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「第五倫伝」 後漢初期の人間学

2017年1月23日 (月)

後漢光武帝のドラマ「秀麗伝」が1月よりCSで始まります。史実と違い違和感が

 2017年1月23日(月曜日)の夜11時から、後漢初代皇帝光武帝とその皇后、陰麗華のドラマ、「秀麗伝」が始まります。
 23日の毎日新聞朝刊のテレビ欄にカラーの広告が載っていました。
放送はスカパーCS305チャンネル銀河で韓国や中国のドラマなどを多く放送しています。
 加入料0円でチャンネル銀河が月1069円で見られますということです。今日の分と24日昼1時からの第一話が無料放送と宣伝しています。
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 日本初放送だということですが、中国のドラマをこれだけ大きく宣伝するのは、珍しいことです。50回の放送で月曜から金曜日まで、放送します。夜11時からということが普段10時ころに寝てしまう身から見ると厳しいです。録画をする準備をしました。午後1時から2時再放送するようです。
 光武帝は私が書いた小説「第五倫伝」(旧、人相食む)の中でも重要な役割を果たします。
「秀麗伝」という名前は、光武帝が「眉目秀麗」と言われたことから来ています。陰麗華も絶世の美人で、まだ皇帝になっていなかったときにあこがれた美人でした。
 ドラマでは、光武帝と、陰麗華の恋模様が中心となるでしょうが、貧しい身から皇帝にまで上り詰める、光武帝の人間的魅力も描かれるはずです。皆さんもぜひご覧になってください。
 原作は中国の小説「秀麗江山」 李 シン、をプロデューサー、ルビー・リンが制作
 2014年 中国作 陰麗華にルビー・ツー、劉秀にユアン・ホン
 陰麗華が男装して劉秀と戦うなどだいぶ創作しているようだ
 また今日見た感想をここに追記いたします。
1月24日、テレビを見た結果を書いてみます。
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眉目秀麗と言われた、光武帝劉秀。若い時「くらいにつくなら執金吾(警視総監にあたる、きらびやかな服装だった) 妻に娶らば陰麗華」といったという。
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追ってくる軍から逃げる劉秀を守るために、陰麗華は獅子奮迅の働きをする。
史実にはそのようなことはない。主役は劉秀より陰麗華のようだ。
25日、第2話をテレビで見て、第3話以下の話のあらすじをインターネットで読みました。
大筋は、後漢書の記述と極端に変わってはいませんが、主役が陰麗華で活劇が主体であることは、まったく違います。ドラマですから仕方がないのでしょうが、立ち回りなどもなんとなく韓国歴史ドラマを思わせます。
 後漢書では、劉秀は早くに父を亡くし(自殺)叔父に養育されます。太学に行きますが、お金がなくロバを共同で買いそれを賃貸しして学費にするほど困窮していました。
 陰麗華が太学の同級生ということも作り話です。劉秀が郷里に帰ってももっぱら劉秀は農民としての仕事をしていました。農家で馬がなく、自宅の牛に乗って軍に参加したという話は有名です。新野尉を殺害して馬を得たとあります。
王莽の末期の時代は私の小説「第五倫伝」(旧題ー「人相食む」)にも書きましたが、人が人を食い、盗賊が跋扈し、人口が激減した時代です。そういう悲惨な状態が表現されず、大豪族のきらびやかな生活だけが表現され、違和感を感じました。
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 手製の空を飛ぶ道具を使って、飛ぼうとする陰麗華。すごいおてんばむすめということになっているが、当然そんなことも作り話。
この時代は王莽の時代で、戦乱の世で人口が激減している時代であるはずなのに、みんなきらびやかな衣装である。
 劉秀は畑を耕す農民の暮らしをしていた。兄が兵をあげたとき、農耕用の牛しかいないで、牛に乗って参加したと言われます。
 主役は陰麗華で、小説として脚色してありますから、後漢書によるイメージでいると、気にいらないようになるかもしれません。
2話見ただけですが違和感が多いです。作風が韓国ドラマみたいです。
「こういちの人間学ブログ」でも、カテゴリー「第五倫伝 ~」に小説を転記しています。そこを開くと飛び飛びですがいろいろ書いてあります。2016年12月29日の「9章 第五倫、光武帝と会う」も参考にどうぞ
◎後漢書は長い間、全訳がなく、中国語の全集しかありませんでした。初め小説を書くために、中国語の後漢書全冊を買いました。中国語を勉強し、和訳もしました。
 2001年ごろに、相次いで後漢書の邦訳が出そろいました。岩波版と及古書院版です。両方とも必要なところは購入しましたが、岩波版は漢文と訓読のみで、及古書院版は漢文、訓読、現代語訳があり便利でした。
 「全訳後漢書」 本紀1、光武帝紀~和帝 2001年12月26日発行
 1-2冊 本紀 3-10冊 志 11冊ー18冊 列伝 となっています
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後漢書 光武帝紀 及古書院版
2017,2,2 追記
 後漢書の光武帝紀と違うと書きましたが、結局、テレビを見ています。後漢書とドラマが違うのは、三国志と三国志演技が違うのと同じで、仕方がないのでしょう。
 陰麗華役の女優は今度中国人と結婚する、卓球の福原愛とよく似ています。
2017.2、10 追記
 今日は前半の山場、昆陽の戦いです。面白いので続けてみています。
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ドラマ終盤と感想
3月28日第45話。 全50話のドラマももう終わりになります。結局ずっと見てしまいました。
光武帝の最初の皇后は史実では真定王の姪の郭聖通で、皇后を廃され、皇太子も変わります。光武帝は郭聖通と王子だけで5人もうけました。母は郭氏で真定王の妹です。真定王は景帝の7代の子孫です。真定王が謀反の疑いで殺されたあとも郭聖通は皇后となります。郭聖通の弟は郭況は慎み深いと言われました。16才で黄門侍郎となっています。
 郭聖通は次第に精神的におかしくなり、建武17年に郭聖通は皇后を廃されます。皇太子も変わります。
 
ドラマでは皇后は過珊とう(丹というヘンに杉のつくり )となっています。母親の過主と兄の過康とも多くの政敵を殺す相当な悪者になっています。
3月31日の昼49話です。夜11時からは50話最終回です。4月1日、昼最終回を見ます。
4月1日土曜日はやっていませんでした。
 光武帝についての小説やドラマはいくつかありますが。私が書いた小説「人相食む」~「第五倫伝」とはだいぶ、違います。私の小説では光武帝から明帝、章帝、和帝の4代の皇帝の時代について書きました。
 主人公は3代の皇帝に仕えた名臣、第五倫が主人公で,紹興周辺出身の謝夷吾、鄭弘、王充が重要な役割を果たします。
 第五倫は王莽の混乱時代は一族が餓死する寸前までになります。人が人を食べざるをえない厳しい時代を生き延びました。人口が激減しました。秀麗伝では、そういう状況は描かれていません。
 劉秀は宮廷の経費を切り詰めて、木簡に細かい字を書いたり、宮廷の道具をほかの宮廷に使っていたのをまたつかったりして切り詰めます。建武6年に人口が減っているにも関わらず残っていた10の国を廃止し400余県を統合した。外国と仲良くなり警察ていどをのこして軍隊をなくします。また不要な役人も減らしました。辞めた軍人や役人には生計が成り立つように配慮した。そして税金をおもいきりやすくします。元元(民衆)を第一とする、ということは、ドラマでも少し出てきました。
 劉秀は皇后の一族の位をあげないようにします。それは陰皇后もよくわきまえていました。息子の皇太子も質素で民衆を大切にするよう教育しそれは4代皇帝まで続きます。光武帝の後の明帝も馬皇后が大変優れた皇后でした。
 しかし第五倫、鄭弘が三公となった素晴らしい時代の、章帝が死ぬと皇后の一族の専横が始まります。
 秀麗伝は光武帝の善政も少し描きますが、戦闘場面と、過皇后(ドラマのみ)一派との闘いが中心です。陰麗華を主人公として前面に押し出すためかなりフィクションを加えていました。
 
 

2016年12月29日 (木)

9章 第五倫、光武帝と会う、初めて会う、2日間話しとおす、p114-118

第9章 第五倫、光武帝と会う  p114-119
光武帝と初めて会う
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賢聖の障子(そうじ)京都御所紫宸殿より
ー若い時の肖像
 西暦五十一年(建武二十七年)、新しく赴任してきた京兆尹の鄧庚(とうこう)は、清廉潔白な官僚で、はるか前の京兆尹の鮮于襃(せんうほう)や閻興(えんこう)から第五倫のうわさを聞いていた。
 鄧庚は着任と同時に早速、長安市の市場の主簿(責任者)である第五倫を接見した。
鄧庚はいささか人相を見ることができた。第五倫はもともとの実力の上に、下役人でいる間に更なる学問を深め、儒学の教師ができるほどに達していた。また人格的にも優れた人物であると一目で見抜いた。
ーこの方は私などよりもはるかに優れた大変な人物である。末はもしかして三公にまで上り詰めるかもしれない。なぜ、今まで、このような立派な人物が今まで、この年に至るまで埋もれていたのであろう。
 仕事ぶりは清廉潔白、さまざまな優れた業績を上げながら、上司に対して直言して批判することが嫌われて、最初に任命された地位そのままにとどめられていることも分かった。また大変な親孝行で母親に仕えていることも分かった。
 後日、鄧庚は再度接見して
「わたしは、あなたを孝廉に推挙します。ぜひそのお力を発揮して、まだまだ不正が横行する今の世の中を変えてほしいと願っております」
 その上申は認めら、孝廉に推挙されることになった。
年老いた母に長くつくしたこと、仕事ぶりが清廉潔白なことが推挙の理由であった。第五倫が四十七歳のことである。当時としてはかなりの老齢とみられる年齢で、そろそろ引退を考える頃の年齢である。
 役所の同僚たちは
常々第五倫が言っていたことが実現して驚いた。今までさんざん悪口を言っていた者も。
「ようやく認められたのですね、おめでとうございます」
「どうも、いろいろ悪口を言って申し訳ありませんでした」
「おめでとう、伯魚どの、本当に驚きました」
「志は持つべきものですね。我々もあきらめずに頑張ることにします」
などと、手のひらを返したように、態度が変わった。
 それに対して、第五倫は嫌味などは言わず。
「ありがとうございます。ようやく、認められることになりました。今まで大変おせわになりました。ぜひ、あなた方も引き続き市民のためにつくしてください」
 同僚たちは、ささやかながら、お祝いしてくれた。
 倫はもう少し楊桂が生きていたら、
「ほらね、やはり、私の言うとおりになったでしょう」
と、喜んでくれただろうにと、心から残念に思った。
家に帰った第五倫は、集まった家族に
「このたび、鄧庚殿の推薦により孝廉に認められることになった。洛陽の都へ行くので早速準備をするように」といった。
 みんな口々に、おめでとうございます、とお祝いの言葉をかけた。
ーずいぶんと、下積みが長かった。でもようやく、認められてよかった。でもこれからようやく自分の力を発揮できると、気持ちが大きく晴れる思いであった。
 第五倫と家族は宋三夫婦と厳八とともに、さっそく旅の支度をはじめ、任官するために、長安から、洛陽の都を目指した。
 長安から洛陽へは、大変道路も宿場もよく整備されているために、快適な旅であった。
 一行が到着した洛陽の都は光武帝の政治を反映するように、にぎやかではあるが、華美なところがなく、落ち着いた清澄な、たたずまいであった。
 当時、光武帝は推薦されたものを太守から県令に至るまで、直接面接して、清廉潔白なものを採用しようとしていた。
 光武帝は第五倫を接見し、並々ならぬ才能とその道徳性の高さに注目した。しかしその時は大変忙しかったため儀礼的なもので、十分話をすることができなかった。
 第五倫はまず、郎中(宿営の官)となり、次いで、准陽国(わいようこく)の医工長(医薬をつかさどる、四百石)になった。准陽国は陳国とも言い、豫洲にあった。光武帝は第五倫が、皇帝の息子である准陽王に従って任地につくとき召見した。
 光武帝は第五倫との話の中で、その素晴らしさが印象に残った。
しかし、その時も十分な時間が取れず、極めて残念である。改めて十分な時間をとって話をしよう、と第五倫につたえた。
 第五倫は妻子を連れて任地へ行く道すがら、妻の淑玲に皇帝にあった感激とその素晴らしさにについて感動を込めて語った。
「宮殿は大変質素にできていたが、威厳に満ちたすがすがしいものであった。皇帝陛下は近くまで呼び寄せてくれ、気さくに声をかけてくれた。今度会うときはそちの意見をじっくり聞きたいものだとおっしゃった。私の想像していた以上に素晴らしいかただ」
 第五倫は准陽国の医工長として、無駄を省き、優れた医薬を整え、庶民にも活用できるように取計らうなど、優れた業績を上げた。二年が経過し西暦五十三年(建武二十九年)、准陽王が諸役人を従えて、洛陽に朝見に来た。光武帝は、前回第五倫と十分な話ができなかったので、今度は政務の忙しい時間を割いて、政治上の意見を聞くことにした。
 
「帝と第五倫、二日間語りとおす」
 時に光武帝五十九才、第五倫四十九才、ともに早くから父を亡くし、大変厳しい戦乱の時代を生き抜いてきたのである。積もる話はさまざまであった。第五倫は、
 
「皇帝陛下が民を思い、なされてきたことはすべて理にかない、すばらしい世の中を作られていることに以前から感服しておりました。
 さて臣が思います仁、人にとってもっとも悲しいことは人が飢えて、時に子どもさえも取り替えて食べなければいけないような状況であります。臣は、そのような悲惨な状況を見てまいりました。本当に恐ろしいことであり、悲しむべきことです。また臣自身何度も餓死寸前までに追い込まれました。人が人を食わざるをえない状況に人を追い込むことは、干ばつや、洪水や蝗害などしぜん現象ではなく、すべて人がもたらすものであると思います。
 すなわちそれはむしろ政治がもたらすことであると考えます。一部のものが、利益を上げるために食料を独占し、蔵の中には穀物があるにもかかわらず、その穀物が出回らず、多くのものが餓死します。二度とそのようなことにならないように努めるのが臣の任務とこころえます。しかしまだまだこの世には陛下の心を察せず、民の財産を収奪し、私腹を肥やし、厳しい税の取り立てや、刑罰で民を苦しめている豪族や酷吏がたくさんおります。そういうものどもをおさえることが肝要とこころえます」
続いて
 「問題は豪族と官吏の癒着にあります。豪族出身のものが官吏となり、豪族の身内に甘く、貧しい民衆に厳しい。表面だけ孝行を装って仲間うちを孝廉などに推挙する。お互いに表彰しあう。高いくらいについてしまえばもう親孝行も清廉潔白も関係なしになります」
 「腐敗した役人は、賄賂により、豪族に有利な政治をし、物事を行っている」
 「陛下はすでにそういう問題を指摘しておりますが、まだまだ行き届いていかないように感じます。今後はより一層、役人には清貧にしてほんとうに力があるものを採用すべきです」
 「賄賂などにより人々を苦しめたり殺したりしたものは厳罰に処すべきです」
 「しかし、一方では、新しく任命された官吏があまりにも厳しい法治主義をとり、罪を犯したものを処罰するのはいいのですが、多くのものが連座し、罪もないのに獄に入れられ苦しまないようにすることも肝要と存じます」と第五倫は率直に申し上げた。
 「まったくその通りである。朕はつねづねそのように言っておるのだが、実際にはまだまだ行届いていないようだな」
 「そうか取り締まりには十分気をつけるようにしよう。行き過ぎはいけない 」と光武帝
 第五倫は、次いで、どのようにして、生産力をあげ、民のふところを豊かにするかについて具体的な進言を行った。
 一般論ではなく、どこどこの地はどのようにすればよいかについての、第五倫が役所勤め時代にコツコツ調べていった、具体的な提言に光武帝は驚いた。
 光武帝は話を続けるうち、第五倫がかしこまって、臣という言い方でなく私と呼ぶように言った。
 「よく、それだけ調べたものじゃなー」
 「私は塩商人をしたことがあり、塩商人の親戚があります。彼らは仲間で結社を作り、情報を交換しております。実は私の息子もその一員になりました。その中から色々な情報が手に入るのです」
 「そちは本当に世情にくわしいのだな。朕もこのような宮殿の中にいると、次第に世情に疎くなってきておるのじゃ」
 光武帝は第五倫の深く広い知識、民を思い、不正を憎む気持ちに感動した。また、世の中を具体的に改善する政策を次々に聞き出し、書記に記録させた。
 光武帝は、うん、そうじゃ、そうじゃと夢中で話し合った。
 「夢中で話しておったらもう暗くなった。もっと、気楽な部屋で食事をしながらゆっくり話をしよう」
 皇帝の気楽な私室に移動した。
 「食事の用意をするように」
 今度は皇帝と第五倫、あとは数人の皇帝の側近に限られた。
 食事は、皇帝の食事とは思えないほど質素なものであった。第五倫がその話をすると。
光武帝は、
 「皇后や子どもたちにも粗食になれるようにさせている。朕」の後の時代になり、ぜいたくな生活になってはいけない。あとを継ぐ者の教育が大事なのだよ。ぜいたくな食べ物はぜいたくな食器、家具、着物というものにつながるものだからね。ぜいたくなものを食べていて、貧しい民のことを思うことなど、ぜったいにありえないからな」
 「まったく、おおせのとおりです」
光武帝は、第五倫と数人のごく親しい側近だけになると、
「これからは、自分のことを朕と言わないからな、同じ、私とそなたとかあなたで行こう。どうも朕なんて言うのは堅苦しくていけない。気楽な立場で話をしよう」
 「よいか、堅苦しいものいいは無しだぞ」また念を押しながら、帝は笑った。
 夜食が終わり、さらに、お酒も入り夜遅くまで話は尽きなかった。
 光武帝は笑いながら
 「遅くまで起きていて、灯明の明かりを無駄にしないようにと普段言っておるが今日だけは特別じゃわい」
 夕方からの話は、政治向きの話より、お互いの身の上話などを気楽に話し合った。特に第五倫の波乱万丈の話は聞いていてとても面白がった。
 皇帝は夜遅く、明日も話を続けようと言ってから寝所に向かった。
そして、皇帝は、明日の政務についてはすべてを取りやめ、明後日行うと、郎中に伝えた。
 第五倫は、宮殿の一室で寝ることになったが、皇帝との話がいろいろ頭に浮かび、また自分の考えも次々と出て、とても興奮して寝られなかった。朝方、うとうとしていると朝になっていた。
 
「次の日」
 早朝に、早くも郎官が迎えに来て、皇帝の部屋に招かれた。早速、朝食を共にし、話が再開された。食事は皇帝の食事としては極めて質素なものであった。 しかしこの質素さが、光武帝に長命をもたらしたのである。毎日ご馳走を食べていたらたちまち、たくさんの成人病になって早死にしてしまうことになる。
 今日はかしこまった部屋ではなく、皇帝の私室で、おつきのものもわずかであった。光武帝は砕けた態度で。
 「今日は気楽に話そう。さて、今日も朕というのはやめるからな。皆の前では使うがな」
「さようでございますか。本当に陛下は偉そうにするのがお嫌いなのですね」
「そのとおり、そなたもあまりかしこまって、話をしないようにな」
「ありがとうございます。仰せにしたがいます」
 さて、話が再開され、第五倫は光武帝の政策で、奴隷(中国や朝鮮では奴婢といった)を次々に開放していったことを称賛した。
 「陛下は、戦いに勝利したところでは、常に奴隷解放をすすめておられたのは、本当に素晴らしいことと存じます」
 「そうじゃ、王莽から赤眉の戦乱で、戦いに負けたものの多くのものが奴隷におとされた。もともとの良民であるものを、奴隷として売り飛ばすということは、極めてけしからんことである」
 「戦乱で相手のものを略奪するとともに、奴隷狩りで大もうけしたものもたくさんおりました。それ自体が目的で、だれが盗賊なのか誰が政府軍なのかわからないありさまでしたね」
 と第五倫。
 奴隷になってしまえば、獣や物と同じで、売り買いして、気ままに殺しても罪に問われなかったのだよ」
 と光武帝。
 「奴隷市場では牛や馬と同じように、檻の中に入れられ、売り買いされました。奴隷の値段は人によりますが千から2万銭で、牛一頭の同じくらいの値段でした。前の漢の時代にはおおっぴらなものではなかったようですが。でも陛下は奴隷を殺した場合でも、普通の人を殺した場合と同じ罪にされました。これでどれだけ奴隷の人々fが助かったでしょう。すばらしいことです」
 光武帝はうなずきながら、
 「奴隷であろうが、異民族であろうが、すべて人間である。逆に皇帝も貴族も平民も全く同じ人間なのである。同じ人間で、すべて同じであると考えれば、本来無慈悲なことをしないはずである。ところが、人は階級や、民族の違いや、同じ民族でも、宗教や思想信条が違うということだけで、同じ人間と見ないのだよ。同じ人間でないと思えばいくら痛めつけようが、、殺そうが、牛馬と同じでなんとも感じない。いや牛馬でも直接手をかければ哀れとおもうものを。それを平然と人間を殺すのだ。偏見やあやまった宗教や思想信条というものは恐ろしいものだな」
「陛下は人間すべてに平等に優しくされていらっしゃる。とても人々は優しい気持ちになっております。だから匈奴や羌(きょう)など、隣国の人々と友好関係と信頼関係がありますから、安心して、襲ってくることもない。陛下は北匈奴が飢饉の時、穀物を送られました。それに恩義を感じて、北匈奴の単于(ぜんう)も国境を侵さないようになりました。これは、いたずらに、隣国を挑発して戦いが続いた王莽と全く異なるものです。
 ほんとうに人々が安心して暮らせるいい時代になってまいりました。食べるのに事欠き餓死を覚悟したり、食人を見たりした悲惨な時代から考えますと、夢のような時代でございます。すべて陛下の徳の表れでございます」
 「だがの、まだまだ世の中には私の心をよく理解せず、私利をむさぼり、人々を弾圧し苦しめている官吏や豪族がたくさんおるのだ。
 そちのような、正しい心で、有能かつ民のための政治を行うものを、ぜひ多く抜擢してほしいのだが」
 「仰せのように政治は誠に人物しだい、優れた人々をたくさん探し出し陛下に推薦いたしますのでよろしくお願いいたします」
 そして話は延々と続き、昼食をともに食べながらはなし、なんと夕方にまでおよんだのである。まったく異例なことであった。
 「私は、長吏(孝廉などでえらばれる高官)については、本当に清貧のものか、能力があるのか直接すべて面接してきめておるのだ」
 「そのとおりです。他のものに任せておくと情実で採用してしまいます」
 話は、堅苦しい政治上の話から、戦乱時代のお互いの小さい時の苦労話に花が咲いた。
 特に、第五倫の話にはすさまじさがあり、それに比べれば恵まれた光武帝はいろいろ昔話を聞きたがった。冒頭にあげた、赤眉軍との砦での戦いの話などは身を乗り出して聞いた。
 「ところで、話は変わるが、そなたは詩や文学については全く興味がないそうだな」
 「はい、私は若い時には、戦いに明け暮れ、学ぶことは実際の政治や、実務に必要なもののみを学んでまいりました。とても、詩や文学を読んだり、学んだりする気持ちの余裕がありませんでした」
 帝は笑いながら
 「そなたは、余裕がないというより大体そういうものが嫌いなのであろう。
実はな、私も好きではないのだよ。嫌いだと言えないので、適当に合わせておるがな。これは内緒の話だぞ」
 「いやあ、そうでありましたか。私はまさしくその通りでございます。どうも苦手なのです」
 第五倫も笑った。
                p119
 
 さてどこまで、同じ人間と見るかどうかはとても大切なことである。
 
 
 

2016年12月15日 (木)

『第五倫伝』、第14章、第五倫危うし、「謝夷吾、風角占候で危機を知る~ p186-189

『謝夷吾、風角占候で危機を知る』
「殿様、ご無事で」
「何とか間に合ってくれ」
向かい風の中で涙をぽろぽろ流しながら、馬を飛ばす厳八
 
 道の途中ではるか向こうから騎馬の一隊が全速力で向かってくるのを見たとき
『まだ知らせに行く前に、味方が来るわけがない」
新しい賊の一団でではないか。
厳八はもしこれが賊であるならば、殿様の命が危ない。一人で少しでも食い止めてから死のうと刀の柄に手をかけ覚悟を決めた。
 謝夷吾は山陰県の役所にいて、仕事をしていたが、西の銭糖のほうから、突然凶風がおこり窓や戸をがたがたと鳴らした。謝夷吾は一しゅんにして、第五倫の一行に危機が迫っていることを察知した。直ちに鎧を身に着けるとともに、直ちに部下に鄭弘に急を告げるように言った。
 鄭弘もすでにこのことがあるやもしれぬと待機していたのである。
直ちに大青龍刀をつかむや、部下を率い馬上になった。
「やはり、無理やりにでも私たちがついていくべきであった。何とか無事でいてほしい」
謝夷吾はつぶやく。集まったのは急なことで謝夷吾と鄭弘を含めて15名足らずであった。
「急ごう、殿が危ない」
一行は脱兎のごとく山陰県の城門から飛び出した。
 厳八は、はるか向こうから次第に近寄ってくる騎馬の一団を見て、先頭にいる長いひげを生やした見事な風貌の壮士と太った色白の人物、さらにはたくましい宋三らを見て、思わず
「よかったー」
「巨君さまー、堯卿さまー,宋三さまー」
あらん限りの大声をあげた
「ご主人様がたいへんで-す。敵はものすごい数です」
立ち止まる厳八のもとへたちまち一行が殺到する。
「やはりそうであったか」と謝夷吾
「今どちらにおられる」と鄭弘
「柯岩の石切り場のお堂にこもっておいでです」
と答えるやいなや、厳八はそのまま元の道を走り出した。
「まにあってくれ」
一同、心に祈りながら、必死に馬をとばす。
 ついに大男で怪力の趙袁が、鉄槍を小脇に階段を上がってくる。
普通の槍の柄は木製である。上にしなったり、折れたりした。鉄槍はその弱点は無いが,恐ろしく重い。ところが、軽々と趙袁が鉄槍をふるうと剣などは弾き飛ばしてしまうのである。
 趙袁は、さすがの手練れ、手下を盾とし、飛んでくる矢を打ち払いながら、石段をのっしのっしとあがってくる。ついに、堂の扉の前に立った。
 扉を開けさせると、敵は堂の中に殺到し、乱戦状態となる。そうなると趙袁は強い。傷を負っていた二人は趙袁に突き立てられ、倒された。さらに一人は鎗先で深々と切り裂かれた。
 蓬越に一人は剣で胸を刺された。そうなると矢を射ているのは第五倫だけになり、ついに第五倫も剣を抜いて戦い始めた。
 第五倫たちは壁を背にして5人がまとまって戦う。
もうすでに、5人は血まみれだ。続く戦闘で息も切れてきた。
趙袁、蓬越は強い。敵の数も多い。
趙袁は言う。「俺は牛殺しの趙袁だ、もういい加減あきらめろ」
いかつい体から大声で威圧する。
危うし、第五倫、ついにここで命を落とすのであろうか。
趙袁、鄭弘の一騎打ち
 そのとき東のほうから馬の殺到する音が響いてきた。
何だ、何だ、敵は騒ぎ始める。それは次第に強くなってきた。
「だんな様ー」
 丸い目をさらに大きく見開き、顔を真っ赤にして、大声を発しながら走る厳八が先頭にいる。その姿はたちまち大きくなり、たちまち精鋭十五人は、後ろにいる賊たちに殺到し、鄭弘らは、はじめ馬上から矢を放ち、次々に敵を打倒し始めた。
敵を手投げの爆薬で幻惑させる謝夷吾。
大青龍刀で敵を切り倒す鄭弘。ほかのものは剣や刀で敵をうちたおす。
厳八は、鞭の先に鋭い鉄のとげを植え込んだ厳八独自の武器で、馬上から打ちかかる。
「こいつめ、こいつめ」と、鞭だけでも恐ろしいのに、賊はその鋭いとげに打倒され悲鳴を上げた。
 堂の中庭には、激しい怒号と悲鳴が上がる。新手の登場にすでに疲れの出ている賊隊は倒され、動揺が走った。
 第五倫たちは
「助かった、間に合った」
「助けに来てくれたぞー』叫びあった。
第五倫たちは、さすがに、もうこれまでかと、と思っていただけに、鄭弘や謝夷吾などの声を聴き、一瞬、力が抜け崩れ落ちそうになるほど安堵した。
趙袁は、舌打ちして、
『邪魔が入ったな、まず、下の奴らを片付けよう」
階段を大股で降りていく。
 鄭弘は大青龍刀を手に、すさまじい勢いで敵をなぎ倒す。
趙袁、鄭弘、お互いに一見して、この者こそが好敵手とすぐみとめあう。
鄭弘は、
「それがしは、督郵、鄭巨君なり、降伏して直ちに、縄につけい」
大音声で呼びかける。
その有様は堂々として威に満ちたものであった。
「おう、それがしは、牛殺しの趙袁、わしの槍を受けてみよ」
たちまち、、鄭弘の大青龍刀と趙袁の鉄槍との壮絶な一騎打ちが始まる。
ガツンとぶつかる音とともに火花が散った。
激しく打ち結ぶがなかなか決着がつかない。
 蓬越の相手は謝夷吾と、宋三である。
蓬越も二人を相手に互角の戦いをしたが、さすがに疲れてきた。
残りの賊どもも新手を前にして疲労困憊してきた。弓でいられ、剣で倒されている。
 鄭弘によって鍛えられた、部下は、それぞれに手練れで、次々にそれぞれの得物で敵を打倒す。
 多くの敵が逃亡し、傷つき、死んだ。
しかし、残った趙袁さすがに強く、鄭弘に宋三が加勢してもかたがつかない。
「あっぱれなるかな趙袁、しかしこれまでだ」
第五倫は叫ぶや、剛弓を絞り狙いを定める。
わざと急所を外し腿を射抜いた。
グッと、膝をつく趙袁、、おもわず、鉄槍を取り落とす。
そこを折り重なるようにして武器を取り上げ、押さえつける。
捕まった首領を見て、蓬越や残りの手下も抵抗をやめた。
直ちに賊どもはきつく縛り上げられた。
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『謝夷吾、方術にて、首領趙袁を催眠し、依頼主を突き止める』
「本当によく来てくれた。今度ばかりは危なかった。一時は死を覚悟した。
それにしても、どうしてこんなに早く着いたのだ」
第五倫は、息を弾ませながら、みづからの傷の出血と返り血で赤くなった顔や服のまま訪ねた。
『謝堯卿殿の風角占候によります」
副官が答える
「そうか、素晴らしいものだな」
と、第五倫は感嘆した。
「それに厳八が急を知らせに来て、場所を教えてくれました」
と鄭弘は続けた。
第五倫は
「そなたたちはみな私たちの命の恩人である。皆が言うにもかかわらず、従わず、私の判断の誤りで、多くのものを死なせてしまった。許してくれ。傷を負ったものは早く手当てをしてやってほしい」
皆に頭を下げた。
部下たちは、残った賊たちを縛り上げた。
 堂の前の中庭で、縛り上げた趙袁に、
「お前たちに襲撃を命令させたものは誰か」
鄭弘は問い詰めた。
趙袁は、
「俺たちには俺たちの仁義がある。もうこうなれば死ぬ覚悟は出来ている。どんなことをされても、殺されても教えやしないさ。きさまたちも俺たちの仲間にそのうちに殺されるだろうよ」
 縛られながらも言いたい放題毒づいた。
「何をほざく、このやろう」
鄭弘は鞭をふるい打ち据えた。
顔や肩から血がにじんだ。
 謝夷吾は
「確かに痛めつけてもしゃべりはしないでしょう。それがしにお任せ願えないでしょうか」
と、第五倫にいう。
「よろしい、そなたに任せた」
 謝夷吾は趙袁を、お堂の中に引き入れ、方術にて首領趙袁を催眠して、簡単に依頼主の名前を突き止める。そのようなことは謝夷吾にとっては簡単なことであった。
 やはり、曹神一味の名をあげた。
 第五倫一行は、近くの役所に手配をし、けが人の手当てや死者の収容を行わせた。
第五倫は山陰県の都尉府に戻り、賊一味の討伐と逮捕を手配した。
 督郵の鄭弘や謝夷吾は武力をもって、反対勢力を徹底的に取り締まった。
曽神や悪質な巫祝をを逮捕した。裁判で死刑にし、また結託していた役人や豪族を罪に重さにより処罰した。
 役人は貧しい階層の出身者で清廉で能力のあるものに入れ替えた。
 はじめ、人々は祟りが起きるのではないかと恐れた。しかし、何事も起こらなかった。
人々は第五倫の正しさを知った。
 これ以後人々は迷信におびえなくて済むようになった。
人々は大いに喜んだ。長年の悪習が根絶されたのである。
      ~p189
次は
『謝夷吾、県長杜峻の収監を命じられる』に続く
 
 
 
 
 

2016年10月27日 (木)

第五倫伝 第14章「第五倫危うし」 第五倫暗殺計画 第五倫柯岩にて襲われる p181-185

第、14章、「第五倫危うし」
第五倫暗殺計画
 曹紳は会稽郡に散らばる配下の巫祝を集めて言った。
 男性である祝(ほふり)女性の大巫女など主だったものが、曹紳の屋敷に集まった。
それぞれにある狂信に取りつかれた異様な姿のものが多かった。
 曹紳は50歳ぐらいであごが張り、大柄で眼光が異様に鋭く、人を威圧する容貌をしていた。それが低く、重みのあるある声で皆を見回しながら言う。
 「どうだ、牛祭りが禁止され、今度の太守が思うがままにしていたら、次から次へあれがいけない、これがだめと禁止してくるにちがいない。そうすれば我々の仕事がなくなってしまうぞ。どうしたらいいと思うか」
 「曹紳殿の言うとおりだ、牛祭りが欠かせない祭りだということを新しい太守に説得すべきだが、あの様子ではとてもむつかしいであろう」細長い顔で鼻がとがった曹尚は、ひげをしごきながら、話をつづけた。
 上虞県の曹尚は曹紳の親戚であり、上虞県の巫祝の有力者であった。この子孫が上虞で親孝行の鏡としての曹娥となるのである。
 曹紳はそれを受けて。
「ひそかにわれわれの力で呪い殺す、場合によっては丁候どのにお願いしてひそかに消えてもらったらどうだろうか」
 それがいいと賛同の声が続き、一同は、曹紳の提案に従うことになった。
 そこでさっそく、曹紳らは、牛祭りを後援する豪族の丁侯に相談した。丁侯は銭糖県で王充の父といさかいを起こした丁伯の親戚である。丁侯も牛祭りを取り仕切りそこで大きな利益を得ていたのである。
 丁侯は山陰県(紹興)隋一の豪族で、広い荘園をもち、そのなかに城砦のような屋敷を持っていた。その身内の者が何人か都や県の役人になっていた。また部曲という私兵を百人ほど抱えていた。昔から一族は紹興酒を作っており金回りも豊かであった。
 丁侯は宴会を行うので集まってほしいということで、第五倫に反対するものをひそかに広大な屋敷に集めた。当時の豪族はしばしば一定の盟主の地位を維持するために豪華な宴会に招待したものである。
 そこには、丁侯と、上虞の豪族孫徹、あるいは、銭糖県などから集まってきた丁伯の子などの豪族など。呪術師の長である曹紳や曹尚さらには山陰県の功曹掾をやめさせられた蒙臣、銭糖県の獄曹掾の杜安生などの県の役人もいた。彼等は皆第五倫の政策により民から利益を搾り取ることができなくなった者たちである。
 酒の席が進むにつれ、第五倫が赴任してきて、いかにいろいろなことがやりにくくなったかと、不満の声が上がった。ほかのことは我慢するにせよ、特にずっと続けてきた牛祭りを廃止するのだけは許せないという声が強くなってきた。
 話の盛り上がりで、第五倫はわいろも効かず頑固だから、何とかひそかに始末してしまおうとという話になった。丁侯も第五倫の政策により、民から搾り取ることができにくくなった。そこで第五倫を暗殺するという豪族と悪徳役人と巫祝そしてならず者などの、一大連合が出来上がった。
 直接手を下すのははばかれるために、特殊な武術者やならず者たちに暗殺を依頼した。巫祝たちも一斉に第五倫の呪詛を行う。
 山陰県の前功曹掾の蒙臣は第五倫が山陰から銭糖へ小人数で出発するという情報をひそかに仲間に知らせた。
 これは絶好のチャンスであると。
 丁侯と曹紳は裏社会のボスで、腕では誰にも負けたことがないと自慢する、牛殺しと異名のある趙袁を屋敷に呼んだ。趙袁は身長8尺5寸(1m95cm)筋骨たくましく、暴れ牛を角をもってねじり倒したという怪力の持ち主であった。 得物は鉄槍(てっそう)である。鉄槍とは、普通槍の柄は堅い木であるが、すべて鉄で作られたものである。これは刺すだけでなく強力な打撃兵器となった。しかし大変重くなり、よほどの膂力がないと使いこなせないものであった。またその槍さばきもすさまじいものであった。今まで多くの戦いで一度も負けたことがないと自慢していた。
 趙袁の弟分蓬越も八尺を超す偉丈夫である。
 丁侯は言う。
「良いか、今度、お前たちの一世一代の大仕事だ。太守の第五倫をひそかに始末してほしい。うまくいけばほうびは望み放題、望めば官につくこともできる。今度、第五倫は山陰から銭糖に行く情報をつかんだ。相手は10人ぐらいだそうだ。そこをお前の部下と私の部下えりすぐりを50人も出せば、いくら何でも殺せるだろう。絶対に殺して来い。
 しかし、ことはお前たちが勝手にやったことで、絶対われわれのあずかり知らぬこと、名前は出すな。名前を出すようならお前たちの家族にも災いが降りかかるだろうよ」
 趙袁はいかつい、あごが突き出した、いささか巨人症気味の巨体で、どすの利いた声で言うには。
「 牛殺しの趙袁と言われる俺の力を見くびってもらっちゃー困る。お前も知っているだろうが、今まで戦って一度も負けたことのないこの俺だ。第五倫なんて野郎は俺一人ででも倒せるぜ」
「だが第五倫は恐ろしい弓の名手と聞く、盗賊を一人で追い払ったとか。護衛の人間も腕の立つものを連れて行っているだろうが、気を付けることだ」と丁侯が言うと。
「おう、その辺はうまく弓を使わせないようにするさ」
長いあごひげを上から下にしごき
「それに俺の配下には腕の立つ奴はいくらでもいるぜ。任しておくがよい」
「それは心強い。それでは前金として千両をもっていくがよい」
成功したらその倍以上をやろう」
「早速手配するぜ」
足早に出て行った。
 丁侯らはそれぞれ影響下にある部下たちに第五倫の悪口を言いふらさせた。牛祭りをやめさせる第五倫にはたたりがあり、急死するであろうと。
 その動きを察知して、謝夷吾は自分の弟子たちを、宋三は塩の商人の仲間から、厳八は庶民の中からその持ち味を生かして調べ始めた。丁侯らに怪しいたくらみがあることは分かったが具体的なことはわからなかった。
 丁侯らは新参の太守にはそれほどの探索能力はないと高をくくっていた。督郵、鄭弘はもしもに備え部下を常に武装させいつでも出動できるようにした。
 鄭弘、謝夷吾らは怪しい動きがあるので、移動には多くの護衛兵をつけるように、第五倫に言った。
 しかし、第五倫は出歩くとき、多くの護衛兵を付けることを好まなかった。その代り必ず、宋三と厳八がついていくことにした。
     p183
第五倫、柯岩(かがん)にて襲われる
 二月のまだ寒い日、巡察で第五倫と宋三と厳八、あと護衛の兵が7人。護衛の兵は鄭弘えりすぐりの弓術、剣などに優れた者たちであった。合計10人の一行は山陰県(紹興)から、隣の銭糖県(現在の杭州)に馬で向かうところであった。
 その道は海岸に近い運河ぞいの 道で、はるか昔より作られていた道である。
 今でも、運河、有料道路、鉄道がとおる大動脈である。
その動きを察知した趙哀はひそかに自分の部下の中から、えりすぐりの50人の暗殺団を組織した。
 偵察のため、先行していた厳八は、道のはるか向こうから、多くの物々しいいでたちの騎馬の一団がたむろしているのにきがついた。その殺気立った様子からこちらを襲うと見た厳八は、一瞬にして第五倫一行の危機を察した。すぐに近道の道を通り、息せき切って第五倫に知らせた。
「賊が襲ってきます。その数およそ五十」
大声で倫の一行に知らせた。
 10人余りの一行を五十人もの数で襲う。行動も白昼大胆に。これだけの人数で襲うという情報は、第五倫一行はつかんでいなかった。
 「厳八よ、急いで、山陰の(会稽)郡の役所に知らせておくれ」
厳八は聞くやいなや、背後を気にしながら、直ちに馬にムチを入れ、第五倫襲わると知らせに走った。
 第五倫は直ちに
「この平地では危険だ、平地では防ぐものがない。近くの岩の切り出し場、柯岩に行こう」
第五倫の一行は直ちに近くの石の切り出し場、柯岩を目指した。
 襲われた場所は田園地帯で縦横に運河が走る柯橋。紹興酒のもととなる名水、かん湖に隣接したところである。秦の時代からの石切り場があるところである。そこまで5キロ、今では根元が極端に細い奇岩、柯岩や石の大仏やお寺のある大きな公園になっている。
 暗殺団は途中で第五倫の騎馬の一行は柯岩のある石切り場に向かったと知り、馬の向きを変えた。
急いで走る第五倫一行。果たしてうまくたどり着けるか。
 ようやく、馬も人も息せき切って、後ろが岩山でそこに小さなお堂があるところに立てこもった。
 しばらくして腕に自慢の荒くれども五十人。その中には腕はたつし、特殊な戦闘能力で雇われたものもいた。うまく殺せば大金が入ると勇んでやってくる。
「よいか、第五倫は大変な弓の名手だそうな。盾に身を隠しながら行け。
 暗殺団は第五倫一行がお堂の中に隠れたようだと知る。
第五倫たち九人はお堂の中から外の様子をうかがう。
「後ろは崖だ、後ろからくることはない。敵は石段を上がってくるので見通しがきく」
 第五倫が言う。
 敵は、堂を見上げる位置から一斉に矢を射かけてきた。木の壁や戸に突き刺さる。
戸の隙間や窓から堂の中に入ってくるものがある。
 「使える矢は拾っておけ」
第五倫が指示。
戸の隙間から外の様子をうかがう。
 賊はたてのうしろに隠れながら隠れながら石段をじりじり上がってくる。
 「どれもこれも相当な使い手のようだな。これは手ごわいぞ」
 敵の矢の斉射が終わった後、九人はいっせいに戸の間から弓のねらいを定める。
「できるだけ近くまでひきつけろ」
 弓の名手宋三は
「相手は多い、矢は大事に使え」
「盾から出たところをきちんと狙え。足元があいているぞ」
「弓を打つため、盾を放した時がねらい目だぞ」
 第五倫は強弓のねらいを定め、次々に矢をつがえ、たちまちのうちに3人の敵を倒した。
 他の護衛兵たちも手練れである。次々に矢を放つ。矢に当たり階段を転がり落ちるもの続出である。たちまち敵は早くも混乱した。さらに敵は7人が傷ついた。
 「これはいかん」
相手を小人数だとみくびっていた敵は、
 「下がれ、下がれ」
と一斉に弓矢の届かないところまでいったん後ろに引いた。
 「人数が少ないと、少し甘く見てしまったな」
 「よし、火攻めにしろ」
趙袁はいった。
また、堂にちかづき、階段の下から、上を見上げて火矢をうとうとする。
 しかし、火矢は普通の矢ほどには飛ばない。
射程距離が長い、第五倫の強弓の矢は、火矢を射ろうとするものを次々と倒す。
 これはたまらん。さらに後ろに下がった。
これはどうしたものか。攻めあぐねて主だったもので相談する。
「数を頼んで切り込もう」
 すでに十数人が死んだり、手傷を負っている。
 残ったものの中から盾を持たずに30人ほどが一斉に階段を駆け上がった。
さらに九人は狙いを定め、次々に射落とす。
 ところが矢を避けて6人ほどが堂の前にやってきた。
そして、近くから火矢を打つ。
 何本かは堂に刺さって燃え始めた。
 「三人は俺と一緒に上がってきた敵を倒せ」
言うや否や、宋三は堂から飛び出して
先頭の敵を槍で突き伏せる。
 敵は次つぎに階段を上がってくる。
堂の前は激しい切りあいになる。
 残りの6人は矢を射続ける。
敵は死人けが人を残して退いた。
ただ、敵も手ごわく、堂を出て行った3人は手傷を負い、堂の中でも矢が刺さって、手傷を負った。かなりの重傷を負ったものもいる。
 敵もさすがに手傷を負うものが多く、疲れが出て、いったん退いた。
お互いに一時の小康状態が生まれた。
 「一人が知らせに行ったぞ、ぐずぐずすると奴らに応援が来る」
「いやあ山陰の郡役所からくるまでにはまだ時間がある」
賊のかしら、趙袁が
「奴らの矢玉も尽きてきたころだろう。そろそろ俺様が行って仕留めてやる」
にやりと笑った。
   p185
「謝夷吾、風角占候で、危機を知る」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/12/
 
 
 
 

2016年9月 4日 (日)

第五倫伝 第6章 光武帝起つ 「昆陽の戦い」p71-73

光武帝起つ 「昆陽の戦い」  p71~73
 西暦二十三年三月、さまざまな地域での反乱軍の蜂起に対して、王莽は、いとこである大司空の王邑を大将軍として、大司徒の王尋の軍と合流させ、40万とも、50万とも、補給部隊を含めると百万を称した大軍団を組織した。実際には全部で40万ぐらいであったろう。そして各地からの様々な軍隊とともに六十三流派という軍師も招き、さらにはその軍の中には虎などの猛獣もいるというような軍隊であった。にぎにぎしいいでたちの大軍は、劉玄や劉秀側の城である昆陽城を取り囲んだ。
 わずか9千人の城兵は、攻城兵器や旗指物が盛んな五十倍ともいえる敵にびっしりと包囲されておびえた。もうありもはい出るすきもなさそうである。どう見てもこの大軍に包囲されては勝ち目がない。しかし劉秀は、この大軍を前にしてもたじろぐことはなかった。劉秀は普段は、用心深く一見おとなしく派手に見えず、むしろ臆病者のように見られていた。
 しかし、劉秀は、すでに用意周到に3千人の別動隊を城の外に用意していた。
劉秀は、いよいよ戦機が迫る中で、主だった兵を集めた。
 みなが見える高い所jから、よく通る大きな声で、朗々と話し始めた。
「敵は確かに大軍である。しかし寄せ集めの戦意の無い烏合の衆である。恐れることはない。私たちはみな心を一つにした精鋭部隊である。私には、必勝の策がある。私の指示の通り戦えば必ず勝利する
 もしここで、われわれが、この戦いで勝利することができるなら、五十倍の敵を打ち破ったと、一生誇りにすることができるのだ
 敵将の王邑を倒してしまえば、たちまち敵は崩れ去る。よいか私は、機を見て、この城を抜け出して、別動隊で王邑の本隊を夜襲する。それとともに、城の城門を開けて、王邑の本隊を襲撃せよ。ねらいは総大将の首のみ」
 力強く言い切った。
 確信にみちた劉秀の言葉に、大軍を目にして一時消沈していた城兵は一気に盛り上がり、一斉に、おー、とこぶしを突き上げた。
 一方、大軍で包囲している王莽軍はわずか一万にも満たない城をなめきっていた。また多くの軍師がいるため、議論百出で、優柔不断な王邑や王尋には決めかねていた。
 城を攻めている間に宛の城を落とした劉演の本隊の攻撃を恐れたのである。
 日が過ぎるにつれ、王莽軍にはだれたふんいきがではじめた。
 その機を見計らい、劉秀はえり抜きの13人の部下とすでにひそかに作っておいた抜け道から深夜、城外に抜け出していた。
 烏合の衆で数を頼んでたるみ切っている王莽軍は、敵がひそかに抜け出したことに全く気付かなかった。もうそろそろ、敵は大軍におびえて、降伏するだろうとたかをくくっていた。
 劉秀は、夜の道を三千人の別動隊のところに急いだ。
別動隊は、すでに夜襲の準備を万端整えていた。王莽軍の中に潜ませていた、スパイからの報告で、王邑はじめ、敵の居場所がすべてわかっていた。
 王莽軍は、まさか後ろから襲ってくるなど、考えもせず、わずかな歩哨だけを残し、ぐっすり寝静まっていた。
 劉秀軍は劉秀を先頭に、息を殺して敵の本営に近づき、一気にトキの声を上げ、宿舎に火をかけた。
 寝ている間に襲われた王莽軍は混乱のきわみに達した。背後から”劉演の本隊の大部隊が来た”と劉秀の部下は大声を出し、王莽軍は同士討ちをするもの、武具をつけるまもなく切り殺されるもの。ひたすら逃げ出すものが多かった。
 本営に火が上がるのと同時にいっせいに昆陽の城門を開け、城から兵が打って出た。
挟み撃ちを受けた、王莽軍の本営はなすすべもなく崩れ去った。大将軍の王邑は命からがら都の長安に逃げ戻り、王尋は切り殺された。
 いっせいに劉秀軍はかねて手配通りに敵陣に潜ませていたものに、王邑や王尋が戦死したと触れ回らせた。本営の方向に火が上がるのが見え、大混乱の中で、もともといやいや集められていた軍隊は一斉にくずれたった。
 朝日が昇る頃には、包囲していた40万の大軍は多くの戦死者を残して、多くの糧秣も残して霧のように消え去ってしまっていた。なんという歴史的大勝利であろうか。
 この昆陽の戦いでの奇跡的な大勝利は新の勢力に致命的な打撃を与える一方、劉秀の名を一気に高めたのである。
 六月、更始帝劉玄は劉演、劉秀兄弟の勢力拡大を恐れ、策略をもって兄の劉演を殺した。しかし劉秀は更始帝に対して恭順の意を表し、兄の喪にも服さなかった。誠実な態度を示す劉秀をついにとがめだてすることはできなかった。
 9月ついに、大軍を失った王莽は長安(新では常安といった)で反乱軍の豪族に殺された。新は呆気なく、滅亡したのである。長安近くにいた赤眉軍も劉氏の末裔の劉盆子を皇帝に立てた。
 赤眉軍は劉氏の末裔を見つけ出したが、その中で血筋が近いが貧窮のもとにある3人の
子どものうち、くじ引きで一人を選んで皇帝にしたというありさまであった。劉盆子は山東省の出身で最も年少で15才であった。見つかったとき、残ばら髪で裸足、ぼろぼろの服を着ていて、怖くて泣きそうな状態であったという。これでは、皇帝としてうまく人々の統率がとれるわけがない。
 さて、更始帝のもとでおとなしくしていた劉秀ではあるが、いずれ殺されてしまうと身の危険を感じていた。河北の宗教指導者で、劉家の皇帝成帝の子を名のる王郎の討伐を申し出た。そしてその拠点、邯鄲をおとし 河北をほぼ平定した。その功により、劉秀は更始帝より粛王に任命された。そして、更始帝は劉秀に、軍を解散して長安への召還を命じた。
 更始帝は人望もあり大いに勢力を伸ばす劉秀を恐れていた。軍を解散し長安に行けば殺されてしまう恐れが強く、召還を拒否し河北において自立することを目指した。
 河北において、劉秀の軍はきびしく軍律を守り、決して略奪など行わなかった。逆に貧窮した人々に食べ物を与えるようであった。そのため、多くの民衆は劉秀に心を寄せ、恭順の意を示す軍も多く、たちまちのうちに河北の各地に及び、そしてついに河北の地をすべて独力で征服した。
 それに比べ更始帝と更始帝の緑林軍は統率が取れず、赤眉軍より残薬で恐れられた。
九月には赤眉軍はついに更始帝を殺し、更始軍は壊滅した。赤眉軍は劉盆子を皇帝にして長安に王朝を開いた。しかし略奪をすることばかりに力を入れ、まともな政治ができず、人々の心が離れた。食べることにも事欠いた赤眉軍は一時長安を離れ、西に向かったが、隗ごうの軍に敗れ、また長安に戻るという有様であった。
 この戦乱続きで長安の都とその周辺は徹底的に破壊された。
  「雲台二十八将」に続く  p73
 

2016年9月 3日 (土)

第五倫伝 第6章 光武帝劉秀 「劉秀起つ」 p69-p71

第五倫伝、第6章 「劉秀起つ」 p69
 成祖光武帝劉秀は前漢建平元年(紀元前六年)十二月甲子の夜、景帝の子孫である劉欽(りゅうきん)の三人兄弟の末子として南陽郡の宛で生まれる。字は文淑という。このとき、さまざまな吉兆があらわれたと言われる。
 景帝は有名な武帝の父にあたる。劉秀は景帝から見ると、五代目の孫ということになる。劉欽は武帝の弟である春陵公の曽孫である。祖父の劉回は鉅鹿郡の都尉であり、父の劉欽は南頓の県令であったが、当時、王莽が権力を握り、漢の王族を弾圧する時代に絶望し、県令のまま自殺してしまった。劉秀はわずか9歳の時に父を失ってしまったしまったのである。
 劉欽のまだ幼い5人の子供たちは南陽の豪族である叔父の劉良のもとに引き取られ育てられたが、肩身の狭い思いをしたにちがいない。
 劉氏一族はその地域の豪族と婚姻関係を結び、南陽郡においては有力な豪族であった。劉秀は劉良のもとで、まじめに農業に励むが、学業が優秀で、20歳を過ぎて(西暦14年から19年)長安の太学に学ぶことになった。劉秀はそこで、『書経』や『尚書』などを学んだ。その正式な学問をしているところが、他の豪族たちと大きく異なるところであった。多くの皇帝は詔書を人に書かせているが、劉秀は皇帝になったときすべて自分で書いたという。
 さてこの頃は、王莽の新の時代である。前にも書いたが、劉氏の一族はあまり羽振りが良くない上に、伯父に養ってもらう肩身の狭い思いから、学費を多く請求出来なかった。しかしどうしても学費が足らず、友人と金を出し合ってロバを飼いこれを賃貸しして学費に充てたという。南陽郡の豪族の子弟がそれほど貧しかったかどうかは疑問だが、実の父親でないものにそんなに甘えられなかったのは事実であろう。このときの大変貧しい暮らしが、後世の光武帝の質素な暮らしの元となるのである。常に心掛ける言葉として、
「中庸、誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」と。またいうには。
「吾天下を治るに、柔の道をもってこれを行わんとす。柔よく剛を制し、柔なりといえども必ず強し」と。
 ともかく誠実にして人々に優しく、ということ。これは、秦の始皇帝や新の王莽が行った過酷な政治の対極をいくものであった。過酷な政治は人々の恨みをかい、反発を招き、その弾圧のためにさらに過酷な政治を行うという悪循環をひきおこしてきたのである。
 劉秀はこの心がけと態度を一生貫き、後代の子孫である皇帝にも守らせた。そしてなんと4代の皇帝まで善政が続き、後漢がその後乱れても、200年と続く元となった。
 劉秀の身長は7尺3寸(168㎝)であるから、当時としては背が高いほうだったろう。
容貌は眉目秀麗(びもくしゅうれい)といわれる。目は切れ長に輝き、美しい眉、顎髭は美しく、大口(大きくて立派な口)、隆準(りゅうせつ)高い鼻、ー鼻のあたまを準頭(せっとう)というー日角(にっかく―額の上部が盛り上がり、日のように輝く顔立ち)といわれた。際立って立派な、人をほれぼれさせるような、容貌であったようである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て、兵士たちは「まるで天の人のようだ」と見ほれるぐらいの姿のよさであったという。
 謹厳実直、また性格はおだやかでだれからも好かれていた。まさに、一目で傑物とみられる立派な容姿と態度をしていた。中国では、人相を見るということがきわめて重要であった。
 前漢の初代皇帝である劉邦は、まったく庶民の出でありながら、もっぱら、堂々とした、いわゆる龍顔といわれるその容姿で天下を取ったといっても過言ではない。まだ亭長をやっていたような身分の低い劉邦を、大金持ちの呂氏が、その皇帝にもなりそうだという人相の素晴らしさにほれ込み、娘を嫁がせた。そこから皇帝への道が開かれたのである。
 また、後の三国時代の劉備玄徳も同じである。むしろを作って売るような貧しい身でありながら、その出自とそのずば抜けた立派な容姿が人をひきつけたのである。
 だいたい正史では特に創業の皇帝の容姿は立派に書くものであるが、特に劉家の一族はそのような立派な容姿が遺伝されていったのであろうか。
 劉秀は性質が穏やかで、太学をでて郷里に戻ってきてからも、地味で、農業に勤めることを好んだが、それに対し兄の劉演(伯升)は豪放磊落(らいらく)、任侠を好み多くの士を養っていた。いつも弟が学問をしたり、農業に専念するのを馬鹿にしていた。
 王莽の圧政にたいし、赤眉の乱がおこり、続いて南陽郡でも、王匡(おうきょう)を中心とする緑林軍と呼ばれる反乱がおきた。緑林軍は分裂し平林軍などと合体した。その連合軍の長は南陽劉氏の本家たる劉玄(後の更始帝)であった。
 人々の推挙を得て、兄の劉演は当地の李氏や鄧氏などの豪族とともに、西暦二十二年南陽郡の宛で挙兵する。劉秀の妹、伯姫は李通と結婚した。このとき都での学問を終え郷里に帰っていた。このとき劉秀は二十八歳であった。
 劉演は豪胆だが、かなりいいかげんで無頓着なところがあり、人々はその挙兵に参加していいかどうかを心配していた。が、都で学んだ書生上がりで『尚書』などにも詳しい弟の劉秀が衣冠に身を整えて参加したら、
「まじめで慎み深く落ち着いているあの方でさえ軍をおこすのか」
と、みんな安心して付き従ったというエピソードがある。それほど劉秀は信頼されていたのである。
 しかし、最初、兄の軍に合流するとき、馬が買えず、仕方なく、自宅の農耕用の牛に乗って参戦したという。
 みなは、なんということだと笑った。いかにも劉秀らしいと。そして、緑林軍に参加してようやく敵の馬を奪って馬に乗れた、などとい、エピソードはいかにもおっとりした劉秀らしい話である。
 はじめ反乱軍は苦戦していたが、しだいに勝利を重ね、西暦二十三年二月、同じ南陽郡出身の劉玄は皇帝(更始帝)に即位した。この年、新の地皇四年は更始元年となる。更始帝のもと、劉演は大司徒(総理大臣)となり、劉秀は太常(儀典大臣)偏将軍となった。更始帝は洛陽を都に定めるとともに王莽のいる長安の旧都討伐に向かった。しかし王莽は長安で強大な軍を持っていた。
       p71
「昆陽の戦い」に続く
 

2016年8月24日 (水)

「第五倫伝」第2部、8章第五倫蜀郡太守となる 謝夷吾、蝗の害を避ける

謝夷吾、蝗の害を避ける p230
 謝夷吾が赴任して間もない同じ西暦72年(永平15年)時は秋、収穫のときである。しかし各地に夏から干ばつがあった。高温が続くと普段はおとなしいイナゴ(蝗)は突然形を変える。体も黒ずみ、羽が長く変わり、長距離飛べる凶暴な形(飛蝗-ひこう)に変化する。そして草や穀物を食い尽くし、猛烈に繁殖する。
 そして泰山に蝗が大発生し、各地に飛来し始めた。
 謝夷吾はそれを聞くと、直ちに弟子の李鵬と馬三に情報を集めさせた。また、方術を使う仲間たちからも情報をえたり、商人からの情報も集めた。その結果、寿長県にも飛来する可能性があるのがわかった。
 謝夷吾は県の役所に主だった役人を緊急に集めた。県の人々にも直ちに緊急事態の通達を出す。県の役所に集まったものに。
 「よいか、ここで収穫が蝗に食い荒らされたら飢饉が発生する。私の指示するようにせよ」
大きな模型でつくった地図上に、泰山からの蝗の飛来経路の予測が示されていた。
 「蝗は風に乗ってくるのだが、今の風の状況ではおそらくこの地を通る。県民をこの県境に集結させよ。蝗を絶対県内に入れてはならぬ」
 謝夷吾は風角占候の方術で風の予測をぴたりとあてることができるのである。
 一斉に役人は県民の動員の手配に動く。収穫できるものは早めに収穫させた。
 県民は必死である。干ばつで少ない穀物をさらに蝗に食われれば餓死する危険性がある。県境は川であった。謝夷吾は蝗が通ると確信する幅広い谷に皆がよく見えるところに祭壇をつくった。およそ千人の老若男女が続々と集結する。謝夷吾の三人の子どもたちも叩きを持ち、長男はいろいろな部署への伝令役を買って出た。他にも多くの子どもたちも参加した。謝夷吾の妻である孫泉も、他の吏員たちの妻たちを指揮し炊き出しやいろいろな手配をてきぱきとこなしていた。
 すでに、謝夷吾が驚異的な方術の使い手であるとみんな知っていた。
みなで力を合わせ木々の葉は落とされ草は刈りこまれた。乾燥させて河原のところどころに積み上げた。皆は祭壇にゆったり座っている、道士の服と羽扇を持った、色白、鳳顔にして威厳のあるまたいささかゆったりした体の謝夷吾を見上げた。
 皆それぞれに蝗を叩き落とすもの、乾いたわらなどを持つ。
 そして仮小屋で泊まりながら蝗を待つ。
「今日あたり来るぞ、油断するな」謝夷吾から各伝令が届く。
 朝日が昇り、からからに乾ききった地上に次第に明るさが増してくるころ。
と、黒い雲のようなものが、川向こうの地平から沸き上がり、しだいにザーといううなりのような音が皆を包む。青空がみるみる曇っていく。
 「来た」、「すごい」。人びとは思わず固いつばを飲み込んだ。あるものは指さし、あるものははたきを握りしめた。
 地上に降りてきたその蝗は、普段見るおとなしいものでなく、黒く、大きく、いかにも凶暴な姿をしていた。
 祭壇から夷吾は羽扇を振る。直ちに太鼓が一斉に乱打された。それを合図にいっせいに積み上げられた枯草、枯れ木のやまに火のついたわらを放り投げた。
 その枯草の山には硫黄、瀝青(天然のタール)などがかけてあった。一斉に黒煙が上がり谷を覆いつくす。人びとは一斉に布で口を覆う。
 煙に幻惑された蝗は次々に谷に落ちてきた。まわりは蝗の風のようなありさまである。人びとは命に従い一斉にはたきでたたきつぶす。
 人々は命に従い、持ってきた、かごに入れてきた、うんと腹をすかせた鶏を一斉にはなつ。その数およそ2千羽。一斉に蝗を追い、食べはじまる。まさにそこは戦場であった。
 謝夷吾は、壇上で一心に風向きが変わる祈祷を行う。弟子の李鵬はそれを手伝う。もう一人の弟子の馬三は蝗退治の指揮をとる。
 「がんばれ、蝗を県に入れるな」口々にそれぞれの持ち分で奮闘する。
 奮闘すること4時間余り、、燃えるものが少なくなり、皆の疲れも極限に達するころ。
「風向きが変わった。蝗が離れていくぞー」、人々の歓声が上がる。
「オー、」一斉にどよめきが上がる。
「やったー」それは、歓喜の声に変わった。
期せずして、「尭卿さま(謝夷吾の字名)万歳!」の声が上がる。
どんどんどんと、勝利の太鼓がたたかれる。
あるものは、祭壇に向かい伏し拝んだ。
―良かった。県は救われた。ほっとしてあたりを見回すと、そこらじゅう、蝗のじゅうたんのようである。滑って転ぶ者もいる。
 またかごに戻すため、おなかがいっぱいになった鶏を追いかけて、大騒ぎであった。その有様を、見てみんな大笑い。それに口を覆っていた手拭いを取ると皆、口の周りだけ白く、上半分は、すすで真っ黒であり、お互いに顔を見合って大笑いした。
 「良かった。良かった。皆さんご苦労様でした。ここに食べ物、飲み物を用意しました。鮭も少しですが用意してあります」
 人々は車座になり、おそい昼飯を食べた。またお互いに汗とすすと土ぼこりで真っ黒になった顔を見合いながら笑いあった。
 謝夷吾や、妻の孫泉や弟子たちはねぎらいの酒をついで回った。直々に県令からお酒を注いでもらった人は大感激であった。
 それにしても、尭卿様の方術はすごいものだと感心しあったものだった。
 「蝗は家畜のえさにしてもよいしわらと混ぜて発酵させて肥料にするとよい。少し臭いがするが人も食べられるよ」夷吾はいった。
 「いい肥料となって土が肥えるだろうよ」
 一渡り、軽い宴が終わる夕どき、皆が帰り始めたころ、空に昇った黒煙を核として、待ちに待った雨が降ってきた。
「わー。雨だ雨だ」老若男女久しぶりの雨に濡れてかさもささずに喜び合った。
「謝尭卿さまは神様のようなお方だ」人びとの中に、謝夷吾を伏し拝む者がいる。
「そうだ、そうだ、私たちの神様だ」
皆は確信したのであった。
 その出来事の後、神のようにたたえられる謝夷吾は県民から、絶対的に信頼され、謝夷吾も県民も熱心に働き、県民の生活はみるみるよくなった。評判を聞きつけて県に移住してくるものも大変多くなった。その驚くべき成果は洛陽の都にも刻々と伝えられるようになった。
・  
 謝夷吾が県令として赴任して三年、永平18年明帝が崩御し、三代皇帝章帝が即位した。
第五倫がさっそく三公(司空)に招かれる。このいきさつは改めて書くことにする。
 司空、第五倫は直ちに、謝夷吾を県令から、荊州の刺史(州内の監察官二千石)に推薦した。荊州は、現在の湖北省、湖南省、河南省、貴州省、広東省、江西省の一部を含む大きく重要な州で、大きな抜擢であった。
 寿長県民は謝夷吾の出世を喜ぶとともに、県を離れることをとても悲しんだ。赴任の日には多くの県民が県境まで見送りなごりを惜しんだ。
 なお、謝承書による『後漢書』では、寿長の県を泰山の蝗が通り過ぎた。飛び去って集まることはなかった記すだけである。
 やはり泰山の蝗が飛来したとき、同じように鄭弘は騶県(すうけん)の県令であり、蝗は下りてこず飛び去ったと書かれている。
                             p232
「鄭弘名をあげる」に続く

2016年8月23日 (火)

「第五倫伝」第2部、8章第五倫蜀郡太守へ、謝夷吾、寿長県令となり張雨を表彰する

第五倫伝、第2部、「第五倫太守へ、そして罪を得る」
 第8章、第五倫、蜀郡太守となる
 謝夷吾、寿長県令となり張雨を表彰する p228
 謝夷吾は第五倫により「孝廉」に推挙された。謝夷吾は『後漢書』には、「方術列伝」という中に書かれているとは前にのべた。前漢の正史である『漢書』にはそのような項目がなく、後漢時代には、さまざまな方術が盛んであったといえよう。
 永平15年(72年)謝夷吾は寿長の県令(千石)に任命された。このとき謝夷吾は46歳、妻の孫泉と子供3人、方術の弟子李鵬と、馬三とで赴任する。妻の孫泉は、後で呉国を創立する孫家の先祖の一族にあたる人であった。謝夷吾は16歳をかしらに、14歳と12歳で、全部男であった。早産して亡くなった子も男の子で、謝夷吾は、女の子もほしいのだがみんな男になってしまうと言ってなげいていた。謝夷吾の乗る車も第五倫を見習って粗末な車であった。
 寿長の県の役所につくと、迎える諸役人は、いかにもにこやかで福々しい謝夷吾の顔を見ているだけで、気持ちが和やかになる思いであった。
 県の役所に赴任して直ちにまず孝行な人、徳行のある人を表彰することにした。またいろいろな不公平なことや無駄がないかを調べた。
 親孝行の人の中でも、張雨という名前の女性が、特に評判であった。彼女は早くから両親を亡くしたが、孤児となった幼い弟二人の生活を支えるために、幼いながら必死で働くだけでなく、弟たちに四書五経を教え、人々の模範となるような、優れた立派な人物に育て上げた。そして二人とも良い伴侶となる人と結婚させるに至った。
 しかし、そのため自分自身は50歳になっても嫁に行かなかった。謝夷吾はそのことを聞くと、従者一人だけをつれて張雨に会いに行った。
 張雨の家は小さいながらきれいに整えられていた。
 「こちらは張雨さんのお宅でしょうか。突然お伺いして申し訳ありません。わたしはこのたび県令として赴任してまいりました、謝夷吾と申します」
と、ていねいに挨拶をした。
 家の門から、出てきた張雨は、突然訪ねてきた県令の訪問に驚いた。それも、共のものも1人だけできたのである。また、新しい県令は一見して長者の風のある立派な人物であった。今まで県令が訪ねてくることなど、1度もなかったのである。p229
 「私は、張雨と申します、狭苦しいところですがどうぞお入りください」
招き入れられた部屋は突然の訪問にもかかわらずきれいに片づけられていた。
 謝夷吾がいろいろと話を聞く中で、張雨はうわさにたがわぬ立派な人物であり、自分が弟たちの犠牲になったなどという考えはつゆほどもなく、弟たちが独立した後も、周りの人々の手助けをし、人々の心を明るくし、その行いで教化していることが分かった。
 謝夷吾は、50歳には見えないしわひとつ無い若々しくはつらつとした張雨に。
「私も幼い時に父を亡くし、つらい思いもしました。でも私には母がいました。でもあなたは両親を亡くされて、さぞ大変だったでしょう。あなたのされたことは、なかなか出来ないことです。とてもつらかったと思いますが、よく頑張りましたね。そして今でもはつらつして元気いっぱいで、あなたはとても素晴らしい方ですね」
 と大いにほめた。
「恐れ入ります。新しくお見えになった県令様から、そのようなお褒めの言葉をいただけるだけでも感激でございます。弟たちもよく貧しさに耐え、力を合わせて頑張ってくれたからです。それに、周りの皆さんにもずいぶんと支えていただきました。ですから今まで決してつらいと思ったことはありません。
「いやいや、謙遜されておられますが、人々が応援してくれたのは、それはあなたの行いが人々の心をうったからでしょう。なかなかできないことです。私は州府に優れた行為としてあなたを表彰させていただきます」
 しばらく歓談した後、謝夷呉は最後に。
「改めて具体的な顕彰のことで参りますが、今日はこれで失礼させていただきます」
新しく赴任してきた県令が真っ先に顕彰しに来てくれたことを、本人よりも、弟たちや家族や近くの人々が、姉の日頃の地道な努力が報われたとして大変喜んだ。
 謝夷吾はその言葉のように州府に張雨の門戸を推薦し、表彰した。張雨の老後の年金を出すことになったのである。また、その優れた行いを史官に歴史に残すように指示した(後漢書に記録されている)。
 張雨は大変喜んで、お礼の言葉を謝夷吾にのべた。
「私の行いをほめていただいただけでなく、老後の生活を助けていただくとはこんなにうれしいことはありません。本当にありがとうございます。今後もできる限り、人のお役に立てるように頑張ります」
 謝夷吾は、そのほかにもいろいろな、優れた行いの人を見つけ出してはきめ細かく表彰した。人びとのあいだにそれが伝わり、よい行いは表彰されること、人々はいたわりの心が大切なことを身近に感じた。罰を与えることなどしなくとも、しだいに人々は教化され、人々は礼節をわきまえていくようになっていったのである。
                              p229
・・
「謝夷吾、蝗の害を避ける」へ続く

2016年8月 4日 (木)

,「第五倫伝」 第1章 第五倫の生い立ち (6)

「第五倫伝」 第1章 第五倫のおいたち (6)
 第五倫は14歳の時に、父とそして郎党の者たちは、ほとんど襲ってきた賊のために殺された。父親はすでに手はずしてあったように子どもや女性をうまく賊の手から逃れさせた。
 すでに老人であった李秀と倫が母親と二人の弟、そのほかの子どもたちや女性たちと、2,3日待って隠れ場所から家に戻ると、父や兄や郎党の死がいが横たわっており、家は燃え尽き、食料や財物は奪われていた。
 焼け落ちた屋敷の前で、第五倫たちはその有様に呆然とした。
しばらくの放心状態の後、倫は自分こそが一族の長として、ここでがんばらねばと深く決意した。涙をこらえ、遺体をほおむり、焼け跡を整理し、隠してあったわずかな食料や物をもってきて、さっそく再建にとりかかることにした。
 涙にくれる、母や弟たちの前で、第五倫は、
「父や、兄は命をかけて私たちをまもってくれた。わたしも胸が張り裂けそうにつらいが、でも、厳しい中、少しでも長く生き延びることがことが、父さんや兄さんに対して、私たちができることだ。何とか頑張って生き延びよう」
 ー今度は、攻めにくいように頑丈な砦をきずこう。弓や武術の腕を磨こう。
第五倫は早くも一家の長として母の王麗や弟たちのみならず、兄の子たちなど、一族の故事や外孫を養うことにした。
 第五倫は弟の雄とともに砦(営保 )にふさわしいところを探した。このころのあり様は、人々はまばらで、耕作されていない荒れ果てた畑や、家の焼け跡、崩れかかった無人の家があちらこちらにあるじょうきょうであった。2人の兄弟は後ろがけわしい崖で、前に平地があり、近くに小さな川や池があるところに目を付けた。
 第五倫は,
「ここはすばらしいところだ、ここに営保をつくれば敵も、敵には攻めにくいだろう」
「ほんとうに、ここはいい場所ですね」弟もうなずいた。
 早速、一族と、周りの生き残りの家族は全員掘っ立て小屋を作り、営保づくりに取り掛かった。まず、池から水を引けるように穴を掘っていった。そして砦の前に堀を作るためにほりさげていった。そして掘った土を固めて土塁を作った。要所には石を積み上げた。土塁の上には人が通れるようにし、矢を射れるようにした。砦の中には家を作ったが、火矢に耐えられるように土壁にした。木で高い望楼を作り、敵襲を常に監視できるようにした。
 人々は再び敵襲がある前に、空腹をこらえながら必死に働いた。
砦を作るうちに、他の襲われた人で生き残った人達も次第に第五倫を頼ってきた。
 そして、何度も毎日食べるものがなく、餓死寸前になっても、草の根を掘り起こし、木の皮を食べ、昆虫や野ネズミを食べ、池の中の食べ物を探し、乏しい食糧を分かちい生死を共にした。
 ある秋の素晴らしく晴れ上がった日、とうとう砦が完成した。
みんなが見守る中で池の水をせき止めていた堰を外した。勢いよく、水は流れ、とりでの前になみなみと水をたたえた、堀が出来上がった。
 一斉に、わー、という歓声が上がった。みんなはよくこれだけのものを作ったと、感激し、乏しい食べ物を出し合いお祝いをした。もうこれで、賊が攻めてきても大丈夫だ。
 砦ができてから、とりでの周辺で畑を耕し、家畜を飼い、しだいに生活が安定するように努力した。
 その一方で、幼いころから、倫は田氏のころから代々伝わる書物を読み、独学し、儒学はもとより、黄老の教え(道教)や、諸学に通じた。この書物は敵がおそってきても大丈夫なところに隠しておいたのである。
 しかし、第五倫の学問はすべて実用的な物であった。文学的な素養を身に着ける余裕もなかったし、あまり好きでもなかったので、後世、それを重視する人々にとっては、教養がないと軽蔑するものがあった。
 また、学問だけではなく、ことあるごとに必死に体を鍛え、武術特に弓術に励んだ。その結果、弓の腕はあがり、先祖伝来の田氏(元斉王)の弓を弾けるようになった。そして百発百中の腕になっていった。弟には弩を学ばせた。その腕も素晴らしく上がり、きわめて強い弩を使えるようになっていた。他の者たちも身を守るためのいろいろな武術で鍛えさせた。そして第五倫は十数歳にしてすでに立派な、一族の長の役割を果たしたのである。そしてさらに営保(砦)も堅固にしていった。
 営保を中心として、その、一致団結して難行を乗り越える努力に、郷里の人々は敬服し、若いけれども賢人であると称賛した。
倫は若いころから、狷介(けんかい―節操が堅く、人に屈しない気骨がある)で、義侠のふるまいがおおかった。弱い人や苦しんでいる人を見ると、涙もろく、すぐ涙が出てしまい、恥ずかしくてひそかに手で涙をぬぐうことがあった。自分が苦しくとも必死に助けてしまうことが多かった。また不正な行いを無視していることはできなかった。これは若くして亡くなった父親や、母親の王麗の影響が大きかった。王麗もまたまがったことは大嫌い。また貧しい人や困っている人を見ると、ほおってはおけないのであった。また、人を苦しめるものに対し、断固、弱い者の立場に立って争った。
 倫はその性質を「愨」(こく―慎むとかまことという意味)といわれる。これは心が胡桃の殻のように、堅いということである。生真面目で、義理堅く、一面頑固でかたくるしいところもあった。また、「修行清白」で「峻直」(しゅんちょく)であると。人間として君子としてかくあるべしという、儒教精神に基づく姿勢を貫き通した。しかし、反面、いささかせんさくづきで、融通が効かず、気の短いところがあり、怒りっぽく、時に激発することがあった。
 『後漢書』を書いた范ようは「第五倫伝」の巻末の論にいう。第五倫は愷てい(詩経に言われるのゆったりと和らぎを楽しむこと)の君子ではないと。すなわち、もともとは大変気が短くせっかちで、物事をいい加減にせず、厳しく物事の筋を通そうとするという性格であった。
 しかし第五倫が書いた上奏文を読むと、いかにも親切ていねいで、寛大な気持ちが満ち溢れている。基本的に、人々へのやさしさが、基本であったのだろう。またそれ故にこそ、弱者や庶民を痛めつけるものには容赦なく接したのであろう。
母の王麗も、
「そこは、そなたの一番悪いところです。なおすように気をつけねばなりませんよ」
と、常々言い聞かせていた。
 そして第五倫も自分の短所に気づいていた。何度も、感情的になり激発し、すぐにしまったと、後で後悔することがおおかったからである。
 王麗はある日。
「昔、人々を苦しめていた邪宗を禁止して有名になった、魏の大夫の、西門豹が自分の短気を抑えようと、いつも柔らかいなめし皮を身に着けていてね、怒りそうになったとき、それを触って、心を静めるようにしたそうですよ。そなたも試してみたらどうでしょう」
「母上、それは韓非子に書かれていることですね。蕫安于(とうあんゆ)はどうも自分がのろまでどうしようもないと思って、弓のつるを腰にさしていたということですよね」
「わかりました。母上、わたしもそのようにしてみます」
 倫は早速教えに基づいて自分も柔らかいなめし皮に触って、自分の短気を抑えようと努力した。
 人には、生まれつきの神経系の型があって、一定の偏りが生ずる傾向があるのだけれどそれを知って少しでもその欠点を抑えようとするところが、人間の人間らしいところといえるであろう。
 だから、好んで第五倫が寛大な心を言うのは、自分の怒りやすい心を知って、そうならないようにつとめた結果であろうと。
 いつも深刻な顔をし、眉間にはたて筋が入っていたが、、まなざしは優しく、笑うと別人のように魅力的な顔になった。およそ人にへつらうことなど大嫌いで、人のあや町は鋭く批判した。そのため、親しい友人はなかなか見つけにくく。後世、役所勤めをしても、よほど理解ある上司でなければ嫌われて出世しなかった。
 身なりにはあまり気をつかわず、ぜいたくを嫌い、、清潔だが、洗い古したものを着、冠も古ぼけたものであった。偉そうにし、格好をつけるとか威厳を整えることを一生きらった。また文学的な素養を身に着けることもまったくむとんちゃくであった。
「私には自分で詩をつくったり、のどかに文学のようなものを楽しむ余裕はないのだ。わたしが学ばなければならないものはいくらでもある」
 第五倫はどのような物でも、実際の政治や経済活動の改善に役立つものはなんでもどん欲に学んだ。
 しかし、文学的素養を書き、その一見みすぼらしいいでたちや、格好をつけない言動のため、人によると一見大した人物に見られず軽んじる人も多かった。
「第五倫伝」 第1章 (5)
「第五倫伝」目次
 
 

2016年8月 3日 (水)

「第五倫伝」 第1章 第五氏とその時代 (5)

「第五倫伝」 第1章 (5)

第五氏とその時代

 さて第五倫、いったいいかなる人物であろうか。姓が第五で、字は伯魚という。京兆長陵(きょう西省、咸陽県東。長安付近で、長陵とは漢の高祖劉邦の陵名)のひとである。

 春秋時代、陳国の国王である厲公(らいこう)の公子である 完(かん―字は 敬仲)は紀元前672年政変によって、斉国に亡命した。当時の斉の恒公は完を貴族に列し卿とし、田という苗字をさずけた。その子孫は、斉において、しだいに勢力を強めていった。紀元前386年11世の子孫である田和は斉公となった。その後さらに力を強め、孫はついに威王となり、太公望(姜姓)の子孫である斉国(山東省)の支配者にとって代わって国王となった。田斉の始まりである。戦国時代、斉の国は強大となり、有名な田文(孟嘗君)の活躍もあった。 

 秦の時代の紀元前221年に、王建を最後の国王として斉の国は滅ぼされた。しかし、その15,6年後、田安(別姓孫安)は項羽により済北王に任じられた。しかし漢の時代になり再び国をを失ったが、斉の人たちは、敬意を表して王氏とよんだ。田安の孫は王遂でその子が王賀である。

 王賀、字は翁孺(おうじゅ)といい、前漢の武帝のころには繡衣御衣(しゅうい)となった。その後争い事があり、紀元前百年ごろ、魏郡元城にうつった。魏郡において三老として人々の尊敬を集め、大族となった。三老とは儒教を中心とする中国独特の制度である。それぞれの地域において有力者で、道徳的に模範となるような人物を三老とした。三郎は庶民の代表として、そこの長官はしばしば、政治上の意見を求めるという重要な役割をもっていた。

 王賀は王莽と、後に出てくる哲学者王充の共通の先祖である。王賀の曽孫が王莽である。田氏から分かれた王氏の話はそれまでとして、漢の時代になり、特に武帝のときには各地方の有力な豪族を都の周辺に集め、斉に住んでいた田氏の一族は次々に長陵などに移されてきたのである。前にも書いたように長陵とは、初代皇帝劉邦の陵墓で、黄河にそそぐ渭水(いすい)の支流のほとりにあった。

 漢の政府は長安の都の周辺に、地方の豪族の力をよわめるため、各地の豪族や有力者を強制的に移住させ、渭水の川沿いにそれぞれ歴代の皇帝の陵を作らせその周りに邑(ゆう)をつくらせた。いわば衛星都市をたくさん作らせたのである。それはまた長安の都の繁栄をもたらせた。前漢でもっとも大きい陵邑は茂陵邑で、人口は28万人にも及んだ。それらの陵邑の一つが長陵邑である。長陵邑は前漢の時代には戸数5万、人口17万人であったという。

ところが、王莽の乱や赤眉の害により、なんと10分の1以下での4千戸までに減少したのである。長安郊外の長陵邑に踏みとどまった第五倫が赤眉の賊などと戦ったのはその人口激減の時代である。

 その京兆長陵に移されてきた田氏の中では五番目に都に来たので第五氏といわれ、おそらく、第一氏、第二氏・・とあったのであろうが、第八氏というのがわずかに名が残る。しかし第五氏だけが歴史上におおきくのこった。中国の数ある姓の中でも、きわめて珍しい姓であろう。

 このころ、田氏の流れをくむ人たちや郷里の人々は、盗賊の側につくものも多かった。戦乱期には多くの人が殺されたり、逃げ去ったりする中で、第五倫は長陵の長陵の自分の耕作地の近くの地勢のけわしい場所を選び営保(砦)を作り、銅馬や赤眉らの盗賊がおそってきたがそれらから身を守ったのである

第五倫、その生まれは西暦4,5年ころではないかといわれているが、はっきりした年は記録されていない。さてこの時代とはいかなる時代であったのか。今からちょうど2千年ほど前のことであった。時は年号、元始、前漢最末期である。元始元年はちょうど西暦一、元年になる。この年前漢最後の皇帝平帝が九歳で即位した。政治の実権は皇太后の王政君が握り王氏の一族が次々に高位についた。王莽は皇帝の教育係、太傳となった。翌二年には『漢書地理志』によれば前漢でもっとも人口が多くなった年で5959万人、1223万戸であった。このころは政治の退廃など、矛盾をはらみながらも、まがりなりにも泰平をおうがしていたのである。

 3年には、王莽は令制、学制の改革を始める。このときには末期症状をきたしている政治の改革を王莽が成し遂げてくれるのではないかという人々の期待もあった。その世論の後押しもあり、王莽は自分の娘を平帝の皇后とするとともに反対派の人々数百人を殺すに至った。さらに8年には皇帝に即位し「新」を建国する。そして200年続いた漢はほろんだのである。しかし、現実を無視した儒教精神の復古主義ですべてを行おうとするその政策はわずらわしく、おおいに政務は停滞した。新は重い税と、秦と同じような過酷な刑罰を人々に施した。新建国後2年後の西暦10年には税の重さ、法令の厳しさにより多くの農民や商人が職を失った。また匈奴や姜、高句麗などの国々を蔑視する政策により諸外国の反乱を招き、西暦13年には匈奴の侵入をまねいた。周辺諸国の侵入に備えるため多くのものが兵士に徴用され、働き手を失った人々は苦しんだ。そして新建国からわずか9年後、呂母の乱となり、反乱は全国に広がった。

 西暦23年に王莽は死んだ。さらに新に変わって、漢の劉家の一族であり、皇帝となった更始帝は赤眉に殺され、西暦25年、劉秀が即位した。この話の始まりはこのような大戦乱が続いた時代である。年号は建武と変わったが、翌26年には赤眉は長安の宮殿を焼き、自分たちの皇帝を立てた。くじで選ばれた劉盆子である。この前後には、飢饉と戦乱で多くの人々が死亡した。特に漢中が飢え、「人相食む」と光武帝記にある。しかしこれを最後として82年間そのようなことはなかった。

 さて、この戦乱のころ、この小説の主人公の第五倫、未だ、若干21歳である。赤眉の乱は西暦27年に降伏するまで続いた。赤眉の賊は西暦27年、建武3年正月、最後には10余万人がほとんど戦わずして光武帝に降伏した。

 

 

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