他の方でも同じようで、直してもらったとのことでした。ともかく現状では、Skypeの表示が出て点滅し他のものより優先的に画面を占領するようです。しょっちゅう「このページを表示できません」とか「ネットワークに接続していません」という表示に変わり、今まで書いてきた文章が消えてしまいます。仕方がないので、少し書いてはしょっちゅう「保存する」を押します。これでは不便極まりません。これを書いている途中でまた「このページを表示できません」と出て消えてしまいました。

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Skypeのこの表示が出ると消えてしまいます。

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面倒なのでSkypeを止めようと思います。

2019年7月10日 (水)

小説『第五倫伝』 後漢初期の人間学 目次 2019年7月更新版 

『第五倫伝』 後漢初期の人間学 目次
     2019年更新版  旧題名「人 相食む」

 

第1部 後漢朝成立と第五倫下積み時代

 

(太字はブログに書いたものです)

 

第1章 第五倫、一族を守る p1

 

赤眉の来襲

 

恐るべき強弓と強弩

 

第五倫と第五雄

 

李秀の昔語り

 

再び赤眉の大軍が迫る

 

第五氏とその時代

 

第五倫の生い立ち

 

第2章 前漢末と王莽・第五倫の肖像

 

前漢末と王莽

 

民衆の反乱

 

清少納言、紫式部紫宸殿にて知識を競う

 

『賢聖の障子』と第五倫の肖像

 

3章 第五倫 郡の役人となる p28

 

京兆府の役人となる

 

郷と嗇夫(しょくふ)

 

郷が生まれ変わる

 

華と孟の誕生

 

妻、蘭の死

 

楊桂と再婚する

 

4章 第五倫 塩商人となる p39

 

宋二と宋三

 

道士、馬糞掃除をする

 

盗賊に襲われる

 

第五倫、孔子についてついて話をする

 

釈迦、孔子、イエス、ムハンマドに思う

 

庶民厳八の感化

 

人は何のために生きるのか

 

鮮于褒と再会す

 

5章 長安市の市場の監督 不遇と大志

 

京兆尹の閻興

 

市場の監督

 

役所の大改革

 

楊桂出産

 

宋三、華と結婚する

 

第五倫、宗三、韓呈と話をし、大酔する

 

周長生と聖人

 

一生の目標を持つ

 

6章 光武帝劉秀即位 p69

 

劉秀立つ

 

昆陽の戦い

 

雲台二十八将

 

銅馬帝

 

皇帝即位

 

『人相食む』二度と起こさぬことを誓う

 

皇帝、物色し、厳光に会う

 

郭皇后と陰麗華 遊び好きの皇帝

 

司空宋弘、恒譚と糟糠の妻

 

7章 政治の大改革 p86

 

政治の大改革

 

民衆のための政治

 

建武の中興

 

奴隷解放令

 

光武帝、故郷に帰る

 

8章 第五倫下積み生活と家族 p97

 

下積み、しかし望みは大きく

 

第五望、父親から叱責される

 

生真面目な部下の韓呈

 

分業と才能と開花

 

孝廉と、末子第五頡の誕生

 

楊桂の死

 

3人目の妻、荘淑玲

 

房中術と漢や唐の女性の位置

 

望、商人となる

 

9章 第五倫 光武帝と会う p114

 

光武帝と会う

 

次の日

 

人の能力と格差

 

第2部 第五倫、太守へそして罪を得る 

 

1章 会稽郡太守となる p123
都からの急使来る

 

会稽への道

 

日本人のルーツ

 

会稽郡、伝説の地

 

山陰府(紹興)にて、餓死寸前の母子たちを救う

 

山陰府の役人、第五倫一行を迎える

 

第五倫大いに怒る

 

厳八妻をめとる

 

山陰県(紹興)を巡察する

 

宋三うわさの人物を聞き出す

 

2章 謝夷吾、鄭弘と王充  p140

 

謝夷吾と鄭弘に会う

 

鄭弘

 

謝夷吾と王充

 

上虞の人王充 そのおいたち

 

王充、洛陽の太学へ

 

第五倫、謝夷吾と鄭弘を抜擢する

 

第五倫、二人への講義

 

謝夷吾の三人の弟子

 

3章 人間関係と人相   p156

 

第五倫、人間関係について話す

 

怒りの感情から創造へ

 

性格は変わるもの

 

第五倫、人相見の極意を話す

 

顔は口ほどに嘘をつく

 

信長、秀吉、家康の人相

 

4章 牛祭りの禁止     p165

 

会稽と倭

 

方術と占い

 

第五倫、吏員に西門豹について話す

 

太公望、占いを否定する

 

劉昆の「天人相関説」を否定

 

謝夷吾、呪いを打ち破る

 

占いと、暗示の恐ろしさ

 

占いと、ゼネラリスト

 

牛祭り廃止宣言

 

5章 第五倫危うし  p180

 

豪族と荘園

 

第五倫、暗殺計画

 

第五倫、柯岩にて襲われる

 

謝夷吾、風角占候で危機を知る

 

鄭弘、趙袁、一騎打ち

 

謝夷吾、方術にて依頼主を突き止める

 

謝夷吾、県長杜峻の収監を命じられる

 

様々な方術と占い

 

占星術について

 

6章 明帝即位 第五倫罪を得る p196

 

光武帝崩御、

 

明帝即位

 

第五倫罪を得て都へ

 

第五倫、釈放される

 

彩の結婚と、母王麗の死

 

班家の人々と王充

 

7章 鍾離意と宋均  p211

 

仁の人、鐘離意

 

鍾離意と明帝

 

宋均、活躍する

 

宋均、尚書令となり明帝に直言

 

宋均の死

 

8章 第五倫蜀郡太守となる p226

 

第五倫、蜀郡太守となる

 

謝夷吾、寿長県令となり、張雨を表彰する

 

謝夷吾、蝗の害を避ける

 

鄭弘、名を上げる

 

第3部 すばらしい善政とその終了

 

1章 章帝即位 第五倫司空となる p233

 

第五倫、司空となる

 

第五倫、粛宗(章帝)と会う

 

章帝、第五倫より健康法を聞く

 

『医心方』と咽津法(いんしんほう) 

 

第五倫、鄭弘を抜擢する、王充の失望

 

揚 終

 

2章 馬援と馬氏 p246

 

よく苡(ヨクイーハト麦)のそしり

 

第五倫、馬氏について上奏す

 

馬氏の没落と白虎観会議

 

3章 会稽政権、鄭弘、大尉に p258

 

竇一族の横暴

 

雲母屏風の故事

 

謝夷吾の活躍

 

第五倫、謝夷吾を司徒に推薦する

 

4章 王充と論衡 p265

 

王充文筆をもって擁護する

 

王充の自然観

 

陰陽五行説と十二支

 

死と宗教について

 

釈迦と仏教

 

イエスとキリスト教

 

人は生まれかわることができるのか

 

王充の人間観

 

張禹、薫勤、揚州の刺史となり、王充を従事に

 

謝夷吾、王充を推薦する

 

5章 竇憲と和帝  p286

 

第五倫、鄭弘、竇憲について上奏する

 

政変、鄭弘、失脚する

 

毒物と暗殺

 

第五倫引退する

 

6章 第五倫死す p296

 

第五倫死す

 

第五倫、志は子孫まで

 

謝夷吾、自分の死期を予言する

 

王充と「論衡」 

 

王充の墓をたづねる

 

曹娥廟

 

7章 章帝の死と和帝即位 p308

 

章帝の死

 

和帝即位と竇憲の横暴

 

大将軍竇憲の陰謀

 

竇憲一派の滅亡

 

和帝の親政

 

終章 『人相食む』再び p318

 

あとがき p321

 

目 次  p323-329

 

登場人物

 

系図

 

資料

 

故事一覧

 

参考書

 

年表 p 353-360

 

A4判でのページ数です

 

◎ 小説の題名と、書き出し部分を変更します。第1章は書き直して序章とするか、途中にちょっと入れるだけにします。
◎ 2019年7月に、関連したブログを書きましたので、2016年7月に書いたブログを、更新しました。

 

 

 

 

 

2017年1月23日 (月)

後漢光武帝のドラマ「秀麗伝」が1月よりCSで始まります。史実と違い違和感が

◎2021年10月22日に、このブログへのアクセスが急に増えてきたので新聞を見てみたら、BS12チャンネルで午後5時からまた放送が始まっていました。
 2017年1月23日(月曜日)の夜11時から、後漢初代皇帝光武帝とその皇后、陰麗華のドラマ、「秀麗伝」が始まります。

 

 23日の毎日新聞朝刊のテレビ欄にカラーの広告が載っていました。

 

放送はスカパーCS305チャンネル銀河で韓国や中国のドラマなどを多く放送しています。

 

 加入料0円でチャンネル銀河が月1069円で見られますということです。今日の分と24日昼1時からの第一話が無料放送と宣伝しています。

 

 

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 日本初放送だということですが、中国のドラマをこれだけ大きく宣伝するのは、珍しいことです。50回の放送で月曜から金曜日まで、放送します。夜11時からということが普段10時ころに寝てしまう身から見ると厳しいです。録画をする準備をしました。午後1時から2時再放送するようです。

 

 光武帝は私が書いた小説「第五倫伝」(旧、人相食む)の中でも重要な役割を果たします。

 

「秀麗伝」という名前は、光武帝が「眉目秀麗」と言われたことから来ています。陰麗華も絶世の美人で、まだ皇帝になっていなかったときにあこがれた美人でした。

 

 ドラマでは、光武帝と、陰麗華の恋模様が中心となるでしょうが、貧しい身から皇帝にまで上り詰める、光武帝の人間的魅力も描かれるはずです。皆さんもぜひご覧になってください。

 

 原作は中国の小説「秀麗江山」 李 シン、をプロデューサー、ルビー・リンが制作

 

 2014年 中国作 陰麗華にルビー・ツー、劉秀にユアン・ホン

 

 陰麗華が男装して劉秀と戦うなどだいぶ創作しているようだ

 

 また今日見た感想をここに追記いたします。

 

1月24日、テレビを見た結果を書いてみます。

 

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眉目秀麗と言われた、光武帝劉秀。若い時「くらいにつくなら執金吾(警視総監にあたる、きらびやかな服装だった) 妻に娶らば陰麗華」といったという。

 

 

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追ってくる軍から逃げる劉秀を守るために、陰麗華は獅子奮迅の働きをする。

 

史実にはそのようなことはない。主役は劉秀より陰麗華のようだ。

 

25日、第2話をテレビで見て、第3話以下の話のあらすじをインターネットで読みました。

 

大筋は、後漢書の記述と極端に変わってはいませんが、主役が陰麗華で活劇が主体であることは、まったく違います。ドラマですから仕方がないのでしょうが、立ち回りなどもなんとなく韓国歴史ドラマを思わせます。

 

 後漢書では、劉秀は早くに父を亡くし(自殺)叔父に養育されます。太学に行きますが、お金がなくロバを共同で買いそれを賃貸しして学費にするほど困窮していました。

 

 陰麗華が太学の同級生ということも作り話です。劉秀が郷里に帰ってももっぱら劉秀は農民としての仕事をしていました。農家で馬がなく、自宅の牛に乗って軍に参加したという話は有名です。新野尉を殺害して馬を得たとあります。

 

王莽の末期の時代は私の小説「第五倫伝」(旧題ー「人相食む」)にも書きましたが、人が人を食い、盗賊が跋扈し、人口が激減した時代です。そういう悲惨な状態が表現されず、大豪族のきらびやかな生活だけが表現され、違和感を感じました。

 

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 手製の空を飛ぶ道具を使って、飛ぼうとする陰麗華。すごいおてんばむすめということになっているが、当然そんなことも作り話。

 

この時代は王莽の時代で、戦乱の世で人口が激減している時代であるはずなのに、みんなきらびやかな衣装である。

 

 劉秀は畑を耕す農民の暮らしをしていた。兄が兵をあげたとき、農耕用の牛しかいないで、牛に乗って参加したと言われます。

 

 主役は陰麗華で、小説として脚色してありますから、後漢書によるイメージでいると、気にいらないようになるかもしれません。

 

2話見ただけですが違和感が多いです。作風が韓国ドラマみたいです。

 

 

 

「こういちの人間学ブログ」でも、カテゴリー「第五倫伝 ~」に小説を転記しています。そこを開くと飛び飛びですがいろいろ書いてあります。2016年12月29日の「9章 第五倫、光武帝と会う」も参考にどうぞ

 

◎後漢書は長い間、全訳がなく、中国語の全集しかありませんでした。初め小説を書くために、中国語の後漢書全冊を買いました。中国語を勉強し、和訳もしました。

 

 2001年ごろに、相次いで後漢書の邦訳が出そろいました。岩波版と及古書院版です。両方とも必要なところは購入しましたが、岩波版は漢文と訓読のみで、及古書院版は漢文、訓読、現代語訳があり便利でした。

 

 「全訳後漢書」 本紀1、光武帝紀~和帝 2001年12月26日発行

 

 1-2冊 本紀 3-10冊 志 11冊ー18冊 列伝 となっています

 

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後漢書 光武帝紀 及古書院版

 

2017,2,2 追記

 

 後漢書の光武帝紀と違うと書きましたが、結局、テレビを見ています。後漢書とドラマが違うのは、三国志と三国志演技が違うのと同じで、仕方がないのでしょう。

 

 陰麗華役の女優は今度中国人と結婚する、卓球の福原愛とよく似ています。

 

2017.2、10 追記

 

 今日は前半の山場、昆陽の戦いです。面白いので続けてみています。

 

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ドラマ終盤と感想
3月28日第45話。 全50話のドラマももう終わりになります。結局ずっと見てしまいました。

 

光武帝の最初の皇后は史実では真定王の姪の郭聖通で、皇后を廃され、皇太子も変わります。光武帝は郭聖通と王子だけで5人もうけました。母は郭氏で真定王の妹です。真定王は景帝の7代の子孫です。真定王が謀反の疑いで殺されたあとも郭聖通は皇后となります。郭聖通の弟は郭況は慎み深いと言われました。16才で黄門侍郎となっています。

 

 郭聖通は次第に精神的におかしくなり、建武17年に郭聖通は皇后を廃されます。皇太子も変わります。

 

 
ドラマでは皇后は過珊とう(丹というヘンに杉のつくり )となっています。母親の過主と兄の過康とも多くの政敵を殺す相当な悪者になっています。

 

3月31日の昼49話です。夜11時からは50話最終回です。4月1日、昼最終回を見ます。

 

4月1日土曜日はやっていませんでした。

 

 光武帝についての小説やドラマはいくつかありますが。私が書いた小説「人相食む」~「第五倫伝」とはだいぶ、違います。私の小説では光武帝から明帝、章帝、和帝の4代の皇帝の時代について書きました。

 

 主人公は3代の皇帝に仕えた名臣、第五倫が主人公で,紹興周辺出身の謝夷吾、鄭弘、王充が重要な役割を果たします。

 

 第五倫は王莽の混乱時代は一族が餓死する寸前までになります。人が人を食べざるをえない厳しい時代を生き延びました。人口が激減しました。秀麗伝では、そういう状況は描かれていません。

 

 劉秀は宮廷の経費を切り詰めて、木簡に細かい字を書いたり、宮廷の道具をほかの宮廷に使っていたのをまたつかったりして切り詰めます。建武6年に人口が減っているにも関わらず残っていた10の国を廃止し400余県を統合した。外国と仲良くなり警察ていどをのこして軍隊をなくします。また不要な役人も減らしました。辞めた軍人や役人には生計が成り立つように配慮した。そして税金をおもいきりやすくします。元元(民衆)を第一とする、ということは、ドラマでも少し出てきました。

 

 劉秀は皇后の一族の位をあげないようにします。それは陰皇后もよくわきまえていました。息子の皇太子も質素で民衆を大切にするよう教育しそれは4代皇帝まで続きます。光武帝の後の明帝も馬皇后が大変優れた皇后でした。

 

 しかし第五倫、鄭弘が三公となった素晴らしい時代の、章帝が死ぬと皇后の一族の専横が始まります。

 

 秀麗伝は光武帝の善政も少し描きますが、戦闘場面と、過皇后(ドラマのみ)一派との闘いが中心です。陰麗華を主人公として前面に押し出すためかなりフィクションを加えていました。

 

 

 

 

2016年12月29日 (木)

9章 第五倫、光武帝と会う、初めて会う、2日間話しとおす、p114-118

第9章 第五倫、光武帝と会う  p114-119
光武帝と初めて会う
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賢聖の障子(そうじ)京都御所紫宸殿より
ー若い時の肖像
 西暦五十一年(建武二十七年)、新しく赴任してきた京兆尹の鄧庚(とうこう)は、清廉潔白な官僚で、はるか前の京兆尹の鮮于襃(せんうほう)や閻興(えんこう)から第五倫のうわさを聞いていた。
 鄧庚は着任と同時に早速、長安市の市場の主簿(責任者)である第五倫を接見した。
鄧庚はいささか人相を見ることができた。第五倫はもともとの実力の上に、下役人でいる間に更なる学問を深め、儒学の教師ができるほどに達していた。また人格的にも優れた人物であると一目で見抜いた。
ーこの方は私などよりもはるかに優れた大変な人物である。末はもしかして三公にまで上り詰めるかもしれない。なぜ、今まで、このような立派な人物が今まで、この年に至るまで埋もれていたのであろう。
 仕事ぶりは清廉潔白、さまざまな優れた業績を上げながら、上司に対して直言して批判することが嫌われて、最初に任命された地位そのままにとどめられていることも分かった。また大変な親孝行で母親に仕えていることも分かった。
 後日、鄧庚は再度接見して
「わたしは、あなたを孝廉に推挙します。ぜひそのお力を発揮して、まだまだ不正が横行する今の世の中を変えてほしいと願っております」
 その上申は認めら、孝廉に推挙されることになった。
年老いた母に長くつくしたこと、仕事ぶりが清廉潔白なことが推挙の理由であった。第五倫が四十七歳のことである。当時としてはかなりの老齢とみられる年齢で、そろそろ引退を考える頃の年齢である。
 役所の同僚たちは
常々第五倫が言っていたことが実現して驚いた。今までさんざん悪口を言っていた者も。
「ようやく認められたのですね、おめでとうございます」
「どうも、いろいろ悪口を言って申し訳ありませんでした」
「おめでとう、伯魚どの、本当に驚きました」
「志は持つべきものですね。我々もあきらめずに頑張ることにします」
などと、手のひらを返したように、態度が変わった。
 それに対して、第五倫は嫌味などは言わず。
「ありがとうございます。ようやく、認められることになりました。今まで大変おせわになりました。ぜひ、あなた方も引き続き市民のためにつくしてください」
 同僚たちは、ささやかながら、お祝いしてくれた。
 倫はもう少し楊桂が生きていたら、
「ほらね、やはり、私の言うとおりになったでしょう」
と、喜んでくれただろうにと、心から残念に思った。
家に帰った第五倫は、集まった家族に
「このたび、鄧庚殿の推薦により孝廉に認められることになった。洛陽の都へ行くので早速準備をするように」といった。
 みんな口々に、おめでとうございます、とお祝いの言葉をかけた。
ーずいぶんと、下積みが長かった。でもようやく、認められてよかった。でもこれからようやく自分の力を発揮できると、気持ちが大きく晴れる思いであった。
 第五倫と家族は宋三夫婦と厳八とともに、さっそく旅の支度をはじめ、任官するために、長安から、洛陽の都を目指した。
 長安から洛陽へは、大変道路も宿場もよく整備されているために、快適な旅であった。
 一行が到着した洛陽の都は光武帝の政治を反映するように、にぎやかではあるが、華美なところがなく、落ち着いた清澄な、たたずまいであった。
 当時、光武帝は推薦されたものを太守から県令に至るまで、直接面接して、清廉潔白なものを採用しようとしていた。
 光武帝は第五倫を接見し、並々ならぬ才能とその道徳性の高さに注目した。しかしその時は大変忙しかったため儀礼的なもので、十分話をすることができなかった。
 第五倫はまず、郎中(宿営の官)となり、次いで、准陽国(わいようこく)の医工長(医薬をつかさどる、四百石)になった。准陽国は陳国とも言い、豫洲にあった。光武帝は第五倫が、皇帝の息子である准陽王に従って任地につくとき召見した。
 光武帝は第五倫との話の中で、その素晴らしさが印象に残った。
しかし、その時も十分な時間が取れず、極めて残念である。改めて十分な時間をとって話をしよう、と第五倫につたえた。
 第五倫は妻子を連れて任地へ行く道すがら、妻の淑玲に皇帝にあった感激とその素晴らしさにについて感動を込めて語った。
「宮殿は大変質素にできていたが、威厳に満ちたすがすがしいものであった。皇帝陛下は近くまで呼び寄せてくれ、気さくに声をかけてくれた。今度会うときはそちの意見をじっくり聞きたいものだとおっしゃった。私の想像していた以上に素晴らしいかただ」
 第五倫は准陽国の医工長として、無駄を省き、優れた医薬を整え、庶民にも活用できるように取計らうなど、優れた業績を上げた。二年が経過し西暦五十三年(建武二十九年)、准陽王が諸役人を従えて、洛陽に朝見に来た。光武帝は、前回第五倫と十分な話ができなかったので、今度は政務の忙しい時間を割いて、政治上の意見を聞くことにした。
 
「帝と第五倫、二日間語りとおす」
 時に光武帝五十九才、第五倫四十九才、ともに早くから父を亡くし、大変厳しい戦乱の時代を生き抜いてきたのである。積もる話はさまざまであった。第五倫は、
 
「皇帝陛下が民を思い、なされてきたことはすべて理にかない、すばらしい世の中を作られていることに以前から感服しておりました。
 さて臣が思います仁、人にとってもっとも悲しいことは人が飢えて、時に子どもさえも取り替えて食べなければいけないような状況であります。臣は、そのような悲惨な状況を見てまいりました。本当に恐ろしいことであり、悲しむべきことです。また臣自身何度も餓死寸前までに追い込まれました。人が人を食わざるをえない状況に人を追い込むことは、干ばつや、洪水や蝗害などしぜん現象ではなく、すべて人がもたらすものであると思います。
 すなわちそれはむしろ政治がもたらすことであると考えます。一部のものが、利益を上げるために食料を独占し、蔵の中には穀物があるにもかかわらず、その穀物が出回らず、多くのものが餓死します。二度とそのようなことにならないように努めるのが臣の任務とこころえます。しかしまだまだこの世には陛下の心を察せず、民の財産を収奪し、私腹を肥やし、厳しい税の取り立てや、刑罰で民を苦しめている豪族や酷吏がたくさんおります。そういうものどもをおさえることが肝要とこころえます」
続いて
 「問題は豪族と官吏の癒着にあります。豪族出身のものが官吏となり、豪族の身内に甘く、貧しい民衆に厳しい。表面だけ孝行を装って仲間うちを孝廉などに推挙する。お互いに表彰しあう。高いくらいについてしまえばもう親孝行も清廉潔白も関係なしになります」
 「腐敗した役人は、賄賂により、豪族に有利な政治をし、物事を行っている」
 「陛下はすでにそういう問題を指摘しておりますが、まだまだ行き届いていかないように感じます。今後はより一層、役人には清貧にしてほんとうに力があるものを採用すべきです」
 「賄賂などにより人々を苦しめたり殺したりしたものは厳罰に処すべきです」
 「しかし、一方では、新しく任命された官吏があまりにも厳しい法治主義をとり、罪を犯したものを処罰するのはいいのですが、多くのものが連座し、罪もないのに獄に入れられ苦しまないようにすることも肝要と存じます」と第五倫は率直に申し上げた。
 「まったくその通りである。朕はつねづねそのように言っておるのだが、実際にはまだまだ行届いていないようだな」
 「そうか取り締まりには十分気をつけるようにしよう。行き過ぎはいけない 」と光武帝
 第五倫は、次いで、どのようにして、生産力をあげ、民のふところを豊かにするかについて具体的な進言を行った。
 一般論ではなく、どこどこの地はどのようにすればよいかについての、第五倫が役所勤め時代にコツコツ調べていった、具体的な提言に光武帝は驚いた。
 光武帝は話を続けるうち、第五倫がかしこまって、臣という言い方でなく私と呼ぶように言った。
 「よく、それだけ調べたものじゃなー」
 「私は塩商人をしたことがあり、塩商人の親戚があります。彼らは仲間で結社を作り、情報を交換しております。実は私の息子もその一員になりました。その中から色々な情報が手に入るのです」
 「そちは本当に世情にくわしいのだな。朕もこのような宮殿の中にいると、次第に世情に疎くなってきておるのじゃ」
 光武帝は第五倫の深く広い知識、民を思い、不正を憎む気持ちに感動した。また、世の中を具体的に改善する政策を次々に聞き出し、書記に記録させた。
 光武帝は、うん、そうじゃ、そうじゃと夢中で話し合った。
 「夢中で話しておったらもう暗くなった。もっと、気楽な部屋で食事をしながらゆっくり話をしよう」
 皇帝の気楽な私室に移動した。
 「食事の用意をするように」
 今度は皇帝と第五倫、あとは数人の皇帝の側近に限られた。
 食事は、皇帝の食事とは思えないほど質素なものであった。第五倫がその話をすると。
光武帝は、
 「皇后や子どもたちにも粗食になれるようにさせている。朕」の後の時代になり、ぜいたくな生活になってはいけない。あとを継ぐ者の教育が大事なのだよ。ぜいたくな食べ物はぜいたくな食器、家具、着物というものにつながるものだからね。ぜいたくなものを食べていて、貧しい民のことを思うことなど、ぜったいにありえないからな」
 「まったく、おおせのとおりです」
光武帝は、第五倫と数人のごく親しい側近だけになると、
「これからは、自分のことを朕と言わないからな、同じ、私とそなたとかあなたで行こう。どうも朕なんて言うのは堅苦しくていけない。気楽な立場で話をしよう」
 「よいか、堅苦しいものいいは無しだぞ」また念を押しながら、帝は笑った。
 夜食が終わり、さらに、お酒も入り夜遅くまで話は尽きなかった。
 光武帝は笑いながら
 「遅くまで起きていて、灯明の明かりを無駄にしないようにと普段言っておるが今日だけは特別じゃわい」
 夕方からの話は、政治向きの話より、お互いの身の上話などを気楽に話し合った。特に第五倫の波乱万丈の話は聞いていてとても面白がった。
 皇帝は夜遅く、明日も話を続けようと言ってから寝所に向かった。
そして、皇帝は、明日の政務についてはすべてを取りやめ、明後日行うと、郎中に伝えた。
 第五倫は、宮殿の一室で寝ることになったが、皇帝との話がいろいろ頭に浮かび、また自分の考えも次々と出て、とても興奮して寝られなかった。朝方、うとうとしていると朝になっていた。
 
「次の日」
 早朝に、早くも郎官が迎えに来て、皇帝の部屋に招かれた。早速、朝食を共にし、話が再開された。食事は皇帝の食事としては極めて質素なものであった。 しかしこの質素さが、光武帝に長命をもたらしたのである。毎日ご馳走を食べていたらたちまち、たくさんの成人病になって早死にしてしまうことになる。
 今日はかしこまった部屋ではなく、皇帝の私室で、おつきのものもわずかであった。光武帝は砕けた態度で。
 「今日は気楽に話そう。さて、今日も朕というのはやめるからな。皆の前では使うがな」
「さようでございますか。本当に陛下は偉そうにするのがお嫌いなのですね」
「そのとおり、そなたもあまりかしこまって、話をしないようにな」
「ありがとうございます。仰せにしたがいます」
 さて、話が再開され、第五倫は光武帝の政策で、奴隷(中国や朝鮮では奴婢といった)を次々に開放していったことを称賛した。
 「陛下は、戦いに勝利したところでは、常に奴隷解放をすすめておられたのは、本当に素晴らしいことと存じます」
 「そうじゃ、王莽から赤眉の戦乱で、戦いに負けたものの多くのものが奴隷におとされた。もともとの良民であるものを、奴隷として売り飛ばすということは、極めてけしからんことである」
 「戦乱で相手のものを略奪するとともに、奴隷狩りで大もうけしたものもたくさんおりました。それ自体が目的で、だれが盗賊なのか誰が政府軍なのかわからないありさまでしたね」
 と第五倫。
 奴隷になってしまえば、獣や物と同じで、売り買いして、気ままに殺しても罪に問われなかったのだよ」
 と光武帝。
 「奴隷市場では牛や馬と同じように、檻の中に入れられ、売り買いされました。奴隷の値段は人によりますが千から2万銭で、牛一頭の同じくらいの値段でした。前の漢の時代にはおおっぴらなものではなかったようですが。でも陛下は奴隷を殺した場合でも、普通の人を殺した場合と同じ罪にされました。これでどれだけ奴隷の人々fが助かったでしょう。すばらしいことです」
 光武帝はうなずきながら、
 「奴隷であろうが、異民族であろうが、すべて人間である。逆に皇帝も貴族も平民も全く同じ人間なのである。同じ人間で、すべて同じであると考えれば、本来無慈悲なことをしないはずである。ところが、人は階級や、民族の違いや、同じ民族でも、宗教や思想信条が違うということだけで、同じ人間と見ないのだよ。同じ人間でないと思えばいくら痛めつけようが、、殺そうが、牛馬と同じでなんとも感じない。いや牛馬でも直接手をかければ哀れとおもうものを。それを平然と人間を殺すのだ。偏見やあやまった宗教や思想信条というものは恐ろしいものだな」
「陛下は人間すべてに平等に優しくされていらっしゃる。とても人々は優しい気持ちになっております。だから匈奴や羌(きょう)など、隣国の人々と友好関係と信頼関係がありますから、安心して、襲ってくることもない。陛下は北匈奴が飢饉の時、穀物を送られました。それに恩義を感じて、北匈奴の単于(ぜんう)も国境を侵さないようになりました。これは、いたずらに、隣国を挑発して戦いが続いた王莽と全く異なるものです。
 ほんとうに人々が安心して暮らせるいい時代になってまいりました。食べるのに事欠き餓死を覚悟したり、食人を見たりした悲惨な時代から考えますと、夢のような時代でございます。すべて陛下の徳の表れでございます」
 「だがの、まだまだ世の中には私の心をよく理解せず、私利をむさぼり、人々を弾圧し苦しめている官吏や豪族がたくさんおるのだ。
 そちのような、正しい心で、有能かつ民のための政治を行うものを、ぜひ多く抜擢してほしいのだが」
 「仰せのように政治は誠に人物しだい、優れた人々をたくさん探し出し陛下に推薦いたしますのでよろしくお願いいたします」
 そして話は延々と続き、昼食をともに食べながらはなし、なんと夕方にまでおよんだのである。まったく異例なことであった。
 「私は、長吏(孝廉などでえらばれる高官)については、本当に清貧のものか、能力があるのか直接すべて面接してきめておるのだ」
 「そのとおりです。他のものに任せておくと情実で採用してしまいます」
 話は、堅苦しい政治上の話から、戦乱時代のお互いの小さい時の苦労話に花が咲いた。
 特に、第五倫の話にはすさまじさがあり、それに比べれば恵まれた光武帝はいろいろ昔話を聞きたがった。冒頭にあげた、赤眉軍との砦での戦いの話などは身を乗り出して聞いた。
 「ところで、話は変わるが、そなたは詩や文学については全く興味がないそうだな」
 「はい、私は若い時には、戦いに明け暮れ、学ぶことは実際の政治や、実務に必要なもののみを学んでまいりました。とても、詩や文学を読んだり、学んだりする気持ちの余裕がありませんでした」
 帝は笑いながら
 「そなたは、余裕がないというより大体そういうものが嫌いなのであろう。
実はな、私も好きではないのだよ。嫌いだと言えないので、適当に合わせておるがな。これは内緒の話だぞ」
 「いやあ、そうでありましたか。私はまさしくその通りでございます。どうも苦手なのです」
 第五倫も笑った。
                p119
 
 さてどこまで、同じ人間と見るかどうかはとても大切なことである。
 
 
 

2016年12月15日 (木)

『第五倫伝』、第14章、第五倫危うし、「謝夷吾、風角占候で危機を知る~ p186-189

『謝夷吾、風角占候で危機を知る』
「殿様、ご無事で」
「何とか間に合ってくれ」
向かい風の中で涙をぽろぽろ流しながら、馬を飛ばす厳八
 
 道の途中ではるか向こうから騎馬の一隊が全速力で向かってくるのを見たとき
『まだ知らせに行く前に、味方が来るわけがない」
新しい賊の一団でではないか。
厳八はもしこれが賊であるならば、殿様の命が危ない。一人で少しでも食い止めてから死のうと刀の柄に手をかけ覚悟を決めた。
 謝夷吾は山陰県の役所にいて、仕事をしていたが、西の銭糖のほうから、突然凶風がおこり窓や戸をがたがたと鳴らした。謝夷吾は一しゅんにして、第五倫の一行に危機が迫っていることを察知した。直ちに鎧を身に着けるとともに、直ちに部下に鄭弘に急を告げるように言った。
 鄭弘もすでにこのことがあるやもしれぬと待機していたのである。
直ちに大青龍刀をつかむや、部下を率い馬上になった。
「やはり、無理やりにでも私たちがついていくべきであった。何とか無事でいてほしい」
謝夷吾はつぶやく。集まったのは急なことで謝夷吾と鄭弘を含めて15名足らずであった。
「急ごう、殿が危ない」
一行は脱兎のごとく山陰県の城門から飛び出した。
 厳八は、はるか向こうから次第に近寄ってくる騎馬の一団を見て、先頭にいる長いひげを生やした見事な風貌の壮士と太った色白の人物、さらにはたくましい宋三らを見て、思わず
「よかったー」
「巨君さまー、堯卿さまー,宋三さまー」
あらん限りの大声をあげた
「ご主人様がたいへんで-す。敵はものすごい数です」
立ち止まる厳八のもとへたちまち一行が殺到する。
「やはりそうであったか」と謝夷吾
「今どちらにおられる」と鄭弘
「柯岩の石切り場のお堂にこもっておいでです」
と答えるやいなや、厳八はそのまま元の道を走り出した。
「まにあってくれ」
一同、心に祈りながら、必死に馬をとばす。
 ついに大男で怪力の趙袁が、鉄槍を小脇に階段を上がってくる。
普通の槍の柄は木製である。上にしなったり、折れたりした。鉄槍はその弱点は無いが,恐ろしく重い。ところが、軽々と趙袁が鉄槍をふるうと剣などは弾き飛ばしてしまうのである。
 趙袁は、さすがの手練れ、手下を盾とし、飛んでくる矢を打ち払いながら、石段をのっしのっしとあがってくる。ついに、堂の扉の前に立った。
 扉を開けさせると、敵は堂の中に殺到し、乱戦状態となる。そうなると趙袁は強い。傷を負っていた二人は趙袁に突き立てられ、倒された。さらに一人は鎗先で深々と切り裂かれた。
 蓬越に一人は剣で胸を刺された。そうなると矢を射ているのは第五倫だけになり、ついに第五倫も剣を抜いて戦い始めた。
 第五倫たちは壁を背にして5人がまとまって戦う。
もうすでに、5人は血まみれだ。続く戦闘で息も切れてきた。
趙袁、蓬越は強い。敵の数も多い。
趙袁は言う。「俺は牛殺しの趙袁だ、もういい加減あきらめろ」
いかつい体から大声で威圧する。
危うし、第五倫、ついにここで命を落とすのであろうか。
趙袁、鄭弘の一騎打ち
 そのとき東のほうから馬の殺到する音が響いてきた。
何だ、何だ、敵は騒ぎ始める。それは次第に強くなってきた。
「だんな様ー」
 丸い目をさらに大きく見開き、顔を真っ赤にして、大声を発しながら走る厳八が先頭にいる。その姿はたちまち大きくなり、たちまち精鋭十五人は、後ろにいる賊たちに殺到し、鄭弘らは、はじめ馬上から矢を放ち、次々に敵を打倒し始めた。
敵を手投げの爆薬で幻惑させる謝夷吾。
大青龍刀で敵を切り倒す鄭弘。ほかのものは剣や刀で敵をうちたおす。
厳八は、鞭の先に鋭い鉄のとげを植え込んだ厳八独自の武器で、馬上から打ちかかる。
「こいつめ、こいつめ」と、鞭だけでも恐ろしいのに、賊はその鋭いとげに打倒され悲鳴を上げた。
 堂の中庭には、激しい怒号と悲鳴が上がる。新手の登場にすでに疲れの出ている賊隊は倒され、動揺が走った。
 第五倫たちは
「助かった、間に合った」
「助けに来てくれたぞー』叫びあった。
第五倫たちは、さすがに、もうこれまでかと、と思っていただけに、鄭弘や謝夷吾などの声を聴き、一瞬、力が抜け崩れ落ちそうになるほど安堵した。
趙袁は、舌打ちして、
『邪魔が入ったな、まず、下の奴らを片付けよう」
階段を大股で降りていく。
 鄭弘は大青龍刀を手に、すさまじい勢いで敵をなぎ倒す。
趙袁、鄭弘、お互いに一見して、この者こそが好敵手とすぐみとめあう。
鄭弘は、
「それがしは、督郵、鄭巨君なり、降伏して直ちに、縄につけい」
大音声で呼びかける。
その有様は堂々として威に満ちたものであった。
「おう、それがしは、牛殺しの趙袁、わしの槍を受けてみよ」
たちまち、、鄭弘の大青龍刀と趙袁の鉄槍との壮絶な一騎打ちが始まる。
ガツンとぶつかる音とともに火花が散った。
激しく打ち結ぶがなかなか決着がつかない。
 蓬越の相手は謝夷吾と、宋三である。
蓬越も二人を相手に互角の戦いをしたが、さすがに疲れてきた。
残りの賊どもも新手を前にして疲労困憊してきた。弓でいられ、剣で倒されている。
 鄭弘によって鍛えられた、部下は、それぞれに手練れで、次々にそれぞれの得物で敵を打倒す。
 多くの敵が逃亡し、傷つき、死んだ。
しかし、残った趙袁さすがに強く、鄭弘に宋三が加勢してもかたがつかない。
「あっぱれなるかな趙袁、しかしこれまでだ」
第五倫は叫ぶや、剛弓を絞り狙いを定める。
わざと急所を外し腿を射抜いた。
グッと、膝をつく趙袁、、おもわず、鉄槍を取り落とす。
そこを折り重なるようにして武器を取り上げ、押さえつける。
捕まった首領を見て、蓬越や残りの手下も抵抗をやめた。
直ちに賊どもはきつく縛り上げられた。
                        p186-188
『謝夷吾、方術にて、首領趙袁を催眠し、依頼主を突き止める』
「本当によく来てくれた。今度ばかりは危なかった。一時は死を覚悟した。
それにしても、どうしてこんなに早く着いたのだ」
第五倫は、息を弾ませながら、みづからの傷の出血と返り血で赤くなった顔や服のまま訪ねた。
『謝堯卿殿の風角占候によります」
副官が答える
「そうか、素晴らしいものだな」
と、第五倫は感嘆した。
「それに厳八が急を知らせに来て、場所を教えてくれました」
と鄭弘は続けた。
第五倫は
「そなたたちはみな私たちの命の恩人である。皆が言うにもかかわらず、従わず、私の判断の誤りで、多くのものを死なせてしまった。許してくれ。傷を負ったものは早く手当てをしてやってほしい」
皆に頭を下げた。
部下たちは、残った賊たちを縛り上げた。
 堂の前の中庭で、縛り上げた趙袁に、
「お前たちに襲撃を命令させたものは誰か」
鄭弘は問い詰めた。
趙袁は、
「俺たちには俺たちの仁義がある。もうこうなれば死ぬ覚悟は出来ている。どんなことをされても、殺されても教えやしないさ。きさまたちも俺たちの仲間にそのうちに殺されるだろうよ」
 縛られながらも言いたい放題毒づいた。
「何をほざく、このやろう」
鄭弘は鞭をふるい打ち据えた。
顔や肩から血がにじんだ。
 謝夷吾は
「確かに痛めつけてもしゃべりはしないでしょう。それがしにお任せ願えないでしょうか」
と、第五倫にいう。
「よろしい、そなたに任せた」
 謝夷吾は趙袁を、お堂の中に引き入れ、方術にて首領趙袁を催眠して、簡単に依頼主の名前を突き止める。そのようなことは謝夷吾にとっては簡単なことであった。
 やはり、曹神一味の名をあげた。
 第五倫一行は、近くの役所に手配をし、けが人の手当てや死者の収容を行わせた。
第五倫は山陰県の都尉府に戻り、賊一味の討伐と逮捕を手配した。
 督郵の鄭弘や謝夷吾は武力をもって、反対勢力を徹底的に取り締まった。
曽神や悪質な巫祝をを逮捕した。裁判で死刑にし、また結託していた役人や豪族を罪に重さにより処罰した。
 役人は貧しい階層の出身者で清廉で能力のあるものに入れ替えた。
 はじめ、人々は祟りが起きるのではないかと恐れた。しかし、何事も起こらなかった。
人々は第五倫の正しさを知った。
 これ以後人々は迷信におびえなくて済むようになった。
人々は大いに喜んだ。長年の悪習が根絶されたのである。
      ~p189
次は
『謝夷吾、県長杜峻の収監を命じられる』に続く
 
 
 
 
 

2016年10月27日 (木)

第五倫伝 第14章「第五倫危うし」 第五倫暗殺計画 第五倫柯岩にて襲われる p181-185

第、14章、「第五倫危うし」
第五倫暗殺計画
 曹紳は会稽郡に散らばる配下の巫祝を集めて言った。
 男性である祝(ほふり)女性の大巫女など主だったものが、曹紳の屋敷に集まった。
それぞれにある狂信に取りつかれた異様な姿のものが多かった。
 曹紳は50歳ぐらいであごが張り、大柄で眼光が異様に鋭く、人を威圧する容貌をしていた。それが低く、重みのあるある声で皆を見回しながら言う。
 「どうだ、牛祭りが禁止され、今度の太守が思うがままにしていたら、次から次へあれがいけない、これがだめと禁止してくるにちがいない。そうすれば我々の仕事がなくなってしまうぞ。どうしたらいいと思うか」
 「曹紳殿の言うとおりだ、牛祭りが欠かせない祭りだということを新しい太守に説得すべきだが、あの様子ではとてもむつかしいであろう」細長い顔で鼻がとがった曹尚は、ひげをしごきながら、話をつづけた。
 上虞県の曹尚は曹紳の親戚であり、上虞県の巫祝の有力者であった。この子孫が上虞で親孝行の鏡としての曹娥となるのである。
 曹紳はそれを受けて。
「ひそかにわれわれの力で呪い殺す、場合によっては丁候どのにお願いしてひそかに消えてもらったらどうだろうか」
 それがいいと賛同の声が続き、一同は、曹紳の提案に従うことになった。
 そこでさっそく、曹紳らは、牛祭りを後援する豪族の丁侯に相談した。丁侯は銭糖県で王充の父といさかいを起こした丁伯の親戚である。丁侯も牛祭りを取り仕切りそこで大きな利益を得ていたのである。
 丁侯は山陰県(紹興)隋一の豪族で、広い荘園をもち、そのなかに城砦のような屋敷を持っていた。その身内の者が何人か都や県の役人になっていた。また部曲という私兵を百人ほど抱えていた。昔から一族は紹興酒を作っており金回りも豊かであった。
 丁侯は宴会を行うので集まってほしいということで、第五倫に反対するものをひそかに広大な屋敷に集めた。当時の豪族はしばしば一定の盟主の地位を維持するために豪華な宴会に招待したものである。
 そこには、丁侯と、上虞の豪族孫徹、あるいは、銭糖県などから集まってきた丁伯の子などの豪族など。呪術師の長である曹紳や曹尚さらには山陰県の功曹掾をやめさせられた蒙臣、銭糖県の獄曹掾の杜安生などの県の役人もいた。彼等は皆第五倫の政策により民から利益を搾り取ることができなくなった者たちである。
 酒の席が進むにつれ、第五倫が赴任してきて、いかにいろいろなことがやりにくくなったかと、不満の声が上がった。ほかのことは我慢するにせよ、特にずっと続けてきた牛祭りを廃止するのだけは許せないという声が強くなってきた。
 話の盛り上がりで、第五倫はわいろも効かず頑固だから、何とかひそかに始末してしまおうとという話になった。丁侯も第五倫の政策により、民から搾り取ることができにくくなった。そこで第五倫を暗殺するという豪族と悪徳役人と巫祝そしてならず者などの、一大連合が出来上がった。
 直接手を下すのははばかれるために、特殊な武術者やならず者たちに暗殺を依頼した。巫祝たちも一斉に第五倫の呪詛を行う。
 山陰県の前功曹掾の蒙臣は第五倫が山陰から銭糖へ小人数で出発するという情報をひそかに仲間に知らせた。
 これは絶好のチャンスであると。
 丁侯と曹紳は裏社会のボスで、腕では誰にも負けたことがないと自慢する、牛殺しと異名のある趙袁を屋敷に呼んだ。趙袁は身長8尺5寸(1m95cm)筋骨たくましく、暴れ牛を角をもってねじり倒したという怪力の持ち主であった。 得物は鉄槍(てっそう)である。鉄槍とは、普通槍の柄は堅い木であるが、すべて鉄で作られたものである。これは刺すだけでなく強力な打撃兵器となった。しかし大変重くなり、よほどの膂力がないと使いこなせないものであった。またその槍さばきもすさまじいものであった。今まで多くの戦いで一度も負けたことがないと自慢していた。
 趙袁の弟分蓬越も八尺を超す偉丈夫である。
 丁侯は言う。
「良いか、今度、お前たちの一世一代の大仕事だ。太守の第五倫をひそかに始末してほしい。うまくいけばほうびは望み放題、望めば官につくこともできる。今度、第五倫は山陰から銭糖に行く情報をつかんだ。相手は10人ぐらいだそうだ。そこをお前の部下と私の部下えりすぐりを50人も出せば、いくら何でも殺せるだろう。絶対に殺して来い。
 しかし、ことはお前たちが勝手にやったことで、絶対われわれのあずかり知らぬこと、名前は出すな。名前を出すようならお前たちの家族にも災いが降りかかるだろうよ」
 趙袁はいかつい、あごが突き出した、いささか巨人症気味の巨体で、どすの利いた声で言うには。
「 牛殺しの趙袁と言われる俺の力を見くびってもらっちゃー困る。お前も知っているだろうが、今まで戦って一度も負けたことのないこの俺だ。第五倫なんて野郎は俺一人ででも倒せるぜ」
「だが第五倫は恐ろしい弓の名手と聞く、盗賊を一人で追い払ったとか。護衛の人間も腕の立つものを連れて行っているだろうが、気を付けることだ」と丁侯が言うと。
「おう、その辺はうまく弓を使わせないようにするさ」
長いあごひげを上から下にしごき
「それに俺の配下には腕の立つ奴はいくらでもいるぜ。任しておくがよい」
「それは心強い。それでは前金として千両をもっていくがよい」
成功したらその倍以上をやろう」
「早速手配するぜ」
足早に出て行った。
 丁侯らはそれぞれ影響下にある部下たちに第五倫の悪口を言いふらさせた。牛祭りをやめさせる第五倫にはたたりがあり、急死するであろうと。
 その動きを察知して、謝夷吾は自分の弟子たちを、宋三は塩の商人の仲間から、厳八は庶民の中からその持ち味を生かして調べ始めた。丁侯らに怪しいたくらみがあることは分かったが具体的なことはわからなかった。
 丁侯らは新参の太守にはそれほどの探索能力はないと高をくくっていた。督郵、鄭弘はもしもに備え部下を常に武装させいつでも出動できるようにした。
 鄭弘、謝夷吾らは怪しい動きがあるので、移動には多くの護衛兵をつけるように、第五倫に言った。
 しかし、第五倫は出歩くとき、多くの護衛兵を付けることを好まなかった。その代り必ず、宋三と厳八がついていくことにした。
     p183
第五倫、柯岩(かがん)にて襲われる
 二月のまだ寒い日、巡察で第五倫と宋三と厳八、あと護衛の兵が7人。護衛の兵は鄭弘えりすぐりの弓術、剣などに優れた者たちであった。合計10人の一行は山陰県(紹興)から、隣の銭糖県(現在の杭州)に馬で向かうところであった。
 その道は海岸に近い運河ぞいの 道で、はるか昔より作られていた道である。
 今でも、運河、有料道路、鉄道がとおる大動脈である。
その動きを察知した趙哀はひそかに自分の部下の中から、えりすぐりの50人の暗殺団を組織した。
 偵察のため、先行していた厳八は、道のはるか向こうから、多くの物々しいいでたちの騎馬の一団がたむろしているのにきがついた。その殺気立った様子からこちらを襲うと見た厳八は、一瞬にして第五倫一行の危機を察した。すぐに近道の道を通り、息せき切って第五倫に知らせた。
「賊が襲ってきます。その数およそ五十」
大声で倫の一行に知らせた。
 10人余りの一行を五十人もの数で襲う。行動も白昼大胆に。これだけの人数で襲うという情報は、第五倫一行はつかんでいなかった。
 「厳八よ、急いで、山陰の(会稽)郡の役所に知らせておくれ」
厳八は聞くやいなや、背後を気にしながら、直ちに馬にムチを入れ、第五倫襲わると知らせに走った。
 第五倫は直ちに
「この平地では危険だ、平地では防ぐものがない。近くの岩の切り出し場、柯岩に行こう」
第五倫の一行は直ちに近くの石の切り出し場、柯岩を目指した。
 襲われた場所は田園地帯で縦横に運河が走る柯橋。紹興酒のもととなる名水、かん湖に隣接したところである。秦の時代からの石切り場があるところである。そこまで5キロ、今では根元が極端に細い奇岩、柯岩や石の大仏やお寺のある大きな公園になっている。
 暗殺団は途中で第五倫の騎馬の一行は柯岩のある石切り場に向かったと知り、馬の向きを変えた。
急いで走る第五倫一行。果たしてうまくたどり着けるか。
 ようやく、馬も人も息せき切って、後ろが岩山でそこに小さなお堂があるところに立てこもった。
 しばらくして腕に自慢の荒くれども五十人。その中には腕はたつし、特殊な戦闘能力で雇われたものもいた。うまく殺せば大金が入ると勇んでやってくる。
「よいか、第五倫は大変な弓の名手だそうな。盾に身を隠しながら行け。
 暗殺団は第五倫一行がお堂の中に隠れたようだと知る。
第五倫たち九人はお堂の中から外の様子をうかがう。
「後ろは崖だ、後ろからくることはない。敵は石段を上がってくるので見通しがきく」
 第五倫が言う。
 敵は、堂を見上げる位置から一斉に矢を射かけてきた。木の壁や戸に突き刺さる。
戸の隙間や窓から堂の中に入ってくるものがある。
 「使える矢は拾っておけ」
第五倫が指示。
戸の隙間から外の様子をうかがう。
 賊はたてのうしろに隠れながら隠れながら石段をじりじり上がってくる。
 「どれもこれも相当な使い手のようだな。これは手ごわいぞ」
 敵の矢の斉射が終わった後、九人はいっせいに戸の間から弓のねらいを定める。
「できるだけ近くまでひきつけろ」
 弓の名手宋三は
「相手は多い、矢は大事に使え」
「盾から出たところをきちんと狙え。足元があいているぞ」
「弓を打つため、盾を放した時がねらい目だぞ」
 第五倫は強弓のねらいを定め、次々に矢をつがえ、たちまちのうちに3人の敵を倒した。
 他の護衛兵たちも手練れである。次々に矢を放つ。矢に当たり階段を転がり落ちるもの続出である。たちまち敵は早くも混乱した。さらに敵は7人が傷ついた。
 「これはいかん」
相手を小人数だとみくびっていた敵は、
 「下がれ、下がれ」
と一斉に弓矢の届かないところまでいったん後ろに引いた。
 「人数が少ないと、少し甘く見てしまったな」
 「よし、火攻めにしろ」
趙袁はいった。
また、堂にちかづき、階段の下から、上を見上げて火矢をうとうとする。
 しかし、火矢は普通の矢ほどには飛ばない。
射程距離が長い、第五倫の強弓の矢は、火矢を射ろうとするものを次々と倒す。
 これはたまらん。さらに後ろに下がった。
これはどうしたものか。攻めあぐねて主だったもので相談する。
「数を頼んで切り込もう」
 すでに十数人が死んだり、手傷を負っている。
 残ったものの中から盾を持たずに30人ほどが一斉に階段を駆け上がった。
さらに九人は狙いを定め、次々に射落とす。
 ところが矢を避けて6人ほどが堂の前にやってきた。
そして、近くから火矢を打つ。
 何本かは堂に刺さって燃え始めた。
 「三人は俺と一緒に上がってきた敵を倒せ」
言うや否や、宋三は堂から飛び出して
先頭の敵を槍で突き伏せる。
 敵は次つぎに階段を上がってくる。
堂の前は激しい切りあいになる。
 残りの6人は矢を射続ける。
敵は死人けが人を残して退いた。
ただ、敵も手ごわく、堂を出て行った3人は手傷を負い、堂の中でも矢が刺さって、手傷を負った。かなりの重傷を負ったものもいる。
 敵もさすがに手傷を負うものが多く、疲れが出て、いったん退いた。
お互いに一時の小康状態が生まれた。
 「一人が知らせに行ったぞ、ぐずぐずすると奴らに応援が来る」
「いやあ山陰の郡役所からくるまでにはまだ時間がある」
賊のかしら、趙袁が
「奴らの矢玉も尽きてきたころだろう。そろそろ俺様が行って仕留めてやる」
にやりと笑った。
   p185
「謝夷吾、風角占候で、危機を知る」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/12/
 
 
 
 

2016年9月 4日 (日)

第五倫伝 第6章 光武帝起つ 「昆陽の戦い」p71-73

光武帝起つ 「昆陽の戦い」  p71~73
 西暦二十三年三月、さまざまな地域での反乱軍の蜂起に対して、王莽は、いとこである大司空の王邑を大将軍として、大司徒の王尋の軍と合流させ、40万とも、50万とも、補給部隊を含めると百万を称した大軍団を組織した。実際には全部で40万ぐらいであったろう。そして各地からの様々な軍隊とともに六十三流派という軍師も招き、さらにはその軍の中には虎などの猛獣もいるというような軍隊であった。にぎにぎしいいでたちの大軍は、劉玄や劉秀側の城である昆陽城を取り囲んだ。
 わずか9千人の城兵は、攻城兵器や旗指物が盛んな五十倍ともいえる敵にびっしりと包囲されておびえた。もうありもはい出るすきもなさそうである。どう見てもこの大軍に包囲されては勝ち目がない。しかし劉秀は、この大軍を前にしてもたじろぐことはなかった。劉秀は普段は、用心深く一見おとなしく派手に見えず、むしろ臆病者のように見られていた。
 しかし、劉秀は、すでに用意周到に3千人の別動隊を城の外に用意していた。
劉秀は、いよいよ戦機が迫る中で、主だった兵を集めた。
 みなが見える高い所jから、よく通る大きな声で、朗々と話し始めた。
「敵は確かに大軍である。しかし寄せ集めの戦意の無い烏合の衆である。恐れることはない。私たちはみな心を一つにした精鋭部隊である。私には、必勝の策がある。私の指示の通り戦えば必ず勝利する
 もしここで、われわれが、この戦いで勝利することができるなら、五十倍の敵を打ち破ったと、一生誇りにすることができるのだ
 敵将の王邑を倒してしまえば、たちまち敵は崩れ去る。よいか私は、機を見て、この城を抜け出して、別動隊で王邑の本隊を夜襲する。それとともに、城の城門を開けて、王邑の本隊を襲撃せよ。ねらいは総大将の首のみ」
 力強く言い切った。
 確信にみちた劉秀の言葉に、大軍を目にして一時消沈していた城兵は一気に盛り上がり、一斉に、おー、とこぶしを突き上げた。
 一方、大軍で包囲している王莽軍はわずか一万にも満たない城をなめきっていた。また多くの軍師がいるため、議論百出で、優柔不断な王邑や王尋には決めかねていた。
 城を攻めている間に宛の城を落とした劉演の本隊の攻撃を恐れたのである。
 日が過ぎるにつれ、王莽軍にはだれたふんいきがではじめた。
 その機を見計らい、劉秀はえり抜きの13人の部下とすでにひそかに作っておいた抜け道から深夜、城外に抜け出していた。
 烏合の衆で数を頼んでたるみ切っている王莽軍は、敵がひそかに抜け出したことに全く気付かなかった。もうそろそろ、敵は大軍におびえて、降伏するだろうとたかをくくっていた。
 劉秀は、夜の道を三千人の別動隊のところに急いだ。
別動隊は、すでに夜襲の準備を万端整えていた。王莽軍の中に潜ませていた、スパイからの報告で、王邑はじめ、敵の居場所がすべてわかっていた。
 王莽軍は、まさか後ろから襲ってくるなど、考えもせず、わずかな歩哨だけを残し、ぐっすり寝静まっていた。
 劉秀軍は劉秀を先頭に、息を殺して敵の本営に近づき、一気にトキの声を上げ、宿舎に火をかけた。
 寝ている間に襲われた王莽軍は混乱のきわみに達した。背後から”劉演の本隊の大部隊が来た”と劉秀の部下は大声を出し、王莽軍は同士討ちをするもの、武具をつけるまもなく切り殺されるもの。ひたすら逃げ出すものが多かった。
 本営に火が上がるのと同時にいっせいに昆陽の城門を開け、城から兵が打って出た。
挟み撃ちを受けた、王莽軍の本営はなすすべもなく崩れ去った。大将軍の王邑は命からがら都の長安に逃げ戻り、王尋は切り殺された。
 いっせいに劉秀軍はかねて手配通りに敵陣に潜ませていたものに、王邑や王尋が戦死したと触れ回らせた。本営の方向に火が上がるのが見え、大混乱の中で、もともといやいや集められていた軍隊は一斉にくずれたった。
 朝日が昇る頃には、包囲していた40万の大軍は多くの戦死者を残して、多くの糧秣も残して霧のように消え去ってしまっていた。なんという歴史的大勝利であろうか。
 この昆陽の戦いでの奇跡的な大勝利は新の勢力に致命的な打撃を与える一方、劉秀の名を一気に高めたのである。
 六月、更始帝劉玄は劉演、劉秀兄弟の勢力拡大を恐れ、策略をもって兄の劉演を殺した。しかし劉秀は更始帝に対して恭順の意を表し、兄の喪にも服さなかった。誠実な態度を示す劉秀をついにとがめだてすることはできなかった。
 9月ついに、大軍を失った王莽は長安(新では常安といった)で反乱軍の豪族に殺された。新は呆気なく、滅亡したのである。長安近くにいた赤眉軍も劉氏の末裔の劉盆子を皇帝に立てた。
 赤眉軍は劉氏の末裔を見つけ出したが、その中で血筋が近いが貧窮のもとにある3人の
子どものうち、くじ引きで一人を選んで皇帝にしたというありさまであった。劉盆子は山東省の出身で最も年少で15才であった。見つかったとき、残ばら髪で裸足、ぼろぼろの服を着ていて、怖くて泣きそうな状態であったという。これでは、皇帝としてうまく人々の統率がとれるわけがない。
 さて、更始帝のもとでおとなしくしていた劉秀ではあるが、いずれ殺されてしまうと身の危険を感じていた。河北の宗教指導者で、劉家の皇帝成帝の子を名のる王郎の討伐を申し出た。そしてその拠点、邯鄲をおとし 河北をほぼ平定した。その功により、劉秀は更始帝より粛王に任命された。そして、更始帝は劉秀に、軍を解散して長安への召還を命じた。
 更始帝は人望もあり大いに勢力を伸ばす劉秀を恐れていた。軍を解散し長安に行けば殺されてしまう恐れが強く、召還を拒否し河北において自立することを目指した。
 河北において、劉秀の軍はきびしく軍律を守り、決して略奪など行わなかった。逆に貧窮した人々に食べ物を与えるようであった。そのため、多くの民衆は劉秀に心を寄せ、恭順の意を示す軍も多く、たちまちのうちに河北の各地に及び、そしてついに河北の地をすべて独力で征服した。
 それに比べ更始帝と更始帝の緑林軍は統率が取れず、赤眉軍より残薬で恐れられた。
九月には赤眉軍はついに更始帝を殺し、更始軍は壊滅した。赤眉軍は劉盆子を皇帝にして長安に王朝を開いた。しかし略奪をすることばかりに力を入れ、まともな政治ができず、人々の心が離れた。食べることにも事欠いた赤眉軍は一時長安を離れ、西に向かったが、隗ごうの軍に敗れ、また長安に戻るという有様であった。
 この戦乱続きで長安の都とその周辺は徹底的に破壊された。
  「雲台二十八将」に続く  p73
 

2016年9月 3日 (土)

第五倫伝 第6章 光武帝劉秀 「劉秀起つ」 p69-p71

第五倫伝、第6章 「劉秀起つ」 p69
 成祖光武帝劉秀は前漢建平元年(紀元前六年)十二月甲子の夜、景帝の子孫である劉欽(りゅうきん)の三人兄弟の末子として南陽郡の宛で生まれる。字は文淑という。このとき、さまざまな吉兆があらわれたと言われる。
 景帝は有名な武帝の父にあたる。劉秀は景帝から見ると、五代目の孫ということになる。劉欽は武帝の弟である春陵公の曽孫である。祖父の劉回は鉅鹿郡の都尉であり、父の劉欽は南頓の県令であったが、当時、王莽が権力を握り、漢の王族を弾圧する時代に絶望し、県令のまま自殺してしまった。劉秀はわずか9歳の時に父を失ってしまったしまったのである。
 劉欽のまだ幼い5人の子供たちは南陽の豪族である叔父の劉良のもとに引き取られ育てられたが、肩身の狭い思いをしたにちがいない。
 劉氏一族はその地域の豪族と婚姻関係を結び、南陽郡においては有力な豪族であった。劉秀は劉良のもとで、まじめに農業に励むが、学業が優秀で、20歳を過ぎて(西暦14年から19年)長安の太学に学ぶことになった。劉秀はそこで、『書経』や『尚書』などを学んだ。その正式な学問をしているところが、他の豪族たちと大きく異なるところであった。多くの皇帝は詔書を人に書かせているが、劉秀は皇帝になったときすべて自分で書いたという。
 さてこの頃は、王莽の新の時代である。前にも書いたが、劉氏の一族はあまり羽振りが良くない上に、伯父に養ってもらう肩身の狭い思いから、学費を多く請求出来なかった。しかしどうしても学費が足らず、友人と金を出し合ってロバを飼いこれを賃貸しして学費に充てたという。南陽郡の豪族の子弟がそれほど貧しかったかどうかは疑問だが、実の父親でないものにそんなに甘えられなかったのは事実であろう。このときの大変貧しい暮らしが、後世の光武帝の質素な暮らしの元となるのである。常に心掛ける言葉として、
「中庸、誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」と。またいうには。
「吾天下を治るに、柔の道をもってこれを行わんとす。柔よく剛を制し、柔なりといえども必ず強し」と。
 ともかく誠実にして人々に優しく、ということ。これは、秦の始皇帝や新の王莽が行った過酷な政治の対極をいくものであった。過酷な政治は人々の恨みをかい、反発を招き、その弾圧のためにさらに過酷な政治を行うという悪循環をひきおこしてきたのである。
 劉秀はこの心がけと態度を一生貫き、後代の子孫である皇帝にも守らせた。そしてなんと4代の皇帝まで善政が続き、後漢がその後乱れても、200年と続く元となった。
 劉秀の身長は7尺3寸(168㎝)であるから、当時としては背が高いほうだったろう。
容貌は眉目秀麗(びもくしゅうれい)といわれる。目は切れ長に輝き、美しい眉、顎髭は美しく、大口(大きくて立派な口)、隆準(りゅうせつ)高い鼻、ー鼻のあたまを準頭(せっとう)というー日角(にっかく―額の上部が盛り上がり、日のように輝く顔立ち)といわれた。際立って立派な、人をほれぼれさせるような、容貌であったようである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て、兵士たちは「まるで天の人のようだ」と見ほれるぐらいの姿のよさであったという。
 謹厳実直、また性格はおだやかでだれからも好かれていた。まさに、一目で傑物とみられる立派な容姿と態度をしていた。中国では、人相を見るということがきわめて重要であった。
 前漢の初代皇帝である劉邦は、まったく庶民の出でありながら、もっぱら、堂々とした、いわゆる龍顔といわれるその容姿で天下を取ったといっても過言ではない。まだ亭長をやっていたような身分の低い劉邦を、大金持ちの呂氏が、その皇帝にもなりそうだという人相の素晴らしさにほれ込み、娘を嫁がせた。そこから皇帝への道が開かれたのである。
 また、後の三国時代の劉備玄徳も同じである。むしろを作って売るような貧しい身でありながら、その出自とそのずば抜けた立派な容姿が人をひきつけたのである。
 だいたい正史では特に創業の皇帝の容姿は立派に書くものであるが、特に劉家の一族はそのような立派な容姿が遺伝されていったのであろうか。
 劉秀は性質が穏やかで、太学をでて郷里に戻ってきてからも、地味で、農業に勤めることを好んだが、それに対し兄の劉演(伯升)は豪放磊落(らいらく)、任侠を好み多くの士を養っていた。いつも弟が学問をしたり、農業に専念するのを馬鹿にしていた。
 王莽の圧政にたいし、赤眉の乱がおこり、続いて南陽郡でも、王匡(おうきょう)を中心とする緑林軍と呼ばれる反乱がおきた。緑林軍は分裂し平林軍などと合体した。その連合軍の長は南陽劉氏の本家たる劉玄(後の更始帝)であった。
 人々の推挙を得て、兄の劉演は当地の李氏や鄧氏などの豪族とともに、西暦二十二年南陽郡の宛で挙兵する。劉秀の妹、伯姫は李通と結婚した。このとき都での学問を終え郷里に帰っていた。このとき劉秀は二十八歳であった。
 劉演は豪胆だが、かなりいいかげんで無頓着なところがあり、人々はその挙兵に参加していいかどうかを心配していた。が、都で学んだ書生上がりで『尚書』などにも詳しい弟の劉秀が衣冠に身を整えて参加したら、
「まじめで慎み深く落ち着いているあの方でさえ軍をおこすのか」
と、みんな安心して付き従ったというエピソードがある。それほど劉秀は信頼されていたのである。
 しかし、最初、兄の軍に合流するとき、馬が買えず、仕方なく、自宅の農耕用の牛に乗って参戦したという。
 みなは、なんということだと笑った。いかにも劉秀らしいと。そして、緑林軍に参加してようやく敵の馬を奪って馬に乗れた、などとい、エピソードはいかにもおっとりした劉秀らしい話である。
 はじめ反乱軍は苦戦していたが、しだいに勝利を重ね、西暦二十三年二月、同じ南陽郡出身の劉玄は皇帝(更始帝)に即位した。この年、新の地皇四年は更始元年となる。更始帝のもと、劉演は大司徒(総理大臣)となり、劉秀は太常(儀典大臣)偏将軍となった。更始帝は洛陽を都に定めるとともに王莽のいる長安の旧都討伐に向かった。しかし王莽は長安で強大な軍を持っていた。
       p71
「昆陽の戦い」に続く
 
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