第9章 第五倫、光武帝と会う p114-119
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光武帝と初めて会う
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賢聖の障子(そうじ)京都御所紫宸殿より
ー若い時の肖像
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西暦五十一年(建武二十七年)、新しく赴任してきた京兆尹の鄧庚(とうこう)は、清廉潔白な官僚で、はるか前の京兆尹の鮮于襃(せんうほう)や閻興(えんこう)から第五倫のうわさを聞いていた。
鄧庚は着任と同時に早速、長安市の市場の主簿(責任者)である第五倫を接見した。
鄧庚はいささか人相を見ることができた。第五倫はもともとの実力の上に、下役人でいる間に更なる学問を深め、儒学の教師ができるほどに達していた。また人格的にも優れた人物であると一目で見抜いた。
ーこの方は私などよりもはるかに優れた大変な人物である。末はもしかして三公にまで上り詰めるかもしれない。なぜ、今まで、このような立派な人物が今まで、この年に至るまで埋もれていたのであろう。
仕事ぶりは清廉潔白、さまざまな優れた業績を上げながら、上司に対して直言して批判することが嫌われて、最初に任命された地位そのままにとどめられていることも分かった。また大変な親孝行で母親に仕えていることも分かった。
後日、鄧庚は再度接見して
「わたしは、あなたを孝廉に推挙します。ぜひそのお力を発揮して、まだまだ不正が横行する今の世の中を変えてほしいと願っております」
その上申は認めら、孝廉に推挙されることになった。
年老いた母に長くつくしたこと、仕事ぶりが清廉潔白なことが推挙の理由であった。第五倫が四十七歳のことである。当時としてはかなりの老齢とみられる年齢で、そろそろ引退を考える頃の年齢である。
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役所の同僚たちは
常々第五倫が言っていたことが実現して驚いた。今までさんざん悪口を言っていた者も。
「ようやく認められたのですね、おめでとうございます」
「どうも、いろいろ悪口を言って申し訳ありませんでした」
「おめでとう、伯魚どの、本当に驚きました」
「志は持つべきものですね。我々もあきらめずに頑張ることにします」
などと、手のひらを返したように、態度が変わった。
それに対して、第五倫は嫌味などは言わず。
「ありがとうございます。ようやく、認められることになりました。今まで大変おせわになりました。ぜひ、あなた方も引き続き市民のためにつくしてください」
同僚たちは、ささやかながら、お祝いしてくれた。
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倫はもう少し楊桂が生きていたら、
「ほらね、やはり、私の言うとおりになったでしょう」
と、喜んでくれただろうにと、心から残念に思った。
家に帰った第五倫は、集まった家族に
「このたび、鄧庚殿の推薦により孝廉に認められることになった。洛陽の都へ行くので早速準備をするように」といった。
みんな口々に、おめでとうございます、とお祝いの言葉をかけた。
ーずいぶんと、下積みが長かった。でもようやく、認められてよかった。でもこれからようやく自分の力を発揮できると、気持ちが大きく晴れる思いであった。
第五倫と家族は宋三夫婦と厳八とともに、さっそく旅の支度をはじめ、任官するために、長安から、洛陽の都を目指した。
長安から洛陽へは、大変道路も宿場もよく整備されているために、快適な旅であった。
一行が到着した洛陽の都は光武帝の政治を反映するように、にぎやかではあるが、華美なところがなく、落ち着いた清澄な、たたずまいであった。
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当時、光武帝は推薦されたものを太守から県令に至るまで、直接面接して、清廉潔白なものを採用しようとしていた。
光武帝は第五倫を接見し、並々ならぬ才能とその道徳性の高さに注目した。しかしその時は大変忙しかったため儀礼的なもので、十分話をすることができなかった。
第五倫はまず、郎中(宿営の官)となり、次いで、准陽国(わいようこく)の医工長(医薬をつかさどる、四百石)になった。准陽国は陳国とも言い、豫洲にあった。光武帝は第五倫が、皇帝の息子である准陽王に従って任地につくとき召見した。
光武帝は第五倫との話の中で、その素晴らしさが印象に残った。
しかし、その時も十分な時間が取れず、極めて残念である。改めて十分な時間をとって話をしよう、と第五倫につたえた。
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第五倫は妻子を連れて任地へ行く道すがら、妻の淑玲に皇帝にあった感激とその素晴らしさにについて感動を込めて語った。
「宮殿は大変質素にできていたが、威厳に満ちたすがすがしいものであった。皇帝陛下は近くまで呼び寄せてくれ、気さくに声をかけてくれた。今度会うときはそちの意見をじっくり聞きたいものだとおっしゃった。私の想像していた以上に素晴らしいかただ」
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第五倫は准陽国の医工長として、無駄を省き、優れた医薬を整え、庶民にも活用できるように取計らうなど、優れた業績を上げた。二年が経過し西暦五十三年(建武二十九年)、准陽王が諸役人を従えて、洛陽に朝見に来た。光武帝は、前回第五倫と十分な話ができなかったので、今度は政務の忙しい時間を割いて、政治上の意見を聞くことにした。
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「帝と第五倫、二日間語りとおす」
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時に光武帝五十九才、第五倫四十九才、ともに早くから父を亡くし、大変厳しい戦乱の時代を生き抜いてきたのである。積もる話はさまざまであった。第五倫は、
「皇帝陛下が民を思い、なされてきたことはすべて理にかない、すばらしい世の中を作られていることに以前から感服しておりました。
さて臣が思います仁、人にとってもっとも悲しいことは人が飢えて、時に子どもさえも取り替えて食べなければいけないような状況であります。臣は、そのような悲惨な状況を見てまいりました。本当に恐ろしいことであり、悲しむべきことです。また臣自身何度も餓死寸前までに追い込まれました。人が人を食わざるをえない状況に人を追い込むことは、干ばつや、洪水や蝗害などしぜん現象ではなく、すべて人がもたらすものであると思います。
すなわちそれはむしろ政治がもたらすことであると考えます。一部のものが、利益を上げるために食料を独占し、蔵の中には穀物があるにもかかわらず、その穀物が出回らず、多くのものが餓死します。二度とそのようなことにならないように努めるのが臣の任務とこころえます。しかしまだまだこの世には陛下の心を察せず、民の財産を収奪し、私腹を肥やし、厳しい税の取り立てや、刑罰で民を苦しめている豪族や酷吏がたくさんおります。そういうものどもをおさえることが肝要とこころえます」
続いて
「問題は豪族と官吏の癒着にあります。豪族出身のものが官吏となり、豪族の身内に甘く、貧しい民衆に厳しい。表面だけ孝行を装って仲間うちを孝廉などに推挙する。お互いに表彰しあう。高いくらいについてしまえばもう親孝行も清廉潔白も関係なしになります」
「腐敗した役人は、賄賂により、豪族に有利な政治をし、物事を行っている」
「陛下はすでにそういう問題を指摘しておりますが、まだまだ行き届いていかないように感じます。今後はより一層、役人には清貧にしてほんとうに力があるものを採用すべきです」
「賄賂などにより人々を苦しめたり殺したりしたものは厳罰に処すべきです」
「しかし、一方では、新しく任命された官吏があまりにも厳しい法治主義をとり、罪を犯したものを処罰するのはいいのですが、多くのものが連座し、罪もないのに獄に入れられ苦しまないようにすることも肝要と存じます」と第五倫は率直に申し上げた。
「まったくその通りである。朕はつねづねそのように言っておるのだが、実際にはまだまだ行届いていないようだな」
「そうか取り締まりには十分気をつけるようにしよう。行き過ぎはいけない 」と光武帝
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第五倫は、次いで、どのようにして、生産力をあげ、民のふところを豊かにするかについて具体的な進言を行った。
一般論ではなく、どこどこの地はどのようにすればよいかについての、第五倫が役所勤め時代にコツコツ調べていった、具体的な提言に光武帝は驚いた。
光武帝は話を続けるうち、第五倫がかしこまって、臣という言い方でなく私と呼ぶように言った。
「よく、それだけ調べたものじゃなー」
「私は塩商人をしたことがあり、塩商人の親戚があります。彼らは仲間で結社を作り、情報を交換しております。実は私の息子もその一員になりました。その中から色々な情報が手に入るのです」
「そちは本当に世情にくわしいのだな。朕もこのような宮殿の中にいると、次第に世情に疎くなってきておるのじゃ」
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光武帝は第五倫の深く広い知識、民を思い、不正を憎む気持ちに感動した。また、世の中を具体的に改善する政策を次々に聞き出し、書記に記録させた。
光武帝は、うん、そうじゃ、そうじゃと夢中で話し合った。
「夢中で話しておったらもう暗くなった。もっと、気楽な部屋で食事をしながらゆっくり話をしよう」
皇帝の気楽な私室に移動した。
「食事の用意をするように」
今度は皇帝と第五倫、あとは数人の皇帝の側近に限られた。
食事は、皇帝の食事とは思えないほど質素なものであった。第五倫がその話をすると。
光武帝は、
「皇后や子どもたちにも粗食になれるようにさせている。朕」の後の時代になり、ぜいたくな生活になってはいけない。あとを継ぐ者の教育が大事なのだよ。ぜいたくな食べ物はぜいたくな食器、家具、着物というものにつながるものだからね。ぜいたくなものを食べていて、貧しい民のことを思うことなど、ぜったいにありえないからな」
「まったく、おおせのとおりです」
光武帝は、第五倫と数人のごく親しい側近だけになると、
「これからは、自分のことを朕と言わないからな、同じ、私とそなたとかあなたで行こう。どうも朕なんて言うのは堅苦しくていけない。気楽な立場で話をしよう」
「よいか、堅苦しいものいいは無しだぞ」また念を押しながら、帝は笑った。
夜食が終わり、さらに、お酒も入り夜遅くまで話は尽きなかった。
光武帝は笑いながら
「遅くまで起きていて、灯明の明かりを無駄にしないようにと普段言っておるが今日だけは特別じゃわい」
夕方からの話は、政治向きの話より、お互いの身の上話などを気楽に話し合った。特に第五倫の波乱万丈の話は聞いていてとても面白がった。
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皇帝は夜遅く、明日も話を続けようと言ってから寝所に向かった。
そして、皇帝は、明日の政務についてはすべてを取りやめ、明後日行うと、郎中に伝えた。
第五倫は、宮殿の一室で寝ることになったが、皇帝との話がいろいろ頭に浮かび、また自分の考えも次々と出て、とても興奮して寝られなかった。朝方、うとうとしていると朝になっていた。
「次の日」
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早朝に、早くも郎官が迎えに来て、皇帝の部屋に招かれた。早速、朝食を共にし、話が再開された。食事は皇帝の食事としては極めて質素なものであった。 しかしこの質素さが、光武帝に長命をもたらしたのである。毎日ご馳走を食べていたらたちまち、たくさんの成人病になって早死にしてしまうことになる。
今日はかしこまった部屋ではなく、皇帝の私室で、おつきのものもわずかであった。光武帝は砕けた態度で。
「今日は気楽に話そう。さて、今日も朕というのはやめるからな。皆の前では使うがな」
「さようでございますか。本当に陛下は偉そうにするのがお嫌いなのですね」
「そのとおり、そなたもあまりかしこまって、話をしないようにな」
「ありがとうございます。仰せにしたがいます」
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さて、話が再開され、第五倫は光武帝の政策で、奴隷(中国や朝鮮では奴婢といった)を次々に開放していったことを称賛した。
「陛下は、戦いに勝利したところでは、常に奴隷解放をすすめておられたのは、本当に素晴らしいことと存じます」
「そうじゃ、王莽から赤眉の戦乱で、戦いに負けたものの多くのものが奴隷におとされた。もともとの良民であるものを、奴隷として売り飛ばすということは、極めてけしからんことである」
「戦乱で相手のものを略奪するとともに、奴隷狩りで大もうけしたものもたくさんおりました。それ自体が目的で、だれが盗賊なのか誰が政府軍なのかわからないありさまでしたね」
と第五倫。
奴隷になってしまえば、獣や物と同じで、売り買いして、気ままに殺しても罪に問われなかったのだよ」
と光武帝。
「奴隷市場では牛や馬と同じように、檻の中に入れられ、売り買いされました。奴隷の値段は人によりますが千から2万銭で、牛一頭の同じくらいの値段でした。前の漢の時代にはおおっぴらなものではなかったようですが。でも陛下は奴隷を殺した場合でも、普通の人を殺した場合と同じ罪にされました。これでどれだけ奴隷の人々fが助かったでしょう。すばらしいことです」
光武帝はうなずきながら、
「奴隷であろうが、異民族であろうが、すべて人間である。逆に皇帝も貴族も平民も全く同じ人間なのである。同じ人間で、すべて同じであると考えれば、本来無慈悲なことをしないはずである。ところが、人は階級や、民族の違いや、同じ民族でも、宗教や思想信条が違うということだけで、同じ人間と見ないのだよ。同じ人間でないと思えばいくら痛めつけようが、、殺そうが、牛馬と同じでなんとも感じない。いや牛馬でも直接手をかければ哀れとおもうものを。それを平然と人間を殺すのだ。偏見やあやまった宗教や思想信条というものは恐ろしいものだな」
「陛下は人間すべてに平等に優しくされていらっしゃる。とても人々は優しい気持ちになっております。だから匈奴や羌(きょう)など、隣国の人々と友好関係と信頼関係がありますから、安心して、襲ってくることもない。陛下は北匈奴が飢饉の時、穀物を送られました。それに恩義を感じて、北匈奴の単于(ぜんう)も国境を侵さないようになりました。これは、いたずらに、隣国を挑発して戦いが続いた王莽と全く異なるものです。
ほんとうに人々が安心して暮らせるいい時代になってまいりました。食べるのに事欠き餓死を覚悟したり、食人を見たりした悲惨な時代から考えますと、夢のような時代でございます。すべて陛下の徳の表れでございます」
「だがの、まだまだ世の中には私の心をよく理解せず、私利をむさぼり、人々を弾圧し苦しめている官吏や豪族がたくさんおるのだ。
そちのような、正しい心で、有能かつ民のための政治を行うものを、ぜひ多く抜擢してほしいのだが」
「仰せのように政治は誠に人物しだい、優れた人々をたくさん探し出し陛下に推薦いたしますのでよろしくお願いいたします」
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そして話は延々と続き、昼食をともに食べながらはなし、なんと夕方にまでおよんだのである。まったく異例なことであった。
「私は、長吏(孝廉などでえらばれる高官)については、本当に清貧のものか、能力があるのか直接すべて面接してきめておるのだ」
「そのとおりです。他のものに任せておくと情実で採用してしまいます」
話は、堅苦しい政治上の話から、戦乱時代のお互いの小さい時の苦労話に花が咲いた。
特に、第五倫の話にはすさまじさがあり、それに比べれば恵まれた光武帝はいろいろ昔話を聞きたがった。冒頭にあげた、赤眉軍との砦での戦いの話などは身を乗り出して聞いた。
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「ところで、話は変わるが、そなたは詩や文学については全く興味がないそうだな」
「はい、私は若い時には、戦いに明け暮れ、学ぶことは実際の政治や、実務に必要なもののみを学んでまいりました。とても、詩や文学を読んだり、学んだりする気持ちの余裕がありませんでした」
帝は笑いながら
「そなたは、余裕がないというより大体そういうものが嫌いなのであろう。
実はな、私も好きではないのだよ。嫌いだと言えないので、適当に合わせておるがな。これは内緒の話だぞ」
「いやあ、そうでありましたか。私はまさしくその通りでございます。どうも苦手なのです」
第五倫も笑った。
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p119
さてどこまで、同じ人間と見るかどうかはとても大切なことである。
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